ゴールデンクロス -1-「──…です。こちらも三役好転していますね」 早口気味の講師の言葉を聞き漏らして、俺が映りの悪いスクリーンに目を凝らしていると、後ろからすっと気配が寄ってきた。シトラスが微かに香った。 「XXXX、**工業ですよ」 耳元で囁かれて、言われた通りコードをパソコンに入力すれば、俺の画面にも、前方と同じチャートが映し出される。 「どうも」 画面に目を向けたまま軽く頭を下げたが、気配の去る様子がなくて、俺はそちらに視線を向けた。 コードを教えてくれた担当者は、俺と目が合うと、「いいえ」と満面の笑みで応えた。 (犬だ) 俺は毎回思うことを胸の内で呟いた。 多い時には月に数回開催される、証券会社の無料セミナー。講師はその都度変わるが、週末の担当者はだいたいいつも同じ若い社員で、俺がいいかげん飽きるほどセミナーに参加しているのは、こいつのせいだったりする。 見た目は二十代半ば。中肉中背。やや癖っ毛で、時々後ろ髪がはねている。顔の造りよりも、作る表情で童顔に見えた。 そんな男──そう、仮にも同性のためにせっせとこんなセミナーに出てきている俺は、自分でも相当な閑人だとは思うが。 初めて参加した日。ビルの複雑な構造に惑わされてエレベーターを見つけられず遅刻した俺を迎えたのが、このワンコだった。 その日の講師を務めていた、まだ若い女性社員と較べても格段に頼りなさそうな雰囲気をまとった担当者は、「遅れてすみません」と駆け込んでいった俺に、丸く目を見張って「いいえ」とかぶりを振った。 「いいえ、大丈夫です。えっと……緒川(おがわ)さんですね?」 俺の差し出した受付票を確認し、「席は決まっていませんので、お好きなところにお坐りください」と中に促す。 さして広くもない室内だったが、遅刻して焦っていた俺は、すぐには席を決められなかった。とまどっている俺に気づいた担当者は、俺の腕を引いて、空いている席に坐らせてくれた。その「こちらへどうぞ」という案内の仕方がどこかぎこちなくて、いかにも慣れていない印象だった。休日出勤のセミナーを押し付けられた新入社員といったところか。そう推測した俺は、彼の初々しさを好ましく感じた。 すでにセミナーは始まっていて、前方の二つのスクリーンと受講者たちのパソコンには同じ画面が表示されていた。 講義を中断するのも申し訳ないから、デスクトップ上のアイコンをクリックすればどうにかなるだろうとマウスを動かしかけたら、担当者が俺の机の脇に膝をついた。 「ここをダブルクリックしてください」 しゃがみ込んだ担当者は、パソコンの画面に腕を伸ばして、俺が見当をつけたアイコンを人差し指で示した。他の受講者の邪魔にならないように身を縮めているつもりらしいが、机にしがみついたその姿に、俺は思わず犬を連想してしまった。上目遣いが原因かもしれない。 「それから、ここ。このボタンです」 ワンコ、もとい担当者の指示に従っていくと、俺のパソコンには前方のスクリーンと同じ画面が出てきた。 「どうも」 俺が頭を下げると、担当者はにこっと笑って、離れていった。 どうやら担当者がアシスタントを兼ねるらしく、パソコンの操作にまごつく受講者を見つけるたびに、彼はすばやくその机に駆けつけた。 その姿がどうにも犬なのだ。 決して小柄ではないが、細身で体格がいいとも言えない彼が、ささっと机に駆け寄る様が、俺には、訓練された犬に見えてしかたがなくなった。 初めてだからと初級を選択しておいたセミナーの内容は、すでに実際使っているものがほとんどで、目新しさがなかったから、俺は講師の声を適当に聞き流しながら、セミナーの間中、担当者を目で追いかけていた。 セミナーが終わり、アンケートを回収している担当者に、記入したアンケートを渡しながら、 「このセミナーをもう一度受講することはできますか?」 と聞いてみた。 「はい、大丈夫です。何回でも、申し込んでいただければ」 いちいち目を丸くして答える担当者に、「ありがとう。それじゃ」と告げて帰ってきた俺は、早速インターネットで次回のセミナーの申し込みをした。 要するに退屈だったのだ。三十歳に近づいて、気がつけば休日を費やす趣味もなくなっていた。