いつか晴れた日に-3-



「槙さんて、大学の時に映画とか出てました?」
 向かいからふいにかけられた声に、槙は顔を上げた。終業間近で、槙たちより勤務時間の短い事務の女性はすでに帰り、他の職員もそれぞれ外に出ていたので、事務所の中にいるのは槙と一宮だけだった。
「何、いきなり」
 手にしていた携帯の画面を見ながら訊ねてきた一宮は、パチンと携帯を閉じて槙に向き直った。
「俺ね、この間知り合った女の子に、事務所のサイト教えたんです。あれ、ちっちゃいけど俺たちの写真と名前が載ってるじゃないですか。それで昨日かな、メールで槙さんの映画を観たことあるって言ってきたんですよ。今もよこして、絶対にそうだって言うんです。彼女、槙さんと同じ大学らしくって。その映画、何かの賞を取ったんでしょ? 学祭とかでよく上映されてるそうですね」
 槙は、自分の出た映画が卒業後も大学で上映されていることなど知らなかったが、汐見の作品であればそういうこともあるだろうと頷いた。槙たちと撮ったビデオ作品以降も、汐見の発表する映画はそのたびに概ね好意的な評価を得ていた。
「ああ。映画を撮った先輩が才能のある人だったから」
「すごいですね。どうして槙さんはそっちに行かなかったんですか」
「そっちって……。すごいのは先輩で、俺はただ……もともと俺が出るはずじゃなくって急な代役だったし」
 あの映画において汐見は、みんなで行った撮影キャンプのあとにも一人で美帆子や祐成、槙を撮り続けた。最後にそれぞれの映像を見事にコラージュして一本の映画に仕立てたのだ。うまくいかなくなった恋人たちを演じた槙と美帆子は、その後、映画をなぞるように結婚して離婚した。そして完成した映画の主役はやはり祐成だった。ラストシーンで祐成は誰かを待ち続けているように見え、だがそれが美帆子なのか槙なのかは示されない。見方によっては映画の中で、美帆子はすでに死んで──自殺しているようにも見えた。
 その映画によって、槙は汐見の残酷さを知ったのだ。槙は、美帆子の泣き顔を映像でしか見たことがない。現実では、美帆子は槙の前で泣いたりしなかった。そう、槙は汐見の代わりにはなれなかったのだ。カメラを構える汐見の前で、美帆子は無防備な泣き顔を晒していた。
「俺、その子に槙さんを紹介してくれって頼まれましたよ。どうですか?」
 一宮はその女の子が写っているらしい携帯を差し出してきたが、槙は受け取らずに苦笑した。
「どうですかって言われても。映画は十年以上前の話だから」
 女の子が紹介してほしいのは十九歳の、そして汐見が作り出したフィクションの槙なのだ。
「槙さんなら大丈夫ですよ」
「何を言ってるんだか」
 相手にせずにパソコンに向かった槙を見て、一宮はくすっと笑いを漏らした。
「槙さん、最近何かあったでしょ?」
「何かって?」
「何かいいこと。この頃槙さん、そわそわしてますもん。時々鼻唄歌ってたり」
 一宮はまるで学生のようなノリで、いたずらっぽく覗き込んでくる。
「鼻唄なんか歌ってない」
 冷やかしを歯牙にもかけない槙の返事に、一宮はめげずにくり返した。
「そーかなー。俺には聴こえましたよ」
「幻聴だろう」
「それに妙に忙しそうにしてません? ここんとこ、俺、槙さんに断られてばっか」
 確かに槙は、ここ何回か終業後に飲みに行こうという一宮の誘いを断っていた。
「タイミングが悪かっただけだよ。たまたま約束があったから」
「それですよ!」
 一宮は大仰な仕種で槙に人差し指を突きつけた。
「え」
「その約束の相手が問題なんじゃないですか。そういう相手ができたから槙さんは忙しいんでしょ」
「そんなんじゃないよ」
 槙は肩をすくめた。約束の相手は祐成だった。


 転職した祐成は、羽富市に引っ越してきた。てっきり結婚のための家を探すのだとばかり思っていた槙に、祐成は「しばらくはいろいろ忙しいから、会社に近いほうがいいと思って」と言って、槙のアパートからもそう遠くないところに部屋を借りた。引越しの手伝いは先輩と婚約者に頼むからいらないと断られたが、その日の夜になって槙の元に祐成から電話がかかってきた。
──無事に引越しが済んだので、もしよかったらこれから来ませんか?
