いつか晴れた日に-6-



 仕事を終えてアパートに帰り着いた槙は、エレベーターを降りるより先に、部屋の前に一つのシルエットを確認して、中に留まったままボタンを押して扉を閉めた。ゆっくりと下降を始めた箱の中で、無意識につめていた息を吐き出す。
 先週、携帯に入っていた祐成からのメールに、槙は返信をしなかった。羽富市に来てから祐成は、仕事に使える店を探したいという口実で、度々槙を誘ってきて、槙もそれに喜んで応じていた。先週のメールも、知り合いが新しく始めたワインバーに行ってみないかという誘いだった。そのメールに返信を送らなかった槙はその後にかかってきた電話もすべて黙殺していた。
─祐成です。槙さん、携帯どうかしましたか? 連絡ください。
 部屋の電話に残されていた留守番電話の短いメッセージを再生して槙はくり返し聞いた。ほんの少しためらうような間を空けて「連絡ください」と語尾弱く告げる声を、ありえないほど愛しくまた恋しく感じている自分に気づき、それゆえに連絡してはいけないのだと自戒した。
 そして今日、祐成は槙の部屋の前で待っていた。シルエットだけでそうと見分けられるようになった長身。自分の部屋の前で待つのは祐成しかいないと知っている槙の現在の生活。
 反射的に彼を避けて、アパートを出てきたものの槙に行く当てはなかった。すでに夜も更けて、道を走る車も少なくなり、目につくのはコンビニの灯りくらいだった。吸い寄せられるように明るい店内に足を踏み入れれば、アルバイトらしい店員たちが「いらっしゃいませ」と機械的な挨拶を寄こした。不自然なまでに光を溢れさせたコンビニには、昔かなり売れたはずの耳慣れたポップソングが流れていて、茶髪の青年が歌に合わせて身体を揺らしながら商品を補給していた。華奢な肩が学生のころの祐成を思い出させる。快晴の午後、陽射しを浴びたベンチの隣で俯いていたライン。記憶の中のその肩に手を伸ばしかけて、槙はきつく拳を握った。広くもない店内の棚から棚を回っても、槙の居場所はなかった。手に取るような雑誌も見当たらず、結局そのコンビニでは数分もつぶすことができずに槙は下着を買ってビジネスホテルに向かった。祐成は一晩中槙の部屋の前で待っているような気がしていた。
 固いシングルベッドに腰を下ろし、槙は携帯を取り出した。
─もう会うのはやめよう
 それだけをメールに打って送信する。時を置かず鳴り始めた携帯から逃れるようにシャワールームに入った。
─どうして?
 まっすぐな目で槙に問う祐成の顔が脳裏に浮かんでいた。その問いに答えることができない槙は、祐成に会えない。もう誰も傷つけたくないのだ。人を傷つけることで槙自身が傷つきたくなかった。


「槙さん、お電話です」
 電話を取った一宮が、無意識にだろうか、かすかに顔をしかめて槙に内線を回してきた。
「…清水さんです」
 つけ加えられた名前に、受話器へと伸ばしかけた槙の手が一瞬止まる。気遣うような一宮の視線を頬に感じたまま、受話器を耳に当てた。
「はい、お電話変わりました」
 意識して事務的な声を作る。
─祐成です
 名乗られて、槙は応えなかった。短い沈黙の後で「あの」と祐成が言う。
─あの、槙さんですよね?
