雪の日


 冬休みの間ずっと帰省していた臼井がようやく戻ってきたので、オレたちは奥田の家に集まった。奥田の部屋は母屋ではなくガレージの二階だから、家族に気兼ねしなくて済む。
 空は一面に白く曇っていて、空気の冷たい、やけに寒い日だった。オレはバイクしか持っていないから、いくら厚着をしてマフラーをぐるぐる巻きつけていてもこんな日に出かけるのはひどくつらかった。臼井に会うんじゃなかったら、こんな日には絶対出かけたりしない。予定なんか全部キャンセルしてコタツにもぐってるに決まっている。
 奥田の家に着いた時には、身体の表面が凍ってしまったかと思うくらいガチガチになっていた。勝手にオレたちの練習場にしているガレージの外階段を上って行って玄関を入り、奥田の部屋のドアを開けると、もう臼井はいて、オレの顔を見て「久しぶり」と笑顔を見せた。
「あ、うん」
 なんだか妙に照れ臭くなって、オレはちょっと俯いて頷いた。後ろ手にドアを閉めて、でも部屋のどこに腰を下ろしたらいいか迷ってそのまま立ってた。臼井は奥田のベッドを背にして坐ったまま、オレを見上げてもう一度にこっと笑った。
「あけましておめでとう」
「うん」
「どうしたの、小日向?」
 奥田がからかうように眉を上げて見せる。
「坐れば?」
 奥田は坐っている机の椅子をくるんと回して床を指差した。オレは仕方なくドアのすぐ前、立っていたその場所にしゃがんだ。臼井が奥田と顔を見合わせて「何やってんだよ?」と呆れたような声で訊いてきた。
 だって、久しぶりに臼井の顔を見たら、なんか、やっぱり照れる。ずっと会ってなかったから、ちょっとだけ知らない奴みたいな感じがした。付き合い始めてからはいっつも「バカ」とかって言われてばっかりだったのに、いきなり笑顔を見せられたからドキドキしてしまったんだ。
「うーっす、遅れた」
 高見の声とともに、ガチャッとドアが開いて、オレは背中を直撃されて転がった。
「イッテー!!」
「わっ…と、小日向、おまえなんでこんなとこに坐ってんの?」
「危ないから、ちゃんとこっちに坐れよ」
 臼井がオレの腕をつかんで、隣に引っ張ってくれたので、オレはそこに坐って膝を抱えた。
「久々だなー、臼井」
「そうだね。高見もあけましておめでとう」
「おう、おめでと。実家はどうだった? 友だちとかに会った?」
「別に誰にも連絡しなかったから。することなくて退屈だった」
 そんなことを言ってる臼井の横顔をこっそり窺った。キレイな顔。鼻筋がピッと通ってて、横から見ると睫毛が長い。いつのまにかマジマジ眺めていたら臼井がパッと振り向いた。
「何見てんだよ?」
「別に」
 慌てて俯いた。
「小日向ー」
 臼井が困った声を出す。そんな声出すことないじゃん。久しぶりだからどうしていいかわかんないんだよ。ちぇ、なんで高見と奥田と一緒に会うことにしたんだろ。どうせなら二人で会えば、再会のキスとかしてさ、こんなに照れなくて済んだのに。…キス、したいな。そういえばずっと会ってなくてずっとしていない。そんなことを考えたら臼井の口元から目をそらせなくなった。口元に視線が来るとスケベっぽいって誰かが言ってたな。中学の時のガールフレンドだったか。でもとにかく今は臼井にキスしたかった。
「どっか行こう」
「は?」
 オレの言葉は唐突に響いたらしく、三人がぽかんとした顔でオレを見た。オレはそれを無視して、臼井だけに言った。
「な、初詣行った? 今から一緒に行こ」
「初詣って行ったじゃんよ、二日に」
 高見が呆れた声を出した。オレは二日に高見と奥田と三人で初詣に行った。臼井が一緒ならよかったのに、とその時に思ったんだ。
「だから、おまえらはいいの。臼井と今から初詣行ってくる」
 奥田がクククと笑い出して、臼井は口をへの字に曲げた。
「バカ、今から初詣なんか行かないよ。すぐ暗くなっちゃうだろ」
「なんだよ、臼井のケチ」
 唇をとがらせると、臼井は「アホか」と呟いた。なんだよ、相変わらずかわいくない奴。でもいつもの感じが戻ってきてオレは少しだけほっとしていた。
