「ただいまー」
入り口の方でそう声がして、ガラリと戸を開ける音がそれを追いかけるみたいに響く。
静寂を破る間の抜けた、それでどことなく人なつっこい声。
俺はホッとするのと嬉しくなる気持ちが顔に出そうになるのを感じて、慌てて顔を引き締めた。
一人静かに過ごした時間ももうお終いかと残念だったが、やっぱりこの部屋にこいつの声が響くのはいいものだと思う。
なんだかんだで帰ってくるのを待っていたと思い知るのはあまり気持ちのよいものではなかったが、それが本心なのだから仕方がない。
俺は腹這いになって読んでいた雑誌から顔を巡らせた。
「うえ〜、また本降りになってきやがった」
伸斗はフルフルと頭を振って髪の毛に付いた雫を払いのける。
まるで雄ライオンのたてがみの様な派手な赤毛が、ふわっと浮き上がって細かな水しぶきを飛ばす。
「畜生、マジでイヤになるくらい降るよな」
確かに雨足はかなり強い。
このマンションの駐車場などすぐ目の前なのに、着ているグレーのTシャツは濡れぼそってその色を濃くしている。
ガッチリとして大きく盛り上がった上半身の筋肉にそれが張り付き、一層際だって見える。
「お帰り」
俺はそう言うとこっちに向かって歩いてくる伸斗の姿をじっと眺めた。
伸斗は俺と視線が合うと、その薄情そうな顔に満面の笑みを浮かべた。
「何してんだ清司郎」
ちょっかいを出してやろうとする意図見え見えの表情で、引っかけていたサンダルを脱ぎ捨て伸斗がタタキから上がってくる。
「・・・暇つぶし・・・」
俺はそう簡単に答えると雑誌に顔を戻した。
だが、こっそり視線の隅でその姿を追うのは止めない。
こうしてみるとその歩く姿は、本当に悠然と歩く猫科の動物みたいだ。
ゆっくりとだが長いコンパスを見せびらかす様な、歩幅の広い歩き方。
アッという間に俺の側まで来ると、まるで子猫みたいに俺に覆い被さってくる。
「重いぞ」
思いっきり嫌そうに言ってやるが伸斗は全く意に介さない。
「なーんだ、雑誌か。お前でもそんなもの読むんだ」
肩越しに覗き込んで鼻を鳴らす。耳元に伸斗の息がかかるのを感じて鳥肌が立ったが、当然何も言わずに我慢する。
「お前が買ってきたんだろう。文句言われる筋合いは無いな。おい、ちょっと、その髪の毛を何とかしろ。字が読めない」
長く垂れ下がってきた髪の毛を手で払いのける。ったく、なんでこいつはこんなに髪の毛を長く伸ばすんだ? 何度切れと言っても言うことをきかない。
ま、この髪の毛のおかげで何処で何をしようともバレバレ、悪さが出来ないと言う利点もあるのだが。
「そう目の敵にすんなよ」
そう言うと毛先を握ってわざと俺の耳元をくすぐってくる。
「おい、止めろったら。くすぐったい」
「嘘言え、くすぐったいのが好きなくせに」
「馬鹿野郎。この世の中にくすぐったいのが好きなヤツなんているもんか」
「いるさ、ここに」
「こら、止めろってば!」
図に乗って更にくすぐってくる伸斗に、俺はわざと声を荒げてみせる。
だが伸斗のヤツは俺の声色を絶妙に聞き分ける。本気で怒っているのかどうかはすぐにばれてしまうのだ。
本気でないと分かるともう、マジに切れるまでしつこく食い下がる。
逃げだそうと身を捩ったが、しっかりと上からのしかかられて押さえつけられていてはそれもかなわない。
「あはは、止めろくすぐったい、止めろってば! 降参! もうダメだ!」
最後の方は髪の毛でなく指で全身をくすぐられてしまい、笑い転げて涙目になってしまった。
「何だ、もう降参か?」
口元を歪めて笑う伸斗に半泣きで声もなく頷く。
残念なことに俺はくすぐられるとひとたまりもない。
好きだとか言う伸斗の言いぐさには大いに反論があるところだが、弱いことには変わりがないのが悔しい。
何度か復讐を試みたが、所詮俺と伸斗じゃ力が違う。すぐに返り討ちにあってその度にいいように弄ばれるのが毎度の落ちだ。
痙攣する腹筋を何とかなだめていると、いきなり伸斗がシャツを脱ぎ始める。
「おい、何している」
そう言って睨み付けると伸斗はフフンと鼻を鳴らした。
「バーカ、濡れたシャツを脱いでんだ、何勘違いしてんだ?」
小馬鹿にしたような声に俺はむっと顔を歪める。
「それなら降りて脱げばいいだろう? なんで俺の上に乗ったまま脱ぐんだ」
「当然じゃん、逃げられない様にさ」
「逃げたら駄目なのか」
「決まってるだろ? これからセックスするんだぜ、逃げられちゃいいこと出来ねぇだろうが」
伸斗は涼しい顔でいけしゃあしゃあと言ってのける。
ったく、こいつにはデリカシーという言葉はないのか?