 そのまま受話器を置いてしまいたい衝動にかられた槙は、軽く息を吸い込んで「今は仕事中だ」とだけ言った。その言葉に今度は祐成がしばし沈黙した。
─会って話がしたいんです。お願いします
 ためらいを振り切るように早口でたたみかけてきた祐成に、槙はそっけなく切り返した。
「しばらく忙しいんだ」
─お願いです
「時間が空いたら、こちらから連絡するから」
 祐成の返事を待たず槙は手を伸ばして通話を切った。耳に当てたままの受話器からツーツーと単調な信号が流れ始める。
 逃れるように席を立った槙の後をすぐに一宮が追いかけてきた。槙は滅多に人が使うことのない階段の踊り場に逃げ込んだ。嵌め殺しの窓に手をかけて俯いた槙の隣に一宮が足を止める。
「どうしたんですか」
「なんでもない」
 槙はかぶりを振った。笑ってみせたかったができそうになかった。
「何か清水さんともめてるんじゃないですか。俺が、余計なことを言ったせいですか」
 一宮は気遣わしそうに確認してきた。一宮が槙に祐成と会う必要はないだろうと言ってきたのはつい先日のことだ。そうして槙は自分の祐成への気持ちを自覚した。しかしそれはきっかけの一つにすぎない。自覚の有無に関わらず想いは槙の中にあったのだから。
 心配して槙を覗き込む一宮の眉間にはかすかな縦皺が刻まれていた。
「一宮のせいじゃない」
 槙はひたすらかぶりを振った。息苦しさを覚えて、開かない窓枠に指を這わせた。胸が痛い。
「俺は槙さんの役には立てませんか」
 一宮の眉をひそめた表情に、追い立てられるような気持ちになって槙は言った。
「…笑っててくれないか」
「え?」
 こぼれ落ちた槙の言葉を一宮が不審気に聞き返した。
「頼むから、おまえだけは笑っててくれよ。そんな顔するなよ」
「槙さん」
「本当に、頼むよ。俺は、おまえの笑ってる顔が好きなんだから」
 派遣社員としてやって来た若い一宮は、たちまち職場のムードメーカーになった。美帆子の再婚で航太や祐成と会えなくなり落ち込んでいた槙の心を一宮の存在が救ってくれた。他愛のない冗談を言って屈託なく笑いかけてくる一宮に気持ちを明るくしてもらっていた。
 美帆子。祐成。自分にはもう二度とあの頃の彼らの笑顔を取り戻すことはできないだろうと槙は思った。そう考えれば今目の前にある一宮の笑顔を失うことを恐れずにはいられなかった。


 休日の朝早く鳴ったチャイムに、槙に予感はあった。こんな時間に誰が一人暮らしの槙を訪ねてくるだろう。「お願いです」と祐成は言った。「どうして?」と訊くことはせずに。
 ドアを開けなければ祐成が一日部屋の外で待ち続けることを確信して、鍵を外した槙に、祐成は玄関先に立ったまま「お願いです」とすがった。
「俺があんなことしたから、槙さんはもう会ってくれないつもりなんでしょう?」
 祐成は槙があの夜のことを許せなくて会うのをやめると言い出したと思っているのだ。髪も整えていない祐成の口元にはうっすらと髭が見えた。
「俺、謝るから。これからは絶対にあんなことはしない。だから許してください」
 自分を見つめる祐成の思いつめた顔から、槙は視線をそらして呟いた。
「俺が会うのをやめようって言ったのは、そんな理由からじゃない」
 槙の言葉は祐成の耳には届かないようだった。
「俺、普通にするから。好きだなんて言わない。何もしない。だから会わないなんて言わないで」
 幼い子供に戻ったようなたどたどしい口調で懇願する祐成の目には涙が浮かんでいた。槙は祐成のそんな姿を見たくなかった。
「祐成が悪いんじゃない。俺たちは会わないほうがいいんだ」
「俺は……俺は、美帆ちゃんの代わりに槙さんのそばにいたいだけだったんだ。何もしない。本当だよ。だから俺を美帆ちゃんの代わりにしてください。お願いだから」
 槙は祐成から目をそらしたままかすかにかぶりを振った。祐成は美帆子の代わりになどならない。代わりなんかじゃない。
 かたくなに視線を合わせようとしない槙を見つめているうちに祐成の顔が少しずつ歪んでいった。