かつて週末毎に草野球だキャンプだと誘い合っていた友人たちは、次々と結婚していき、気軽に声をかけられる状況ではなくなってしまった。恋人でもいたらまたちがったのだろうが、友人同士の付き合いを優先してきたせいか、俺はいつも女性との交際を長続きさせることができなかった。 そんなわけで、数年前から始めた株式投資で使っているネット証券会社が、開催している無料セミナーに参加してみたのは、単なるひやかしだった。 いや、多少の下心はあった。最近は若い女性の投資家が増えていると聞くから、もしかしたらそんな出会いもあるのではないかと淡い期待もしていたのだ。それがどういうわけか、同性が目に止まってしまった。 本当は講師の女性もなかなか可愛い顔をしていたのだ。年齢も俺と同じくらいだろうと思った。しかし、いかんせん隙がなさすぎる。テキパキとセミナーを進める手腕に圧倒されて、色気を感じるような隙はまったくなかった。 (逆にあいつは隙がありすぎだけどな) 俺は犬のような担当者の顔を思い浮かべた。 担当者は、育ちのよさそうな、いかにも純情そうなタイプで、そんなので証券会社などという弱肉強食の世界を生き抜いていけるのかと心配になるほどだった。 次のセミナー。ヤツはいるだろうかと思いながら参加した俺を迎えたのは、やはりワンコだった。前回の美人講師が今回は頭のはげたオッサンに代わっていたことにはさほどショックは受けず、俺はまたワンコに会えたことが単純に嬉しかった。 「あ」 うっかりマウスに触って画面を動かしてしまった程度でも、小さく上げた声に気づいて、ワンコはすぐに飛んできた。 「どうしました?」 「あ、いや……」 「ああ、ここですね。クリックしていただければ元に戻ります」 教えてもらうほどのことではなかったが、一生懸命なワンコが可愛いので、俺は黙っていた。 その日の帰りに、俺はデパートの屋上にあるペットショップに寄ってみた。なんとなく犬を飼いたい気分になっていたのだが、可愛らしい仔犬の入れられたケージの前に立ってみたら、中の仔犬より先に金額の書き込まれた札が目に飛び込んできた。0の多さに圧倒されてしまい、俺はすごすごとその場を逃げ出した。実際はペットショップにいるカップルの多さに気後れしたせいもある。自分の居場所ではないと感じた。 俺にはペットショップよりもワンコのような担当者のいるセミナーのほうが楽しい場所だった。 そうやって何度もセミナーに参加しているものだから、ワンコのほうでは俺の名前を覚えたらしかった。 三回目のセミナーで、休憩時間にトイレを探してさまよっている時に行き合わせたワンコは、「緒川さん」と俺の名を呼んだ。ワンコの胸元には社員証らしきものがぶら下がっていたが、目の悪い俺にはその名前をとっさに読み取ることはできなかった。 「あ、えと……」 「お手洗いですか?」 ワンコはなかなか察しがよかった。 「ええ。このビル、わかりにくいですね」 最初の日に遅刻したのも、セミナー会場の部屋が見つからなかったせいだ。あれから何度も足を運んだが、いまだにエレベーターの位置がおぼつかず、会場に着くまでに多少は迷っている。ビルに入る時と出る時に使う入り口が毎回ちがっているせいだろうか。 言い訳した俺に、ワンコはにっこり笑った。 「こちらですよ」 そう言って、俺の肘のあたりをつかんだ。そういう行動が子どもっぽいのだと俺は内心で思う。 「こっち」 口で言えば済むのに、いちいち手を引いて案内してくれる。 少々下心アリの俺としては、このまま適当な部屋に連れ込んでしまおうかと、くだらない妄想が頭をよぎった。 (できっこねーだろ) 自分で自分にツッコミを入れつつ、俺は可愛いワンコに連れられて無事にトイレにたどり着くことができた。 手を洗って出てくると、前の廊下でワンコが待っていたので、驚いた。 「もしかして、緒川さん、戻る時に会場の部屋がわからなくなったら困ると思って、待っていました」 図星だったので、「ああ、どうも」と短く答えることしかできなかった。 並んで歩くと、ワンコと俺の身長はほとんど同じくらいだった。若干ワンコのほうが高いかもしれない。 (いくら女性に縁がないからって、俺、これじゃ本当にゲイだよ) そう思わないでもなかったが、実際なまじな女性よりもワンコのほうに魅力を感じるのだからしかたない。 ──明日、家に来ないか? 結婚したばかりの旧友、北野からそんな電話がかかってきた時にも、俺はセミナーへの参加を優先した。 ──かみさんの友だちが何人か来るっていうからさ。イイコいるかもしれないぜ? 友人たちの結婚ラッシュから一人取り残された俺を、北野は心配してくれているらしい。 「あー、うん。悪い、今のところ、そういうのはいいや ──なんで? 「うーん。今、ちょっと気になってる奴、いるからさ」 俺の返事に、北野は「へえ」と言った。 ──緒川にしては珍しいな。どんな子? 「小動物系? 犬みたいなの」 ──緒川ってそういう好みだったんだ 面白そうに笑われて、俺は説明の言葉を探した。 「いや……そうだな、見てると癒される感じ。真面目で一生懸命にやってるから、見てるだけでなんとなく癒される気持ちになる」 ──そうか。がんばれよ 北野の励ましが想いの他に真剣な響きを帯びていて、俺は苦笑して答えた。 「ああ、うん。別にそんな、がんばるとかじゃないんだけどさ」 なにしろ相手は男だし。 ──何言ってんだよ、がんばれよ。緒川が自分から気に入るなんて滅多にないんだから ところが、わざわざ北野の誘いを断って行った前回のセミナーでは、ワンコがいなかった。見たことのない女性社員が受付をしていて、ワンコの姿がなかった。しばらく様子を見ていたが、どうやらその日の担当がワンコではないらしいと悟って、俺は「急用ができた」と受付でキャンセルを申し出た。 さすがに毎回毎回参加していれば、セミナーの内容には特に魅力を感じられなくなってくる。もともと俺はデイトレードをする気はあまりなくて、応援したい会社の株を買えばいいという考え方だ。自分には不用のテクニカル分析が中心のセミナーに参加しているのは、ワンコを見るのが目的なのだ。ワンコがいなければ意味がない。 ワンコに会えなかったことに落胆して、俺は家路についた。 同性を相手にどうこう考えているわけではなかった。ただ俺は彼に会いたいだけだった。単調な生活の中でのささやかな楽しみがワンコに会うことなのだ。一生懸命にやっている姿を可愛いと思って見ていれば、それだけで幸せだった。 そして日曜日の今日。再び担当に返り咲いたワンコの、ワンコっぷりはパワーアップしていた。腰に尻尾の幻影が見えるくらいだった。 証券コードや会社名を告げる講師の台詞は、言い慣れているせいか早口で、うっかり聞き漏らすことも多かった。その場合は前方のスクリーンを確認すれば済むのだが、目の悪い俺にはそれが少々困難なことだった。今日のように一番後ろの席に坐ってしまってはなおさらだった。 だが、少しでも俺の入力の手が止まると、後ろに立っているワンコがさっと寄ってくる。耳元でコード番号を囁いて、俺が振り向くのを待って、にっこりと笑う。その笑顔が、誉められるのを待っている犬にそっくりで、何かご褒美を用意するべきか悩んでしまった。 セミナーの終了後、もう記入することもほとんどなくなってしまった、いつものアンケートを持って行くと、受け取ったワンコは何か言いたそうだった。 「あの」 と呟いて、ちょっと困ったように首を傾げて俺を見る。ヨシヨシと頭を撫でたくなるような風情だ。 けれど、ワンコが言い出す前に、脇から他の受講生が「すみません、質問なんですけど」と、担当者であるワンコに声をかけてきた。しばらく様子を見ていたが、その質問は長くかかりそうで、こちらは用があるわけでもないので待っているのもおかしいと判断した俺は、軽く頭を下げて、その場を去った。 「緒川さん」 翌日、月曜日の朝。出勤する駅のホームで俺は、思いがけない声をかけられて足を止めた。 「当たった」 嬉しそうに笑っていたのは、ラフな恰好をしたワンコだった。 「あれ、あの……」 あいにく名前を知らないので、俺はもごもごと口ごもった。 「おはようございます。今からお仕事ですね?」 さわやかに確認されて、俺は「ええ、まあ」と頷いた。 「俺、今日は、昨日の振替で、休みなんです」 「はあ、そうですか」 にこにこと言うワンコに、気の抜けた相槌を打つと、ワンコは俺の顔をじっと見た。 