いつか晴れた日に-4-



「それじゃ、私はお先に。ここの支払いは済ませていくから、後は自分たちでね」
 いつものように二人で残業しているところにタイミングよく出張から戻ってきた所長に誘われて、槙と一宮は、新しく開店したばかりの日本料理の店に行った。落ち着いた雰囲気の静かな店で、店内のインテリアは和風で統一されていたが、料理は和洋折衷の創作料理が多く、日本酒と同程度にワインのリストも揃っていた。
 デザートのシャーベットを食べ終えたところで所長は槙たちを残して「お先に」と席を立った。
「どうもごちそうさまでした」
 立ち上がって所長を見送り、テーブルに戻ったとたん、一宮は槙のほうに顔を寄せてきた。
「ね、槙さん。これからカラオケに行きませんか」
「二人で?」
 グラスに残っていたワインに口をつけながら槙が聞き返すと一宮はわずかに唇を尖らせて見せた。
「俺と一緒じゃ不満ですか」
「男二人でカラオケはな」
 そんな年齢ではないと苦笑する。
「いいんですよ。女の子は現地調達。ね」
 白ワインのフルボトルを三人で二本頼み、所長に勧められるまま杯を重ねた一宮は、すっかり酔っているようだった。しなだれかかるように槙の肩を抱き「ね?」と横から顔を覗き込んでくる。その子供っぽい口調に槙は「バーカ」と笑いを返した。


「ゆどん、はふつ、うぉーり、うぉーり、まもおってあげーたいー。俺ね、槙さん見てるとユーミン思い出すんです。槙さん『守ってあげたい』って、女の子に言われたことあるでしょ?」
 店を出て特に宛てもないまま比較的賑やかな方向へと足を向けると、酔っ払いの一宮は、歩きながら槙にしがみついて大声を張り上げ、槙を苦笑させた。「ちゃんと歩けよ」と脇から腰を支える槙に逆らうように、一宮は身体を大きくのけぞらせる。
「笑って誤魔化そうとしたってダメですよー。ぜーったい、あるはずだ。ゆどん、はふつ、うぉーり、うぉーり、まもおってあげーたいー。槙さんて、そんな感じだもん」
 往来で調子外れな歌声を響かせているから、通りすがりに振り返る人間もいて、しがみついてくる一宮の腕の陰で、槙は小さくため息をついた。
 槙は女の子に守られたいなどと思ったことはない。自分こそが、好きな相手を守る人間でありたかった。けれど槙が守りたいと思った人は、槙の手を必要とはしてくれなかった。美帆子を守るために伸ばした槙の腕は、彼女を拘束する役目しか果たさなかったのかもしれない。槙が、離婚したいと言い出した美帆子に「なぜ?」と訊いた時、美帆子は笑った。
──わからないでしょう? 脩司にはわからないの。だから、別れるんじゃない
 銀行前の比較的大きなバス停に差し掛かった時にちょうどバスがやって来て、降りてくる数人の乗客に進行をさえぎられ、槙はよろめく一宮を押さえて足を止めた。
「あ」
 バスから降りてきた乗客の中に馴染みのある横顔を見つけて思わず声をあげると、ちらりと槙の方を振り向いたその男は、目を丸くして足を止めた。祐成だった。そういえば銀行の裏手を入ってしばらく行ったところが祐成のアパートだと気づく。
「すごい偶然だな」
 笑いかける槙に、祐成はとっさに言葉が出ないようだった。視線が槙とその腕に抱えられた一宮とを往復する。夜になって強くなった風が通りに沿って植えられたプラタナスの葉を鳴らしていった。
「お知り合いですか?」
 槙にしがみついていた腕をわずかに緩めて身体を起こした一宮が訊ねる。
「あ、うん。弟」
「へー、槙さんて弟さんがいたんですか」
 一宮は無邪気な声を上げた。
「じゃあ弟さんもご一緒にカラオケに行きましょうよ」
 にこにこと人懐こく笑いかける一宮を、祐成がどこかこわばった表情で見つめていた。
 結局カラオケには行かずに目についた小さな居酒屋に三人で入った。祐成は泊りがけの出張から戻ったところだと言った。
