出口 -2-その朝、突然に弟の宏伊が帰ってきた時、柚木はまだ床の中だった。枕元に立つ宏伊を、柚木は寝転んだまま、まじまじと見つめた。スーツを着込んだ宏伊は、柚木よりもずっと年上に見えた。子どものころから、初対面の人間はいつも宏伊のほうを兄だと思うのだった。 「久しぶり。いつ帰ったんだ?」 「たった今だよ」 低い声で宏伊は答えた。 「まだバスはないだろう」 駅に向かうバスはあっても、駅からこちらへのバスが出るには早過ぎる時刻だった。 「タクシーで来た」 「さすが、社会人は違う」 「恭介」 ちゃかすような柚木の言葉をさえぎり、宏伊は少し息を吸い込むようにして言った。 「話がある。外に出よう」 促されて近くの児童公園まで歩いた。その間、宏伊はずっと無言で、柚木は、宏伊が自分と川島とのことを知ったらしいのを悟った。 公園は、もともと小さいせいもあってか、時間が早いために誰もいなかった。 いや、近づくと形ばかりの門の前に一つの人影が見えた。柚木が驚いたことに、川島亜矢が立っていた。川島は二人の姿を認めると小さく会釈した。宏伊は彼女を促すようにして公園の中に入った。赤く錆びたすべり台の前まで来て、宏伊は真直ぐに柚木に向き合った。 「確認したいんだ。恭介は、亜矢と結婚するつもりがあるのか?」 「結婚?」 宏伊の言葉が意外すぎて、柚木はすぐには返事ができなかった。 「そんなことは考えたこともないよ」 柚木の答えに、川島の瞳が大きく見開かれた。柚木はそれを目の端にとらえて、少し驚いた。川島は自分と結婚するつもりだったのか。そんなことは無理に決まっている。宏伊は苛立ちをあらわに声を荒げた。 「じゃあ、どうして亜矢と寝たんだ?」 「どうしてって…わからない」 無言のままの川島の目から涙が溢れ出た。宏伊はそんな川島をちらっと見て、ぎゅっと唇を噛みしめた。 「『わからない』はないだろう! 亜矢を好きなんだろう。そう言ってくれよ」 語尾は懇願とさえとれた。柚木は困惑して、宏伊を見た。一体、宏伊は、自分の恋人と兄とを結婚させたいのだろうか。 「わからない。…好きとか、結婚とか、考えたこともなかった」 宏伊は悲鳴のような声をあげて柚木に殴りかかってきた。 「わからないのは、ぼくのほうだ」 柚木は抵抗しなかった。地面に倒れ込んだ柚木に馬乗りになって、宏伊は拳をふるった。 「恭介、ぼくにはわからないよ。あんたが何を考えているのか。ずっとずっとわからないんだ」 殴られる柚木よりも、宏伊のほうが痛みをこらえる顔をしていた。ついに川島が止めに入った。 「やめて。もうやめて」 勢い余った宏伊の拳を自分でも何発か受けながら、川島は柚木から宏伊を引き離した。倒れている柚木と、息を切らして立ち尽くす宏伊の間にしゃがみこみ、 「もう、いいよ。もういいよ」 子どものように両腕で顔を覆って繰り返した。 「私、恭介さんと結婚したいなんて思ったことないわ。恭介さんのこと好きなのかどうか、私だってわからない」 イヤイヤをするように何度も首を振る。 「だけど、どうしたらいいの? もう宏伊くんと付き合っていくことなんかできない。今でも宏伊くんが好きよ。なのに、恭介さんに惹かれるの。恭介さんが私のことなんか見てないってことがわかるのに」 小さくか細い声で、川島は続けた。それは多分独り言だったのだろう。 「宏伊くんがこんなことなかったことにしてくれて結婚したとしても、恭介さんに会ったら、多分私、また寝ちゃうわ。それは確かよ。宏伊くんが大好きなのに。だから、もうダメ。もう、どうにもならない」 柚木には、川島の痛みがわからなかった。自分が彼女を、そして宏伊を傷つけてしまったことはわかったが、その痛みを想像してみることさえできなかった。 「柚木は、本当に人の痛みがわからないんだな」 二日後、腫れた顔のまま訪れた柚木から、事情を聞いて、高林は憐れむような表情をつくった。柚木の切れた唇の端を、高林の、意外に繊細な指がなぞった。芸術家の指だ、と柚木は思った。 「柚木には、人間はみんな『へのへのもへじ』か」 「ちがう」 突然あふれ出た涙に、柚木自身が驚いていた。わけのわからない衝動にかられるまま、柚木は、高林に身を投げ出した。 「待っていたんだ、本当は」 そう言いながら、高林に口づけた。 柚木は思い出していた。高林の行動を待ち続けた高校時代を。彼の視線を横顔に受けながら、ずっと待っていた。