優雅な月より 夕べの夢より


 ゴールデンウィーク明け、オレたちはハニムーンのデビュー記念ライブの前座を務めることになった。皮肉なことに、ハニムーンのキーボードがメジャーデビューをきっかけに脱退してしまったので、高見が臨時でサポートを頼まれたのだ。
 小日向が事故って入院中だった日曜日、オレたちが病室に集まっているところに、ハニムーンのミサオちゃんと由美子さんが見舞いにやって来た。
「私たち、デビューが決まったの」
 女子大生バンドのハニムーンはかなり人気があってしばらく前から、デビューまで秒読みだと噂されていた。ミサオちゃんたちは四年生になるので、とうとうメジャーデビューが決まったらしい。
「うわ、本当に」
「おめでとう」
 高見や奥田が口々に言ったが、そのわりにミサオちゃんはあんまり嬉しそうな様子ではなかった。
「実はねえ、キーボードのナミが抜けちゃったの」
 由美子さんが苦笑して説明した。
「就職が決まってるから、もうバンドはやめるって。プロでやっていくつもりはないんだって。仕方ないんだけどね」
「レコーディングだけは、最後の記念ってことで一緒に録ったんだ」
 唇をへの字に曲げて、しょげた口調で呟くミサオちゃんは、とても年上の女性には見えない。子どものような可愛らしさを感じて「よしよし」と頭を撫でてみたくなった。
「残念だね」
「うん。それで、今度Rでデビュー記念にライブやることになってるんだけど、高見くんにサポートお願いできないかなあと思って」
 Rはこの近隣では唯一のライブハウスで、オレたちも何度か演奏させてもらっていた。


 ハニムーンのライブでは、高見だけでなく小日向もギターを弾くことになり、ジラフとしても前座で何曲かやることになった。 
 小日向が怪我をしてから初めてのライブだった。ハニムーンの正式なデビューライブは、CDの発売後に東京でやることになっているらしく、Rでのライブは、ファンへの告知のようなもので、客席にはオレたちにも馴染みのある顔ぶれが多かった。
 最初に二曲演奏した後、小日向がしゃべり出した。
「ハニムーンのファンのみなさん、こんばんは。前座のジラフです」
 小日向の挨拶に「小日向くーん! 足、どうしたのー?」と女の子から声が飛んだ。ハーフパンツからのぞくギプスが目についたらしい。
「ん、原チャで事故った」
 小日向の答えに高見が「アホです」とかぶせ、客席から笑い声が起こった。小日向は唇を尖らせる。
「笑うとこじゃないぞー。骨、折れたんだよ。入院したんだもん。一人で淋しかったよ。臼井の薄情さが身に沁みました」
 オレは呆気に取られて小日向を見た。ほとんど毎日のように見舞いに通わされたんだぞ。誰が薄情だ。
 そこに「臼井くん、カワイー!」と意味不明の声援がかかり、すかさず小日向が「でもオレのだから」と返した。
 客席がドッと沸いて、口笛やら野次が飛んでくる。
 オレは反応に困って、後ろを振り向き、奥田に助けを求めた。奥田はクスッと笑い、軽くスティックを打ち鳴らして小日向を牽制してくれた。
「はいはい。今日はオレたち、前座だからね」
 小日向が頷いてギターを抱え直す。
「もうね、エッチもできる程度には回復してるんですが、一応おとなしめの曲にします。本番のハニムーンで盛り上がってね」
 エッチ云々の小日向の言葉には、不覚にも顔が熱くなったが、照明がごまかしてくれたと信じたい。
 その後二曲やり、ハニムーンのメンバーと入れ違いにオレと奥田はステージを下りた。
 すぐに客席のほうに回ったが、小さなライブハウスは満員に近く、後ろの壁際に立つしかなかった。


 客席から小日向を見るのはヘンな感じだった。少し下唇を噛むようにして真剣な顔でギターを弾いている。ボーカルのミサオちゃんが歌いながら近づいて、小日向の顔を覗き込むような素振りをすると、視線を合わせて笑った。
 楽しげなステージの様子が客席に伝染して、前の方はジャンピングの嵐だった。差し伸べられた何本もの手の先、小日向のギターにのせられてミサオちゃんの声が拡がり、ホールの隅まで行き渡る感じだった。
 それを聴きながらオレは懐かしいような淋しいような気持ちに支配されていた。同じステージに立つ昂揚感とは違う。小日向との距離を感じていた。
 この距離感は、ステージで演奏されているのがジラフの曲ではなく、ハニムーンの曲であるせいなのかもしれない。
 それでも小日向のギターが入ると、それはいつものハニムーンとは違っていた。リハーサルの時から感じていたが、実際に観客として聴くと、それは不思議な力を持ってオレに迫ってきた。小日向はやっぱりすごい。純粋なテクニックの問題ではなく、勢いだろうか、小日向のギターには力があって、ハニムーンの曲を微妙に変えてしまっていた。
 小日向がいるのはステージの端なのに、そこから目が離せなかった。あいつは特別な奴だと思い知らされる。


