天気雨

―前編―

「結婚しようか」
 自分が口にした言葉だ。今さら恋人へのプロポーズを後悔してるとかそんなんじゃない。でも、すっきりしない。
 俺は三本目の煙草に火を点けて、窓に近づきカーテンを引き開けた。部屋の中の明かりが反射して外は見えなかった。ガラステーブルに放り出したライターのたてた音が耳の中でしつこく反響してる。あの時、俺があいつから奪って放り投げたライターみたいに。──嘘だ。あの時ライターは、開いていた引き戸を越えて隣のキッチンまで飛び、リノリウムの床で鈍い音をたてた。
 部屋の明かりを反射するガラスが鏡のように自分の顔を映すのが嫌で、窓の施錠を外して開け放つと、俺は夜の中に半身を乗り出した。
──あいつのせいだ。
 煙とともに吐き出す想いはあやふやですぐに闇に紛れてしまう。確かめることができない幻と同じだった。


 週末のデートで、俺は恋人の麻里から彼女の海外転勤が決まりそうなことを知らされた。一年か二年、もしかすると三年くらい行っていることになるという。それが就職した当時から麻里自身の希望していた仕事であることを知っている俺には、反対する理由なんかなかった。けれど、せめて約束だけはしておくつもりになった。
 学生の頃からの付き合いで、俺はきっと麻里と結婚するだろうと前から思っていた。彼女の海外転勤は、漠然と考えていたことを、はっきり形にする機会になっただけだった。
「え?」
 麻里はとまどったように俺を見返した。「結婚しよう」と言った俺の言葉をうっかり聞き逃したようにも見えた。
 おぼつかない表情の麻里から、俺はわずかに視線をそらし彼女の胸元を飾る小さなペンダントを見た。見覚えのあるそれは、学生時代、麻里の誕生日に俺からプレゼントしたものだった。それを買いに行く時、俺はあいつを付き合わせた。
「いや、行く前にしようって言うんじゃない。ただ、せめて約束だけはしておきたい」
「元也」
 小さく名前を呼ばれて、俺は椅子の上で姿勢を正し改めた口調で彼女に申し込んだ。
「麻里、俺と結婚してくれないか」
「いいの?」
 麻里は軽く唇を噛むようにして俺を見た。
「訊きたいのは俺だよ。イエス? それともダメ?」
 思わず苦笑した俺から、麻里は視線をそらし、両手で囲んだグラスの中を覗き込むようにして頷いた。
「元也がいいなら……イエス」
「なんだか微妙な返事だな」
 笑ってしまった俺は、その微妙な返事の意味を訊ね損ねた。


「私、今日は少し……なんだか疲れたみたい。このまま帰るわ」
 店を出てそう言った麻里と別れて、アパートに戻ってきた俺は、すぐに大学の同級生だった国立に電話をかけた。
「俺、結婚するよ」
 国立は何も言わなかった。「そうか」って、ただそれだけ。
──俺のことが好きなくせに。他に言うことはないのかよ。
 胸の内でその台詞を繰り返しながら、俺は一人でバカみたいに麻里との結婚までの経緯を語っていた。乱れることなく返ってくる相槌に苛立って、口先だけの言葉がいくらでも湧いた。
「考えてみたらさ、六年、もう六年も付き合ってるんだよ、俺たち」
 そしておまえとの関係は四年だ、国立。受話器の向こうの国立がどんな表情をしているのか、無性に確かめたかった。
「少しは焦りもあるよ。麻里の会社で海外転勤ってやっぱ栄転じゃん。俺、ちゃんと麻里にふさわしい相手になれるかな。あいつが帰って来た時に胸を張って迎えられる男でいたいんだ」
 一方的な電話を切っても、俺はモヤモヤした気持ちのままで、眠りにつくことができず、部屋の窓を開けたまま明け方まで煙草を吹かしていた。生ぬるい風の吹き込んでくる夜の彼方で、国立は何を考えているだろう。


 週末休みの間に国立が来るんじゃないかと、心のどこかで期待していた。土曜も日曜もずっとアパートにいた。月曜の朝が来るまで、俺はずっと待っていた。
 今度こそ、これが最後のチャンスだって、今しかないんだって、俺は国立に伝えたつもりだった。
 あいつが言葉にしてくれたら、俺だって何か答えが出せるんだ。麻里と国立の間でふらふらしている自分の気持ちに決着をつけられる。
 日曜の夜は眠れずにそのまま月曜の朝を迎えた。もう来るはずのない時間になっても、最後のタバコが終わっても、俺は国立を待っていた。
 いつもそうだ。国立は俺の期待を裏切る。俺は待ち続けるばかりで、そうしてあいつは来ない。


