卒業式の日、俺は国立の部屋に泊まった。「アパートを引き払ってしまったから」、そんな理由をつけて。
　卒業したら、就職のために上京する俺と、院に進学して大学に残る国立は離れ離れになってしまう。それなのに、最後まで何も言わないあいつがじれったくて、頭に来てて。
　国立があんな目で俺を見なきゃよかったんだ。最後まで黙っているつもりなら最初から気づかれるようなことをしなければいい。行動に出る勇気がないんだったら、態度にも表すな。
　卒業にかこつけて、たくさん飲んだし、国立にも飲ませた。
　飲んだ勢いで、あいつと、寝た。
　何も言わずに終わりにするのは卑怯だとなじりたかった。
「もう会えないんだぜ」
　俺はその夜、何度もそう口にした。それでも国立は「そうだな」と頷くだけで。
　それが悔しくて。ひたすら悔しくて。
　俺は、煙草に火を点けようとしていた国立の手からライターを奪った。俺を見返した国立の目に視線を据えたまま、そのライターを国立の後ろに放り投げる。国立の頭上を越えたライターは、開け放したままの引き戸の向こう、キッチンの床に落ちてリノリウムの上を滑った。
「俺は、知ってんだよ」
　吐き出した悔し紛れの台詞に、ようやくあいつの手が伸びてきて、俺に触れた。国立のもう一方の手が、火をつけていない煙草を口から外すのを見て、近づく国立の顔を見て、俺は目を閉じた。
　最後の思い出だって、そう考えたんだ。もう会えなくなるから、最後だから。

　…最後なんて、ないんだ。

　卒業してからも、大学の近くで用事があるごとに、俺は国立の部屋に泊まった。
　国立はいつでも「ごめん」と謝る。肝心なことは一度も口にしたことがない。「好きだよ」の言葉さえなく、俺にどうしてほしいかを言わない。
　俺たちの関係はいつまでも曖昧なままだ。
　身体を繋げることになんか、何の意味もなかった。国立が俺の何なのか、俺は自分にさえ説明できない。
　国立が悪いんだ。あんな目で見るくせに俺に何も言わない。国立はずるい。


──知ってたよ、私。元也と国立くんが……
　麻里は言葉を探すようにつかのま言いよどんだ。
──…二人の関係を私、知ってた。…キスマークついてたから、元也の肩
　誰もいないデッキで、俺は呆然として麻里の言葉を聞いていた。肩に国立の唇の感触がリアルに蘇って肌が粟立つ。
──ゼミの竹内くんの結婚式の時、元也は国立くんのところに泊まったでしょ。その時に見つけた
　小さくため息のような笑い声が聞こえた。
──国立くんのところに泊まったって言うのが嘘で、他の女の子と浮気したのかなって、普通はそう考えるよね。でも、私は……そんなことちっとも浮かばなかった。ああ、やっぱりそうなんだって、とうとう証明されちゃったって、そういうふうにしか考えなかった