「……絶対に嫌だ」
 祐成は歪んだ唇を震わせて言った。
「俺は槙さんに会えなくなるなんて絶対嫌だ!」
 聞き分けのない子どものような態度を見せる祐成に、槙の中で何かが音を立てて崩れた。
「どうしろって言うんだよ!」
 感情にまかせて槙は怒鳴っていた。結果を考慮する余裕はなかった。祐成は何も知らない無邪気な子どもで、だから原因は槙自身にあった。
「俺が、俺がおまえを好きなんだよ」
 槙が叩きつけた言葉に祐成の目が大きく見開かれる。
「だから、おまえのそばにはいられない」
 とうとう言ってしまったと思いながら槙は祐成を見つめた。今にして思えば、槙は初めて見た時から祐成に惹かれていたのだ。輝かしい光の中で笑っていた少年。その彼にこんな狭い薄暗い場所で泣き顔を晒させるようなことをしたのは槙だ。
 槙の迫力に気圧されたのか、祐成は考え込むように視線を下に落とした。そのうなだれた旋毛を見つめて、槙はぎゅっと両の拳を握り締めた。うっかり気を抜けば、本能のまま祐成を抱きしめ口付けてしまいそうだった。
 美帆子。幸せにしたいと願い、できなかった相手の名前を胸の内で呼ぶ。祐成が美帆子の代わりにはならないように、槙は美帆子を祐成の代わりにしたわけではない。美帆子を守りたいと願った槙の気持ちに偽りはなかった。もっと早く祐成への想いに気づいていたら、もっと別の道を選べた。
「俺は祐成を好きだから、このまま一緒にいたらきっと他の誰かの気持ちを傷つけてしまうだろう。俺たちが一緒にいるせいで傷つく人がたくさんいる。俺のために誰かが傷つくのは嫌なんだ」
 槙は奥歯を噛みしめたまま、低い声で囁くように言った。
 美帆子と、そして祐成の相手である紗枝という名の婚約者。彼女たちを傷つける権利など槙にありはしない。今、目の前でうなだれている祐成を抱きしめたいなどという槙の欲望は、彼女たちを傷つけるだろう。自分が守ることができなかった美帆子を、せめてこれ以上傷つけたくはない。それが彼女の元夫としての槙の精一杯の誠意だった。
「…俺は?」
 俯いたままポツリと呟いた祐成は、ふいに顔を上げて、正面から槙を睨みつけた。
「槙さんは、俺が傷つくのはいいの?」
 涙の浮かんだ祐成の瞳は強い光を放っていた。思いもかけない祐成の糾弾を受けて、槙はごくりと息を飲み半歩ほど後退さった。濡れた目がしっかりと槙を捉えていた。
「あなたに拒否されたら俺が傷つくよ。槙さんは他の誰かじゃなくって、俺を傷つけるのは平気なの?」
 涙でキラキラと光る目で言い募る祐成が、槙には自分を誘惑する悪魔に見えた。周りにまばらな髭が見えていても荒れて内側だけが赤くなった唇は、ぞっとするほど艶めかしかった。乾いた唇が薄く開いて吐息のように濡れた囁きがこぼれる。
「ねえ、答えてよ、槙さん。俺は?」
 槙を見据えたまま身体を寄せてきた祐成は、手を伸ばして槙の顎を捉え、口付けようとした。とっさに槙は手を振り上げていた。
 パンと乾いた音が掌で鳴った。
「二度と会わない」
 呆然と見開かれた祐成の目に映る自分自身に向かって、槙は静かな声でくり返した。頭の芯が冷たくしびれ、心の中が空っぽになっていた。
 祐成をその場に残して部屋の中に引き返す。槙の感情は石のように静まり返っていた。何の感慨もなく、ただもう祐成とは会わないという決意だけが槙の心を支配していた。玄関先に立ち尽くす祐成を思いやることもなく彼の気持ちなど少しも考えなかった。
 それは怒りかもしれなかった。槙は祐成を自分勝手で我が侭な子供だと思った。祐成への想いを自覚できなかった自分自身のうかつさへの怒りが、いつのまにか自分の心を奪った祐成への憎しみにすりかわっていた。
 長い時間が経って、玄関のドアが開き、そして閉まる音を槙は遠くに聴いた。

 元の生活に戻るだけだと槙は思っていた。美帆子の再婚が決まってからは祐成にもずっと会っていなかった。その頃に戻るだけで、何も変わらない。そう思おうとしたが、槙を襲った深い喪失感は容易には去ってくれそうになかった。
