いつか晴れた日に-5-



 その呼び出しは突然だった。そろそろ就寝しようという頃、鳴り出した携帯を手に取ると画面には保科の名前が表示されていた。こんな時間に何の用かといぶかしく感じながら携帯に出た槙が声を発するより早く、相手は立て続けに彼の名をくり返し呼んだ。
─槙。槙、槙
 酔い混じりの甘ったるい調子で槙の名を連呼する声は保科のものではなく、それでも槙には聞き覚えがあった。
「…汐見さんですか」
 確認した槙の耳に笑い声が響く。
─おっまえ、エライ。俺の声を覚えてたか
 十年前に汐見がアメリカに渡って以来、槙が汐見と直接言葉を交わすのは初めてだった。
「どうしたんです」
─今から出て来いよ。保科がどうしてもおまえに会いたいって
 はしゃいでいる汐見の向こうで「よせ」と遮る保科の声がかすかに聞こえた。どうやら二人で飲んでいるらしい。保科は槙と会う時には汐見の話題をほとんど出さなかったが、やはり二人は連絡を取っていたようだ。槙が美帆子と結婚し、そして離婚したことを、汐見は知っているのだろうか。
─今なあ、クォ・ヴァディスにいるんだよ。おまえも来い
 汐見は、学生時代によく行っていたカフェ&バーの名前を告げた。


 クォ・ヴァディスは槙たちが通っていた当時と少しも変わっていないように見えた。コンパの後など、午前を回った三次会には必ずと言っていいほどこの店にやってきた。まるで倉庫のようなそっけないグレーのスティール製のドアの重みも、レジの近くでかすかに香る麝香の匂いも、記憶の中のものと同じだった。槙が店の中に入っていくと、すぐに奥のテーブルから保科が立ち上がって近づいてきた。
「わざわざ呼び出して悪かったな。俺たちももう帰るつもりだから」
 囁くような低い声で謝ってきた保科に、槙は笑みを浮かべてかぶりを振った。
「大丈夫です。俺、車で来たから送ります」
「槙だ! 何やってんだよ、早くこっちに来い」
 槙の言葉を遮るように奥のテーブルで汐見が声を張り上げて手招きした。その子供っぽい口調が、音量を絞られたジャズが流れている静かな店内の空気を乱す。壁にかかった大きなスクリーンに投影されている映像の印象も、槙の記憶と大差なかった。
 保科は肩越しに汐見をちらっと振り返り、もう一度謝った。
「本当に悪い。汐見はどうやら今スランプに陥ってるらしいんだ。撮ってる映画がうまくいってないみたいで。槙にもイヤなことを言うかもしれないが、我慢してやってくれ」
「まーき。まきちゃん。せっかく来たのになんで保科と内緒話してんの。保科、早くこっちに槙を連れて来いったら!」
 奥に坐ったまま騒ぎ立てる汐見に、保科はかすかに顔をしかめて槙を促してテーブルに戻った。
「お久しぶりです」
 頭を下げた槙に、汐見は無邪気に見える笑顔を向けた。
「槙、何を飲む?」
「俺は車ですから、ウーロン茶で」
「つっまんないこと、言うんじゃねーよ。なんだっけ? 槙の好きなの。ソルティドック?」
 久しぶりに会った汐見は学生時代のまま時間を止めてしまったのかと疑うくらいで、とても三十歳を超えているようには見えなかった。
「今日は本当にいいです。俺、送りますから」
「ほら、汐見。槙が送ってくれるって言うからもう帰ろう」
 促す保科に肘をつかまれて、汐見はそれを振り払い、その勢いのまま坐っていたソファの背にドサッと上半身を預けた。
「槙ちゃんは本当にイイコだねえ」
 額にかかった前髪を払って、汐見は奇妙な猫なで声を出した。
「半村も呼んだのにさー、あいつ来ないつもりなんだ。槙はちゃーんと来たのにな」
 そんなことを言いながらソファの背に凭れたまま槙の顔をしげしげと眺める。
「それにしても槙はぜんぜん変わんないねえ。気持ち悪いくらい。なあ知ってる?」
 問いかけて汐見はクククと喉を鳴らすような笑い方をした。
「保科は槙のこと好きなんだよ」
「バカなこと言うなよ」
 保科が苦い声で諌めるのを、汐見はかすかに白けたような目付きで見返した。
「そうなんだろ? 保科はどっちかってゆーと女よりも男のが好きなんだよな。だから今でも連絡取ってせっせと面倒見てんだ。まきちゃん可愛いからな」