「じゃぁ勘違いじゃないじゃないか。言っておくがな、こんな真っ昼間からお前といちゃつく趣味はないぞ。それにな、俺はお前のマットレスじゃないんだ。サッサとそこをどけ」
だが、伸斗は俺の言葉をわざと無視したばかりか、鼻歌など歌いながら俺のシャツに手をかけ始める。
「おい、誰が俺のシャツを脱がせていいって言った? 俺の服は濡れてないぞ」
しかし伸斗は知らん顔してシャツのボタンをどんどん外していく。手を掴んで邪魔をしようとしたが難なくはねのけられる。
「聞こえてるくせに無視する気か?」
大きく前をはだけ出されながらそう言うと、伸斗は右の眉毛をひょいと器用に跳ね上げる。
「無視? 冗談じゃねぇ、滅茶苦茶かまってやりてぇのに、無視なんてするわけねぇだろう」
「じゃぁ、人の言葉に返事ぐらいしろ」
「ったくうるせぇ口だな。あっちの口の方はもっと素直なのによ」
あからさまな比喩に顔が思わず紅潮しそうになるのをすんでの所で堪える。
ここでそんな素振りなど見せようものなら何をされるか分からない。
「伸斗・・・」
声を低くして威嚇すると、伸斗は急にまじめな顔つきになって俺の胸元に手を伸ばしてきた。そして、感じやすい場所にゆっくりと触れてくる。
思わず奥歯に力が入る。
「触るな」
歯を食いしばって伝わる感触に耐える。
しかし伸斗は目を細めると、じっと俺の顔を覗き込んできた。
「それって、本気じゃねぇよな・・・?」
上擦って掠れた声が降ってくる。
俺はしばし押し黙って伸斗の顔を見上げた。
瞬き一つしない真剣な眼差しがじっと俺の目を見つめている。
冗談半分の時の伸斗にはなんとでも対処する方法はあるけれど、こんな真剣な顔で言われるともう、どうしようもない。
「ああ、本気じゃ・・・ない」
そう言うと俺は目を閉じた。
本当は死ぬほど触って欲しかった。
だからお預けを食らった子供みたいに伸斗が帰ってくるのをじっと待っていた。
ガラスを叩く雨音を耳で追いながら、戸の開く音が聞こえてくるのをジリジリして待っていた。
緩く円を書くように、伸斗の指先が敏感な突起に触れる。
まるで電流を流したような刺激がビリビリと体を走っていく。
「・・・あっ・・・」
刺激から逃げるように顔を背けると、それを許さない手が俺の顎を掴んで引き戻す。
そっと髪の毛を掻き上げられる感触に目を開けると、しっとりと艶を含んだような眼差しが注がれていた。
「じっとしてろ・・・顔を背けんじゃねぇよ」
視線をピタと合わせたまま、再び左右の手が動き始める。
一つはまるで羽のようなタッチで俺の体に火をつけ、もう片方は愛おしむように髪の毛を掻き分け、思い出したように顔の輪郭をなぞっていく。
まるで慈しむように優しい指先の動き。
昨日はあんなに性急に俺を求めた男が、今日はまるで人が変わったみたいに優しく触れてくる。
爪先の微妙なタッチと痛みを感じるほどの刺激。
そして髪の毛をくしゃくしゃにしたかと思えば、その温かさを分け与えるように押し当てられてくる手のひら。
いくつもの触感が俺の体をゆっくりと押し開いていく。
ゾクリとした刺激が突き抜け、呻き声が漏れそうになる。
きゅっと唇を噛みしめて、切ない溜息をなんとか凌ぐ。
「清司郎・・・お前、綺麗だよな・・・」
掠れて聞き取りにくい声がして、ぼんやりと目を開ける。
目を細め眉間に深い皺を刻み込んだ顔で、伸斗が俺の顔をじっと見つめていた。
欲望に曇った眼差し。
伸斗は自分を偽らない。それ故に俺を求める時もストレートにその思いを顔に出してくる。
まるでとろけそうなくらい悩ましい眼差しで、俺の顔をじっと見つめる。
