いつか晴れた日に-1-



 帰り支度の途中で槙脩司は、向かいの席でパソコンの入力に没頭しているらしい同僚に声をかけた。
「一宮、まだやっていくのか?」
「ええ、あと少しなので今日中にまとめたいんです。出前でも取ります?」
 当然のように夕食の確認をしてくる一宮に、槙は首を振った。
「悪い、俺は今日約束があって。先に失礼させてもらうよ」
「あ、そうなんですか? なんだ淋しいな」
 あまり大きくはない会計事務所。主戦力は三十二歳の槙と五歳下の一宮で、二人は残業仲間のようになっていた。繁忙期以外は比較的自由のきく仕事だが、情報収集など、その気になればいくらでもやることが出てくる。
 槙たちの事務所のある羽富市は、約四十年前の都市化プロジェクトが基になっている、誕生してわずか十数年の、まだまだ成長過程にある都市で、つねに新しい企業の進出があった。研究所や教育機関が中心にあるせいか、個人による小規模な起業も少なくない。実際、槙たちの事務所も女性所長による個人経営だ。
 そんな環境の中にあって仕事はそれなりに忙しく、槙も一宮も独身だから、帰るタイミングをつい延ばしてしまうのだった。
 槙は一宮に「悪いな」と謝った。
「デートですか?」
 屈託のない一宮は二十七歳という年齢よりも幼い雰囲気をまとっていて、未だ二十歳そこそこに見えなくもなかった。対する槙自身も三十歳を過ぎているようには見えず、新規の客などが、慣れるまでは担当の槙を頼りなく感じて不安を覚えている様子もたびたび見られた。
「ちがうよ」
「冷たいな。俺にまで隠さないでくださいよ」
 時折、一宮の態度は槙に大学時代の夏の記憶を蘇らせた。明るく晴れた川のほとり、槙を見上げて笑う少年。彼と一宮との間には、顔立ちも雰囲気にも少しも似たところなどないのに。記憶の中にいる少年の輪郭が夏の陽射しに照らされて曖昧になっているせいかもしれない。
 槙は錯覚を振り切るように首を振って笑ってみせた。
「本当にちがう。男三人でわびしく飲む予定」
「そんなこと言ってー、ナンパでもするつもりなんでしょ」
 からかう一宮に槙が「バカ」と苦笑したところに電話が鳴った。電話を取った一宮に軽く手を上げて「お先に」と部屋を出ていきかけた槙を、受話器を押さえた一宮が慌てて呼び止めた。
「槙さん。すみません、お電話です」
 近くの電話に転送してもらって受けると、それは今夜約束していた相手の一人、半村からのものだった。
─すまん。保科さんが槙の携帯が留守電になってるって言ってたから、事務所にかけちまった
 言われて槙は昼間、客との打ち合わせの前に切った携帯の電源を入れ忘れていたことに気づいた。
「ああ、こっちこそ電源を切っていて悪かった。今出るところだから外でかけ直すよ」
 槙はいったん電話を切り、一宮に「ほどほどで帰れよ」と声をかけて事務所を出た。若く独り身の一宮は仕事熱心のあまり繁忙期には事務所で朝を迎えることも多いらしかった。
 駐車場に着いて半村の携帯に連絡を入れるとすぐに半村の声が応えた。
―実は今夜ダメになった。保科さんの娘さんが熱を出したって
 半村と保科は槙の大学時代のサークル仲間だった。今の職場と同じ羽富市内にある大学に通っていた頃、槙は映画サークルに所属していて、同級生の半村や二年先輩の保科と映画を撮っていた。
「そうか。それは保科さん、心配だろうな」
─まあ娘さん自体はそれほどでもないらしいけど、奥さんが不安がっててすぐ帰ってほしいって連絡があったんだそうだ。保科さんは奥さんを大事にしてるから
 槙は声に軽い笑いを混ぜて「そうだな」と頷いた。保科の妻には、一、二度会っただけだが、保科より年下で華奢な可愛らしい女性だった。
─二人で会っても仕方ないだろ?
 ほんの少しうかがうような半村の声音に、槙は気づかぬふりを装った。
「仕方ないことはないけど。そうだな、どうせなら保科さんが大丈夫になってからに改めようか」
 携帯を切った槙は、車に乗り込んだ。すぐにはエンジンをかけずハンドルに置いた手に額をつける。
 いつからか半村は槙との間に距離を置く素振りを見せていた。槙はその理由の見当さえつかず追求することもできなかった。疎遠になっていくことに明確な原因などないのかもしれない。守りたかったものは砂のように手からこぼれていく。記憶の中の日々はいつも晴れていて、いくら目を凝らしても眩しさに失われた輪郭を見極めることができない。耳の中こだまする、明るく槙を呼ぶ少年の声。
 駐車場でぼんやりしている間に再び携帯が鳴り出して、表示を確認すれば保科からだった。
─半村から連絡はいったか?