「いい加減にしろよ、汐見」
 挑発的な汐見の言葉に怒りもせず、保科は忍耐強くたしなめた。
「俺も槙も明日は仕事なんだ。おまえだってちゃんと主役の子と和解しなきゃダメだろう」
「あんなバカな奴は知らねー。期待外れもいいとこだよ。誰も頼んでないのに、余計な──中途半端な演技しやがって。あの映画はもうやめたんだから、いいんだよ」
「汐見」
 汐見は保科の視線を避けるようにソファの背に沿って伸ばした腕に顔を埋めた。
「やめたっつったら、やめたの。もう一回最初っからやり直しだよ、ちくしょう」
「とにかくもう帰ろう。俺と会う前も、昼間からずっと飲み続けてたんだろう。それに、おまえが見込んだ子なんだから、ちゃんと戻ってくるように説得しなきゃダメだ」
 聞き分けのない弟を諭す兄のような口調で、保科は汐見に言い聞かせた。
「だから見込みちがいだったんだよ。ぜーんぶ、最初っからちがうんだもんよ」
「また酔ってない時に話は聞くから」
 保科はほとんど酔いつぶれているらしい汐見を強引に抱え上げた。汐見は今度は逆らわず抱きつくように保科の首に腕を回した。
「もうすっげー計算ちがい。どこで狂ったんだか、俺にはまったくわからねえ」
 汐見に抱きつかれた保科はなだめるように汐見の背を軽く叩いた。
「まちがってないから安心しろ。汐見がまちがえたことなんか、今まで一度だってあるか」
「くそったれ」
 保科の肩に額をつけたまま汐見はくぐもった声で毒づいた。


 槙は保科の指示で彼と一緒に汐見をビジネスホテルに送って行った。後部座席に乗り込んだ汐見はすぐにシートに横たわって目を閉じた。ホテルに着いて、汐見を起こしチェックインの手続きを取らせて部屋まで送った。
 部屋に入ると汐見は黙って服を着たままベッドにもぐり込んでしまい、呆れたような保科の呼びかけにも返事をしなかった。保科は肩をすくめて、槙を促してホテルを出た。
 保科の家に向かう途中、保科は改めて槙に謝ってきた。
「今日は本当に悪かった」
「大丈夫ですよ」
 槙はなだめるように笑った。汐見は槙を変わらないと言ったが、槙には汐見こそ学生時代と少しも変わっていないように思えた。汐見と槙の実際の年齢差は二歳だったが、汐見はもっとずっと年上に見えたり、むしろ自分よりも年下に感じられたりした。捉えどころのないその印象は、十年ぶりに会った今日も同じだった。
「汐見は、今度の映画の主役に選んだ子とうまくいってないんだ。俳優じゃなくて音楽をやってる子を、汐見が気に入って撮ることになったらしい。なかなか器用な子みたいで、それなりに演技もするんだけど、汐見はそれが気に入らないんだよ。汐見の撮り方とは合わないんだな。今日はとうとう大ゲンカしてその子が撮影の途中でどこかに行っちまったんだって」
「そうなんですか」
「未成年の子と対等にケンカするんだから、汐見もしょうがないんだ。それだけその子に期待してるんだなっていうのは感じるんだけど。汐見はいつまで経っても子供なんだ」
 学生時代、保科と汐見はいつも一緒だった。汐見の傍若無人な言動が問題を起こすたびに、保科がフォローに回っていた。槙が目にしていなかっただけで、今も二人の距離は変わらないのだろう。
「まあ汐見もそうそう子供のふりもしていられないらしいけどな。一応スポンサーも付いてるし、途中で放り出すわけにいかないのはあいつにだって本当はよくわかってるんだ」
「そうですか」
「だから余計に苛立ってるのさ」
 保科は槙を見て、口の端にかすかな笑みを滲ませた。
「こんな話を聞かされても槙は困るだけだな」
「いえ」と槙はかぶりを振ったが、保科は笑みを浮かべたまま謝った。
「悪い」
 そう言った保科の表情は自嘲を含んでいるように見えた。


 保科を家の前で降ろし、自分のアパートに戻った槙はキッチンの椅子に坐ってため息をついた。
 深夜に呼び出されたせいばかりではなく、ほんのわずかな時間に過ぎなかったが、保科と汐見と一緒にいたことが槙を疲れさせていた。学生時代にはなかった、あるいは槙が気づかなかった緊張感が保科と汐見の間に漂っているように感じられた。