「それより、これ聴いた? オレんちのほうって田舎だから、今日こっち来る途中でようやく買えたんだけどさ」
 臼井が持ち出したCDショップの袋を高見が開けた。年末に出た洋楽のアルバムだった。
「あ、オレも買った。いいよ、マジでいい。奥田と小日向にもダビングしてやったよな」
「今かける?」
 と奥田が手を伸ばして高見からCDを受け取りデッキに突っ込んで、初詣に行こうというオレの誘いはきっちり流されてしまった。
 ブスくれながらも、聴きながらリズムを取り始めた臼井に「オレは二曲目が好きなんだよ」と教えてやった。


 冬は日が短くてあっという間に暗くなってしまう。適当にダラダラしていたら、いつのまにか外は真っ暗だった。
「夕飯どうする?」
「食べに出る? コンビニで買ってこようか」
 そんなことを言ってるところに下で車の音がして、奥田の父親が帰ってきたようだった。少し経ってからドスドスと不規則な音を立てて階段を上ってくる気配があった。
「誰か来たよ」
「父親かもしんない。あの人、今日新年会とか言ってたから、飲んできたんじゃないかな。酔っ払ってるだろうから無視していいよ」
 おじさんはいつも忙しいらしく滅多に顔を見なかったが、元々が愛想のよい人で、暇な時には何かとオレたちに構ってきていた。おばさんと一緒にオレたちのライブにまで来てくれたこともある。
「ジューン、友だち来てるんだろ? 入ってもいいか?」
 ドアを叩いて大声をあげたのは、やっぱりおじさんだった。
「なんの用だよ、もう」
 奥田が文句をつけるのを返答ととったのかドアが開き、お酒で真っ赤に染まった顔が覗いた。新年会帰りだというおじさんはやたら上機嫌で、いきなり叫んだ。
「成人おめでとう!」
 突拍子もない台詞にオレたちは顔を見合わせた。オレたちの成人式は来年なんだけど。
「ジュンももう二十歳なんだな。これはみんなへのお祝いだ」
 部屋の入り口に立ったまま二本のワインを両手で掲げてみせる。それを目にした途端、高見は調子よくお礼を言った。
「わーお、ありがとうございます」
「これだけじゃ足りないかな。君たち、日本酒とウィスキーとどっちがいい?」
「ああ、もうどちらでも大丈夫です」
「そうかそうか。正月の残りがたくさんあるんだ。今持って来よう」
 ドアのところにワインを残しておじさんが行ってしまうと、高見が半分面白がっているような様子で奥田を見た。
「オヤジさん大丈夫か?」
「飲み過ぎて勘違いしてんだろ。自分の子どもの年齢もわかんないなんてアホだよな。せっかくだから飲んじゃおう」
「いいのか? そのワイン、ずいぶん高価そうだけど」
 臼井が心配そうに言う脇で、奥田は肩をすくめた。
「去年あの人ヨーロッパに行ったんだよ。土産に配った残りだから遠慮することないって」


 おじさんは母屋から何度も往復してアルコールの外にいろんな肴を運んできたので、奥田の部屋にはすっかり宴会の仕度が整ってしまった。
「臼井くんも遠慮せずに飲みなさい。ワインよりビールのがいいのかな」
 高見の隣、オレの向かいに腰を下ろしたおじさんは、どういうわけか対角線上の臼井にばかりやたら酒を勧めていた。
「あ、いいえ。このワイン、おいしいです」
 臼井はニコニコして答えてる。
「臼井くんはお正月は帰省したんだろう?」
「ええ」
「臼井くんの家はどこだっけ?」
「**市の近くです。すごい田舎で」
「**市には私もよく行くんだよ。古い街並みが残ってて風情があるとこだね」
「そうですね」
 会話の合い間に二人でお互いのグラスに注ぎ合っている。
 なんかむかついてきた。オレ、久しぶりに臼井に会ったのに、まだキスもしてないんだ。なのになんでおじさんが臼井の相手してるんだ。臼井はオレのなのに。
 臼井は、隣に坐っているオレのことなんかちっとも見やしないで、おじさんの話に相槌を打っていた。この八方美人。臼井はオレと付き合ってるんだからオレだけ見てればいいのに。