 槙が声を発するより早く問いかけられる。保科の気さくさは学生時代から少しも変わらなかった。社会人になってからは二歳の差などあってないようなものに感じていたけれど、槙にとって保科の印象だけはいつまでも「先輩」のままだった。
「ええ。娘さんは大丈夫なんですか?」
─医者に連れて行った。安静にしてればいいってさ。よくあることなんだ
 幼い保科の娘はあまり身体が丈夫ではないらしく、そのために保科の妻は神経質になっているようだ。
―あ、そうだ。おめでとう
 ふいにかけられた保科の台詞が槙には理解できず聞き返した。
「え?」
―誕生日だろう、今日?
「あ、ああ。そうですね」
 言われて思い出す。槙は今日で三十二歳になるのだった。保科が槙をからかう。
―自分の誕生日を忘れていたのか
 忘れていた。離婚して一人になってから槙には誕生日など関係なかった。
「ありがとうございます」
―うん?
「確か、去年も」
 槙には、去年の誕生日にも保科と飲みに行った覚えがあった。帰り際にさりげなく「おごるよ」と言い出した保科。独り身の自分を気遣ってくれる先輩を槙はありがたいと思った。
―覚えていたか
 携帯の向こうで保科は低く笑った。
―悪いな、今日は。後で埋め合わせする
「いいんです。娘さん、お大事に」


 予定がなくなり、一人でどこかの店に寄る気にもなれず、まっすぐアパートに戻った槙は、エレベーターを降りたところで自分の部屋の前に人影を見つけて足を止めた。所在なげに廊下の手すりにもたれていたシルエットはひどく長身に見えた。エレベーターの音に気づいたのか、ゆっくりと振り返った男は、防犯灯の弱い光に照らし出された槙を見て手すりから身体を起こした。
「槙さん」
 低い声に馴染みはなく怪訝そうに男を見つめていた槙の口からやがて一つの名前がこぼれた。
「ユウセイ」
「お久しぶりです」
 男が頭を下げる。呆けたようにユウセイ──清水祐成を見ていた槙は、ややあって気を取り直すように軽く咳払いして笑いかけた。
「あ、ああ。なんだ、いきなりだな。久しぶりすぎてわからなかった」
 槙の笑みに、不安そうに槙をうかがっていた祐成の表情がゆるんだ。
「すみません、突然。こっちで用事があって」
「来るなら事前に連絡くれればよかったのに」
 部屋に招き入れながら槙が言えば祐成は「すみません」とくり返す。祐成は槙の元妻、美帆子の弟だった。
「すっかり見違えたよ。ずいぶん背が伸びたんだな」
 最後に会ったのは五年前。祐成は大学生だった。だが槙の記憶の中で、祐成は初めて会った小学生の姿のまま時を止めていた。


「槙さんがまだここに住んでるとは思わなかった」
 部屋に腰を下ろしながら、祐成は言った。
「確かめて来たんじゃなかったのか」
 帰宅後の習性でテレビの電源を入れながら何気なく訊いた槙に、祐成は答えずに黙って笑みを見せた。それで槙は自分の質問の無意味さを悟った。祐成が誰に槙の居場所を聞けるというのだろう。祐成が槙の現住所を確かめる相手としては、美帆子しかおらず、そして美帆子は槙の話題を嫌うはずだった。
 槙には自分がどうしてそこまで美帆子に嫌われることになったのか、よくわからなかった。決して自分を見ようとはしない、美帆子の横顔。槙が守るはずだった女性。大学の同級生で、映画サークルのマドンナ。美帆子はいつも槙の思い出の中心で笑っていた。槙は彼女を守りたかった。その笑顔を曇らせたくなかった。けれど──。
 槙は祐成にリモコンを手渡し、飲み物を取りに台所に向かった。
 槙はいらないと言われてからも息子の航太の養育費として美帆子に送金を続けていた。美帆子からは時折思い出したように「もうやめてくれない?」と連絡が入る。それでもやめることはできなかった。二年前、航太の小学校の入学祝いにと送ったランドセルを持って美帆子は槙を訪ねてきた。
『私は絶対に航太をあなたに会わせる気はないのよ』
 そらされた視線と頑なな声に、槙は黙ってそのランドセルを受け取るしかなかった。