 助手席の保科の表情を思い返していた槙は、ふいに部屋の中に祐成のコロンが香ったような錯覚を覚えた。子供だった祐成は成長していつからかコロンをつけるようになって、再会した時にも同じ香りを身にまとっていた。祐成のコロンは槙に懐かしさと違和感とを同時に感じさせる。
 あの夜、明かりも点けずに暗がりに坐っていた祐成はどんな表情をしていたのだろう。槙は、今さら確かめることもできない祐成の顔を見たいと思った。テーブルに肘をついて組んだ手の上に顎をのせて目を閉じた時、ポケットの中の携帯が鳴り出した。


─俺だよ。おまえのアパートに来てる。何号室だかわからないから迎えに降りてこい
 二度目の電話も汐見だった。槙がエレベーターでアパートの一階に下りて行くとエントランスホールの壁に寄りかかっていた汐見が身体を起こして「よ」と手をあげた。
「今夜、泊めてくれないか」
 まるで学生時代の付き合いがそのまま続いていたような自然なノリで汐見は言った。
「ホテルはどうしたんですか?」
 汐見はチラッと上目遣いに槙を見た。
「別にいいよ。槙が泊めてくれないなら、これから保科のところに行くから」
 気軽な独身時代と違い、妻帯している保科の家には小さな子供がいる。だから夜遅く汐見を連れ帰ることを避けてホテルに送ったのだろう。汐見は知っていて故意に言っているのかもしれなかった。
「どうして俺のところがわかったんですか」
 槙は汐見に今の住所を教えた覚えはなかった。
「保科の手帳を見たんだよ」
 保科に黙って彼の手帳を見たことを当然のように話す汐見に、槙は一瞬沈黙した。
「保科はおまえに告白したか?」
 槙の部屋に入るなり、汐見は言った。
「そんなこと」
 まだその冗談を続けるつもりかと対応に困って口ごもる槙に、わざとらしく空笑いする。
「するわけないよなー。あいつは健全だもんな」
 クォ・ヴァディスでとはまったく逆の台詞で嘯く汐見に、槙はさすがに苛立ち始めた。昔から汐見には気紛れな言動で他人を振り回す悪癖があり、十年ぶりに会う槙に対しても気をおく様子はなかった。
「汐見さん、俺は明日仕事があるんです。泊まってもらうのはいいですけど、今日はもうこれで寝てください」
 ユラユラと身体を揺らす汐見の肩をつかんで、槙はきっぱりと言った。
「保科が槙を気にしてる、根っこにあるものが何だかわかるか?」
 肩をつかまれた汐見は笑いを収め、挑戦的な目になった。突然の豹変に、槙は黙って汐見を見返した。
「俺だよ」
 汐見は顎を上げて言い放った。
「保科は、俺が槙を傷つけたと思ってるから、俺の代わりに償おうとしてんだよ」
 汐見の目に真っ直ぐに射竦められ、槙には言葉もなかった。汐見は昔と少しも変わらない。深い谷に架けられた橋を渡っている途中で欄干に上ってみせるようなことばかりする。うかつに手を伸ばせばバランスを崩されるような気がして、動けなかった。
「あいつはそういう奴だ」
 槙が漠然と感じていた保科と汐見の間にある絆を、汐見は自分からあっさりと暴露してみせた。
「俺のだから。保科は俺のだ。おまえにはやらない」
 言い切った汐見を、槙は引き寄せて抱きしめたい衝動にかられた。不遜な言葉を投げつけて自分を睨む汐見の態度が、虚勢を張っているように感じられて痛々しかった。保科が語ったとおり、映画の撮影に行き詰まっているせいなのだろうか。あるいは保科が結婚し子供が生まれたことが汐見を追いつめているのか。差し伸べられる保科の手を当たり前のものと受けているだけだった汐見には、自分からその手を必要とする時になって今さらどうしていいのかわからないのではないか。
 常に自信に満ち溢れていた汐見が、槙の前にこんな姿を晒すことなど、かつては想像さえできなかった。今、槙の目の前にいる汐見は、置き去りにされた子供のようだった。槙は汐見を追い越して自分だけが年を取ってしまったように感じた。
 祐成。
 胸を締めつけられるような息苦しさの中で、槙は無意識にその名を呼んでいた。