 そんなふうに誘われて槙が訪ねて行った新しい部屋にいたのは祐成だけだった。祐成は、槙の持参したケーキを見て「こんなにたくさん」と驚いた声を上げた。
「他の人もいると思ったから」
 照れくさそうに言い訳した槙に、祐成は「ああ」と頷いた。
「すみません。先輩も彼女も帰ったから槙さんを呼んだんですよ。引越しそば、一緒に食べようと思って」
「そうか」
 出前のそばを食べながら槙が「彼女ってどんな子?」と水を向けると、祐成は「そうですね」と首を傾げた。
「かなり明るいかな。中学の同級生なんですよ。当時は二人ともぜんぜん意識してなかったんだけど、大学の時にクラス会があって、それからなんとなく」
「ずいぶん長い付き合いなんだ」
 槙が美帆子と離婚したのは祐成が高校二年の時で、その後も航太の面会には祐成が一緒に来ていたのだが、美帆子の再婚が決まった時、祐成は大学二年になっていた。それから祐成が槙に会いに来ることはなくなった。祐成が彼女と付き合い始めたのはその頃だろうか。
「うーん、まあそうですね。腐れ縁だって彼女は言いますよ。もう結婚するしかないよねって。でも俺の感覚ではそんなに長い感じもしないんです。ずっと遠恋っていうか中距離恋愛だったから」
 屈託のない祐成の口調から、彼女との仲が想像できた。
「だったら今度こそ近くに住めばよかったのに」
「うん。彼女もちょっと怒ってたかな」
 そう言った祐成は「でも」とつけ加えた。
「でも、俺は槙さんが心配だったんです」
「俺?」
 祐成は槙の視線を避けるように、かすかに目を伏せた。
「なんか……こういうのおかしいかもしれないけど、俺は紗枝と──彼女の名前が紗枝っていうんですけど──紗枝といると幸せで、でもそういう時にね、そういう時にいつも、ふっと槙さんはどうしてるかなって考えが浮かんでしまっていたんです」
「……」
「俺は槙さんに幸せになってほしくって」
 祐成にそんなふうに言われて、槙にはどう応えればいいのかわからなかった。
 槙は、自分こそが美帆子や祐成の幸せを願っていたのだと言いたかった。けれど、美帆子の幸せも祐成の幸せも、槙には関係のないところにあった。彼女といると幸せだと気負いなく口にする祐成に、淋しさを感じてしまう自分を槙は持て余した。自分を慕ってくれた少年は、もういないのだ。鮮やかな季節はいつのまにか通り過ぎてしまった。
「槙さんは、今付き合っている人とかいないんですか」
 祐成に訊かれて、槙は黙って首を振った。


 それから何度か槙は祐成と飲みに行った。何よりも気にかかっている美帆子や航太について槙は祐成には訊ねられず、その話題を祐成から持ち出すこともなかったが、新しい仕事の相談を受けたり、意外な共通の知り合いがいたりして話がはずみ、槙は祐成と会うことを楽しみにしていた。一宮に指摘されるまでもなく、祐成の存在が槙の気持ちを変えているのかもしれない。昔とそっくり同じとまでは言えなかったが、祐成の笑顔は懐かしい日々を彷彿とさせて槙の心を明るく照らした。
「約束はそういう相手とじゃないよ。もしそういう相手ができたら一宮くんにはちゃんと報告するから」
 からかうような槙の台詞に一宮はにやっと笑みを浮かべた。
「それは当然ですよね」
「当然かなあ」
「俺と槙さんの仲ですもん、当然です」
 すまして断言してみせる一宮に、槙は顔を伏せて肩を震わせた。
「そっか、当然か。当然だよな」
「笑ってもいいですけど、今度、槙さんが俺に隠し事したら絶交ですから。これは本気」
 冗談のように軽く付け加えられた言葉に目を上げると、一宮は笑みを湛えたままでまっすぐに槙を見返した。臆することなくそんなふうに口にできる一宮が、槙には眩しく思えた。一宮は自分の好意を隠さず、相手の気持ちを疑わない。
 槙が離婚していることを知った時、一宮はそれを槙の口から直接聞きたかったと言ったのだ。
 一宮の態度がおかしいと感じた日、槙は所長に呼ばれた。その朝、やってきた一宮は席に坐る前に、向かいの机にいた槙をじっと眺めていた。そのうえで視線に気づいた槙が「おはよう」と声をかけると、ぷいっと顔を背けて仕事の準備を始めた。
