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扉を叩くのは



 お昼過ぎの研究室。常に開け放たれたままのドアを律儀にノックしてから入って来たのは、四年生の須坂さんだった。
「あれー、史郎じゃん。ヒマだから早く来てラッキー」
 四限目のゼミに向けて、終わらない課題を必死でやっているところだったので、俺は自分の運の悪さを呪った。マジで終わらなくてあせっているのに、よりによって須坂さんが現れるとは。
 俺の姿を認めた途端、スキップして近づいてきた須坂さんに、助手の前原さんと木川さんがクスクスと笑った。
「須坂くんて、市野くんがお気に入りだね」
「そりゃーもう。可愛いでしょ?」
 前原さんたちは答えずただ笑っていた。俺を可愛いなんて言うのは須坂さんくらいのものだ。自虐的に考えていると、須坂さんは当然の顔でテーブルの向かいに腰を下ろした。げっ。
「あれ? 史郎、なんで嫌な顔するかな」
 パイプ椅子をギッと揺らして後ろに反り返る。須坂さんはそういう姿がやけに絵になる先輩だった。ヘタな奴がそんなことをすればすかさず「研究室の備品を壊さないで」と小言をいう前原さんでさえ、ウットリと見惚れたような視線を送っている。
 俺は仕方なく言い訳した。
「俺、次の時間当たってるんですよ。それがまだ終わってないんで、邪魔しないでください」
 四限のゼミでは英文のレポートを分担して訳していくのだが、おそらく今日は俺の番まで回るはずだった。
「うっそ、史郎が? 珍しい」
 須坂さんはヒュウと口笛を吹く真似をして「何があったんだ?」と下から覗き込んできた。俺は「ちょっと」と曖昧に答えて、英文から顔をあげなかった。今は相手をしている余裕はない。
「須坂くん、コーヒー飲む?」
 立ち上がった木川さんがポットの前でマグカップを振ってみせた。
「わ、ごちそうしてくれるんですか。ありがとうございます」
「あはは、インスタントだけどね」
 木川さんがいそいそとコーヒーを淹れ始める。俺の前にもカップが差し出されたので、一応お礼は言ったけれど、どうせ須坂さんのついでなんだ。
 同じ研究室の先輩で四年生の須坂さんは、誰から見てもかっこいいタイプだった。ものすごい美形というのとは違って、とにかくバランスのいい人という印象があった。率先してまとめ役になったりはしないけれど、人懐こくて誰とでも分け隔てなく接するから、人気があるのも納得できた。中には生意気だと嫌う人もいるみたいだが、院生や助手など年上からも可愛がられているようだった。
 そして、なぜか俺は須坂さんに気に入られていた。須坂さんとは正反対で、クソ真面目でつまらないと言われることも多い俺なんかのどこが面白いのか、何かと構ってくる。須坂さんの冗談にも俺はマトモな反応が返せないのに。


 きっかけはゼミのコンパだったと思う。
 初めの頃、俺は須坂さんを、自分とは別世界の人間、ほとんど芸能人のように感じていた。同じ研究室ではあっても、一番下っ端の三年生にとっては、教授や院生と屈託なくじゃれ合っている須坂さんは、遠い人に見えたのだ。そういう時、ぼーっと見惚れている俺に気づく度に、須坂さんの顔はふっと笑みを形作った。阿呆な後輩がいると目に止めていたのかもしれない。
 初めてのゼミのコンパ。その場を取り仕切っていたのは、四年生たちだった。まだぎこちない三年生に代わっていろいろと世話を焼いてくれた。須坂さんは中心で采配を揮うようなことはなかったが、さりげなく三年生にビールを勧めて回ったりしていた。
 しばらくして俺のところへもやって来た須坂さんは、無理やり席をつめさせて隣に坐ってしまった。三年生の中でも如才ない奴らは早速ビールを手にテーブルを回り始めていたが、俺は最初の席から動けなかった。