 槙が今、本当に抱きしめたいのは、目の前の汐見ではなく祐成だった。汐見が傷つきもがく様に祐成の姿が重なって、槙は祐成の手を引いてやれなかった昔の自分を悔やんだ。美帆子の再婚が決まってから会わずにいた間、いや、それ以前でさえ、祐成の悩みに気づいてやることができなかった。いつでも槙は祐成に気遣われるばかりで、祐成の気持ちを何も知らない。
 暗闇の中、静かに泣いていたらしい祐成。あの夜も、槙は自分を取り繕うことに精一杯で、祐成の話をまったく聞いてやらなかった。
 無力感に苛まれながら言葉もなく汐見と見つめ合っているうちに、槙は汐見の顔が鏡のように感じられてきた。おそらく自分も同じ表情をしているはずだった。
「美帆子が」
 長い沈黙の後で汐見が口を開いた。
「美帆子が昔言ったよ。俺と槙が似ているって」
 見つめ合ううちに思考が同調したのかもしれなかった。肩をつかんだ槙の腕からそっと逃れた汐見の唇がかすかな笑みを形づくる。
「あいつはそれを忘れて槙と結婚しちまったんだな。可哀そうに」



 久しぶりに正面から向き合った男の顔を眺めて、槙は違和感に似た不思議な感懐を覚えていた。学生時代からの友人であるはずの半村が、まったく馴染みのない男に見えた。槙の知っている半村は、いつも飄々として、どこか人をくったような笑みを浮かべていたのに、今、目の前にいる男の顔には険しい渋面が刻まれている。
 半村は槙と視線を合わせず無言のまま煙草を吸い続けていた。短くなった煙草をイライラとした仕種で灰皿に押し付けた後、傷の目立つグラスの水を乱暴に飲み、ようやく口を開いた。
「美帆子に聞いた」
 槙が半村に呼び出されたのは国道沿いのファミリーレストラン。安っぽく装飾された広い店内は、家族連れや制服姿の学生グループの騒々しい声に溢れていた。アフターファイブの約束にしては無粋な場所で、それが半村の気持ちを表しているような気がした。
「槙は何のために祐成と会ってるんだ?」
 直截だが意図の読めない半村の質問に槙は口ごもった。
「何のためって」
「美帆子を困らせるためか」
 新しい煙草に火を点けながら、半村は言った。
「そんな。そんなわけないだろう」
 驚いて丸く目を見張った槙を半村は冷ややかに眺め、横を向いて煙を吐き出した。
「槙にそのつもりがなくても美帆子は困ってるよ。槙と会うようになってから祐成がおかしくなったって言ってる。勝手に仕事を辞めて、婚約者ともうまくいってないみたいだって」
 半村の指摘に、槙は目を伏せた。酔った上のはずみとは言え、祐成と身体を重ねてしまった槙には、半村の言葉を言いがかりだと否定するのは難しかった。あの夜崩れたバランスを、自分たちが立て直せたのかどうかも不安だった。


 先刻、会社を出る間際に交わしたばかりの一宮との会話を思い出す。
 一宮は、半村との約束のために定時に仕事を上がろうとした槙を呼び止めて、「義弟さんに会うんですか?」と訊いてきた。槙が否定する間もなく一宮は言葉を重ねた。
「俺の勘違いかもしれないけど、槙さん、本当は義理の弟さんに会うの、苦痛じゃないんですか」
 槙を追って廊下に出てきた一宮のストレートな質問に、槙は言葉を失くした。
「俺は一度同席しただけだけど、あの時二人ともなんとなくぎこちなく見えましたよ。だいたい清水さんは、槙さんが離婚した奥さんの弟さんでしょ。普通はぎこちなくって当然だと思うし、無理して会っている必要なんてないじゃないですか」
 性格を映したような一宮の真っ直ぐな目が槙を見つめていた。
「槙さんが自分で断りづらいなら、俺が代わりに言いますよ」
 一宮の言葉に彼を見返した槙は、無意識にすがるような目になっていた。何もかも全部、誰かに預けて放り出したい。自分のせいではないと逃げてしまいたい。
 俺はこんなに無力で無責任な人間だったのだ、と槙は思った。力もないくせに誰かを守りたいなどとなぜ考えてしまうのか。結果は誰一人として守りきれずに傷つけてばかりいる。
 引き剥がすようにして一宮から視線をそらし、うつむいて首を振った槙の肩に一宮が手をかけた。
「俺が代わりに、義弟さんに言います。会う必要なんてないでしょう」