 むかむかむか。
「おじさん!」
 一言文句を言ってやろうと息を吸い込んだ瞬間、高見がいきなり調子外れの声を上げて、おじさんに話しかけた。
「えーっと、そうだ、ヨーロッパの話聞かせてくださいよ。何日くらい行ってたんですか」
 言葉を探しながら高見は日本酒を取り上げておじさんのグラスに注いだ。おじさんは一瞬とまどった表情でグラスを手にした。
「ん? ああ、うん、十日間のツアーだったんだ」
「うはー、いいな。十日もですか?」
「いや、よかったよ。さすがに向こうはすごいね。何もかも日本とはちがうよ」
 調子のいい高見に乗せられて、おじさんは愉快そうに話し出した。
 その隙にオレは臼井のグラスにワインをドバッと注いでやった。
「わ、小日向、何すんだよ?」
 縁すれすれになったワインが溢れかけたグラスを危なっかしそうに両手で持って、臼井が文句をつける。
「うるさい。さっさと飲めよ。臼井があんまり飲まないから遠慮してんのかっておじさんが気にするんだろ」
「バカ」
 臼井は笑って、素直にグラスに口をつけた。あれ? なんかちょっといつもとちがう?
 そこにコンコンと軽いノックが聴こえて、「ジュン、ちょっといい? お父さん、こっちに来ていない?」とおばさんの声がした。
「いるよ」
 奥田の返事にドアが開く。部屋に入りかけたおばさんは手で口元を覆った。
「すごい匂い! ちょっと、お酒臭いわよ」
 テーブルの上に広げられたアルコールと、オレたちの顔を見渡して、眉をしかめる。
「何やってるの。未成年のくせに酒盛りなんて! お父さんも何考えてるのよ?」
「いいじゃないか。成人のお祝いだよ」
 赤い顔でおじさんが言いかけたのを、おばさんはぴしゃりと遮った。
「バカなこと言わないで。ジュンたちの成人式は来年でしょ」
 途端におじさんはしどろもどろになった。
「へ? いや、今日の新年会で、純一郎くんももう成人式だなあって言われたから、てっきりそうだと」
「あなたはいつも飲み過ぎなの」
 おばさんは仁王立ちでおじさんを睨みつけた。
「あなたたちもわかってるくせに黙ってるなんてダメよ」
 オレたちのほうに視線を移しておばさんは「しょうがないコたちね」とため息をついた。
「今日はもう仕方ないから大目に見るけど、いい加減にしなさい。それに雪が降ってきたわよ」
「え、マジで?」
 おばさんの言葉にオレたちは先を争って窓にへばりついた。白く曇っていた窓を開けると、闇の中に白いものがちらついていた。
「うっわー初雪じゃん」
「これ、けっこう積もるよね」
 よく目をこらして見ると、雪はちらつくどころがまるで湧き出すように降っていた。ボタン雪って言うんだっけ? こういう雪は積もるんだよな。雪なんて滅多に降らないからわくわくする。
「何言ってんの。もうずいぶん積もってるわよ」
 おばさんが呆れたように言う。
「ほら、だからあなたはもう帰りましょう。みんなも今日は泊まるんでしょうけど、飲みすぎたらダメだからね」
 おばさんにひきずられておじさんが行ってしまうと、臼井はワインの瓶を掲げて残りを確めた。
「これ、もうほとんどない」
 おじさんは最初に持ってきた赤と白のほかに、追加でもう一本赤を持ってきていた。オレのグラスにも入っているけど、赤ワインは渋いからなかなか飲めなくて、オレと高見は日本酒に切り替えていた。
「これ、おいしかったな」
 呟きながら臼井がしげしげとワインのラベルを眺めているので、オレはまだなみなみと残っている自分のグラスを舐めてみた。やっぱり渋い。
 顔をしかめたオレに臼井がちょっととろんとした目を向けてきた。そのまま手を伸ばしてきて「もったいないから小日向は飲んじゃダメ!」と言ってオレの持っていたグラスを奪い、臼井はごくごくと殆んど一気にそのグラスを呷ってしまった。
「うん、うまい」
 口の端に少しワインを滲ませて、にこーと笑う顔がやけに可愛くてドキッとした。
 もしかして、臼井、かなり酔っている?