 翌日の昼休み、同僚と連れ立って会社のビルを出てきたものの、寝不足のせいで食欲がなかった俺は、ビルの谷間のポケットパークの入り口で立ち眩みを覚えて足を止めた。先を歩く同僚たちは話に夢中で気づかずに、一人立ち止まった俺をその場に残して行ってしまった。
 立ち眩みはすぐに治まり、俯けていた顔を斜めに上げれば、コンクリートに挟まれた、申し訳程度の緑が視界に入ってきた。形だけのアメニティースペースに植えられているのは、幹の細い、上にだけ伸びてしまったような、頼りない木々。今まで何度もその前を往復していながら目を止めたことなどなかったのに、ふいに気になって、俺は一本の木の前に立った。
 見上げれば、風になぶられる葉がちぎれそうにはためいて、それでも枝にしがみついている。その木の名前を俺は知らない。俺と国立の間にある感情の名前を、俺は知らない。


 俺と国立は大学の同級生だった。最初に交わした言葉も、初めて顔を合わせた状況さえ覚えていない。特に親しくなるきっかけなどなかった。いつのまにか同じグループの中にいた。特別なことなど何もない、そんな相手だった。
 国立の視線に気づいたのがいつだったかさえ、俺には定かではないんだ。仲間内でふざけている時、同じ講義を受けている時、ふとした瞬間に、俺は自分の上に据えられた国立の視線を意識させられた。
 四六時中、あんなに真直ぐな目で見つめられていたら、誰だって気づく。
 初めのうちは気づいた俺が視線を返すたびに微妙にそらされていた国立の目は、やがて俺から外れなくなった。見つめ合った後で先に目をそらすのは、俺の場合もあったし国立の場合もあった。
 だけど国立は何も言わなかった。四年間ずっと言い出すことなく、俺を見ていた。
 俺はそれに気づいていて、あいつを挑発し続けた。麻里と付き合い始めた時にも、初めて寝た時にも全部、真っ先に国立に報告した。俺はホモじゃないんだって諦めてもらうためだなんて、最初は自分自身さえごまかしていた。
 本当はちがう。ただ見ているだけの国立が、俺には苛立たしかったんだ。


 ぼんやりと街路樹を見上げていた俺の頬にポツンと何かが当たった。
「やだ、天気雨」
 通りの向こうで声が上がる。どこかはしゃぐような響きを含んでいた。
 明るく晴れた空から、ポツポツと大粒の水滴が落ちてきて、俺の額や鼻を打つ。
 足元に視線を落とすと、気紛れな雨が、アスファルトに一瞬だけの模様を描いては、次々に蒸発していった。
 もう一度空を見上げた時、梢の透き間から、ふいうちの雫が俺の右目に飛び込んできた。
「あっ」
──明日、天気になーれ
 自分の声が耳に蘇る。