「市野史郎くん」
 すっかり出来上がっていた須坂さんは、にっこりと酔っ払いらしい笑顔で俺のフルネームを呼んだ。至近距離の先輩に、どぎまぎしている俺に頓着せず、ほとんど肩を抱くようにしてグラスにビールを注いでくれる。
「はい、飲んで飲んで」
 勧められた俺が一口飲んでみせると「あーダメダメ」と言って須坂さんは俺の手からグラスを奪った。ぽかんと見つめる俺の前でそのまま自分で呷ってしまう。目の前で無防備に上下する喉をきれいだなと思った。
 須坂さんは「ほら」と、空になったグラスを俺の手に握らせた。
「お手本見せてあげたんだから、ちゃんと飲むんだよー」
 再びビールが注がれる。
「須坂、無理強いすんなよ」
 テーブルの向こうから声がかかった。須坂さんと同じ四年生の富田さんだった。俺の選んだ研究室は女の子が少ないのが残念だったが、先輩に恵まれているのは確かだった。たった一年の差なのに、四年生がみんな大人に思えた。
「大丈夫。史郎は結構飲めるよ。ね?」
 いきなり名前を呼び捨てにされて驚いたが、「ね?」と首を傾げて笑顔を見せた須坂さんは可愛かった。男の先輩相手に可愛いもないけれど、素直にそう感じた。
 俺が「はあ」と曖昧に頷くと、須坂さんはイッキの音頭を取った。つられて始まった周りの手拍子に乗せられて、俺は仕方なくグラスを呷った。
「よしよし。よくできました」
 最後まで飲み干した俺を抱え込んで、須坂さんはがしがしと頭を撫でた。
「須坂、市野が気に入ったんだ?」
 向かいの富田さんにからかわれて、須坂さんはあっさり頷いた。
「そう。市野史郎くん、仲良くしようねえ」
「握手」と手を差し出されて、おずおずと出した俺の手を須坂さんはぎゅっと握った。その手を離さずに「俺の名前、わかる?」と訊いてくる。近すぎる瞳にドキドキした。
「須坂さん」
「サン、はやめようよ。同じ研究室仲間じゃん」
「じゃん」と言われても。
 困惑している俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑う。
「俺、サン付けされたら返事しないよ?」
「あの…」
 とまどって窺う俺に須坂さんは吹き出した。
「あっはは。史郎、可愛い」
 ぎゅうっと抱きしめられて、俺は真っ赤になった。この人、酔っ払い。
 そんなことがあって、研究室で俺は須坂さんのオモチャのような立場になった。
 俺が「須坂さん」と呼ぶ度に、彼は「サン付けには返事しない」と返し、周りの笑いを誘った。


「本当にどうしちゃったの? 真面目な史郎が課題やってないなんて、天変地異の前触れか」
 コーヒーを啜りながら、須坂さんが訊いてくる。なんでこの人、こんな早くに来たんだろう。おかげで課題に集中できなくて、正直迷惑だった。
「いろいろ、ちょっと」
「だから何、いろいろって」
「学祭の準備とか、そんなことですよ」
「ああ、学祭。もうすぐだな。史郎のとこは何やる予定?」
「うちは毎年同じです」
 美術部だから展示用の作品を仕上げているのだ。俺が美術部だなんてこと、須坂さんは知らないだろう。俺が初めて須坂さんを知ったのは、他ならぬ学祭の美術部のスペースでだったけれど。
「なのに準備忙しいんだ?」
「そりゃ俺、三年だし」
 卒研を控えた来年には時間が取れないと思えばこそ、今年の作品には結構力が入っている。ゼミの課題はもちろん頭にあったけれど、どうしても筆をおくことができなかった。
「ふうん。学祭って言えばさ」
「ちょっと黙っててくれませんか?」
 須坂さんの話を遮る言葉が思わず口をついていた。でもこれが終わらなきゃ一大事なんだ。