 こんな臼井を見るのは初めてなオレは、びっくりして臼井の顔を見ていた。そんなオレに臼井はにこにこ笑いかけてきた。
 臼井は普段の飲み会ではかなりセーブしてたんだなと思った。今日はおじさんがやたら勧めてたから飲んだんだ。
「臼井、大丈夫?」
 臼井の向こうに坐っている奥田が少し心配そうに声をかけたので、臼井はそっちに視線を向けた。
「うーん、平気。ちょっと飲みすぎた、かも。でも平気、大丈夫。ワイン、おいしかったな」
 クスクスと何がおかしいのか一人で笑っている。臼井、ほんとに大丈夫?
 と思ったら、臼井はじーっと奥田の顔を見つめ出した。
「奥田ってほんと可愛い顔してるのな」
 奥田に近寄って鼻が触れそうな距離でまじまじと眺めている。
「ほんと女の子みたい。ほんと可愛いよな」
「こら臼井」
 オレが肩に触れると臼井はそのままオレの膝に仰向けに倒れこんできた。
「あはは、小日向いじけてる? 大丈夫、小日向もカワイーイ、よ」
 ごろんと身体の向きを変えて、無理やり手を伸ばしてきてオレの頭を撫でる。そのままオレにしがみつくような格好で顔を伏せた。オレの手に触れた臼井の頬は熱かった。ドキドキしながらそうっと撫でた。指先でさりげなく鼻筋から唇に触れてみる。柔らかな唇はワインで少し湿っていた。
「臼井、大丈夫か」
「うん」
 臼井はパッと起き上がった。あれ? ちぇっ。
「うん、大丈夫。オレちょっと飲み過ぎたみたい」
 手の平を使ってゴシゴシと目をこする仕種が小さい子みたいだった。
「いや足んねーよ。もっと飲め」
 簡単に冷静になられると面白くない。せっかくだから酔っ払いの臼井をもっと見ていたい。
 オレが臼井にグラスを押し付けると高見がオレを指差して「あっはっは、バーカ」と笑った。つられたように臼井と奥田がクククと笑い声をもらす。オレはむかついて「なんだよ?」と返した。
 気がつけばみんな酔っ払いだった。
 かけっ放しの暖房のせいか、頭がぼーっとし始めていた。
「アイス、食いたくねえ?」
 ふと思いついて言ってみたら、臼井が「あ、食べたい」と頷いた。
「な、奥田。アイス」
 テーブルに肘をついて半分眠りかけていた奥田を、臼井の肩越しに揺すったら、不機嫌そうな顔を上げた。
「ないよ、そんなの。コンビニ行ってこい」
 行ってこいって、歩きでかよ? そこで思い出した。
「そーだ、せっかく雪降ってんじゃん。散歩行こう、散歩」
「オレはパス!」
 オレの提案を高見は即座に一蹴した。無粋な奴。せっかくの雪なのに。いいもんね。奥田は寝てるし、臼井と二人なら何より嬉しい。
「じゃあ、臼井と二人で行こうっと」
 オレはさっさと玄関に向かったが、臼井は高見に「一緒に行こう」などと誘っていた。
「寒いのやだよ。つーか、小日向、ドア開けてんじゃねえ。マジで寒いっての」
 高見は、部屋のドアのところで臼井を待っているオレに文句をつけてきた。
「ほら、臼井。早く行こうぜ。高見なんか置いてけばいいんだよ」
 手招きしたら臼井はようやくやってきた。
「雪、やんだ?」
「まだチラチラしてるけど、もうやみそう」
 外に出たら、全部真っ白になっていた。夜の底が白くなった、なんつって。でも本当にそんな感じだった。世界はしんと静まって音が消えている。ふいに臼井が隣でハーッと白い息を吐いて「ははは」と笑った。
「すっげー雪! な?」
 いたずらっぽい目で覗き込まれてオレは嬉しくなって、ドカドカとそこらじゅうに足跡をつけて歩き出した。
「もうやんじゃうな」
 臼井が空にかざした手を見て驚いた。手袋をしていない。細い指先でそのまま雪を受けている。
「臼井、手袋は?」
「忘れた。でも平気だよ。寒くねえもん」
 そう言いながらコートのポケットに手を入れたので、オレは自分の右手から手袋を外した。
「片方貸してやるよ」