「槙くん、ごめんなさい。あなたの離婚のこと、うっかり一宮くんにしゃべってしまったわ」
 槙を誘い出した所長は、ビルの喫煙コーナーで自販機のコーヒーを勧めながら、困ったような顔で謝ってきた。最初は派遣で来ていた一宮が、所長に請われ正社員になってからちょうど一年が経とうとしていた頃だった。
「一宮くんにね、ちょっと……紹介したいお嬢さんがいて、そしたら彼が自分より槙くんはどうかって言い出したの。それで話がそっちにいっちゃたのよね」
「はあ」
 一宮は自分より年上の槙が独身であることに気を使ったのだろうか。小さな事務所で、女性所長と、その夫である専務の下に、正社員は槙と一宮を含めて四人しかいなかった。後の二人は子供もいる既婚者だ。
「前に一宮くんが失恋したって聞いてたからいい話かなと思ったのよ。槙くんの話になるなんて少しも考えてなくて。その気がないならいいってごまかそうとはしたんだけど」
 恐縮してみせる所長に、槙は笑った。
「いいですよ。俺は別に離婚したことを秘密にしてるわけじゃないので」
「でも、一宮くんはショックだったみたい」
 槙はその日の終業後、一宮を飲みに誘った。むすっとした顔で頷いた一宮は、二人で行きつけるようになっていた居酒屋に腰を落ち着けると、槙が水を向けるより早くかみついてきた。
「槙さんが俺に言ってくれなかったのがショックでした。俺が思っていたより槙さんは俺を信用してくれてないんだなって」
 仕事においてはどんな時にも冷静な対応のできる男として評価されている一宮だったが、プライベートな部分では子供っぽい感情を隠しもしなかった。それが逆に事務所内の、特に女性たちから好感を得ており、槙自身も嘘のない一宮を好ましく感じていた。
「そういうわけじゃないよ。ただ話すきっかけがなかったから。わざわざ言い触らしたくなるような話でもないしね」
「事務のパートさんだってみんな知ってるんでしょ。事務所で知らなかったのは俺だけ」
「彼女たちは長いから。俺が結婚してた頃からいたんだから知ってて当たり前なんだよ」
 なだめにかかった槙に、一宮は恨みがましい目を向けた。
「俺は、俺が一番槙さんと親しいって自負してたから、本当にショックでしたよ。俺が失恋した時だって槙さん、一緒に飲んでくれたじゃないですか」
 一宮はその当時長く同棲していた年上の女性に振られたばかりだった。彼女は結婚を意識していたが、一宮はそれに気づけなかったのだ。一度ずれてしまった気持ちは元に戻らず彼女は一宮の部屋を出て行った。酔った一宮は槙の前で泣いた。あの時、槙は一宮に離婚していることを告げるべきだったのだろうか。
「俺、あの時すごいみっともないとこ見せたけど、相手が槙さんだからこそですよ。槙さんが失恋したら今度は俺が付き合うって、俺は本気で言ったのに」
「ごめん」
 槙は美帆子との別れに涙を流したりはしなかった。もしも誰かと飲んで醜態を晒していたら、今のようにいつまでも引きずるようなことにはならなかったのかもしれない。誰か──普通に考えれば、その相手は半村のはずだった。
「子供っぽいこと言ってるって自覚してます。でも俺は今の職場が好きだし、槙さんとだって単なる仕事だけの付き合いと思ってませんから」
 一宮はしがみつくように槙のシャツの袖をつかんで揺さぶった。酔いの回った一宮の目はうるんで赤くなっていた。素直で衒いのない一宮を槙はうらやましいと思った。
 もしも一宮のようになれたら、槙は半村に訊くことができるのだろうか。子供のように無邪気に接してくる一宮の態度に、槙は仲がぎこちなくなっている友人のことを考えずにはいられなかった。
 半村とは誰よりも長い付き合いだった。槙が美帆子と知り合ったのも半村を通してだ。知り合った頃の半村は、一宮と同じように屈託のない印象を持っていた。大学の同級生だった半村は、入学当初からまるで十年来の親友のように槙に近づいてきた。槙は初めての土地で慣れない一人暮らしを始めたばかりで、人恋しい気分に襲われていたから半村の人懐こさにずいぶん救われたものだった。