 航太はもう九歳になるはずだ。叔父と甥の関係だから少しは祐成にも似ているだろうか。最後に三人で行った遊園地を、航太は憶えているだろうか。渋滞に巻き込まれた帰り道、後部座席で眠りこんでいた幼い姿。バックミラーで映して笑みを浮かべた槙を助手席で祐成が見ていた。
「食事は?」
 ウーロン茶を運んで行って訊いた槙に祐成は「槙さんは?」と訊き返した。
「今夜は約束がキャンセルになって」
「まだ食べてない?」
「ああ。でも家にはたいしたものはないから、祐成がまだなら食べに出るしかないけど」
 かつて何度も呼んだ名前。久しぶりに口にするせいか少しぎこちなかった。
「そうですね。でも外に行くより出前でも取りませんか?」
 祐成の提案で、槙は電話帳を探したが見つからず、結局宅配のピザを頼む羽目になった。
「こういうのって学生みたいですよね」
 あっという間に届けられたピザの箱を開けて祐成が笑う。ネクタイにスーツ姿の祐成は学生には見えず、槙は会わずにいた時間を思った。
「それにしてもずいぶん背が伸びたんだな。最後に会ったの、祐成が大学生の時だったよな。あれから成長するなんて詐欺みたいだ」
「槙さんはぜんぜん変わりませんね」
「変わってたら怖いよ。俺はもう大人だったんだから。後は老けていくだけだ」
「老けてなんか」と言いかけて祐成は槙を見つめた。
「そうですね、印象は変わりましたよ。俺、昔は槙さんてすごい──大人だと思ってたから。今は……」
 言葉を途切らせた祐成は、見返した槙と目が合うとかすかに目を伏せた。
(今は何? 自分が大人になったら俺なんかどうってことないってわかって失望した?)
 思わず問いかけそうになった自分に槙は唇を噛んだ。自分を慕ってくれた少年はもういない。槙は祐成に何もしてやれなかった。彼の姉を傷つけただけの自分。明るく晴れた夏の日々は記憶の中にきらめいて、時の流れは残酷に槙の無力を晒し出す。
「槙さん、食事とかちゃんと摂ってますか?」
「え」
「俺、久しぶりに会って槙さんは意外と華奢だったんだなって、少しびっくりしました」
「華奢って──俺、そんなふうに言われたの初めてだよ。祐成だって背が高いだけでかなり痩せてるだろ」
 槙の言葉に祐成はちらっと白い歯を見せた。その表情に少しだけかつての面影が蘇る。
「あー、俺も今は一応一人暮らししてるんで。食事とか面倒になっちゃうんですよね」
 槙や美帆子と同じ大学を卒業した祐成は、今は大手商社の本社に勤務しているという。
「すごいじゃないか」
 槙は祐成の挙げた会社名に軽い感嘆の声をあげたが、祐成は首を傾げるようにして槙を見た。
「実は今度、転職しようかと考えてるところなんです。大学の先輩から仕事を手伝ってほしいって言われてて。独立して羽富市に会社作った先輩がいて、その話で今日はこっちに来たんです」
「転職」
 いきなりの話に槙はうまく相槌が打てなかった。自分を残して周りの風景だけが色を変え勢いよく流れて去っていく様に呆然とし、しかし祐成はもう自分の周りになどいないのだと思い知る。
「俺、いつかは地元に戻るつもりでいるんです。結婚しようと思ってる子がいるんですよ。彼女、役所に勤めてるからできるなら辞めたくないって言うし。羽富市からだったら通えないことはないと思って」
 誰も槙の手など必要とはしていなかった。ならばなぜ自分は存在しているのだろう。


 美帆子から電話があったのは、祐成が槙の部屋を突然訪ねてきてから数日後のことだった。
 その日、顧客との会食を済ませて遅くに帰宅した槙は、メッセージを残さない留守電が夕方から何件か入っていることに気づいた。ディスプレイに表示された電話番号で美帆子かららしいと見当がついたが、時刻の遅さにこちらからかけるのをためらった。もともと数少ない美帆子からの電話が槙にとって楽しい内容だったことはない。その日の会食はいくら馴染みの深い相手とは言え客は客で、それなりに神経を使ってきた後で、美帆子と話すのは苦痛な気がした。
 だが槙がかけ直すまでもなく再び電話は鳴り出した。
 とりあえずシャワーを浴びようと給湯器のスイッチに手を伸ばした瞬間を計ったように、不意打ちのベルが部屋に響き渡り、槙はびくっと身体を震わせた。
─祐成に会ったでしょ?