 臼井が手袋をはめた後、オレは素手になった右手を臼井のポケットにつっこんで、手を繋いだ。
「バカ。こういうことしてると、アヤシイよ、オレたち」
 一応は文句をつけたけれど、臼井は振り解いたりはしないでちゃんと握り返してきた。オレたちの他には人影ひとつない真夜中すぎで、臼井が酔っているせいもあるだろう。オレは笑いが抑えきれない。
「へっへっへ」
「バーカ」
 呆れた顔をして、でも臼井も笑っていた。いつもなら歩こうなどとは露ほども考えたことがないコンビニまでの距離がひどく嬉しかった。臼井と一緒だから、もっと遠くてもいいんだ。
 気づいたら雪はやんでいた。空を見上げたらきれいに晴れて星が出ていた。さっきまで雪が降っていたなんて嘘みたいだ。
「とうとうやんじゃったか」
 オレにつられたのか同じように空を見上げた臼井が呟いて、いきなりその場にしゃがみこんだ。手が離れる。臼井は足元の雪をすくって軽く丸め、オレにぶつけてきた。
「わ、このやろ」
 オレの叫び声にクスクスと嬉しそうに笑う。子供みたいに雪合戦を始めたが、二人とも酔っ払っているからすぐに息が切れて続かなくなった。
 肩で息をつきながら雪の中に腰を下ろした臼井はそのまま仰向けに寝転んでしまった。「人型」とか言いながら笑っている。
「臼井、冷たくないのか?」
「うーん? 冷たくないな。やっぱ酔ってるからだろうな」
 酔っ払いの臼井はいつもの百倍くらい素直だと思った。無防備な目をオレに向けて笑いかける。オレはどうしても我慢できなくなって、臼井に覆い被さった。顔を近づけて最初に鼻同士がくっつくと冷たかった。そのまま唇を重ねる。夢中で吸った。
 臼井は「ははは」と声を上げて笑った。
「往来でナーニやってんだよ、バカ小日向」
 いつもだったら真っ赤になって怒るのに、クスクス笑っている。
 そのままうっとりとしたような表情で目を閉じてしまうので、ちょっとあせった。
「臼井、寝るなよ。ここで寝たら凍死するぞ」
「このまま一緒に凍死しねえ?」
 臼井は目を閉じたままオレの首に手を回して耳元に囁いた。
「一緒にここで眠ろう」
「臼井」
 困って呟くと、臼井はパッと目を開けた。
「なんだよ、つまんない奴!」
 唇をとがらせた後、フッと笑みを浮かべて軽くキスしてきた。
「酔っ払い」
 なぜかじわっと涙が滲んできた。
「何泣いてんだよ?」
 臼井が驚いた顔で覗き込んでくる。
「ウルサイ、酔っ払い」
 理由なんか自分でもわからない。多分オレも酔っているからだ。酔っ払った臼井の行動に振り回されて、嬉しいような悔しいような複雑な気分で、混乱していた。
「泣くなよ、小日向」
「泣いてない」
 唇を引き結んで答えると臼井の眉が下がった。
「小日向」
 一緒に死のうなんて、どうしてそんなこと言い出すんだ。好きな奴にそんなこと言われたらオレはどうしていいかわからない。
 べそべそ泣いていたら、臼井がオレの頭を抱え込んだ。よしよしというように撫でている。
「なんで泣くんだよ、もー。ビックリしたら酔いが醒めてきた。急に恥ずかしくなってきたぞ」
 頭の上で囁かれる臼井の声がやけに優しく響いて、オレはますます涙が止まらなくなった。なぜ泣いているのか自分でもわからなくて、でも涙は後から後から溢れ続けた。ただ臼井が好きだとそれだけを感じていた。


 微かなエンジンと雪のきしむ音がして、通りをゆっくりとやってきた車のライトがオレたちを照らし出した。奥田の車だった。
「おまえら、何やってんだよ」
 助手席の窓から顔を出した高見が怒鳴った。
 臼井が先に立ち上がり、オレを引き上げた。雪まみれの服を払ってくれる。オレはジャケットの袖でゴシゴシと顔を拭った。
「大丈夫か?」と臼井が訊くので、黙って頷いた。
 臼井はオレの手を引いて、奥田の車に近づいた。後部座席のドアを開けながら臼井は前の二人に「ごめん」と謝った。