　コンビニ裏の学生用アパートに、国立はずっと住んでいる。三人も乗れば窮屈に感じるエレベーターには嫌な匂いが染み付いているから、四階までを階段で昇って行く。月曜の午後はゼミのはずだった。なんとなく覚えてしまった国立の日常。予想通り、俺が着いた時、国立の部屋は留守だった。
　麻里からの電話がどんなふうに切られたのか、すでに記憶が曖昧だった。何も言えなくなった俺に、麻里も無言のまましばらく時間が過ぎた。「仕事中だから切るね」と彼女が言ったような気がする。
　今すぐ東京に戻って麻里の元へ行くべきだ。そう感じながら、俺は国立の部屋の前を動けずにいた。
　日が傾く頃に帰ってきた国立は、ドアの前で待っていた俺に少し驚いた顔をしたが、黙って俺の前を通りすぎ、ドアに鍵を差し込んだ。前に会った時より髪が伸びているようだった。
「何かあったのか？」
　なにげない口調で訊ねてくる国立の平静な態度に、憎しみに近い感情が湧いた。週末の自分の姿が蘇る。夜に目を凝らして、来ない男をずっと待っていた。
　俺は鍵を開けた国立の背中に言った。
「麻里にバレた」
　振り返らずにドアを開けて中に入る国立の後ろについて、玄関に足を踏み入れた俺は、スニーカーの紐をほどいている無表情な横顔に言葉をぶつけた。
「キスマークがあったって、俺の肩に。麻里が言ったんだ」
　反応のない国立に苛立ちが募って声を荒げる。
「どうしてそういうことするんだよ？　わざとやったんじゃないのか？　麻里に当てつけるつもりだったんだろ。わざと痕を残して気づかせるようなこと……」
「…じゃあおまえは？」
　スニーカーを脱いで玄関を上がりながら国立は俺を見ることなく静かに問いかけてきた。
「俺の身体にも、元也のつけた痕が残ってたよ」
　国立の顔が振り向く。
「俺にしがみついて、遠慮なく爪立てて。元也だって俺にそういう気を遣ったりしなかっただろう」
　淡々とした国立の台詞に、すうっと血の気が引いた。伸びかけの前髪の隙間から、色の薄い瞳が俺を見据えていた。
「おまえこそ、俺のこと自分のものだと思ってたんだ」
「ちが…」
「ちがわない」
　国立はまっすぐに身体を起こし正面から断言してきた。ふいの反撃に俺は喉を鳴らしてわずかにあとずさった。
「元也は傲慢で自分のことしか考えてない」
「ちくしょう！」
　反射的に殴りかかった俺の拳は、国立に止められた。手首に食い込む国立の指。
「…放せよ」
　国立の顔が見られなくて、奴のシャツのあわせに視線をおいて俺は呟いた。ストライプのシャツは国立の呼吸に合わせてかすかに上下していた。
「放せったら」
　力を込めて引き抜こうとしても俺の手首をつかんだ国立の指は離れなかった。
　いつも俺を見ていたのは国立のほうだった。国立の視線に気づかなければ、俺はこんな気持ちを知らなくて済んだ。
「放せ」
　悔しさが涙となって目の中に溜まっていく。こぼすまいとわずかに顔を上向けた時、国立が強引に唇を合わせてきた。その刺激で涙はあっさり堰を切った。頬を伝って口の中に入ってきた涙を逆にたどるように国立の唇が俺の肌をなぞっていく。
　俺は手をつかんだ国立に引きずられるようにして部屋に入った。脱ぐのが間に合わなかった靴がリノリウムの床に転がる。
「やめろ」
　制止を無視して俺の利き手をつかんだまま、国立はもう一方の手で俺のシャツのボタンを外し始めた。
「よせよ」
　絶望に近い気分で俺は叫ぶ。ボタンを一つ二つ外した国立は気を変えたのかその手を俺の腰に回し、抱え込むようにして床に仰向けに倒した。
　そのまま覆い被さってきた国立に喉元の顎に近い部分をきつく吸われて俺は喘いだ。痕を服で隠すこともできない位置だった。
　俺の手を放し、両手でボタンを外し出した国立の肘を、俺はようやく自由になった手でつかんだ。
「いつも、そうだ」
　国立はふいに手を止めて、わずかに身体を起こした。
「何？」
　上から見下ろされて、俺は声にならない声で訊いた。
「元也はいつもここをつかむ。下からこうやって」
　国立の視線が、肘をつかむ俺の手に据えられた。
「だんだん力を入れてくるから、俺の腕にはおまえの指の感触が残るんだ」
　俺は国立の肘からぎこちなく手を外した。
「おまえの指の痕が何ヶ月経っても消えないんだよ」
　暗い表情で言いながら国立は俺の服を剥いでいった。勃ち上がりかけていた前に軽く触れた指が後ろに埋め込まれる。
「んっ」
　俺は再び反射的に国立の肘を掴みかけた手を必死で床に押し付けた。時によっては半年近くも間を置く行為は、その度に抵抗を生んで、国立は俺に「ごめん」と謝る。
　けれど今、唇をかみしめる俺を国立は容赦なく責めたてていた。指で形ばかり慣らした後、国立は俺の腰を持ち上げ、自分は服を脱ぎさえせずにジーンズの前だけをくつろげて強引に身体を入れてきた。
「くっ」
　腰だけをしっかりと押さえられたまま、俺は浮き上がる手をどうすることもできなかった。指摘を受けた後では国立の腕にすがることもできず指が床をひっかいて滑る。
　ゆっくりと侵入してくる国立の熱。身体をかばって静かに息を吐きながらそれを受け入れる。いつもと同じ深さでいったん国立は動きを止めた。慣れない身体を強張らせる俺の腰の間で足の位置をわずかに変えて、より深く繋がったところで唇を寄せてくる。
「ふ……」
　体勢が作れない状態できつく吸い上げられて、俺は喘いだ。国立は唇を重ねたまま腰を使い始めた。
「あ……あ、やめ……」
　閉じられない口から漏れる哀願を国立は無視した。ほとんど舌を噛みきるような強いキスをくり返し、乱暴に突き上げてくる。
「……んっ、く……っ」
　しばらくして低く呻いた国立は、一方的に俺の中に欲望を注ぎ込んだ。
「国立……」
　それで終わりではなかった。荒い息を吐いた国立は、再び俺の腰を抱え直し、今度は中のポイントを狙ってきた。
「ひっ。や……、あ……っ。う……う」
　息をつく隙もないほど責め立てられて俺は恐怖に近い感情を味わっていた。
　国立は俺のポイントを知り尽くしているというように、そこだけを執拗に責め続けた。煽られて熱を帯びた身体を持て余し自分で前を弄ろうとした俺の手は、国立に遮られた。
「後ろだけでいけよ」
　冷たい言葉を投げつけて、ぐっと突き入れてくる。浮いた腰の下で両手が床に縫い止められていた。
「あ……あ……」
　感じているのが快楽なのか苦痛なのかわからない。混沌とした国立への感情と同じように、ただ俺を昂ぶらせる。受け止めてくれるものもないまま中心で屹立している自分の欲望が浅ましく厭わしい。
「いやだ」
　すべてを否定したくて頭を振る俺を、国立は何度も突き上げた。声にならない声が俺の名をくり返し呼ぶのを、俺は肌で感じていた。
　これが、最後、なのだろうか。
「国立、も……」
　もう許してくれ。
　もっと欲しい。
　どちらも口にできないまま、頭がしびれ浮遊するような感覚に、俺は混乱して子供のように涙と嗚咽を漏らし続けた。