 あれから一宮は祐成のことを口にしなくなった。職場ではもちろんのこと二人で飲みに行っても、以前と変わらず他愛のない冗談ばかりを言い合って、それでも時折わずかな沈黙が槙と一宮の間に下りた。二人ともそれに気づかないふりをし、そうしてそれはやがて消えるだろうと感じられた。槙はもう祐成とは会わないのだし、これからも一宮は変わらないだろう。気づかないふりは必要なくなり、本当にそんな沈黙はいずれ訪れなくなる。
 けれど槙は祐成を忘れない。一宮の笑顔ももはや槙の中の祐成の不在を埋めてはくれない。たった一度二人と一緒に飲んだだけで、二人がまったく違うことに気づいてしまった。いや、最初から槙にはわかっていたのだ。一宮が祐成に似てなどいないことは。ただ槙が身近な一宮の存在にすがっていただけだ。
 祐成は誰とも違う。再会などしなければよかったのだ。過去の美しい想い出だけがあればよかった。光の中の祐成が槙の支えだったのに。取り戻したいなどと不可能な望みを抱いたつもりもない。なのに大切だった想い出は無残に壊れた。
 会わなくなった今、槙の祐成への想いの大部分を負の感情が占めていた。祐成を恋しいと思う時、ふいに「どうしてあの時祐成を殺さなかったのか」という後悔さえ槙の中で頭をもたげた。
─俺が傷つくのはいいの?
 そう訊いた祐成の声が耳に蘇り「そうだ」と槙は頷く。
─槙さんは他の誰かじゃなくって、俺を傷つけるのは平気なの?
 平気どころではない。それこそが今の槙の望みだった。祐成に傷ついていてほしい。槙の想い出を壊したのは祐成だから、彼にも同じように傷ついていてほしかった。誰も傷つけたくなかったはずの槙は、祐成だけを傷つけたいと強く願う。祐成を傷つけるのは他ならぬ自分でありたかった。彼の心に決して消えない傷が残るようにと槙は本気で祈った。


─美帆子と会ってやってくれないか?
 半村がそう電話をかけてきたのは、彼と話してから半月ほど経った夜のことだった。「会ってきちんと話をしたほうがいい」と続けた半村に、槙は自嘲を含んだ口調で返した。
「美帆子は会いたくないだろう」
─「会う」と言ったよ
 半村は穏やかな声で重ねた。
─ちゃんと会って話をしたいって美帆子も言ってる。航太くんのことも、これから先のことをきちんと話し合うって
「半村はすごいな」
 ため息のように本音がこぼれた。受話器の向こうで、半村がかすかに笑う気配がした。
─何を言っている?
「美帆子の気持ちを変えさせたのは半村、おまえなんだろう?」
 何も話すことなどない、あなたにはわからないのだと、槙は美帆子に何度言われただろう。頑なにそらされた視線を再び自分に向けることなど不可能だと思っていた。
 槙の言葉に、半村はわずかな沈黙の後で答えた。
─このままじゃダメだって、美帆子だってわかってたんだよ。だけど、どうしていいかわからなかったんだ。あんまり責めないでやってくれ
「本当に半村はすごいよ」
 自分には何もできなかった。美帆子のために何も。槙はいつか半村に言った「すまない」という言葉を胸の内でくり返した。
 愛するというのは半村のようなことなのだろうか。槙の祐成への想いは歪んでしまったからもう二度と戻らないのだろうか。槙は今、祐成の幸せを願うことさえできなかった。



 約束の日は風が強かった。美帆子のほうが羽冨市に来るというので、槙はセンタービルのそばにある喫茶店を指定した。時間の少し前に槙が入っていくと、彼女はすでに来ていて、奥のテーブルでコーヒーを飲んでいた。槙を認めて立ち上がった美帆子は、テーブルの脇でゆっくりと深く頭を下げた。かすかに「ごめんなさい」という呟きが聴こえた気がしたが、槙の空耳かもしれなかった。
 美帆子の印象は電話越しのそれとは驚くほど変わっていた。年齢を重ねたせいか目尻に薄く皺が刻まれ、そのために目元が柔らかな雰囲気を作っていた。その柔和さに促されるようにして「久しぶり」と槙は笑いかけることができた。