「弟さんと槙さん、あまり似てませんね。弟さんってちょっと外国人っぽいような雰囲気ありません?」
 カウンターに半身を乗り出すようにして祐成と槙の顔を交互に覗き込む一宮の言葉に、槙をはさんだ反対側で、祐成が困ったような笑みを作った。
「うん、弟っていうか、その、前の妻の弟で…」
「清水祐成といいます」
 口ごもる槙の後から、祐成が一宮に軽く頭を下げて小さな声で挨拶した。
「あ。ああ、そうなんですか」
 一宮はいぶかしげに首を傾げた後で、気を取り直すように頷いた。
「清水さんも羽富市に住んでるんですね」
「最近引っ越してきたんだ。祐成の会社は、青山さんとことお付き合いしてるって。な?」
 同業者の名前を挙げて祐成を振り返った槙の隣で、一宮が声を上げる。
「青山さんかー。あの人強烈ですよね、清水さんは会ったことあります?」
「ええ、何度か」
 祐成は口数少なく頷いた。
「青山さんて、槙さんに会うたびに年齢の話をしますよね。あの人の中じゃ槙さんはずっと二十六歳から歳取ってないんですよ。この間なんて、槙さんが俺より年下だっけとか言って混乱してましたもん」
「俺と青山さんが初めて会ったのがそのくらいだったからだろう。青山さんこそ年齢不詳だよな」
「人の年齢は訊くくせに、絶対自分の年齢は言いませんよね。時々、俺たちとそうちがわないんじゃないかなって感じるんだけど、実はかなりいってるらしいですよ。うちの所長より上だって言うし」
 テンション高くしゃべり続ける一宮とは対照的に祐成は黙って飲んでいた。
「そういえば清水さんはおいくつなんですか?」
「今度、二十五になります」
 短く返した祐成の返事に一宮は「ええっ」と大げさに驚いてみせた。
「俺より下なんですか。へー、なんか落ち着いてるように見えますね」
「一宮くんは基準にならないだろう? いまだに学生アルバイトと思っているお客さんもいるんじゃないか」
 槙のからかいに、一宮は唇を尖らせた。
「そんな人はさすがにいませんてば。あんまり言わないでくれます? 俺、自分が童顔なのを一応気にしてるんですから」
 槙は祐成のほうを向いて説明した。
「一宮くんはウチの職場のアイドルなんだよ。みんなに『可愛い』って言われてるんだ。えっと、もう二十七歳になったんだっけ?」
「そうですよ。七になっちゃいました。槙さんは俺に誕生日プレゼントくれませんでしたね」
 一宮の拗ねた口調がおかしくて、槙はアハハと笑い声をたてた。
 祐成の前に何度目かの新しいジョッキが置かれ、槙は祐成が静かに杯を重ねていることに気づいた。
「どうかした?」
 首を傾けて訊ねると、祐成は小さく「え?」と呟いて槙を見た。
「今日、何か嫌なことでもあった?」
 いつもより飲むペースが速いし、口数が少ないことが気にかかった。出張の帰りで疲れているのだろうか。祐成は視線を手元のジョッキに向けてゆるく首を振った。槙は祐成が昔いくぶん人見知りをする子供だったことを思い出した。槙にとっては気安い相手だったし人懐こいタイプだからうっかり失念してしまったが、初対面の祐成は一宮に気がおけるのかもしれない。
 槙に向けられた横顔の表情は硬くて、幼い祐成をからかったようには、気軽に言葉が出てこなかった。


 居酒屋にいたのは一時間に足らないくらいの間だったが、店を出る頃には回復したらしい一宮と対照的に、祐成の足がもつれていた。槙は一宮と別れて、祐成をアパートまで送っていくことにした。
「大丈夫ですか?」
 いくぶん気遣わしげに訊ねてくる一宮に、槙は笑って手を振った。
「こいつのアパート、すぐ近くだから」
 一宮のように奇声を上げることもなく、祐成は黙って俯いたまま、槙に支えられて歩いた。部屋の前まで送り、ドアにすがりつくような恰好で開錠に手間取っている祐成を見かねて、その手から鍵を受け取って槙が開けた。