 大学時代には槙の親友は半村だと誰もが認めていた。けれどいつ頃からか槙は半村に距離を置かれているように感じていた。槙には半村の気持ちがわからず、一宮のように率直に半村に訊ねることにもためらいを覚えていた。卒業後も途切れずに続いている長い付き合いは、先輩の保科がいてこそのもので、今では保科から声がかからなければ、槙と半村は連絡を取り合うことさえしていないのだ。半村の気持ちを確かめることもできない自分は、はたして半村と本当に仲が良かったのだろうか。槙にはそれすら確信が持てなくなっていた。



 汐見の映画が完成したのは、撮影キャンプの翌年の梅雨に入る頃だった。キャンプの数ヶ月後には秋の学園祭があり、上映を期待して祐成や喬市がやって来て「まだできないの」と驚いてみせた。槙と顔を合わせた祐成は初め喬市の陰に隠れるようにして「こんにちは」と小さな声で言った。はにかむ様子がおかしくて軽く噴き出した槙に祐成は「どうして笑うの」と頬を膨らませた。
「妙におとなしくしてるから。あんまり似合ってないよ」
 槙がからかうと祐成は顔を赤くして「なんでだよー」としがみついてきた。その全身が日向の匂いを発しているようで、槙は幼い頃を思い出すような懐かしさを覚えた。
 映画が完成してからも、夏休みになると槙たちは保科の提案でキャンプに行き、祐成や喬市に会った。夏のキャンプの日は約束されたように毎年よく晴れた。
 小学生だった祐成は小学生だった祐成は翌年には中学生になり年毎に成長していったが、初日に顔を合わせる時はいつも微かなはにかみをみせた。
 祐成の存在は槙にとって、あの明るい日々の象徴だった。美帆子も半村も変わってしまった。そうして彼らを変えたのが自分かもしれないと思う時、槙は思い出の中の祐成の笑顔にすがった。まっすぐに向けられた屈託のない笑顔を思い出しては自分の慰めにしていた。結婚後に槙と美帆子との仲がこじれてから、二人の間でつらそうな表情を浮かべていた祐成の姿は、なるべく意識に乗せないようにした。

 結局のところ槙が制作に関わった唯一の作品となった映画は、完成するまでに長い時間がかかり、汐見は秋の試験休みなどにも祐成を撮りに美帆子の実家に行っていた。
 ようやく完成した映画を見せられた槙たちは、映画の中の美帆子の痛々しい姿に息を飲んだ。
 美帆子の明るい顔は、ほんのわずか、槙と美帆子が惹かれ合う最初のシーンだけだった。それは夏のキャンプの二日目に撮影されたものだ。一度仕舞ったテントを、槙たちはカメラの前で組み立てた。互いの視線の先にいる槙と美帆子が、相手の視線に気づいてほんの一瞬見つめ合った後でそれぞれに視線をそらす。そんなことが何度もくり返された。うつむいた美帆子の口元に浮かんだ小さな笑み。それはカメラを向けられたことに対する照れだったはずだが、汐見は確かに恋の始まりにいる幸せそうな女の子を作り出していた。
 やがて映画は槙と美帆子の諍いの場面に移る。その場面は美帆子のアパートを舞台にしていたが、実際には汐見は、槙と美帆子とを別々に撮っていた。
 槙が汐見に連れられて美帆子のアパートに行った時、美帆子は不在だった。事前に美帆子との間にそういう約束があったのか、汐見は当然の顔で合鍵を使って部屋に入った。槙が一人暮らしの女の子の部屋に入るのはその時が初めてだった。六畳間の手前に形ばかりのキッチンのある、ありふれたワンルームで、黄色を基調にしたインテリアが清潔な印象だった。汐見は槙を奥の六畳間に坐らせて、小さなガラステーブルを挟んだ向かい側にビデオ機材をセットした。何の指示も与えずに録画を始めた汐見に、槙は戸惑った。
「あの、汐見さん。俺は何をすればいいんでしょうか」
「何もしなくていい。とりあえずこっちに顔を向けて」
 正面から自分に向けられた無機質なレンズにうろたえて、槙は視線をそらした。淡い黄色のベッドカバーが目に入って、その下からパジャマらしきものの袖が覗いているのを見つけて、少しあせった。
「でも、あの」