 美帆子はわずかに目を潤ませて「ええ」と小さく頷いた。
「待たせた?」
 手で椅子を示し坐るように促しながら軽く訊ねた槙に、美帆子はかぶりを振った。
「航太と高槻も一緒なの。二人は今、お店のほうを見てるわ」
 そう言って美帆子は、喫茶店に隣接しているデパートとショッピングモールのほうに顔を向けたが、奥のテーブルからは壁に隔てられて直接は見えなかったので、苦笑して腰を下ろした。
「航太が」
 槙が無意識に呟くと美帆子は曖昧な笑みで伺うように言った。
「後で会うでしょう?」
「いいのかな」
 あやふやに訊き返した槙に、美帆子は今度ははっきりと「ごめんなさい」と謝った。まっすぐに自分を見つめる美帆子の目に、槙は祐成の目を思い出した。
「私、勝手なことばかり。ずっと脩司にはわからないって言って──わかってほしかったのに、自分から伝えるのはなんだか悔しくて、自分の気持ちが自分でわからなくなって、脩司が助けてくれないのが悪いって思った」
 か細い声で早口に一息に言った美帆子はそこで言葉を切った。
「何言ってるか、わからないわね」
 髪を耳にかける仕種をして一瞬視線をそらし、美帆子は小さく笑う。
 紺色の制服に白いエプロンを着けたウェイトレスが、槙の分の水を持ってきたので、槙はメニューを開くことなくブレンドを頼んだ。市内に三つの店舗を持つこの喫茶店は、昔からコーヒーの専門店として定評があった。店舗のひとつは大学から近い場所にあったが、学生だった槙たちにとってはコーヒーの値段が高すぎたので、もっぱら外資系チェーンのカフェを使っていた。エスプレッソがメインのカフェで、ドリップ派を気取る半村が毎回のように愚痴をこぼして、保科に「本当に味がわかるのか?」とからかわれていた。そんな半村の誕生日にこの喫茶店のコーヒー豆を贈ったこともある。それははるか遠い日々だ。
 槙の感傷が伝心したかのように、美帆子が声を変えた。
「知ってた? デパートの映画館、なくなっちゃったのね。いつからかしら。ずっとこっちに来てなかったから驚いたわ」
「航太たちは映画を観てる予定だったのに」と続ける美帆子に、槙は「ああ」と頷いた。
「結構前になくなったんだ。三満の国道沿いにシネコンができた頃だと思うよ。どっちが先か忘れたけど」
 デパートの映画館は、学生時代に槙と半村と美帆子の三人でよく足を運んだ場所だった。汐見はロードショーしか上映されない映画館にはあまり興味がないようで、いつも単館系の作品のために都内まで足を伸ばしていたらしかった。
 デパートの映画館が閉鎖した原因なのか結果なのか、隣の三満市にできたシネマコンプレックスは、ほぼ境界と言って良いくらい羽冨市寄りの場所にあったが、槙はまだ利用したことがない。仕事の空き時間に行ったという祐成が、レディースデーのため混んでいて入れなかったと話題にしたことを思い出す。同じ建物の中に銭湯まであるらしく、祐成はそちらに入ってしばらくは汗が引かなくて困ったと笑っていた。
 槙のコーヒーが運ばれてきて、テーブルに置かれる間、沈黙が降りた。専門店らしいこだわりか、カフェの無機質なカップとちがい、美帆子の前に置かれているものとはまた別の有名ブランドのセットが使われている。
「私、脩司が好きだった」
 ウェイトレスがコーヒーと伝票を置いて去るのを待ち、美帆子は再び口を開いた。
「私が脩司を好きなのに、脩司が私を好きじゃないことが耐えられなかった」
「俺はそんな」
 とっさに否定しようとした槙を美帆子は遮った。
「そうよ。あなたはいつも優しくて、私に何も望まなかった。私があなたに嫌なこといっぱい言っても、私に対して怒りさえ見せなかった。悲しげな顔してため息ついて、でも本気で私を怒ったことなかったわ」
「それは、きみが何を考えてるのか、美帆子の気持ちがわからなかったから」
 何が美帆子を苛立たせるのか、当時も今も槙にはわからなかった。わからないまま彼女を責めることなどできなかった。
 槙の言葉に、美帆子の声が尖って乱れた。
