─佐竹─



 そんなに本気で考えていたわけではなかった。ただ思うように伸びない成績に苛立って、気晴らしに言ってみただけなのだ。相手が素直に頷いてくれなかったから、意地になった。
「受験やめちまおうかな」
 夏休み中に受けた模試の結果が、思いがけないほど悪く──生物など偏差値五〇を切っていた──、佐竹は机に突っ伏して呟いた。
「受験しないでどうするんだ?」
 佐竹の突っ伏している机の隣の席で、英単語のカードをめくっていた臼井がカードから目を上げた。


 放課後になって、臼井のクラスにやってきた佐竹は「あーあ」と声を上げて、すでに主が帰って空いていた隣の席に腰を下ろした。
「どうした?」
「模試。K社の」
 短く答えた佐竹に、臼井は「ああ」と頷いた。
「オレたちのクラスも今日返された。佐竹、そんなに悪かったんだ?」
「最悪」
「そっか。でも、あれはまだバンドの練習してた頃だし。これから頑張れば」
 軽くあしらわれて、佐竹は舌打ちした。つまらなそうに唇を歪め、ふてくされたように机に顔を伏せた佐竹に苦笑して、臼井は英単語のカードを取り出した。
「佐竹、まだ志望迷ってんの?」
 しばらくして臼井は、机に顔を伏せたままの佐竹に声をかけた。英語の成績が良い佐竹は、担任の先生からは都内の私立を薦められていたが、臼井の志望している国立も受けるつもりでいた。
「やっぱりもったいないんじゃない? 今から生物や数学に時間割くのもさ。佐竹と同じ大学に行けたらオレだって嬉しいけど、それで佐竹が無理するんじゃ悪いしさ」
 物分りのいい臼井の言葉がなぜか急に癇に障って、佐竹は「受験をやめる」と口にしてみた。
「半端に大学なんか行くのやめて、本気でバンドやろうぜ」
 突っ伏していた半身を起こして、臼井を見つめると、臼井は困惑した表情になって目をそらした。
「受験が終わるまで、バンドは休止するって決めただろ」
「だから受験のほうをやめるんだよ。卒業したら一緒に東京に出て、本気でプロを目指せばいいんだ」
 やや怯んだような目を向けてくる臼井を、説得するように佐竹は言葉を続けた。
「俺と臼井ならやれるって。本気になれば」
「佐竹」
 臼井は最後まで頷かなかった。だから佐竹は意地になったのだ。


「どうしたんだよ、佐竹」
 呼び出された職員室から戻ってきた佐竹に、平山が声をかけてきた。
「いきなり受験やめるなんて言ったら、センセーも可哀そうだろ」
 平山自身は、専門学校に進むと決めていて、早くから受験戦線からの離脱を表明していた。
「どうせ俺はもう無理だよ」
「うわ、嫌味だな」
 投げやりな佐竹の言葉に、平山は苦笑してみせた。
「佐竹に無理って言われたら殺したくなる奴、たくさんいるんじゃないの。こないだの模試だって英語、学校で一番だったくせに」
「英語だけじゃダメなんだよ」
「英語さえできれば、たいていのとこ行けんだろ」
「国公立は無理だ」
「まだ言ってんの」
 困ったような曖昧な笑みを浮かべる平山に、佐竹はむすっとした顔で返す。
「言わねーよ。だから受験はしないって」
「何を拗ねてんだよ。佐竹らしくないよ」
 ぷいっと顔を背けた佐竹の背中を平山は軽くこづいた。
「そういえば、さっき臼井が来てたよ」
「……」
 返事をしない佐竹に、平山は驚いたような声を上げた。
「なに、おまえらケンカでもしてんの?」
「別に」
「うわ、臼井、可哀そう」
「何が可哀そうなんだよ」
「だって臼井、佐竹信者じゃん」
 平山の揶揄に、佐竹は顔をしかめた。
「つまんないこと、言ってんなよ」
「なんでケンカなんかしたんだよ」
「うるさいな。ケンカなんかしてない」
 臼井とはケンカにさえならない。佐竹はそう思った。
「臼井、元気なかったよ。佐竹が呼び出しくらってるって言ったら『そう』ってさ。すぐ戻ってくるだろって言ったのに、待ってないで行っちゃうから、おかしいなーと思ったら、おまえらケンカしてんだ?」
「知らねーよ」
 臼井はいつでも自分の味方だと思っていた。唯一の女性メンバーの貴子と佐竹のそりが合わなくて、バンドの中が微妙な雰囲気になっても、臼井だけは無条件で佐竹のそばにいてくれた。