 よろめきながら部屋に入るなり祐成はトイレにこもってしまい、槙は暑くて脱いだ上着を手にしたまま、所在なく立ち尽くしていた。ここまで酔った祐成を見るのは初めてだった。ドアの向こうで水音が途切れなく響く。
「今日は悪かったな」
 槙は閉ざされたドア越しに声を張り上げた。
「疲れてたんだろ? 祐成は昔からちょっと人見知りしてたのに、俺たちに付き合わせて悪かった」
 はっきりした理由などないのに、なぜか感じ始めていた気まずさを振り払うように、ことさらに明るい声を作った。
 しばらくして出てきた祐成が洗面所で顔を洗う気配に、槙はキッチンの椅子に上着を置いて、グラスに水を満たして祐成の元に運んだ。
 タオルで口元を押さえてぼんやりとしている祐成にグラスを差し出すと、祐成は黙って受け取り一気にあおった。空になったグラスを力なく洗濯機の上に置いた祐成の顔を槙は「大丈夫か?」と横から覗き込んだ。
「槙さん」
 槙を見返したその目は泣き出す寸前に見えた。「どうした?」と問う隙もなかった。
 ふいに槙は視界が暗くなるのを感じた。槙の唇に祐成が自分の唇を押し当てていた。強い力で首の後ろを押さえつけられる。口の中に差し込まれた舌が信じられなくて、槙はとっさに動けなかった。祐成の行動の意味がわからない。
 一度腕の力を緩めた後で最後に強く抱きしめ、祐成は槙を解放した。呆然と目を見開く槙と視線が絡まると、祐成は喉の奥から「ふ」とため息めいた音を漏らし、泣き笑いのような曖昧な表情で何も言わずに背を向け、洗面所を出て部屋のほうに行った。
「祐成」
 槙は混乱したままその後を追った。部屋の入り口でこちらに向けられた祐成の背に声をかけると、振り向いた祐成は、ラッピングされた小さな箱のようなものを手にしていて、それを槙の方に差し出した。
「プレゼント」
 理解できずに祐成を見上げる槙の手を取って、その包みを押し付けようとする。
「槙さん、誕生日だったでしょ。俺、あの日プレゼント持って行ったんですよ。渡すチャンスなかったけど」
 槙は渡されたプレゼントの包みに目を落とした。祐成が突然槙のアパートを訪ねて来た日は、確かに槙の誕生日だった。
「ずっとそうだった。初めて会った年にさ、俺、槙さんへの誕生日プレゼント買ったんだよ。それを口実にして会いに行くつもりだった。バカみてえ、俺。そんな勇気なんかないくせに」
 自嘲した祐成は、酔って焦点の合わない目で槙を見つめた。
「俺ね、槙さんが好きだった。ずっと。わかんないよね、そういうの」
 どこか舌足らずに響く幼い口調で呟く。
「祐成」
「名前呼ぶのやめてよ。混乱するから」
 祐成は槙の口をふさぐように再び唇を押しつけた。槙の手の中で二人の間に挟まれたプレゼントにつけられた飾りがかすかな音を立てた。
「俺、槙さんに名前呼ばれると泣きたくなる」
 そう言いながら、祐成は槙への口付けを深めていった。そのまま自分の身体の下に抱き込むようにして、槙を床に横たえる。毛足の長いラグが、重なった二人の身体を柔らかく受け止めた。槙は、唐突に変貌を遂げた祐成を呆然と見上げた。
「祐成」
 名前を呼ぶなと言われても槙には他に言葉が浮かばない。祐成の行動も台詞もまるで現実感がなかった。おかしな夢を見ている、と槙は思った。気づかないうちに自分も飲みすぎてしまったような気がした。現実と夢の狭間で、シュールな世界に落ち込んだようだった。どうすれば正常な世界に戻れるのか、槙にはわからなかった。
「俺は、槙さんのことを考えるといつも苦しかった」
 口付けとともに吹き込まれる祐成の囁き。
「理由もなく涙が出てくるような、でも泣けないような、苦しくって、それでも考えずにいられないんだ。あなたに会いたいっていつも思ってた。槙さんが笑ってくれればそれだけで嬉しかった。だけど中毒みたいで、会えば会うだけ、もっと一緒にいたくなって」