 口をへの字にして窺うと、須坂さんは驚いたように目を見開いていた。ああ、やっぱり失礼だと思われたかも。けれどすぐに須坂さんは目元を緩めた。
「OK。手伝ってやるよ。半分よこしな」
「え? いいえ、いいですよ」
 俺は慌てて断った。やるべきことをやっていなかったくせに八つ当たりしてしまった自分が恥ずかしい。
「ほら、早くしないと間に合わないだろ。素直に出しなさい」
 テーブルを回ってきた須坂さんは、俺の背に覆い被さるようにして、課題を取り上げた。背に当てられた手がやけに熱く感じられた。
「須坂くんたら、優しいんだ」
 前原さんがからかいの声をかけてくる。
「史郎は特別だから」
「やっだー、あやしーい」
 女の人って基本的にこういう冗談が好きなんだよな。だから須坂さんはいつもこんなことばかり言っている。どうせなら俺なんかを相手にしないで、もっとノリのいい奴とやればいいのに。
 俺は手早く辞書を捲り始めた須坂さんをこっそり窺った。やっぱりハンサムな人だった。いつも人をからかうような笑みを浮かべているけれど、こんなふうに真剣な表情をしていると、ひどくかっこよく見えた。
「史郎」
 顔をあげずに須坂さんは俺の名を呼んだ。
「見惚れてくれるのは嬉しいけど、早くやらないと終わらないよ」
「見惚れてなんかいませんよ」
 そっけなく返して、課題に気持ちを戻す。須坂さんはちらりと視線をあげてニッと笑った。
「そう? 残念」
 二人でやって、なんとかギリギリ間に合った。
「はい。意味しか書いてないから、文章は適当に入れて。間違ってたらカンベン」
「ありがとうございます。あの、お礼は…」
「お礼? ふふん、お礼してくれんの?」
 慌てて言いかけた俺の言葉に、須坂さんは唇の端をつり上げた。
「じゃあデートしてもらおっかな」
「は?」
「今度の土曜日、空いてる?」
「あ、はあ、まあ。あの…」
 とまどっている俺に頓着せず、須坂さんは畳みかけてくる。
「一時半に迎えに行くから」
「何、何が一時半?」
 ちょうどそこに入ってきた富田さんたちに訊かれて、須坂さんはにんまりと笑顔を向けた。
「今度、史郎とデートするんだ」
「はっはっは」
 みんなが吹き出す。
 冗談、なんだろうか。冗談だよな、やっぱり。


 土曜日。俺は朝から落ち着かなかった。休日だというのに八時に起きてしまった。デートというのは冗談にしても食事くらいおごれってことなのかもしれない。
 一時少し過ぎに携帯が鳴った。
「あと十分くらいで着くから」
 そんな言葉にますます落ち着かなくなった俺は部屋の外に出て待っていた。やがて見覚えのある車が角を曲がって現れた。アパートに横付けされた須坂さんの車は、ひどく磨きたてられているように見えた。黒い車体に青空が映っている。
 運転席から降り立った須坂さんは、近づいて行った俺に、さっそく文句をつけてきた。
「なんだよ、史郎。気合いが足んねーな。デートなんだからドレスくらい着て来いよ」
「はあ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げると、須坂さんは吹き出した。
「冗談。史郎にドレス着て来られたらたいへんだよ」
 デートっていうのはやっぱり冗談なんだよな。
「どうぞ、乗って」
 須坂さんは助手席のドアを開けて、俺を促した。乗り込むと外からドアを閉めてくれる。エスコートされてるみたいだ。
「車、ピカピカですね」
 運転席に回って来た須坂くんに言ってみる。
「そりゃー、史郎と初デートだもん。俺は気合入ってるよ」
 どこまで相手にしていいんだかわからない。こんな時、ノリで返せるような機知が俺にあればいいのに。
「どこか行きたいとこある?」
「いえ、あの」
「史郎、Hミュージアムに行ったことある?」
「ないです」