「私の気持ちなんか関係ないの。あなたの気持ちじゃない。あなたにとって私はどうでもよかったんじゃない」
「そんなことは絶対にない」
 否定する槙を、美帆子は「待って」と片手を上げて抑えた。ゆっくりと一度瞬きをし、槙を見つめてため息のような息を吐く。
「ごめんなさい。いいの、これは昔の話なんだから。今はとりあえず最後まで聞いて。こんなふうにちゃんと話さなかったのは、私もいけなかったと思う。臆病だった」
 確認するように言葉を紡いでいく美帆子に、槙は、彼女のこんな表情を初めて見ると感じていた。
「あなたが本当は私を好きじゃないって感じてしまったら、私、もう自分ではそれを否定できなくなったのよ。だって、脩司はいつも優しかった。私が何を言っても何をしても、いつもいつもおんなじ。優しいことばっかり言ってた。私にはそれが偽善にしか思えなくなった。脩司の優しさに私は勝手に傷ついてたの。だからあなたを傷つけたくてあなたを本気で怒らせたくて、自分をコントロールできなくなった。あなたといると、私、どんどん自分が嫌いになったわ」
 美帆子はおどけるような声で言ってわずかに唇をとがらせてかすかな笑みを見せた。
「わかってるの。私はあなたにしてほしいことばかりだった。あなたにしてあげること、何も思いつかなくて。私の気持ちだって、あなたがわかってくれて当然と思っていたのかもしれない。あなただけのせいじゃないわ。でも認めたくなかった。自分のことそれ以上嫌いになりたくなかったから」
 中身が半分ほどになっているカップの取っ手に指を添えて、おどけた笑みを残したまま槙を見つめる美帆子の表情は、痛みをこらえているように見えた。
「自分を嫌いになりたくないから、代わりにあなたを憎んだのよ。いつのまにか全部があなたのせいのような気がしてた。航太のこともそう。あなたが自分の子だって言ってくれて嬉しかったはずなのに、後になってあなたとうまくいかなくなってからは、なんで曖昧にしたんだろうって考えるようになって。あなたがいなければって思った。最低ね、私」
 今まで自分は、美帆子の何を見ていたのだろうか。槙は愕然とした思いで、目の前の女性を見ていた。
 クールさを装っているけれど、本当は人一倍脆くて傷つきやすい。傷ついているくせに強がりばかり言う。あの頃、いつも半村が美帆子についてそんなことを言っていた。冗談混じりに本人をからかい、時には真顔で心配していた。
 槙が知っていると思っていた美帆子は、半村の目を通したものでしかなかったのかもしれない。半村に伝えられた美帆子の姿を、そのまま自分が見ていると錯覚していた。
「最低だから、自分から言えなかった」
 カップに目を落として静かに告白する美帆子を槙は抱きしめたい衝動にかられた。美帆子は傷ついた時に虚勢を張ると、槙は知っていたはずだった。知っていたのは半村で、槙は知っているつもりになっていただけだ。架空の外敵の前に立ちはだかり美帆子を守っているつもりでいた槙は、本当は美帆子に背を向けていただけだ。彼女を守ろうと広げた槙の腕の影で美帆子がどんな顔をしているかさえ気づけなかった。
「言えなかったけど、あなたにわかってほしかったのよ。いろんなこと全部、私が言わなくてもあなたがわかってくれるのが当然と思ってた。離婚した後でさえそんな考え方から抜け出せずにいて。結局ずっと甘えていたんだわ。自分のことしか考えられないくせに脩司が私に何も望んでくれないのが不満だった。本当にバカだったと思う」
 顔を上げた美帆子は、にっこりと鮮やかな笑顔を見せた。
「聞いてくれて、ありがとう。私、ずっと脩司に『私を見て』って言いたかった。言うべきだった。こんなに遅くなっちゃったけど、でも言えてよかったと思う」
 その笑顔は、槙の力では取り戻せなかったものだ。槙は、一緒に暮らしていながら、美帆子の悩みをわかってやれなかったこと、わかろうともせずにいたことを心から悔いた。そして、槙が守ることのできなかった美帆子は、もがきながら今きちんと自分の足で立ち上がったのだ。手助けをしたのは、おそらく現在の夫である高槻と、そして半村だろう。