一度も、見返すことなどしなかったくせに。 「ぼくの気持ちを知っていた?」 抱きとめた高林が静かにたずね、柚木は首を振った。 「わからない。確かに感じていたような気もしたし、ぼくの思い込みかとも思っていた」 卒業式の日、相沢たちの誘いを断って、誰もいなくなった教室に一人残っていたのは、わずかな期待を抱いてのことだった。もう学校で顔を合わせることもなくなる。卒業してからも連絡を取り合うほど親しい間柄ではない。これが最後なのだから、と。 けれど高林は来なかった。あれは幻想だったのだと思った。柚木はいつも寄せられる好意しか知らず、誰かを求めることなど考えられなかった。 「どうして、何も言ってくれなかった?」 責めるような柚木の言葉に高林は答えた。 「柚木には、ぼくは必要じゃないと思っていたから。いろんな女の子たちと付き合っているのを見ていたから」 「高林、きみがほしい」 それは、柚木の初めての告白だった。手応えのないまま、何人かを傷つけてきた柚木は、高林に傷つけてほしいと願った。川島の痛みを実感したかった。 柚木は、手を伸ばして高林のシャツのボタンをはずした。もう一度口づける。ずっと、ここではないどこかが、自分の居場所だと思っていた。けれど、確かに『ここ』にいる自分を感じさせてほしい。壊されてもいいと思ったのに、高林はひどく優しくて、柚木は余計にせつなくなった。 「好きだよ」 高林は、柚木の耳元で何度も囁いた。 「ぼくは、高林がぼくを変えてくれるのを、待っていた。本当にずっと待っていたんだ」 すべてが終わったような気がして、柚木は小さく呟いた。 「だけど、高林の好きなのが『ぼく』なら、変わったぼくを受け入れてはくれないだろう。それがわかっていたから、怖かった。高林はぼくにとって『出口』だったんだよ」 それは柚木が、気づかないふりをして見ないようにしてきたことだった。誰かに執着する自分などいないと思っていた。特定の誰かが自分にとって特別だと認めてしまったら、どうにもならない弱みを抱えることになる。 高林は多分、誰にも執着することのない自分に惹かれたのだろうと柚木は考えた。手に入らないものだから尊く見えたのだ。弱みを抱えた自分は、高林にとって何の意味も持たなくなるだろうという予感がした。 「ぼく自身、柚木の何に惹かれているのか、わからないんだ。ぼくに変えられる程度のことなんて、多分柚木の本質とは、何の関係もないよ」 「そんなに簡単なことじゃないよ」 高林の言葉を、自分を宥めるためのものととって、柚木は声を荒げた。 「ぼくは、多分とても高林を好きなんだよ。だから、もうダメなんだ。出口を抜けてしまったら、もう戻れない。高林が好きだと言ってくれた『ぼく』は、もういないんだよ」 失くしてしまった自分が哀しくて、柚木は嗚咽した。高林は柚木を引き寄せ、髪に口づけた。 「永遠に不変のものなんてない。まして人は変わっていくのが当たり前じゃないか」 「そうだよ。だから悲しいんじゃないか」 濡れた目で、柚木は真直ぐに高林を見つめた。こんなふうに真直ぐに見つめることさえ、以前はしたことがなかった。 「柚木は、柚木だよ。どんなに変わっても。柚木自身にさえ、わからなくても。確かにあるはずだよ、『きみ』ってものが」 そして高林はほんの少し沈んだ声で付け加えた。 「もしかしたら、それはぼくにもわからないものなのかもしれない。柚木の言っていることのほうが正しいのかもしれない。ぼくだって変わっていくだろう。だけど、永遠は誓えないけれど、それでもぼくは柚木が好きだよ」 それだけじゃダメかと訊かれて、柚木は首を振った。 「いいんだ。変わることを望んでいたんだから。ただ……そう、少しせつないだけ」 それから二週間ほどで、高林の絵は一応の完成をみた。 「これは、ぼくの残像だ」 絵の前に立ち、柚木は真直ぐに高林を見た。 高林が描いた絵の中の柚木は、まだ十代の少年のようで、こちらを見ているのに見ていない、視線の定まらない瞳をしていた。 「ぼくは、大学に戻るよ」 軽い口づけを交わした後で、柚木は静かに告げた。 「留学試験を受ける。通るかわからないけれど、もうしばらく会わない」 二週間考えた結果だった。高林は信じられないという目で柚木を見つめた。 「どうして? どうして、急にそんなこと言い出すんだ」 「だって、わかっていることだろう? ぼくたちの関係は、いつか終わるしかない」 柚木は、小さな子供をあやすような口調になった。 