──本当にあいつら、すごいよね
 夏の夕暮れ。イベントの帰り道、薄桃色の電車の中で、目を輝かせて頷いた臼井。佐竹は臼井がそんな顔をするなんて、考えてもみなかった。
──あのバンド、半端じゃねえ
 言い出したのは佐竹自身だ。同じイベントに出場していた、ジラフという同世代のバンド。オリジナルの曲と人を惹きつけるパフォーマンスに舌を巻いた。
──あいつらのやった曲は全部オリジナルだって。小日向っていう奴が作ってるらしいよ
 すぐに平山たちが話にのってきて、そのバンドの話題で盛り上がっている中、ふと気づくと臼井は、遠くに憧れるような目で窓の外を見ていた。その唇がかすかに動いていて、くり返しているのがあのバンドの演奏した曲のフレーズだと気づいた時、佐竹は自分の胸がきしむ音を聞いた。
 それまでも臼井と佐竹は様々なバンドの、様々な曲を「すごい」と言い合っていた。目を輝かせて語る臼井を好ましいと思いこそすれ、こんな気持ちになったりはしなかった。それまで臼井の心を奪っていたのは、遠くにあるプロの存在だったから。この身近な世界では、臼井の目が憧れをこめて見つめるのは自分でなければならない。はっきりと意識してはいなかったが、そんなふうに自惚れていた自分を、佐竹はその時自覚させられた。
 プロを目指そうと言った佐竹に頷かなかった臼井。自分たちの曲は一曲もないと言った臼井の心にあったのは、ジラフではないのか。一緒に行ってくれると思っていた。曲などこれから二人でいくらでも作れるはずだった。自分たちがジラフに引けを取るなんて佐竹は考えもしなかった。佐竹にとってジラフに対する敗北感は、純粋に音楽的なものではなく、ただ臼井の判定によるものだ。


「受験やめてバンド続けるって本気なのか」
 昼間は喫茶店だが夜になるとバーになるその店のマスターは、佐竹たちが高校生であることに気づいているようだが、アルコールを頼んでも何も言わなかった。
「別に」
 平山の問いに、佐竹ははぐらかすように呟いて、ジンリッキーを口に運んだ。
「臼井に一緒に東京行こうって言ったんだろ」
「あいつは行かないってよ」
 即座に切り返した佐竹を、平山が少し冷めた目で見た。
「佐竹は臼井だけいればいいんだな」
 静かな声に、佐竹は目を上げた。佐竹の視線を受け止めた平山は複雑な表情をしていた。
「別に、そういうわけじゃない」
「ならどうして臼井だけ誘って、俺たちには何も言わない」
「それは…」
 言いよどむ佐竹を、平山はじっと見つめていた。平山と佐竹は小学校からの付き合いで、バンドを始めたのだって、平山の兄の影響を受けてのことだった。その平山を誘わずに臼井に声をかければ、普段はそうしたことに無頓着な平山であっても多少は気にするのも当然かもしれなかった。
「それは──俺だってそこまで自信ないんだ。プロを目指そうなんて、そんな…みんなに声かけて、ダメだった時に責任取れる自信なんか、本当はない」
「なら臼井は?」
 佐竹は目をそらした。もしも臼井が自分の誘いに頷いて受験をやめていたら、佐竹はどうしただろう。二人でどこまで行けるだろうか。
 ややあって口を開く。
「そうだよ、俺は本当は……音楽でプロになる自信なんか全然ない。あいつが一緒だったら、そんな夢を見てられそうな気がしただけだ。ただの逃げだよ。わかってるよ」
「佐竹」
 佐竹はグラスに半分ほど残っていたジンリッキーを一気に飲み干して、テーブルに突っ伏した。
「大人になんかなりたくねー」
「そうだな」
 頭の上で相槌を打つ平山の声がして、佐竹はテーブルに伏せたまま呟いた。
「もうすっげー自分が嫌いになる」
 夏のフェスティバルまでは完璧だった。誰かと較べることさえ思いつかないほど無敵だと信じていた。たった一人の目がそらされただけで、こんなにも脆い自分に気づいてしまった。離れたその目をどうすれば取り戻すことができるのか、佐竹にはわからなかった。



END



fantasia
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