「美帆子、俺は美帆子が好きだったよ」
 槙は美帆子を見つめた。キレイで脆いから、大切にしたいと思っていた。半村ではなく自分の手で幸せにしてやりたかった。
「美帆子の求めるようには愛せなかったかもしれないけれど、それでも俺は本気で美帆子が好きだった。それだけは確かに言える」
「ありがとう」
 美帆子は素直に頷き、かすかなためらいの後で訊ねた。
「今は……? 今、脩司が好きなのは誰?」
 まっすぐな瞳に槙は覚悟を決めた。美帆子の前で取り繕ってばかりいた自分。本音を隠してかっこつけて、美帆子に頼られたかった。美帆子を守り幸せにすることが自分の使命だと思い、そこに自分の気持ちなど関係ないと思っていた。今、美帆子にだけは本当の気持ちを告げるべきだと思った。
 居住まいを正して美帆子の目を見返す。
「俺が今、好きなのは、祐成だよ」
 槙の告白を聞いて、ふっと笑みを浮かべた美帆子の目から涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう」
 子供のようにぽろぽろと涙をこぼしながら美帆子は「ありがとう」と何度もくり返した。
 その姿を愛しいと槙は思った。自分の目の前で無防備に涙をこぼす美帆子が愛しくて切なかった。今ここで感情に従って美帆子を抱きしめたら、もう一度やり直せるだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
 こんなに愛しいと感じる相手をどうして幸せにしてやれなかったのか。そう考え、そしてすぐにその考え方が間違っていたのだと気づく。一緒の幸せを目指せばよかったのだ。美帆子を幸せにするのではなく、美帆子とともにいることが槙の幸せであると気づけばよかった。お互いに相手の気持ちに踏み込む勇気があれば、そして本心を晒す勇気があれば、二人は別れずに済んだのだろう。
「ごめん」
 それ以外に美帆子にかける言葉が見つからなくて、槙はただ頭を下げた。
 美帆子の涙に、同じように槙の前で泣いた祐成が重なって見えた。
 槙は、大切な想い出を祐成に壊されたと思っていた。けれど、祐成に壊された想い出など、もともと偽りだったのかもしれない。大切にしすぎた想い出は、いつのまにか槙を縛りつけるものへと変質していた。記憶の中の日々はいつも晴れていて、槙には影すら見えなかった。美化された過去に答えなどなく、そして答えがないことを知っていたから安心してくり返し再生できた。
 もしあのまま祐成の想いにも自分の気持ちにも蓋をし続けていたら、美帆子とのように深いところでお互いに傷つけ合うことになった気がした。そして槙はその傷にさえ目をそむけて化膿させてしまうのだろう。
 それに気づかせてくれた美帆子への感謝と、気づけなかった自分への悔いが、槙に頭を下げさせた。
「ごめん。もっと美帆子のこと、ちゃんと見てやればよかった。祐成に対しても同じなんだ。俺はずっと自分の気持ちを曖昧にしてた。キレイなところしか見せられなくて、キレイなところしか見てやれなかった。美帆子を好きだって思った時に、もっと本気で美帆子にぶつかってたら、きっとちがう結果になってたんだよな」
「謝らないでよ」
 美帆子は涙を拭って笑った。
「私だって悪かったんだもの。脩司に本気でぶつかれなかったのは私も同じ。そのことで祐成とも散々ケンカしたわ。あの子に「あなたにはわからない」って言ったけど、わかってなかったのは私のほうだったのよね。本当なら私も祐成のように素直になりたかった」
「美帆子はずいぶん変わったな」
 槙がしみじみ呟くと美帆子は「大人になったのよ」と笑った。美帆子が変わったのではなく、槙の対応が美帆子の態度を変えたのかもしれない。槙は恋の終わりに気づいていた。美帆子への恋が今終わったのだと思った。美帆子の笑顔は晴れやかだった。その目に映る自分もおそらく同じ表情をしているだろうと槙は感じた。