 身体に回された祐成の腕は、自分を抱きしめているのか、しがみついているのか、槙には判断がつかない。「苦しい」という祐成の声だけが槙の胸に届いていた。太腿の辺りに押し当てられた熱が悲しかった。
 服を剥ぎ取られ乱暴に身体を開かれる。しがみつく祐成を払いのけることもできず自らの意志で動くことをためらううちに、信じ難い体勢をとらされ、槙は自分が何かの儀式の生贄の役を演じているような気持ちがした。
 祐成が苦しんでいるのなら、ただ彼を救いたいと思った。耳元で途切れなく続く祐成の嗚咽が、槙の胸をきしませる。声にはできずに心の中で、泣くなよと何度もくり返した。
 身体を貫く痛みに意識を混乱させたまま、槙はその苦痛に耐えることが祐成を救うのだと錯覚していた。


 槙が初めて祐成の涙を見たのは、美帆子がまだ汐見と付き合っていた頃のことだった。
 往年の女優原節子に似ていると槙が言った、美帆子や祐成の祖母が亡くなったのは、祐成が中学生の時だった。夏の終わりに体調を崩して入院したという話が出て、そのまま秋の深まる頃に亡くなってしまった。
 祐成が槙を訪ねて来たのは、葬儀から十日ほど経った頃だった。アルバイトを終えて帰宅すると、部屋の前で祐成が学校の制服姿のまま待っていた。突然のことに槙は驚いたが、祐成の沈んだ様子を見て何も言わずに部屋に招き入れた。
 一週間ほど前に、葬儀を終えて帰省から戻ってきたばかりの美帆子に会った時、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
──あんまりあっけなくて実感がないの
 半村から慰めの言葉をかけられた美帆子は、そんなふうに言いながらも目を潤ませていた。
──祐成くんたちも悲しかっただろうね
 槙の言葉に、美帆子は軽く首を傾げた。
──そう、ね。祐成も……祐成はおばあちゃん子だったから、きっとショックだったと思うわ。入院して、そんなに経たないうちでしょう。突然のことでみんな驚いてて
 まだ動転から回復していないらしい美帆子に、槙はそれ以上祐成について訊ねなかった。ただ美帆子がこれだけ悲しんでいるということは、祖母の死は、まだ中学生の祐成にとってはかなりの打撃だっただろうと想像していた。
「ここに来ること、誰かに言って来た?」
 訊ねると祐成は黙ってかぶりを振ったので、槙は美帆子のアパートに電話をかけた。
「お姉さんに、自分で話せる?」
 少し考えるように目を見張った祐成がやがてこくんと頷き、槙は祐成に受話器を渡してキッチンに入った。牛乳を沸かした鍋に紅茶のティーバッグを直接放り込んで、砂糖を入れる。自分用にはコーヒーを淹れて部屋に戻ると電話を終えていた祐成は、血の気のないぼんやりとした顔で槙を見上げて「ごめんなさい」と言った。
「突然来てごめんなさい」
「いいよ。どうしたの?」
 湯気をたてるミルクティーのカップを差し出す。渡す時に触れた祐成の手はひどく冷たかった。
「いつから待ってたの? ずいぶん寒かっただろ」
 中学校の授業終業時刻などすでに見当もつかなくなっていた槙だったが、制服姿の祐成はもしかしたら学校に行かずにここに来たのかもしれなかった。
 祐成はカップを両手で包み込んで俯いた。槙は祐成の気を引き立てるように声の調子を明るく変えた。
「ごはん食べてないんだろ。ラーメンくらいしかないけど、食べる?」
 祐成は下を向いたままかぶりを振った。
「おばあちゃんが」
 まだ幼さを残した唇から小さな呟きがこぼれて、槙は祐成の隣に腰を下ろした。
「おばあちゃんが死んだんだ」
「うん」
 槙は促すように頷いた。
「俺、全然泣けなくて。連絡が来て病院に行った時もお葬式の時も、全然悲しいとか感じなくて。嘘みたいだった。嘘みたいだとしか思えなかった」
 痩せた小さな肩が震えたように見えて、槙は祐成の背に手を回した。すっかり冷え切っている身体を暖めるように、その背を軽くさすった。とたんに祐成の目から涙が溢れて頬を伝った。彼の中でふいに何かのスイッチが入ったようだった。