「別にいいよ。自由に、槙の好きなように動いて。ちゃんと坐ってる必要もない」
「え」
「どうぞ。立って歩き回れば?」
 汐見に促されてぎこちなく立ち上がったものの、どう動けばいいかわからずに再び槙はその場に腰を下ろした。至近距離のカメラに落ち着かなく目を泳がせていた槙は、やがて汐見の忍び笑いに気づいた。汐見はクスクスとおかしそうな笑い声を漏らしていた。
「何がおかしいんですか?」
 いくぶんむっとして訊ねた槙を汐見は「別に」と軽くいなした。そのくせ汐見の笑いはだんだん無遠慮になっていき、ビデオを立てた三脚の向こうでクックと喉を鳴らしていた。初めは汐見の態度に困惑しているだけだった槙だが、いつまでも笑い続けている汐見にだんだん腹が立ってきた。
「俺、こんなんじゃどうしていいかわかりません」
 さすがに苛立って抗議すると、汐見はカメラを構えたまま一転して真面目な声を返した。
「いいんだよ」
 槙はその静かな声が意外でぽかんと呆けた顔になった。
「あの……」
「俺が槙を撮るの。おまえは何も考える必要ないんだ」
 そんな調子のまま、汐見は執拗に槙にカメラを向け続けた。汐見がようやく終わりだと告げた時、槙は本当に疲れ切っていた。普段でも、汐見の行動は槙の理解を超えたところにあり、同じサークル仲間ではあるけれど半村や保科とはちがって汐見は、槙にとって二人でいるのに緊張を要する相手だった。
 槙の映像と美帆子の映像とをあたかも互いの視線の先にいるように編集して汐見は一つのシーンに仕立てていた。
 美帆子はあられもない下着姿だった。ビデオの映像は、部屋の蛍光灯だけで十分に美帆子の表情を映し出していた。蛍光灯の明かりの下、初めは冗談をたしなめるような半端な笑みを浮かべていた美帆子の表情は徐々に変わっていった。そうしてカメラを避けるような仕種を続けていた美帆子は、ふいに正面から挑むような目を向けた。怒りに震える唇で叫び、罵る。だがその声は聴こえず、BGMとして流れているのは軽やかなピアノの旋律。美帆子の目は涙を湛えて赤く染まり、整った顔は歪んでいた。
 槙には、美帆子の行動が演技とは思えなかった。
 至近距離でカメラを向けられて反応に困り視線をそらし続ける槙と、泣き叫ぶ美帆子とが交互に映し出されれば、それは確かに恋人たちの破局に見えた。
 汐見がどんなふうにして美帆子の反応を誘い出したかを想像して、槙は汐見の残酷さに気づいた。そしてその残酷さは、映画の中で槙のものだった。祐成に優しい視線を向ける槙は、一方で美帆子を手ひどく傷つけていた。そのどちらの場面においても、汐見は最初に請け負った通り、槙を美しく撮っていた。美しくて残酷な男。映画で演じたのは槙だが、それは撮った汐見自身の投影だった。

 槙たちが大学四年になった年、汐見は映画の勉強のためにアメリカに行くことになり、美帆子と別れた。それは汐見からの一方的な宣告だった。
 汐見や保科の卒業した年にも、槙たちは同じメンバーでキャンプに行った。三年続いた夏のキャンプは、槙たちが四年になった年に唐突に終わりを告げた。
「遼平は、アメリカに行って本気で映画をやりたいんだって」
 汐見と美帆子が別れたという話を、槙は最初に誰に聞いたのか覚えていない。おそらく半村からだったろうと思っている。落ち込んでいる美帆子を慰めようと、槙と半村は美帆子を飲みに連れ出した。
 事情を訊ねた槙たちに、美帆子は「私が振られただけ。しかたないの」と泣きそうな目で笑った。それは槙が初めて見る、美帆子の弱々しい姿だった。卒業後もアルバイトをしながら映画制作の道を目指していた汐見に、アメリカ留学の話が来たという。
「私が……いるだけで迷惑なんだって。日本で待っていられても困る、そういうのは負担になるから……だからきちんと清算して行きたいって、そう言われたの」
「そんな」
 半村が驚きで目を見張り、声を荒げた。
「そんな勝手な話があるかよ」
 美帆子は溢れる涙をこぼすまいとするようにわずかに上向き加減になっていて、槙たちと視線を合わせなかった。