「目が覚めたら二人ともいないんだもん。酔っ払って遭難なんてシャレになんないよ」
 奥田が肩をすくめてみせる。臼井に促されて、オレは黙って車に乗り込んだ。後から乗り込んできた臼井の肩がオレの肩にぶつかる。
 奥田はゆっくりと車を発進させた。
 臼井には死にたいようなことがあるんだろうか。ただ酔って口をついた冗談なんだろうか。怖くて訊けない。確めたくはなかった。一緒に死のうと言われてもオレは絶対に頷けない。でも臼井の手を放す気はない。オレは臼井を好きなんだ。それだけが確かなことだった。
「…奥田、車停めて」
 車が走り出してすぐ、オレは真っ青になって前の座席にしがみついた。
「どうしたんだ?」
「なんか、吐きそう」
「おいおいおい」
 高見があせって振り向いてきた。
 停めてもらった車から転がるように降りた途端、こみ上げて来て、オレは道路脇に吐いた。くずれそうになったところを、ついてきた臼井が腕をつかんで支えてくれた。「大丈夫か?」と言いながら何度も背中をさすってくれる臼井の手。その手はオレに力を与える。
「も、大丈夫」
 全部吐ききったオレがよろよろと呟くと、臼井はオレを抱えたまま、足でその辺の雪をかき集めてオレが吐いたものの上にかけて誤魔化した。吐いたから少しは楽になった。でもこのまま臼井にしがみついていたかった。
「小日向。オレの言ったこと気にすんなよ。ただ…ここで死んだらずっと一緒にいられるんだなって、ちょっと考えただけ。そのくらいオレは小日向のこと好きだってことだよ」
 なんだよ、それ。
 オレの耳の中に勝手なことを素早く吹き込んで、臼井はオレの返事を待たずに車のドアを開けてオレを中に押し込んだ。
 シートに身を沈めたら、降りずに中で待っていた薄情者の高見と奥田が「飲みすぎだよ、バカ」と呆れた顔で覗き込んできた。
「車の中に吐いたりしたら、絶交だからな」
 冷たい台詞を放って、奥田はそれでもさらにスピードを落としてくれた。
 車の中はエアコンが効いていて暖かかった。その暖かさにほっとしたオレは、臼井の肩に頭を乗せて眠りについた。触れた指先を臼井が絡めてくるのがわかった。眠り込む寸前で、どうにかぎゅっと握りしめた。
 臼井が死んだらオレも生きていけない。それは確かだ。
 だけど心中なんてする気はないよ。昨日までのオレは、臼井がこんなふうに酔っ払うことを知らなかった。オレの知らない臼井がまだたくさんいて、オレは臼井の全部をオレのものにしたい。まだまだ死ぬわけにはいかない。
 オレは臼井とならどこまでも行ける。きっとこの先の景色を見られる。
 臼井。
 オレがどこまででも連れてってやるから。死ぬ必要なんかないじゃないか。心中なんかしなくたってオレたちはずっと一緒にいられる。
 目が覚めたらそう言おうと決めていた。


「二人とも寝ちゃってるよ」
「臼井、飲んだよなー。ボトル一本は完璧に空けたぞ」
 頭の上で奥田と高見の声がしていた。ひんやりとした空気が流れてきて、オレは臼井の方に少し身を寄せた。
「上に連れてくの、たいへんだ」
「とりあえず一人ずつ運ぼうぜ。…げー、こいつら手なんか繋いでやがる」
 目が覚めたら、臼井に好きだと言うんだ。臼井はオレの気持ちをわかってない。これから先だってずっとオレは臼井を好きだから、オレたちはずっと一緒なのに。どうしてそんな簡単なことがわからないんだろう。何度でも言わなきゃ、臼井はわかってくれない。臼井がわかってくれるまで、オレは百万回だって好きと言い続ける。
 本当にどうしてオレはこんな鈍い奴を好きになってしまったんだろう。



END





20020107up
fantasia
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