「泣かなかったんだ、俺。全然」
 吐き出すように言ってぼろぼろと涙を頬に伝わせた祐成の手の中から、槙はまだ口をつけていなかったカップをそっと取り上げた。そのまま祐成は槙の上着をつかんで顔を押しつけるようにして泣き出した。
「美帆ちゃんも喬ちゃんも泣いてたのに、俺は全然……ほんとに少しも涙が出なくって……なんか、俺、すごく……おばあちゃんに悪い……ことしたみたいで……おばあちゃんが死んだのに、おばあちゃんのこと好きだったのに、俺、悲しんであげられなくって」
「ちがうよ」
 槙はカップをそばのテーブルに置くと、しゃくりあげる祐成を引き寄せた。胸に抱きとめた祐成の頭を優しく撫でて、言葉を紡いだ。
「祐成は、本当におばあちゃんのことが好きだったから、だからびっくりしちゃったんだろ」
 低い声で、言い聞かせるように確認する。
「信じたくなかったんだ。それは祐成が冷たいからじゃない。おばあちゃんがいなくなっちゃったことが祐成は本当に悲しくて信じられなかったんだよ」
 槙は自分の腕の中で声を立てて泣く祐成が愛しくて切なかった。
 おそらく周りの大人も自分たちの悲しみで手一杯で、祐成を気遣う余裕がなかったのだと思った。祖母の葬儀で、嘆き悲しむ人々の間で、呆然と立ち尽くす祐成が目に浮かぶようで、槙は息苦しくなった。その場にいなかった自分を残念に思う。そばについていてやりたかった。ちゃんと泣かせてやりたかった。
 夏の河原で、祖母を「可哀そうだよね」と言った祐成。大人びた口調で、でもその時の祐成はたった十二歳の小学生だった。年齢の割に大人っぽく、そのくせふいに見せるあどけなさがアンバランスな印象で、槙は祐成を守ってやりたいと思った。それは自分より年少の子供に対する当然の保護欲だと信じていた。


 まだ夜が明けきらない内に槙は目を覚ました。腕や背に強くつかまれた感覚が残っていたが、それが夢の中のなごりなのか現実か判断がつかない。槙が眠っている間におそらく祐成がタオルで拭き取ってくれたらしい裸の身体には毛布がかけられていた。のろのろと半身を起こすと目の中に溜まっていた涙がつと頬に零れた。それを手の甲で押さえた槙に、ためらうようなかすかな声がかけられた。
「槙さん」
 薄暗い部屋の中で、祐成は窓の近くの床に坐りこんでいた。祐成の着ている白っぽい服で位置を確認して、その顔は見ずに槙は目をそらした。
「……シャワー借りる」
 槙はそろそろと立ち上がり浴室に入った。祐成が使った後らしく、浴室には湿ったシャンプーの匂いが残っていた。明るい浴室に入りガラス扉を閉めると、涙が堰を切った。その理由もわからず嗚咽もなく、ただ涙だけが溢れる。


「おめでとう」
 槙と美帆子の結婚が決まった時、祐成は笑った。心から嬉しいという表情だったのに、その目からふいに涙がこぼれ落ちた。はらはらと音を立てるように、涙が頬を伝う。
「あれ?」
 祐成は指先で頬に触れ、戸惑うように槙を見上げた。
 槙と美帆子の結婚はすんなり決まったわけではない。二人ともまだ学生で、そして美帆子は妊娠していた。子供の父親が槙か汐見か、美帆子自身にも判断がつかなかった。「結婚しよう」と言ったのは槙だ。何の根拠もなく自分の子供だと確信していた。遺伝子学上の父親が誰かなど問題ではないと思った。美帆子の子供だから、自分の子供だ。それでいいと思った。
 結婚すると告げると、自分の家族にも、美帆子の家族にも激しい叱責を受けた。美帆子の父親にひどく罵られた夜、泣きそうな目で謝る美帆子に槙は笑ってみせた。
──俺は君を幸せにしたいんだ
 自分は間違ったのかもしれない。槙が初めてそう感じたのは、祐成に祝福された時だった。祐成の涙が槙の心のどこかを刺激して、落ち着かない気分にさせた。
 それでも、航太が生まれるまではそれなりに幸せな日々だったと思う。