「自分がどれだけ色っぽい顔しているか知らねぇだろ?」
溜息混じりにそう言うと、指先で頬をなで始める。
「ほっぺたピンク色にしてさ・・・睫毛震わせて・・・」
じっと見つめられているのに耐えられなくて目を閉じると、それを追いかけるように胸元からきつい刺激が突き上げてくる。
「あ・・・」
息が上がり胸がせり上がる。
苦しいほどの刺激に、敏感な乳首が反応しているのを感じて余計に羞恥心が募る。
「伸斗・・・」
知らず知らずのうちに名前を口にしていた俺の唇に、伸斗の指先が触れてきた。
「もっと、もっと声、聞かせろよ・・・」
噛み合わせの隙間を付いて、するりと指先が口腔に押し入る。
俺はほとんど条件反射的に伸斗の指先にしゃぶり付いた。
ひっきりなしに伝わってくる乳首からの刺激をやり過ごそうと、無心に指を舐める。
遠くから聞こえてくる雨音と湿った音が、いつしかシンクロナイズしていく。
陰鬱な空気の中で、俺達が横たわるその場所だけが次第に熱気を帯びていく。
弾む息が押さえられない。
息が苦しくて何度も喘ぎながら、それでも口腔の奥深くに指を誘い込み無心に舌先を絡める。
痛いほど感じる伸斗の視線。
きっと俺は恥ずかしいほど伸斗をそそっているのだと思う。
一度火をつけられてしまえば、どんなに抗ってみても伸斗には逆らえない。
こいつは俺がどうすれば無防備になってしまうかを知っている。
知り合って随分と経つのに、俺は未だに伸斗の前では素直になれない。
でも、この腕の中では違う。伸斗に抱かれると俺はその仮面をことごとく突き破られてしまう。
最初の頃は男に体を開く事への抵抗感が強かった。
だが今はそれも随分と薄れた。
こいつになら、伸斗になら、俺は何をされてもいい。
無心で舐めていた指がスッと引き抜かれ、掛けていた眼鏡を外される。
次の瞬間、暖かい唇で息をせき止められる。
長い髪の毛が覆い被さり、何も見えなくなる。
気も遠くなるようなキス。
ゆっくりとスローペースで始まったキスが、どんどん熱を帯びてくる。
名残惜しそうに唇が離れた時にはもう、何もかもをかなぐり捨ててしまったいた俺だった。
「伸斗・・・お前と・・したい・・・」
強請るようにそう伝えると、伸斗の顔が優しくほころぶ。
「いいのか? 昨日の今日で辛いぜ?」
わざと茶化した言い方。
「うるさい口だな。下の方はもっと素直なのに」
さっき言われた同じ台詞をそっくりそのままお返ししてやる。
伸斗は破顔一笑、小さく笑い声をあげると俺に再び覆い被さってきた。
熱い吐息ともどかしい指先が、やがて体を突き上げるような欲望の波を追い越していく。
次第に何も聞こえなくなる。
今はただ感じていたい。
その腕の中で我を忘れたい。
そんな気持ちにさせてしまう恋人の側にいたい、ただその一心で。
ぱらぱら、ぽつぽつとひっきりなしに雨粒が窓を叩いている。
聞くとも無しにその音を追いかける。
古い木製の窓枠にこれまた古い年季の入った曇りガラス。
鈍い光を放ちながら、雨粒が筋を引きながら落ちていく。
降り止まない雨。
しんと静まりかえった部屋に伝わる単調な音。
季節を塗り替えていく様な秋の雨。
その音を無意識のうちに追いかけるうちに、次第に現実へと引き戻され始める。
痺れたようになって力の入らない体。
だが、とても心地よい。
目を開けるのがおっくうで、じっと横たわったまま外の音に耳を澄ませる。
雨音。
そして、安らかな寝息。
静かな、静かな昼下がり。
気が付くと、いつの間にか2時間ほど経っていた。
少し肌寒さを感じてぶるっと身を震わせる。
起きようかと思って腕に力を込めた時だった。