「もう会わない」
　俺は言った。
　息もつけないほど苛まれ、声を嗄らすまで泣き喚いて、それでも必ず終わりはくるのだ。
　泥のように感覚をなくした身体を床に横たえた俺の隣で、国立も荒い息を吐いていた。身体を離した後の触れ合わないわずかな距離が絶対に感じられて、絶望に近い気分を味わう。
　こんな夜を俺たちは嫌になるほど何度もくり返してきた。
　しばらくして俺は起き上がって、身体を引きずるようにしてシャワーを使った。
　浴室に置いてあったバスタオルで髪を拭くと国立の匂いがするような気がした。服を持たずに来てしまったので、しかたなくそれを腰に巻いて出ていくと、シャツをはおった国立がソファで煙草をふかしていた。俺は視線を合わせず床に散らばった服を拾い集めて浴室に戻った。痛みをこらえて服を身に着けると、俺は国立の前に立って、「もう会わない」と告げた。
「俺は、麻里と結婚するよ。あいつが戻ってくるまで何年かかるかわからないけど、待つつもりだ。だからもうおまえとは会わない」
　国立は煙草を手に俯いたまま何も答えなかった。


　国立の部屋を出ると、すでに夜は更けて、わずかにコンビニの明かりが辺りを照らしていた。違和感の残る身体を引きずって大通りに出た俺はタクシーを拾った。ラッシュはとうにすぎたらしいが、ほぼワンメーターの距離に「地下鉄のほうが早いですよ」と渋っている運転手を無視して、俺は後部座席で目をつぶった。
　国立の吐息が身体中に残っている。

　繋がった下肢からでも唇からでもいい、どうにか二人溶け合えないかともがくように、肌を擦り付け合う夜をいくらくり返しても、俺たちの関係は変わらなかった。朝になって帰る俺を、国立が引き止めることはなかった。

　これが、最後なのか。
　身体の関係を清算して素知らぬふりで戻るような友情など、俺たちの間にはなかった。始めからあいつの視線に絡めとられて、二人でいることに息苦しさばかり感じていた。
　胸が痛い。
　俺は、国立のことを何も知らない。
　知っているのは俺を見つめるあいつの目だけ。