「緒川さん、今日はお仕事終わるの、何時ですか?」 「え?」 「帰り、ここで待ち合わせませんか? 何時なら大丈夫ですか?」 「あ、えと七時なら、多分」 畳み掛けられて、事態をよく把握できないまま返事をしていた。 「じゃあ、七時に、改札のところで。──いってらっしゃい!」 タイミングよく電車が入ってきたので、俺はワンコに見送られてそのまま乗り込んでしまった。 なぜワンコがあの駅にいたのか、考えてみてもよくわからなかった。俺は、セミナーで見かけるワンコの、七五三のようなスーツ姿を気に入っていたが、休日仕様のカジュアルな服装はよく似合っていて、すっかり学生のように見えた。 (朝から、眼福にあずかったのかも) 目新しいワンコの恰好を思い浮かべれば、満員電車の苦しさも、少し和らぐ気がした。 突然の約束に、そわそわと落ち着かなく一日を過ごして、残業を翌日に先送りして帰ってきたら、六時半を少し回った頃には駅に着いていた。それでもワンコはすでに待っていた。 きょろきょろと周りを見回しながら、改札のほうに行くと、改札の向こうで、ワンコが「緒川さん」と手を振っていた。 「車があるんで」 そう言うワンコの後に着いて、パーキングに向かう。 助手席に乗り込んだ俺は「あの」と言った。 「あの、すみません。お名前、わからなくて」 ワンコは、エンジンキーを回しながら、クスッと笑った。 「そっか。緒川さん、目が悪いんですよね」 きっとでかでかと名前の書いてあるだろう社員証にも関わらず、俺が名前を知らないのは意外だったのかもしれない。本当は目が悪いからではなくて、俺にはヤマシイ気持ちがあるから、堂々とワンコの名前をチェックすることができなかったのだ。 「旭(あさひ)です。旭建彦(たてひこ)。緒川真哉(しんや)さん」 自己紹介の後に、フルネームを呼ばれて、俺は少しびっくりした。 「はい」 思わず返事をすると、ワンコ改め旭は、くくくっと笑い声を漏らした。 「緒川さん、何を食べたいですか?」 車をスタートさせた旭に確認されて、俺は「え」と口ごもった。 今さらながら、この状況に疑念が湧いてきた。なぜ俺はワンコと夕食を共にするのだろう。 「じゃあ任せてもらえます? うまい鳥料理の店があるんですけど」 「鳥はヤダ」 とっさに声が出ていた。俺は鳥が大嫌いだった。鶏肉も、生きている鳥も。子どもの頃、田舎で放し飼いの鶏に追いかけられたのがトラウマになっていた。 仲間内の飲み会で、最初に焼き鳥の盛り合わせが出てきて、耐えきれずに中座したこともあるくらいだ。話題に出るだけでも顔がしかめ面になってしまう。 「鳥は嫌いですか。残念。じゃあ、どこにしようかな」 旭は気を悪くするでもなく、楽しげにハンドルを操ってしばらく走り、やがて路上パーキングに車を停めた。 「緒川さん、日本酒はお好きですか?」 「うん」 俺が頷くと、旭は嬉しそうに笑った。 「よかった。ここ結構、日本酒が多く置いてあって、人気なんですよ」 旭は、口調が微妙に舌足らずなところが可愛いのだ。あらためて確認した俺は、旭の頭を撫でてしまいそうな衝動を覚え、懸命に堪えた。 「お酒は何にしますか?」 席に着いて、旭は俺の前にドリンクメニューを広げた。 「俺、もともとあんまり飲めないんで、遠慮しないでください」 子どものような顔で覗きこまれて、牛乳でもあげたい気分になった。「お手!」と手を出したら、素直に手を乗せてきそうだ。旭は指が長くてキレイな手をしていた。メニューの端を持つ旭の手に触れてみたいと少し思った。 俺はとりあえず日本酒の久保田を頼み、フードメニューを眺めた。 「あ、玉子焼き。これ頼む」 「緒川さん、鳥嫌いなのに、卵は好きなの?」 「バッカだなあ。鳥が嫌いだから、卵のうちに食べちゃうんだろ。退治すんの」 「アハハ、それ、本気?」 声を立てて笑われて、俺はむっとして言い聞かせた。 「卵はうまいだろ。鳥はまずいだろ」 うまい卵のうちにせっせと食べて、怖ろしい鶏の数を少しでも減らしてやるのだ。 「そっかあ」 旭は笑ったまま頷いた。子どもっぽいその笑顔に見惚れてしまった。 |