 美帆子は唐突だった。着信ランプの点滅する電話を見つめ、一呼吸置いて槙が受話器を取ったとたん、相手の確認さえせずに非難まじりの声で口火を切った美帆子は、槙の返事を待つことなくまくし立てた。
─もうそっとしておいてよ。私たちに関わらないで
「美帆子」
 いきなり浴びせられた語気の強さにつかの間言葉を失くし、ややあって槙は「別に俺が祐成を呼びつけたわけじゃない」と反論した。美帆子は祐成が槙を訪ねてきたことについて槙を非難するつもりらしいが、それは槙の責任ではない。
 だいたい槙が祐成に会ったからと言って、美帆子がここまで怒っている理由がわからなかった。離婚したばかりの頃、幼い航太を槙に会わせるのにも美帆子は自分が立ち会うのを嫌って祐成に代理を頼んでいたではないか。そして美帆子が槙に航太を会わせることを拒否するようになってから、槙は祐成にも会っていなかった。先日会ったのは五年ぶりだった。
「祐成はいきなりやって来たんだ。俺だって突然だったから驚いたさ。こっちに用事があってそのついでに寄っただけの話だろう」
 槙の反論に、美帆子は興奮を抑えきれない声で「でも」と切り返してきた。
─でもあなたは祐成に転職を勧めたでしょ。祐成は断るって言ってたのよ。最初、先輩に誘われてるって私に相談してきた時には直接会って断ってくるって決めて、それでそっちに行ったんだから
 美帆子の言葉が意外で槙は首を傾げた。祐成は転職するために羽富市に来たのではなかったか。彼自身は槙にそう告げたのだ。槙が疑問を口にする隙もなく美帆子は早口で責め立ててきた。
─それなのにいきなり会社を辞めることにしたって実家に電話してきたのよ。父も母も驚いてたわ。せっかく入った会社をどうしてって思うじゃない
 カーテンを閉めた窓の向こうから遠いサイレンが微かに聴こえていた。珍しいことではない。槙のアパートからそう遠くない大きな公園の脇を通る真新しい道路は広く真っ直ぐで、深夜になると走り屋たちがサーキット場代わりにするために集ってくる。
「あなたのせいでしょ」と美帆子はきつい声で槙に迫った。
─言ったもの、あの子、あなたに会ったって
「俺は何もしてないよ」
 言いかけた槙を遮るように美帆子は叫んだ。
─したじゃない! あなたが羽富市にいるからでしょ。だから祐成はそっちに行きたいのよ。あなただって、会って祐成をそそのかしたんでしょ
「美帆子、落ち着けよ。家にいるんじゃないのか? 高槻さんはどうしたんだ?」
 甲高い声に、美帆子の現在の夫を気遣った槙を、美帆子は一蹴した。
「まだ帰って来ないわよ。関係ないでしょ。祐成の話なんだから」
 ならば航太はどうしているのだと訊きたかったが、その気持ちを抑えて、槙は言った。
「祐成が地元に戻りたいのは、俺なんかが理由じゃないさ。聞いてないのか? 祐成には結婚を考えて付き合っている女の子がいるらしい」
 祐成の人生に自分の占める場所などない、と槙は自嘲に口元を歪めた。美帆子は「知ってるわよ」と挑戦的に返してきた。
─紗枝ちゃんには会わせてもらったもの。祐成は今の会社にいたって近いうちにこっちの支社に移れるはずだったのよ。辞めて別の会社に入る必要なんてなかったわ。祐成がバカなこと考えてるのはあなたのせいよ
 きしむような声。もともと美帆子はこんなしゃべり方をする女じゃなかった。覚えているのは、槙をからかうようないたずらっぽい笑顔。美帆子を変えたのは自分なのか。槙は苦いものを飲まされるような気持ちでその声を聞いていた。
「俺のせいにされても困る。俺は祐成とはずっと会ってなかったよ。嘘じゃない。それに転職を一方的にバカなことって決めつけるのもどうかと思うよ」
 大企業の歯車のひとつでいるより、小さな会社に移って自分の力を試そうと考えたのかもしれない。新しい仕事のほうが祐成にとってやりたいものなのかもしれない。実際、槙が仕事で担当している会社も決して大きなところばかりとは言えなかったが、そこにいる人々は彼らなりの信念を持って生き生きと仕事に取り組んでいるように見えた。愚痴を口にする時でさえ冗談混じりに楽しげな彼らの顔を思い浮かべ、祐成が自分で決断を下したのならそれでもいいじゃないかと槙は思った。
─そういうこと言ってるんじゃないわ
 美帆子は冷ややかな口調になった。
─あなたは結局そうなのよ。最後まで責任持つつもりもないくせに、中途半端に手を出して、そして放り出すんだわ