 Hミュージアムはバスや電車の通っていない山の中にあって、車がないと行けなかった。前から一度行ってみたいとは思っていた美術館だった。
「じゃ、あそこ行こうか」
「な?」と笑顔を向けられて、俺は頷いた。
 美術館に入ると、ちょうどギャラリートークが始まったところだった。せっかくなので俺たちは解説する学芸員の後について回ることにした。
「この作家たちはご存じでしたか?」
 展示室へと歩きながら学芸員が須坂さんに問いかけた。
「あ、全然。美術には縁がなくって」
 現代アメリカを代表する三人展ということだったが、俺も彼らの名前に馴染みはなかった。率直な須坂さんの答えに、学芸員が笑いながら言った。
「あれ、そうなんですか。美大の学生さんっぽく見えたんですけど」
 それを聞いて俺はクスッと笑ってしまった。確かにそう言われれば須坂さんには美術系の雰囲気があるかもしれない。美大生というよりは専門学校っぽいイメージだが。黒地に原色が混じったセーターを着ている今日は、まさにそれらしかった。
 ギャラリートークに参加したのは俺たち以外は二組のカップルだったし、他の客もほとんどが二人連れだった。観光地で、近くにはもっと一般受けする博物館があるから、家族連れなどはそちらに行くのだろう。
「カップルばかりでしたね」
 美術館を出て、車に乗り込んで俺が言うと「俺たちもカップルだろ」と須坂さんは笑った。
「日本では一般的に男女のことをカップルって言うんですよ」
「史郎は付き合ってる女の子いるの?」
「いません」
「史郎って女の子と似合わないよな」
「須坂さんとは違うからね」
 からかいに思わず口をとがらせた。
「そ。俺ってどんな女の子とも似合っちゃうんだよね」
 須坂さんは平然とそう嘯いた。ハンサムな顔だし、背も高いからかなりモテるだろうと想像はついていた。嫌味のないヤンチャ坊主みたいな性格も人気の一因といったところか。
 緩く続く坂道のカーブに、左手をギアに置いたまま、右手だけで優雅にステアリングをきる。動作の一つ一つが絵になる人っているんだよな。
 ぼんやりとそう考えていると、須坂さんはいかにも名案を思いついたというように笑いかけてきた。
「あ、史郎も俺とだったらお似合いじゃねえ? な、いっそ、俺たち付き合うっていうのはどうよ?」
 気の利いたつっこみを思いつけない俺はとりあえず笑い声をあげておいた。


 夕食のレストランを見つけるのに、少し手間取った。住宅街に乗り入れた須坂さんは、スピードを落として辺りに目を配った。
「この辺のはずなんだけど」
「行ったことないんですか?」
「うん。いや「うまい」って聞いてきたから」
 おごるんだったらあんまり高いところじゃないとありがたいなあ、などと内心思っていた。
「あった。到着」
 須坂さんが車を停めたのは、こじんまりした洋風のレストランだった。穴場としてデート雑誌にでも紹介されていそうな雰囲気。
「ここですか?」
 須坂さんが「不満?」と訊ねてくる。
「なんか、男二人で入るにはふさわしくないような」
「ま、いいだろ。初デートだから」
「ははは」
 いつまでこの冗談を続けるつもりなんだろう。
「今日、美術部のほうはよかったのか? 学祭の作品やってるんだろう」
 オーダーした後の須坂さんの台詞に、俺は少し驚いた。須坂さんは俺が美術部だと知っていたんだ。
「ええ。もう大体仕上がったんですよ。ゼミの課題やらなきゃいけないのわかってても、気持ちが絵にいっちゃうとなかなかやめられなくて。ご迷惑おかけしました」
 頭を下げると、須坂さんはクスッと笑った。
「ほんと、史郎って真面目だよな」
 俺は困惑して須坂さんを見た。真面目じゃないから課題が終わらなかったのに。
「今年はどんな作品?」