 ちがう、と槙は首を振った。必要がなくても祐成に会いたかった。祐成に会うことに理由なんかなかった。
 俺のものだ。汐見の声が槙の耳に蘇る。保科は俺のだと言った汐見。祐成は俺のものだといつか自分も言ってしまいそうな気がした。


「槙、おまえ本当は誰が好きなんだ?」
 ふいに半村は槙を見据えた。新しい煙草はあっという間に短くなって、再び灰皿に押し付けられていた。
「今だから言うぞ。俺は美帆子が好きだった。美帆子が汐見さんと付き合う前からずっと、汐見さんと付き合ってた間も別れてからも、ずっとだ」
「半村」
 半村の突然の告白に、槙は息を飲んだ。
「気づかなかったなんて言わせない」
 半村は強い口調で断言した。
「全然気づかなかったんなら、槙は本当は美帆子を好きなわけじゃなかったんだ」
 言い切られて、槙は再び目を伏せた。
 学生時代の記憶を辿れば、半村はいつも美帆子をからかってばかりいた。あの頃半村が口癖のように「素直じゃない」「かわいくない」と言っていたのは、美帆子に素直になってほしいという気持ちがあったからなのか。
 知っていたのだろうか、と槙は自問した。半村が美帆子を好きだと、確信はなくとも感じていたかもしれない。無意識に感じていた半村への負い目は、それに由来していたのかもしれない。友人が想いを寄せている相手と素知らぬふりをして付き合うような卑劣さが自分の中にあることに薄々気づいていたから、半村に避けられていてもその理由を訊くことができなかった。
「美帆子は泣いてたよ」
 半村の言葉は槙の胸をえぐった。かつて槙は美帆子を泣かせたくないと思っていた。そうして今、美帆子は槙の前では泣かず、代わりに半村に涙を見せるのか。
「俺は槙が本気だと思ってた。おまえなら美帆子を幸せにしてくれるってそう信じた。それが間違いだったなんてな。身を引いた俺がバカだったってことなんだろ。堪んないよ」
 半村は唇をゆがめて吐き捨てた。
「なんで泣かすんだよ。おまえ、美帆子を幸せにしたいって言ったじゃないか。俺にはっきりそう言っただろ」
 槙には半村に応える言葉がなかった。半村の美帆子への気持ちを知っていてなお美帆子と付き合ったのだと、それだけの強い想いがあったと、胸を張って言えない自分が槙にはもどかしかった。
「悔しいよ。俺は自分が悔しい。俺はおまえを信じたかった」
 そう言って横を向いた半村の目はかすかにうるんでいるように見えた。
「すまない」
 槙は半村のために何もしてやれなかった自分の無力さに打ちのめされて短く呟くしかできなかった。
 夜の九時を過ぎても未だ静まる気配のないファミレスの喧騒をよそに、長い沈黙が二人のテーブルを支配した。三人の子供を連れた不機嫌な父親とヒステリックな母親。うまく行かない恋を嘆き合う女子学生のグループや、だらしなく制服を着崩した中学生らしい少年たち。関わりのない人々の声だけが槙と半村の間を行き来する。
 無言のまま槙は視線の合わない半村を見つめていた。長い付き合いの中で、槙は半村から受けるばかりで何も返せなかった。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。やがて半村はため息をついて槙を見た。
「それでも俺は……今でも、美帆子を幸せにしてやれるのは槙なんじゃないかって……おまえが美帆子と幸せになってくれたらいいのにって、いつまでも未練がましく思ってるんだ」
 途切れがちに紡がれる半村の言葉を遮るように槙は半端な笑みを浮かべた。
「美帆子には、もう……」
「そうだな」
 語尾を濁した槙に、半村は静かに相槌を打った。
「美帆子はもう再婚してるんだな」
 すべてが遠く過ぎ去ってしまった。行き場を失くした想いを抱えた男が二人、似合わないファミリーレストランで途方に暮れている。目を合わせた槙と半村は、自分たちの滑稽さにどちらともなくお互いに苦笑を洩らした。
「情けねーなあ」
 吹っ切るように呟いた半村は、伝票をつかんで「店を変えよう」と立ち上がった。
「こんなとこにいると余計にみっともなくて気分が沈むばっかりだ。飲みに行こう」
 槙は頷いて従った。