 美帆子の心には届かないのを承知で「俺は何もしてないよ」と槙はもう一度呟いた。


 シャワーを浴びながら、槙は美帆子の電話を反芻した。
「中途半端に手を出して放り出す」と美帆子は言った。あれは祐成のことなのだろうか。祐成にかこつけて美帆子自身の槙への不満を口にしたのではないか。美帆子と結婚した時、槙は決して中途半端な気持ちなどではなかった。槙は美帆子を大切に思っていた。あの時、悲しんでいる彼女を見ていられなかった。けれど自分には美帆子を幸せにするだけの力がなかったのだ。
 うつむいて片手の親指と中指でこめかみのあたりを押さえれば、流しきれなかったシャンプーが目の中に沁み込んできた。槙はシャワーの水流を強めて顔に当てた。
 離婚の時、美帆子は槙に何も言わなかった。どうして別れなくてはならないのか、槙には理由がわからなかった。槙は何度も話し合おうとし、けれど向かい合っても美帆子は口をつぐんだままだった。そばでは祐成が悲しげな顔で自分と美帆子とを交互に見つめていた。槙は美帆子にも祐成にもそんな顔をさせたくなかった。
 喉の奥が熱く重くなった。実体のない塊を無理に飲み込めば鼻がツンと痛んだ。
 あの時、祐成は槙に「ごめん」と謝った。
「俺、何の役にも立てなくてごめん。姉さんが何を考えてるのか、俺にはわかんなくて。航太だっているのに」
 高校生だった祐成にそんなふうに言われて、槙はひどく自分が情けなかった。
「いいんだ」
 苦い気持ちで首を振った。美帆子が離婚を望んだ原因は、他ならぬ槙自身にしかありえない。自分に力がないから、美帆子を幸せにしてやれなかった。姉の家庭が壊れることは、祐成をも傷つけただろう。
 シャワーを止めて浴室を出る。おざなりに身体を拭っただけで、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルを引けば炭酸の音が一人の部屋に小さな爆発音のように響いた。髪から滴る水はすでに冷たくなっていて肩を濡らし冷やしていく。槙は二口ほど飲んだビールを冷蔵庫の上に残して、ドライヤーで髪を乾かし始めた。
 祐成はどうして転職を決めたのだろう。
 美帆子の話では、今の会社にいてもいずれ地元に戻ることが決まっていたようだった。美帆子と祐成の間には、喬市という長男がいて、祐成は次男だったから、跡を継ぐ必要はないはずだった。ただ昔から喬市よりも祐成のほうが家族を大切にしているという印象があった。だから例え結婚の話がなかったとしても祐成が地元での仕事を望むのは自然な気はしていた。しかしそれならばわざわざ羽富市を転職先に選ぶ必要はなかっただろう。祐成の実家のある隣県の小浦町から羽富市は車で優に三時間ほどかかり、とても通える距離ではない。祐成が結婚するつもりでいる女性がどこに勤めているのか知らないが、結局は互いの職場の中間地で家を探すことになるだろう。それだったら、小浦町の近くには太島市という比較的大きな工業都市がある。祐成の恋人が地元の役所に勤めているなら、祐成は太島市で仕事を探すほうがよかった。もともと祐成は太島市をよく知っているはずだ。
 八割方乾いたところでドライヤーを止める。あの時、もっと祐成の話を聞いてやればよかったと槙は思った。鏡に映る自分の顔はひどく頼りなく見えた。湯上りで紅潮し目元を潤ませた表情は、三十歳をすぎているくせに年齢相応の余裕さえ持てずにいた。かつての義弟の転職の相談にさえ満足に乗ってやれない男。槙は鏡から目をそらした。
 祐成は太島市の男子高に通っていた。隣県では進学校と目されている高校は男子高と女子高とに分かれているのがほとんどで、槙は就職したばかりの頃、事務アルバイトの女性から何度か太島高校の噂を聞かされた憶えがあった。太島女子高の出身だった彼女は、高校時代の話題の度に「あそこの生徒は変わってるのよ」と笑い話のネタにしていた。
「私、コンビニでよくドテラを着てる人を見かけてたんだから。大昔の話じゃないわよ。私が高校生の時によ。おっさんみたいな髭面の人もいっぱいいて怖かった」
 あれは祐成が太島高に合格した年だった。大学の映画サークルの仲間に「美少年」と騒がれていた祐成と、アルバイトの女性が語る男子高のバンカラなイメージはうまく結びつかなかった。



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