「じゃあ、航太たちを呼んでいい?」
 槙が頷くと、美帆子は携帯を取り出して高槻に電話をかけた。
「私。終ったから来てくれる?」
 そう言って相手の言葉に「うん、うん」と相槌を打ち、まもなく電話を終えた美帆子は「外に出ましょう」と槙を促した。
 喫茶店の中にいる間は感じなかったが、間接照明の店内は意外に明るさが抑えられていたようで、外に出ると思いがけないほどの眩しさに一瞬目が眩んだ。ビルに囲まれた空に目を向ければ、強い風に払われてしまったのか、雲ひとつない鮮やかな青が映った。
 真っ青な空から目を転じたとき、正面のデパートのガラス戸を押し開けて出てくる少年が、槙の目に入った。少年の後から続いた男性が重そうなガラス戸を上から押さえてやり、彼を振り仰いだ少年が笑顔で何事か話しかける。顔を前に戻した少年は、美帆子に気づいて「ママ!」と大きく手を振った。
 無邪気な声にふいに涙腺を刺激され、槙は慌てて奥歯を噛みしめた。
「ママ! ねえ、ぼく欲しいゲームがあるんだけど」
 言いながら駆け寄ってきた航太は、美帆子の傍らに立つ槙に気づいて、とまどう様子で足を止めた。後から来る高槻を振り返り、近づいてきた彼の腕にすがりついた。
「航太、覚えてる?」
 槙を示した美帆子の問いかけに、航太は不思議そうに目を丸くして槙を見ていた。槙を憶えていないのかもしれない。槙にとっても幼い頃に別れたきりの航太が、今はもう小学生になっていることが不思議だった。
「あのね、航太……」
 言いかけた美帆子を遮って、槙は「こんにちは」と航太の顔を覗き込んだ。
「こ、こんにちは」
 かすれた声で返した航太ははにかむような笑みを見せた。
 しがみついている高槻に「いきなりおとなしくなったな」とからかわれて、航太は「うっさい」と毒づき肱で高槻を押しのけるような仕種をした。高槻に向けた航太の声には気のおけない甘えが滲んでいた。
 二人の様子を見ていた槙は、ふと息をつき、心を決めて、航太に話しかけた。
「おじさんは、航太くんが小さい頃に会ったことがあるんだよ。今日、きみのお母さんに話があったんだけど、久しぶりに航太くんの顔も見たくなったから、一緒に来てもらったんだ」
 槙の言葉に、航太はとまどったように小さな声で「そうなの?」と言った。槙は横顔に美帆子の視線を感じながら、航太に手を伸ばした。
「大きくなったね」
 槙が頭を撫でると、航太は一瞬驚いたように槙を見上げ、目が合ってから「うん」と笑顔を見せた。
「あのね、牛乳いっぱい飲んでるからだって。給食でね、ゆうちゃんが飲めないから、いつもぼくが二本飲んでるの。だからゆうちゃんは背が伸びなくて、クラスで一番ちっちゃい」
 槙の知らないクラスメイトについて語り出した航太に、槙は「そうなんだ」と笑みを返した。航太は高槻から離れ、今度は美帆子の腕を引いた。
「ね、ママ。ぼく、ゲームが欲しいんだけど。パパがママに相談してからって言うから、だから見に行こうよ」
 航太に「パパ」と呼ばれた高槻は、やや困惑したような視線を槙に向けた。槙はその視線を受け止めて頷く。
「じゃあ、おじさんはこれで。航太くん、元気でね」
「うん、バイバイ!」
 槙の言葉に航太は屈託なく応じ、「早く」と美帆子の手を引っ張った。
「いいんですか?」
 残った高槻が気遣うように訊いてくるのに、槙は笑みを返した。
「これでいいと思います。これからも二人をよろしくお願いします」
「パパ、早く!」
 デパートの入口に足を止めて高槻を呼んだ航太は、再び「バイバイ!」と槙に向けて手を振ってきた。槙は片手を上げて振り返した。美帆子と高槻が小さく頭を下げて、三人はデパートの中に消えていった。三人の姿がどこにでもいる親子に見えることに、槙は淋しさと安堵を覚えて、強い風に身を晒したまましばらくその場に佇んでいた。



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