「汐見さんがそんな勝手な人だったなんて」
「そういう人だもの、もともと遼平は。それで私は、そういう遼平が好きだったのよ」
 言い募る半村に、美帆子はぎこちない笑顔で答えた。
「だからしょうがないじゃない」
 その時、槙は自分の中の美帆子への想いに気づかされた。槙は美帆子のそんな姿を見たくなかった。美帆子には明るい日の中で笑っていてほしい。美帆子には傷ついた姿など似合わないと思った。
 槙には美帆子を慰める言葉が思いつかなかった。大学に入学したばかりの頃、いつ見かけても独りでいた美帆子。それまで槙の周りにいた女の子たちとはどこか異質で、孤高の雰囲気をまとっていた美帆子が、汐見の前で見せる笑顔を、槙はまぶしく見ていた。
 目の前で涙をこらえる美帆子の表情は槙を落ち着かない気分にさせた。映画のように泣き叫ぶ美帆子など現実には見たくなかった。初めて自分の想いを自覚した槙は、今までのように美帆子に友だちとしての言葉をかけることができなくなっていた。
 半村も槙も美帆子をうまく慰められないまま、やがて半村のバイトの時間が近づいてしまった。居酒屋を出て、三人で半村がバイトしているコンビニまで歩いて行った。コンビニの裏にある駐車場に着くと半村は「じゃあ」と一度は手を上げかけたのだが、そのまま三人は店の通用口の前に足を止めた。言葉もなく立ち尽くす三人の間を時折吹き抜けていく春先の夜風が冷たくて、槙は夏の遠さを感じていた。コンビニから漏れる明かりは、裏口のほうには届かず、ドアの上に取り付けられた古ぼけた蛍光灯が頼りなく三人を照らしていた。手に抱えた上着をはおらずシャツ一枚のまま寒そうに腕をさすっていた半村は少し経って携帯を取り出して時刻を確認した。
「本当に俺、時間きちゃったから」
 呟いて顔をあげた半村は、明るく作った声で「美帆子、元気出せよ」と軽く美帆子の肩を叩いた。美帆子はそんな半村に曖昧な笑みを返すのが精一杯のようだった。槙は息苦しくなって小さくため息をついた。空を見上げても花曇りなのか、星ひとつ見えなかった。
 美帆子を送って行くことになった槙が、しばらく歩いてから何気なく振り返ると、半村はまだコンビニの裏口に立ったままで二人を見送っていた。風に乗ってきたらしい白い花びらが槙の腕をかすめて流れ去った。
 美帆子のアパートは映画を撮った時のままだった。あの時汐見が無造作に開けたドアの前で、槙は美帆子に言った。
「俺じゃ変わりにはなれないかな」
 美帆子は黙ってうつむいていた。
「俺は、美帆ちゃんのそんな姿を見たくない。美帆ちゃんにはいつも笑っていてほしいんだ」
 美帆子に今までと変わらずにいてほしかった。そして美帆子だけでなく自分たちも変わらずにいたかった。かけがえのない大切な時間を壊したくなかった。いずれ夏が来る。槙は、夏が来たら汐見がいなくてもキャンプに行こうと決意していた。あの川のほとり、夏の光の下で笑い合いさえすればきっと何も変わらないはずだ。
 その夜、槙は美帆子の部屋に泊った。抱きしめると美帆子の腕はしがみつくように槙の身体に回された。
「私、槙くんには嫌われてると思ってた」
 翌朝、槙の腕の中で背を向けたまま、美帆子はそんなことを言い出した。東にある窓から差し込む陽射しのせいか、まだ朝の早い時刻にもかかわらず部屋の中はすでに暖かくなっていた。槙は昨夜の気分とはうって変わって夏が近づいているのだと期待し始めていた。
「どうして」
 映画を撮り終えた後すぐに切ってから、ずっとショートカットにしている美帆子の襟足を、槙が後ろから指で軽く梳き上げると、美帆子は仰向けになり槙のほうに頭を傾けた。
「どうしてかな。嫌われてるって言ったら少しちがう気もするんだけど、でも槙くんのことちょっとだけ苦手だった」
 その告白は、槙には美帆子が自分に心を許してくれた証に思えた。槙は美帆子の頭を撫でて、細い肩を抱き寄せた。
「大切にする。俺は絶対に美帆子を泣かしたりしないから」



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