「槙が悪いわけじゃないって、俺だってわかってるよ」
 手酌でグラスを満たしながら、半村は言った。
「結局は俺も踏ん切りがつかなかっただけだし。美帆子と俺は友だちで……それを壊せないんだ」
 半村の言葉に槙は美帆子に対する半村の想いの深さを感じた。
「俺、美帆子には一度振られてるんだ」
 半村はチラッと自嘲の笑みを浮かべた。
「中学の時に告白したことがあってさ。大学で再会して、そしたら美帆子には汐見さんがいただろ。かえって普通に友だちになれた気がして楽だったんだ。だから、余計なことは言えなくて」
「わかるよ」
 汐見がいて美帆子がいて、保科、半村と、あの頃の仲間を槙も大切に思っていた。
「てめえの意気地なさを槙のせいにしてるだけだって、自分でもわかってたんだ」
「そうじゃないさ」
 友人の顔をして近くにいながら半村の気持ちを斟酌できなかったのは自分のほうだと槙は思った。
「美帆子が祐成のことを心配してるって?」
 槙の問いかけに、半村は「ああ」と頷いた。
「祐成は昔から槙に懐いていただろ。美帆子の離婚にも再婚にも祐成は猛反対してたから、だから美帆子は槙と祐成が会っているのが不安なんだろ」
「婚約者というのは──?」
 曖昧に訊ねる槙に、半村も軽く首を傾げながら答えた。
「ああ。俺もくわしくは聞いてないけど、祐成の婚約者が美帆子に泣きついてきたらしい。この頃祐成が何を考えているかわからないって」
「そうか」
 自分のせいなのだろうと槙は思った。年下の祐成に余計な心配をかけて彼の幸せの邪魔をしている。
「大人になれば、いろいろあるのは当然だけど、祐成は子供の頃は末っ子の甘えん坊って感じで珍しいくらい素直だったろ。だから美帆子も心配してるんだ。あそこんちはかなり姉弟仲がよかったのに、美帆子の離婚あたりから……すまん」
 半村は槙の表情を見て言葉を途切らせて短く謝った。
「いや。わかってる」
 槙は苦笑するしかなかった。そんな槙の顔をしばらく眺めて半村は呟いた。
「…今でも、美帆子は槙を好きなんじゃないかって気がする」
 半村の言葉に槙は首を振った。
「そんなんじゃないさ」
 おそらく美帆子は一度も槙を好きだったことなどないのかもしれない。汐見を失った美帆子は傷ついていただけなのだ。それでもいいと槙は考えたはずだ。ただ美帆子の涙を見たくなかった。
「さらってやれよ」
「うん?」
 耳に入った台詞の意味がわからず問い返した槙に、半村は泣き笑いのような表情を見せた。
「美帆子をさ、幸せにしてやってくれよ」
「半村」
「俺じゃないんだ。美帆子には、俺じゃダメなんだ」
 半村は低くくり返した。その無力感を槙も知っている。
「…俺でもダメだったんだよ」
「ちがう。槙ならって、俺は今でも考えてる。おまえなら美帆子を幸せにできる。くやしいけど、そうなんだ。俺にはわかるんだよ」
「それは半村が俺を買いかぶってるだけだ」
「買いかぶりなもんか。槙はすごい奴だ。俺はずっとそう思ってる。敵わないからくやしくて、でも、俺はおまえが好きだよ。それはずっと変わんねーよ」
「俺のほうこそずっと半村に助けられてきたんじゃないか」
 今にして思い返せば他愛のないことばかりでも学生時代には息の詰まるようなことも度々あった。そんな時、傍らで笑い飛ばしてくれる半村の存在が、どれだけ槙の気持ちを楽にしてくれていたか。それを美帆子との離婚で失っていたことにあらためて気づく。
「もう一度美帆子とやり直せないか」
 半村の熱心な口調に、槙は自分の心が澄んでいくのを感じた。心の中にひとつの面影がはっきりと浮かび上がる。
「俺は……俺には……」
 吸い込んだ息を吐き出し槙は静かに告白した。
「好きな人がいるんだ。それは美帆子じゃない」
 半村の目が一瞬強い光を帯びた。槙は悲しい気持ちでその目を見返す。こんなふうに半村を傷つけるはずではなかった。もっと早く自分の気持ちに気づいていたら、誰も傷つけずに済んだのかもしれない。
「美帆子じゃないんだ。すまない」



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