「須坂さん、俺の絵、見たことあるんですか」
 さりげなく訊かれて、思わず訊き返した俺の言葉に、須坂さんは少し唇を噛むようにした。
「あ、そういうこと言うんだ? 結構傷つくな、それ」
「え?」
 グラスの水を一口飲んで、須坂さんは真っ直ぐな目で俺を見た。
「一昨年の作品はまだある? それとも誰かにあげちゃった?」
「覚えてたんですか」


 大学に入って初めての学祭。俺は海の絵を出品した。画面の大部分を波が占める、見方によっては退屈な絵だった。それでもいい絵だとわざわざ声をかけてくれる人が何人かいた。その中の一人が須坂さんだったのだ。
 学祭で俺は一日目の受付を割り振られていた。付属高校の女子高生のグループがやって来て、なんだかんだと話しかけてきた。一緒に受付をやっていた奴らが喜んで相手をしていて、俺はただ曖昧な相槌を打っていた。
 その時彼が入ってきた。パーマのかかったハチミツ色の髪に目を奪われた。彼は受付の脇を大股にスタスタと通り過ぎて、俺の作品の前で足を止めた。少し背をそらすようにして、俺の絵を見ていた。痩せていてもバランスのよい後ろ姿だった。
「須坂」
 彼の後からついてきた仲間が呼びかけると、須坂さんは受付のほうに顔を向けた。
「これ描いたの、誰?」
「ああ、こいつ」
 隣の奴が俺を指すと、須坂さんは真っ直ぐに俺の顔を見つめた。茶色の瞳がゆっくりと一つ瞬きをした。そして笑った。
「なんだ、女の子じゃなかったのか」
 すかさず彼の仲間がつっこむ。
「バッカでー、須坂。ここに市野史郎って名前書いてあるじゃん。史郎って名前で女と思うか?」
「ほんとだ。あんまりきれいだったからさ、名前まで気づかなかったよ」
 言いながら、須坂さんは受付に近づいて来た。
「ね、あの絵ってさ、この展示終わったらどうなるの?」
「どうって、あの…」
「俺にくれないかなあ?」
「ははは、須坂、百万円かもよ」
 友だちにからかわれた須坂さんはおおげさに俺に詰め寄ってきた。
「ええ? そんなに取る?」
 彼の顔があまりに近づきすぎて、俺はパニックに陥りかけた。
「だめー、私のほうが先にちょうだいって言ったもん」
 女子高生の一人が甘えるような声で遮った。先ほどの他愛ない会話の中にそんなやり取りがあったのは事実だった。
「うっそ、マジで?」
「そうだよねー。権利はナツミにあり?」
「えー、ナツミちゃん、俺に譲って」
「どうしよっかなー」
 俺の意向など無視した形で女子高生たちと盛り上がっていた須坂さんは、ふいに俺に視線を戻した。
「じゃ、これからみんなでサンモリッツに行って話し合おうか。市野くんも来てよ」
 大学の隣の喫茶店を指定した須坂さんに俺は首を振った。
「俺はここの受付があるから行けません」
 須坂さんは下から覗き込むようにしてもう一度言った。
「先に行ってるから、終わったら来てよ」
 はしゃぎながら彼らが行ってしまうと、受付の仲間はがっくりと肩を落とした。
「ちくしょー、女の子横取りされたあ」
「市野、さっさと行って取り戻して来い」
「行かないよ」
 学祭の間、展示場に須坂さんが再び現れることはなかった。あれは彼の気まぐれだったのだ。


「覚えてたんですか、は史郎だろ。ちぇ、ずっと知らん顔してやがって」
 すねたようなしかめ面。それさえもかっこいい。そんな須坂さんの向かいに坐っているのが、どうして俺なんだろう。
「須坂さん」
「ほんと史郎って頑固だよな。俺、サン付けされたら返事しないっつってんのに」
「…」
「今は他の三年生が須坂くん呼ばわりなのにさ」
 運ばれてきた料理を切り分けながら、須坂さんは恨みがましく呟く。
「俺は、史郎にだけ、サン付けするなって言ったつもりだったのに」