隣から規則正しい寝息が聞こえてきて、俺は首を巡らせた。
伸斗はまだ目が覚めないらしかった。
片腕を折り曲げ枕にして、静かな寝息を立てている。
起きあがった俺は、こいつも眠ってしまったかと思いながら押入から薄手の毛布を引っ張り出した。
どうせ寝返りを打てばどこかに押しやられると分かっていても、風邪を引かせる訳にはいかない。
まるで子供みたいに体を丸くして眠る顔を覗き込みつつ、そっと毛布を体に掛けてやる。
伸斗は余程熟睡しているのか身じろぎ一つしない。
俺はどうしようかとちょっと考え込んだ。
いつもならぐずぐずしないでサッサと服を着込むところなのだが、今日はなんだかこのままもう少し横たわっていたかった。
雨のせいか空気がひんやりと肌を刺す。
暖かそうな伸斗の側でもうしばらくまどろんでいたかった。
俺はそっと毛布を持ち上げ、その傍らに滑り込んだ。
「もうちょっとこっちに来いよ」
急に耳元で声がして、体をぐっと引き寄せられる。
「なんだ、起きていたのか。さては狸寝入りか?」
「まあな。目をつぶって清司郎が戻ってくるようにって、念掛けしてた」
その声に俺はくすっと笑い声を漏らした。
「・・・そうか、それでそんな気になったんだな」
「効果覿面、ってな」
暖かい腕が体にからみつき、ぎゅっと抱きしめられる。
俺はこれが嫌いじゃない。
そう、居心地が良く何処よりも安心できて。
それからしばらくの間、二人してさっきの行為の余韻に浸りながら黙って抱き合った。
いつも冗談を言い合っているか喧嘩しているかのどちらかの俺達だが、たまにはこんなまどろみもいい。
きっとこういうのを幸せだというのだと、バカなことを考えたりして。
「清司郎・・・雨、ひどくなってきたな」
頭の上でけだるそうな声がする。
「ああ・・・」
さっきから途端を叩く雨音が、より激しさを増していた。
外の雨はイヤだが、ここは天国だ。
「俺は雨は嫌いだけどよ、お前とこうしていられるんならたまにはいいかなって思ったりするな・・・仕事も取りやめになったし・・・」
そう言いながら伸斗がハァッと溜息をつく。
その溜息に俺は密かに笑みを漏らす。
楽しい時間は終わり、伸斗もまた現実世界に引き戻されすっかり忘れていた事実を思い出したのだろう。
実は伸斗はこの頃すっかりしょげかえっていた。
ずっと楽しみにしていたコンサートに行けなくなったためだ。
本当なら今頃は、お気に入りのグループのコンサート会場に向かっている頃だったのだが、スピード違反で罰金を払わされ、スッカラカンになった伸斗は泣く泣くコンサートを諦めていたのだ。
おまけに仕事は忙しかったりで、休みを取れそうにもない。
何せ住んでいる場所が田舎だけに、コンサート会場に行くにも半日がかりなのだ。
お金はない、仕事は休めないとあれば諦めるほかにない。
だが、世の中は皮肉なもので、諦めた途端に雨が降って仕事がキャンセルになったりで、ますます残念で仕方のない伸斗なのだ。
幸せ半分、がっかり半分。
伸斗の溜息の訳を知っている俺は、そろそろ現実に戻る時間だと、暖かい腕から抜け出す決心を固めた。
「おい、もう起きるぞ」
「なんでだよ、まだいいだろ? せっかく清司郎が俺にくっついてきたのに」
伸斗が起きあがろうとする俺の腰を掴んで引き留める。
「でもな、ずっとこうしているわけにはいかないだろう? 間に合わなくなっても知らないぞ」
俺はそう言うと伸斗の腕をふりほどいて起きあがり、さっき読んでいた雑誌を引き寄せ、ページをぱらぱらとめくった。
本当は俺だってもう少しまどろんでいたいところだったのだが、なにぶん時間が余り無い。