　駅に着いてタクシーを降りた。広い構内に人影はまばらで、蛍光灯だけが白々しい光を放っている。歩を進めるたびに身体の奥にうずくような痛みが走った。
　わずかの差で最終の新幹線に間に合わず、窓口で夜行列車の指定を取ろうとしている時に携帯が鳴った。
　ディスプレイに国立の名が表示されているのを確認して、しばらく出るのをためらった。
「もしもし」
　のろのろと応じた俺の耳にせき込むような国立の声が聞こえた。
──元也。今どこにいる？
「駅……」
　答えかけて不覚にも涙が溢れた。

　ちくしょう。
　俺は俯いて低く唸った。
　そうだよ、ずるいのは俺だ。国立が俺を好きなんだから、あいつから行動を起こすべきなんだと、ずっとそんなふうに考えていた。
　そうじゃない。俺が、国立を好きになっていたんだ。だけど俺には一歩を踏み出す決心がつかなくて、行動に出ないあいつに苛立ってた。
　国立が言ってくれたら、俺だって覚悟を決める。
　そんな言い訳ばかりを繰り返していた。
　誰も傷つけたくなかった。麻里を傷つけたくなかった。俺が、傷つきたくなかった。
「ほしいものがあるなら手を伸ばせよ」
　ずっと国立に言いたかった台詞。本当は自分に言ってたんだ。
　俺には、その勇気がなかった。

──駅の、どこにいる？
「どこって、新幹線の……」
──帰るな
　国立は俺の言葉を遮るように叫んだ。
──帰るな、元也。帰らないでくれ
　携帯の向こうで叫ぶ、国立のそんな声を俺は初めて聴いた。
「国立」
　俺は頭が麻痺したように何も考えられず、ただその名前を呼んだ。
──元也に伝えたいことがある
　国立はふいに声を和らげ、言い聞かせるような口調で俺に告げた。
──ちゃんと、元也の顔を見てじゃなくちゃ言えないことなんだ。だから帰るんじゃない
　国立の顔を見て伝えなければいけないことが、俺にもあった。言えなかったのは俺だ。洩れそうになった嗚咽をどうにか噛み殺す。
「わか……た。今、切符を取っているところだから取り消す」
　俺は国立にそう答えて携帯を切り、困惑の表情でこちらを窺っていた窓口係に、夜行のキャンセルを申し出た。

　窓口を離れ、あらためて国立に連絡を取ろうと携帯を開いた時。
「元也！」
　自分の名を呼ぶ声が聴こえて、はっと顔を上げた。コンコースの向こうに姿を現した国立は、あっというまに駆け寄ってきた。気づいたときには強い腕が俺を抱きしめていた。
「行くな」
　ふいに消えた距離に俺は呆然としていた。
「行かないでくれ。俺は……、元也が好きだ。おまえだけなんだ」
　耳の中にふき込まれた言葉が、静かに全身に浸透していくのを感じた。国立の言葉が手足の先まで行き渡り、その言葉に促されるように俺は国立の背に腕を回して抱き返した。
　国立のかすかな吐息が俺の首筋をかすめた瞬間、俺は鋭い胸の痛みを覚えた。欲しかった言葉を手に入れて、俺は取り返しのつかない悔いを知った。
　国立が少し身体を引いて、俺たちは視線を合わせた。国立の顔が、初めて見る人のように見えた。見つめ合い、言葉が出てこないまま唇を重ねる。
「「ごめん」」
　唇が離れた時、互いの口をついたのはまったく同じ言葉で、苦笑を漏らした国立に、俺は笑わずにもう一度「ごめん」とくり返した。
「どうして元也が謝るんだ？」
　困ったような顔で国立が訊ねる。俺はその唇に再び唇を押しつけた。
「俺は……国立が好きなんだ。ずっと好きだった。だから、ごめん」
　確かなものが欲しかった。自分は与えることができないくせに、国立が与えてくれるのを待っていた。自分が傷つきたくなくて、国立を傷つけていた。
「好きなんだ。……ごめん」
　誰も傷つけたくなかったんじゃない。俺は国立をこそ傷つけたかった。俺の心を奪った国立に復讐したかった。無口な国立の、言葉よりも雄弁な目に惹かれながら、自分の気持ちを保障してくれるものを求めていた。
　手に入れた言葉の苦い甘さを噛みしめる。
　告白と謝罪を交互にくり返す俺に、国立は何も言わず、俺を抱く腕に力をこめた。