 そんなふうに言われて、返す言葉が見つからなかった。須坂さんはナイフの手を止めて、俺を見た。
「俺は史郎と仲良くしたいんだけど、史郎は俺と友だち付き合いするのは嫌?」
「嫌じゃないです」
 直球の質問に、そのまま答えることしかできない。
 友だち。冗談を言い合って、周りを笑わせて。それを時々苦しいと思うのはなぜなんだろう。
「じゃあ、せめてサン付けはやめてくんねえ? もうずっと言ってるじゃん」
 なんだか懇願されているような気分になって、俺はただ頷いた。
「はい」
「ほら、今、呼んでみてよ」
 何度言われても俺には先輩を「くん」と呼ぶことに抵抗があって、それを須坂さんはわかっているから、ここで言わせようとする。なぜそんなに呼び方にこだわるのかと疑問だけれど、俺が先輩をクン付けできないことと同じように、多分たいした理由などないんだろうな。
 俺はおずおずと呼んでみた。
「須坂くん」
 須坂さんはちょっと眉を上げた。
「やっぱ名字?」
「え?」
「ま、いっか」
 訊き返した俺に答えず、須坂さんは料理に戻った。


「○○ホテル、あるじゃんか」
 須坂さんは国道沿いで嫌というほど看板を目にするラブホテルの名前をあげた。
 レストランを出た後、須坂さんの運転する車は夜景スポットに向かっていた。デートの定番コースを辿って、次のゼミでネタにする気かもしれない。
「こないだ松嶋さんが事故った話、聞いてる?」
「いいえ」
 ラブホテルから院生の先輩に話題が飛んだ。院生の松嶋さんはもろにお嬢さま系なんだけど、意外とスピード狂で、コンパの時などに車を出してもらうと誰が乗るかで結構もめるくらいだ。彼女、とうとう事故ったのか。
 須坂さんはいたずらを企んでいるように話を続けた。
「*号で、パチンコ店の駐車場から出てくる車に当てられちゃったんだけど、それが○○ホテルの看板のとこだったらしくて、いつのまにか○○ホテルの駐車場で当てられたって噂になってたんだよな」
「ぶっ」
 あっさり吹き出した俺の反応に、須坂さんは満足そうに唇の端をつり上げた。
「松嶋さん、めちゃめちゃ怒り狂ってたよ。デマを流した犯人を突き止めてやるって」
「ははは。それ、滝本さんと一緒の時だったんですか?」
 滝本さんは研究室は別だが松嶋さんの彼氏だ。
「それは知らないけどさ。噂流した奴、絶対わざとだよな」
「○○ホテルって看板多過ぎますよね」
「史郎はあそこ入ったことある?」
「ないですね」
「今日、行こっか? せっかくのデートだからフルコース」
 茶色の目がいたずらっぽく輝いている。
「あっはっは」
 俺は無理に声をあげて笑った。くそー、なんか切なくなってきたぞ。やばいんじゃないか、俺。
 俺は横を向いて、窓の外の景色を眺めるフリをした。両脇を木々に覆われた山道を登っている途中だから真っ暗闇で何も見えない。ガラスに映った自分の顔がひどく情けなく歪んでいる気がした。
 木が途切れて駐車場が見えた。車が数台停まっている。夜景を見に来たカップルにちがいない。須坂さんはその駐車場を無視してさらに上って行く。
「まだ上に行くんですか?」
「うん、もうちょっとな」
 時折、道の端に駐車している車があった。
「あ!」
 突然、須坂さんが声をあげた。
「なんですか?」
「さっきのカップル、車ん中でキスしてた。思いっきりライトで照らしちゃったから悪かったな」
「そりゃ、こんなとこに車停めてんのは、そのためでしょ」
 俺はそっけなく返した。
「ふーん」
「なんですか?」
「史郎、結構無感動じゃん。赤面くらいするかと思ったのに。じゃ、さ、俺たちもしよっか。車停めてキス」
 もうやめてほしい。なんで観客もいないのに、コントをしなきゃならないんだよ。俺、こんな冗談、本当に嫌だ。夕食に飲んだ一杯きりのカクテルで酔ったんだろうか。理由もなく滲んでくる涙を堪えるのが難しくなっていた。