 赤ん坊の航太は、美帆子によく似ていた。美帆子の母などは祐成の幼い頃にそっくりだと言った。航太の姿からは汐見と槙のどちらの面影も探せなかった。
 出産から二ヶ月ほどを実家で過ごし、羽富市に戻ってきた頃から美帆子の様子がおかしくなった。槙には意図のわからない質問をくり返し、そうして槙の答えは美帆子を満足させることができなかった。
 離婚の際、槙は航太の養育費の支払いと月一回の面会を美帆子に認めさせた。そうして面会には美帆子ではなく、高校生の祐成が立ち会った。最後の面会で遊園地に行った。メリーゴーラウンドに乗る航太を、並んで見守りながら、祐成は言った。
「姉さんが今度、再婚するんだ」
 離婚から三年が経っていた。四歳になった航太は象の上から槙と祐成に向けて得意げに手を振った。
「それで、もう航太には──槙さんに航太には会ってほしくないって。新しい人に慣れさせたいって」
 祐成が槙にその言葉を伝えるのに、どれだけの思いをしたか、槙には想像できる気がした。離婚の時にも祐成は美帆子を翻意させようと必死で努めてくれた。その祐成が、槙に航太を会わせたくないという美帆子の気持ちを伝えてきたことで、槙はそれを黙って受け入れるしかないと思った。


 槙が浴室を出ても、部屋に明かりは点されてはおらず暗いままだった。まだ日が昇る前で、ひんやりとした空気が槙の身体を包んだ。槙が目覚めた時と同じ姿で窓際に坐り込んでいる祐成から少し離れた部屋の中央に痛む身体をかばいながらゆっくりと腰を下ろすと、祐成は俯いたまま「ごめん」と呟いた。
「俺はずっと槙さんが好きだった。あなたに幸せになってほしかった」
 祐成の告白に、槙は声には出さず「知っている」と胸の内で呟いた。祐成はいつでも無条件に槙の味方になってくれていた。祐成の信頼が槙をどれだけ支えてくれたことだろう。
「俺はずっと──俺が美帆ちゃんの代わりになれたらって思ってた」
 祐成は自分の身体を抱えていた腕にぎゅっと強い力をこめた。
「そんなの嘘だったんだ。俺は、本当はずっと槙さんを抱きたかったんだ。それに気づいたから、俺、槙さんと会わないようにしようって──会っちゃダメだって、わかっていたのに」
 祐成は震える声で何度も「ごめん」とくり返した。その消え入りそうな語尾を聞いているうちに槙は覚悟を決めた。
「バァッカ」
 槙は言った。わずかに上ずった声をごまかすように軽く咳払いして、祐成のほうに身体を近づけた。
「何、深刻な言い方してんだよ」
 手を伸ばして、祐成の腕を叩く。それが適切な強さだったか、少し不安になったが、槙は振り切るように笑ってみせた。
「事故みたいなものだろ。いや、本当に事故だ。二人とも酔ってたんだから、気にするな」
「槙さん」
 槙は婚約者について語った祐成を思い出していた。あの時の祐成の様子に嘘はなかった。今、祐成は混乱しているだけだ。祐成は優しいから全部を自分で背負い込もうとしてバランスを崩した。槙への同情を処理しきれないのだ。
「俺は──うん、俺は男だし──祐成は何も気にしなくていい。飲み過ぎたせいの、ただの事故なんだから」
 槙は、自分が祐成を傷つけたのだと悟っていた。自分の存在が祐成に負わせたものの重さをはっきりと自覚する。祐成に「幸せになってほしい」と言わせてしまう自分を、槙はひどく情けないと思った。仲の良い姉弟の間だって槙が美帆子と結婚し離婚することでどれだけ歪んだかしれない。槙は祐成が幼い頃から彼に負担を強いてきたのだ。かつて無邪気な笑顔を見せていた祐成に、こんな表情をさせたのは自分だ。
 強くなりたいと切実に願った。
 強くなれないなら、せめて強いふりをしたかった。もう祐成の前に弱さを晒すのはやめよう。彼を傷つけたくない。槙はそう心に誓っていた。



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