「ほら、チケットとれたぞ。行きたかったんだろう?」
ページの間に挟まっていた紙切れが出てくるとそれを取りだし、目の前でヒラヒラと振ってみせる。
「あ?!」
そう一声叫んで、伸斗が飛び起きた。
半信半疑の伸斗の目の前で俺は、今の今までナイショにしていたチケットをこれ見よがしに見せびらかしてやった。
「ウソ、マジかよ!?」
俺の手から二枚のチケットをひったくると、裏表を何度もひっくり返して食い入るように眺める。
「すっげー、それもS席じゃん! どうしたんだ、これ?!」
興奮気味の伸斗の姿に笑みがこぼれる。
本当にこいつは子供みたいにすぐ顔に出る。
だけど、こんなだから俺はこいつから離れられないのかもしれない。
「知り合いの業者に頼んでキャンセル分をゲットして貰った。ちょっと高く付いたけどな」
「やった!! さんきゅー、清司郎! 恩に着るぜ!」
もう伸斗はおもちゃを買って貰ったガキみたいにはしゃいでいる。
「ったく、早く服ぐらい着ろよ。裸で跳ね回るんじゃない」
そう小言を言いながらも、その嬉しがりように自然と口調も柔らかくなる。
「清司郎、ほら急ぐぞ! 早く行こうぜ!!」
伸斗はそう言うとさっきまでの余韻は何処へやら、ダッシュで服を着始める。
あきれ顔でそれを眺める俺に気づくと、さっと腰をかがめ、頬にちゅっとキスをしてきた。
「アリガトよ、清司郎」
伸斗が真剣な眼差しで俺に頭を下げる。
「バカ、そんなマジな顔するな」
俺は急に気恥ずかしくなって照れ隠しに顔を背けた。
だが伸斗は俺の顔を素早く引き寄せ、再びキスを仕掛けてきた。
それはさっきまでのキスとは違い、遊んでいるみたいに軽くて小刻みなキスだった。
伸斗は余程嬉しかったのか、キスの合間にも歓声を上げた。
「ちくしょーーー、嬉しいぜっっっっ!!」
そのあまりの喜びように俺もつられて嬉しい気分になる。
ややあって顔が離れると、伸斗はにんまりと笑って俺をしゃにむに抱きしめた。
そしてさっと身を翻すとガラリと戸を開け放つ。
「さ、行こうぜ! 10分で支度しろよ!」
まるでつむじ風のように慌ただしくそう言い残すと、伸斗は鼻歌交じりに部屋を出ていった。
それは本当にアッという間の出来事だった。
さっきまで二人して抱き合ってまどろんでいたなんて、とても信じられない。
あいつは俺とコンサートのどっちが大切なんだ?
「コンサートの方が大事だなんて言ったら殺してやるからな」
俺はそう漏らすとくすくすと笑い、立ち上がった。
今それをあいつに問えば、コンサートだと言うような気がして可笑しくなったのだ。
気が多くて、浮気者で、なんにでも一生懸命で。
好きなものは好きとはっきり態度に出せるのを、俺はどこか羨ましいと感じているのだと思う。
あの単細胞め。
だが、きっと雨のドライブは楽しいに違いない。
音楽の趣味は決して相容れない二人だが、今日はあいつに付き合うと決めていた。
だからあのチケットを手に入れるのに俺がどれほど苦労をしたかは黙っていた。
それにもうすぐ二人がこうして一緒に生活をするようになって2年が経つ。
丁度いい記念のプレゼントにもなったのだ、苦労した甲斐はあったと思う。
少しだけの譲歩。
それが俺のあいつに対する愛情の表現だと、伸斗は気づいているだろうか?
だが、それを敢えて口にするつもりなんて無い。
なぜなら、今のままで充分に幸せな俺達のだから。
程なくして部屋の外から俺を急かす伸斗の声が響いてきた。
あのバカがと思いつつ、それもまた幸せな光景なのだと思い、俺は部屋を後にした。
ウキウキして落ち着きのない、嬉しそうな伸斗の顔を想像しながら。
Fin