 俺が何の反応も示さなかったので、車の中に沈黙が下りた。
 須坂さんは舗装された道が途切れるところまで行ってようやく車を停めた。近くに他に停まっている車は一台もない。フロントガラスを透して眼下に街の灯りが散らばっている。
「すっげーな」
 囁くような須坂さんの声は低くて、セクシーだと思った。
「あん中にいるとあんまり感じないけど、結構大きな街なんだな」
「そうですね」
 俺はようやくそれだけの相槌を打った。胸が苦しい。
「しーろお」
 須坂さんは節をつけるようにゆっくりと俺の名を呼んだ。
「なんか、怒ってる?」
「怒ってなんか、いませんよ」
「その言い方が怒ってるように聴こえる」
 須坂さんは俺の顔に手をかけて、そちらを向かせた。真っ直ぐに目を覗き込まれて、見つめ合う。
「キス、しようか」
 信じたくなる目だった。でも須坂さんの口元は半端な笑みを浮かべている。これは、冗談、なんだ。
「あはは」
 俺はどうにか笑った。
「須坂さ…須坂くん、本当こういう冗談、好きだよね」
 須坂さんが瞬きした。やけにゆっくりとした瞬きで、目を閉じたようにも見えた。須坂さんは正面に向き直って、ふふんと皮肉っぽく唇を歪めた。
 ズキンと胸が痛んだ。
「こういう冗談、もうやめてもらえませんか」
 俺はとうとう口にしてしまった。
「なんで?」
 須坂さんが驚いたように振り向いた。
「なんでって…」
 俺は口ごもった。シャレにならないから。俺が本気で須坂さんを好きになってしまいそうだから。
 言えない。
「史郎、俺のこと、嫌い?」
「…」
 須坂さんの質問は残酷だ。俺は俯いて唇を噛みしめた。
「そっか。嫌われちゃったんなら、しょうがないか」
 こっそり窺うと、須坂さんはハンドルの上に組んだ腕に顎を乗せていた。うなだれた須坂さんは躾のよい洋犬みたいだった。うがー、どうせいっちゅうんじゃ。
「俺、しつこくし過ぎた?」
 俺にとってはその質問自体がかなりしつこいよ。
 答えようのない俺に、須坂さんは大きくため息をついた。
「あのさ」
 なんだか緊張しているような声。コホン、なんて咳払いして。
「俺、本気なんだよね。本気で、史郎のことが好きなの」
「は?」
 ぽかんと見返すと、須坂さんは窓の外に目を向けて、ガリガリと頭を掻いた。
「だからぁ、冗談じゃなくってー」
 拗ねたように、横顔の唇が尖っている。
「俺、史郎が好きなんだ」
 言い様、ふいに振り向いた須坂さんの顔が近づいた。掠めるようなキス。
「ごめん。一回のキスくらい許してくれ」
 至近距離、泣きそうな目が俺を上目遣いに見ていた。
 俺は呆気に取られて、その目を見下ろしていた。
 ああ、この人。
 そうだ、須坂さんは時折、下から窺うような目をしてみせた。この茶色の目を俺はいつも愛しいと思っていたのだ。一緒にいて居心地が悪い気がしたのは、切ない気持ちにさせられたのは、そう、俺が先輩である須坂さんに対して、愛しさを感じているからだ。それを認めることができなくて収まりが悪かったんだ。
 先輩だから年上だから同性だから。尊敬とか憧れとかそういう意味の「好き」しかないと思い込んでいた。
 今、気づいた。
 かっこよくて大人でいつでも余裕のある人だと思っていた須坂さんは、本当は俺とは一歳しかちがわなくて。
 俺はふっと息をつき、唇を曲げて笑ってみせた。
「一回だけじゃなくていいですよ」



END






いちおうサイト開設一周年記念作品です。単に書いた時期が今だっただけのこと。2001.10.16




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