「そんなこと言うなよ。ぼくは誰よりもきみが好きだ。恭介が、大学に戻るっていうなら、ぼくも一緒に東京に行くよ」 高林の真直ぐな言葉を、柚木はとても愛しいと思った。一生胸に抱いていくに足る大切な思いを得た気分だった。 「ぼくは高林が好きだ。言っただろう、きみは『出口』だって。ぼくも変わるし、高林も変わる。滞まってはいられないんだ」 「一緒に変わっていったら、いいだろう」 高林の熱心さを柚木は悲しく感じた。諦めるように目を閉じて首を振った。 「ダメだよ。高林は特別なんだ。きみは、ぼくの日常には、ならない。うまく言えないけれど、ぼくは高林が本当に好きで、きっときみの言うような関係には、なれない。きみは『出口』だから、ぼくは通り過ぎるしかないんだ」 高林は顔を歪めた。 「恭介の言っていることがわからないよ」 「ぼくにだって、わからない。だけど…」 柚木の言葉は、高林の口づけに遮られた。押しのけようと、もみ合ううちに、柚木は高林に噛み付いてしまった。 「そうやって、逃げるのか」 口の端に血を滲ませて、高林は柚木を睨んだ。 「変わるなんて、嘘だ。柚木は、変わるつもりなんかないんだ。ぼくを好きだとか、特別だとか言って、また新しい殻を作ってるんだよ。そうやって、誰のことも愛さないつもりなんだろう」 柚木の口の中に高林の血の味がしていた。高林の目に憎しみが浮かんでいるように感じた。 「ぼくの気持ちを受け入れたふりをして、免罪符を手に入れるつもりなんだ」 「そんな、そんな……きみに、何がわかるって言うんだ」 思いもかけない高林の弾劾に、柚木の涙が溢れ出した。高林も泣いていた。 「わからないよ。わからなくちゃ、愛する資格がないっていうのか。資格なんか、あるもんか。気持ちの向かう先に理屈なんかつけられない」 ソファに崩折れるように座って、高林は俯いて顔を覆った。 「恭介が、どんな言葉を使ったってダメだ。ぼくたちが離れる理由になんかならない」 そう言って嗚咽した。柚木は思わず近づいて高林を抱きしめた。痩せた広い肩を抱き、耳元で囁く。 「ぼくたちが一緒にいると、みんなを傷つけるよ。倉橋さんだって、きみのお母さんだって、ぼくの家族だって。そして、お互いに傷つくことになる」 高林は涙に濡れた目を向けた。 「だから、なんだ? ぼくはそれでも恭介が好きだ。それは変えられない」 強い口調で言い切り、ふいに自嘲めいて付け加えた。 「きみにとって、ぼくがそれだけの価値がないんなら、仕方ないけれど」 「そんなこと!」 柚木は激しく否定した。柚木にとって、高林を好きな気持ちは、絶対に偽りのないものだった。 「ぼくが怖いのは、高林が傷つくことだよ。そして後悔することだ」 それだけが怖かった。高林がいつか柚木を好きになったことを後悔するのではないかと怖れていた。今のように真直ぐに柚木を見てくれなくなるとしたら。 高林の手が柚木の頬に触れた。 「正直に言えば、絶対に後悔しないって自信はない。けれど、変わるっていうのは、そういうことも全部含めてのことじゃないか。そうやって怖れているばかりじゃ、何もできないよ」 高林の率直さに、柚木は少し救われた気になって、わずかに笑みを浮かべた。 「ぼくは、高林のことを一番大切なものとして、封印したかった。高林は、それを許してくれないんだな」 高林の手に自分の手を重ねるようにして、そっと頬からはずした。そのまま指先に軽く口づける。 「封印なんて」 高林は笑った。 「ぼくは宝箱に納まるガラじゃないのさ。きみの宝石になるよりは、幼児用の毛布になりたいよ。ズタボロでも手放せない、みっともない相手がいいんだ」 「やっぱり、そういう未来を見せられると、やめようかって気になる」 拗ねた口調で冗談めかしながら、柚木はちらりと本音をのぞかせた。 「残念だな。モノは捨てられたら終わりだけれど、こっちも行動する生き物だからな。今のところ離れてやるつもりはない」 きっぱりと言い切られて、柚木はとうとう笑い出した。涙のせいでこわばった頬のままで笑い合える相手に、気恥ずかしさのなかで、胸の痛くなるような幸福を感じていた。 美しさのかけらもない未来を想像しながら、それでもいいと思える自分を、そう思わせてくれる高林を、ただ誇らしく思った。 |
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