 大学生活も終わりに近づいていた十月の帰り道。その日俺はどうしたはずみでか、国立と二人きりになってしまった。それまでは無意識に避けていたシチュエーションのはずだった。
 西に傾いた太陽が道沿いの家の屋根や塀を赤く染めていた。昼間の暑さはどこに消えたのか、シャツ一枚の腕がひどく寒くて、隣を歩く国立の体温がやけに熱く感じられた。
「あーした天気になぁれッ」
 二人肩を並べて歩く息苦しさから逃れるように、俺は声を張り上げると、履いていたサンダルを蹴り上げた。単純な弧を描いたサンダルは、そのままの形を保って進行方向のアスファルトに着地した。
「よし、晴れ!」
 片足跳びで着地点に身体を運び、サンダルに足を入れた俺の背後から国立の声がした。
「明日は雨が降るよ」
 静かな声が預言のように響いた。
「降らねーよ」
 俺は振り返ることなく歩き出しながら言った。
「降るよ、雨」
 立ち止まったままの国立の声。
 数歩進んだ後で俺は足を止めて振り返り、その場を動かない国立の元へ駆け戻った。
「降るわけないだろ。見ろ、この夕焼け」
 胸が痛くなるくらいに世界を桃色に染めて。
「明日は晴れに決まってんだよ」
 俺は、国立との距離が縮まることも開いてしまうことも怖かった。行動に出ない国立に苛立ちながらも、バランスを崩すことを怖れていた。国立といると俺の中には形にならない焦燥だけが募っていった。
「じゃあ雨だったらどうする?」
 夕焼けに染まった国立の表情は周りの景色に滲んで、俺にはうまく読み取れなかった。
「明日、雨が降ったら、麻里とのデートをキャンセルしろよ」
「…何、それ? 意味わかんねーよ」
 沈黙にとり込まれる寸前、俺はかろうじて声を吐き出した。
「賭けをしよう、元也。明日の天気、もし雨だったら罰ゲームとして麻里との次のデートをキャンセルするんだ」
 一方的な賭け。俺は頷かなかったが否とも言わなかった。
 翌日、雲は多かったけれど確かに晴れていた空は、昼過ぎにイタズラめいたにわか雨を降らした。学生会館のロビーにいた俺は、駆け込んできた数人の悲鳴が高い天井に反響するのを聞いた。
「雨! もう、いきなりひどい!」
「すぐに止むんじゃない? 空、明るいもの」
「雨が降るなんて予報なかったのに」
「このくらいなら雨っていうほどじゃないわよ」
 誰かの言葉通り、すぐに止んだ雨は、数分後にはその気配さえ残さなかった。


 その週の土曜日、俺は国立の部屋にいた。「詐欺みたいな雨だ」と散々毒づきながら。
「別に俺は麻里とのデートをキャンセルしろと言っただけで、俺と一緒にいろとは言ってないぞ」
 わざわざ言ってくる国立の言葉が癪に障った。
「デートのはずだったんだから、他の予定なんかないんだよ。俺を暇にした責任を取れよ」
「俺、卒論をやらなきゃいけないんだ。元也の相手してる暇はない」
「うるせ。マンガ借りるぞ」
 勝手に棚から引き出したマンガを抱えてベッドに仰向けに寝転べば、耳の脇からかすかに国立の匂いが立ち昇った。
──雨っていうほどじゃないわよ
 頭の片隅で知らない誰かの声が責めるように響いた。
 静かな部屋に、国立の打つキーボードがリズムを刻んでいた。俺はマンガを読みながら、息をつめてその音を追う。
「元也」
 ふいに止んだ音の後で、俺の名前。返事をしない俺に、国立は再びキーボードを打ち出しながら続けた。
「元也。もう行っていいよ」
「何が?」
 俺はページを捲りながら聞き返した。長い指が刻む、乱れることのないリズムが俺の心拍まで支配しているようだった。
「麻里のとこ。一度キャンセルしたんだから、それで罰ゲームは終わりでいい」
「今さら何言ってんの?」
 俺は国立のほうを見ることなく返した。
 国立の好むマンガは、哲学的すぎて俺には理解できない。コマワリが少なくて、文字も少ないから、読むというより眺めているしかない。マンガの内容が頭に入らないのはそのせいだ。
「俺は麻里に、どうしても抜けられない重要な用事ができたって言って断ったんだぜ? 今さら行けるがわけないだろ」
 俺はその日が終わるまで国立の部屋にいて、あいつの打つパソコンの音を聴いていた。


 あの日と同じように天気雨はあっさりと通りすぎて行った。ビルの彼方の空、雨雲らしい影が風に流されていくのを見送る。雨の前と後と、広場の頼りない明るさに変わりはなかった。


 同僚の行ったであろう店に向かう途中、見慣れた青い表示が目に入った。地下鉄の入り口。母親に手を引かれた幼児が、ぎこちないけれど迷いのない足取りで、一段また一段と階段を下っていく。
 その姿をぼんやり眺めていた俺は、小さな背中が見えなくなったところで、ポケットの携帯を取り出し、会社に早退の連絡を入れた。
 東京駅に出て窓口で切符を買い、新幹線に乗り込む。横浜駅を過ぎたあたりで携帯が鳴った。デッキに出て発信元を確認することなく耳に当てた携帯からは意外な声が聞こえてきた。
──元也?
「麻里」
──今、どこ?
 訊ねた麻里は俺の返事を待たずに続けた。
──名古屋?
「……どうして」
 かろうじて問い返した俺の耳に、静かな声が囁く。
──国立くんのところ。ちがう?



後編







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