 駆け抜けるような勢いのまま演奏が終了し、アンコールを求める拍手の中、女の子が二人、出口付近に立つオレたちのほうに向かってきた。近づいたところでそれがあゆみと貴子であることに気づいた。
 ここにいるはずのない、思いがけない二人の姿に、驚いて見つめるオレの正面まで来て、貴子が足を止めた。あゆみは貴子の斜め後ろで困ったように少し笑った。
「話があるの。ちょっと付き合って」
 貴子がオレを見上げて言った。
 貴子とあゆみは幼馴染みで、オレはバンド仲間だった貴子を通してあゆみと知り合った。そのあゆみを傷つけたことで、貴子はオレを責めにきたのだろうと悟った。責められても甘んじて受け止めるしかないことを、オレはあゆみに対してしていた。
 奥田のほうを見ると、知らないカップルと話していたので、後で連絡すればいいかと、そのままオレはあゆみたちとライブハウスを出た。ライブの後は打ち上げの予定だったが、おそらくアンコールをやるだろうし、少し遅れて顔を出せばすむと考えた。


 駅前のファーストフードは、夜の九時を回る頃だというのに、それなりに混んでいた。かける言葉を見つけられず、オレはテーブルの向こう側に坐った二人の顔をしばらく黙って眺めていた。
「私、この春から**女子大に入ったの」
 あゆみの口から出たのはハニムーンと同じ大学の名前だった。
「え、あ、ああ。それは……おめでとう」
 オレが言うとあゆみはニッコリと笑って「ありがとう」と答えた。
「ずっと臼井くんに連絡しようと思ってたんだけど、なんだか電話しづらくて。学校で今日のライブの告知見て、きっと臼井くんが来るだろうなって思ってたの。でも一人で会うのためらって、結局貴ちゃんに頼んじゃった」
 オレはやっぱり言葉を探せないまま「うん」と頷いた。自分があゆみにひどいことをしたのはよくわかっていた。オレはあゆみを捨てて小日向を選んだのだ。「最低」と罵られるべき人間だった。そんなオレにあゆみのほうから頭を下げてきた。
「ずっと連絡しなくてごめんなさい」
「あゆみ」
 オレは驚いてあゆみを制した。あゆみが謝るようなことは何一つなかった。
「勝手だけど、私、臼井くんと友だちに戻りたいの。あの時、ちゃんとそう言えるつもりだったけど、なんだか……」
 あゆみは、貴子を気にしてか、言葉を濁した。
「今ごろ何だって思われるかもしれないけど、私、臼井くんと友だちになりたい。ジラフも好きで、ライブにも行きたいから」
「ごめん、あゆみ。オレ……」
 言い訳のしようもないことをしたオレには、あゆみを見つめることしかできない。オレの視線の先であゆみは困ったように笑ってみせた。
「友だちにはなれない?」
「ちが…。オレ、あゆみに勝手なこと……」
 自分の身勝手で傷つけた相手に謝られるなんて、胸が痛かった。あゆみは首を振った。
「ちがうよ。もともと私が言い出したことでしょ。自分で言ったくせに、覚悟が足りなかった。私こそごめん」
 貴子は何も聞いてないような素知らぬ顔で煙草を吸っていたが、ふいに口を開いた。
「私は最初からやめときなさいって言ったのに」
「貴ちゃん」
「もともと臼井みたいに薄情な奴と付き合うのは反対だったんだから」
「薄情」などという言葉は心外だったが、実際に自分があゆみに何をしたかを考えたら「薄情」程度の問題ではない気がして、黙り込むしかなかった。そんなオレに貴子は肩を竦めた。
「ほらね、反論しない」
「貴子」
「臼井は、自分の興味のあることにしか関わらないんだよね。フランケンシュタインやってた時だって、佐竹しか見てなかったし。冷たい奴!」
 思いもかけない弾劾だったが、確かにあの頃、佐竹と貴子が対立しても、オレは何もとりなすことができなかった。佐竹が貴子に理不尽な言い掛かりをつけていると感じることもあったが、それでもオレには貴子より佐竹のほうが近かったし、二人の言い争いにもハラハラするだけで、自分には何もできないと思っていた。役立たずだったオレを貴子が恨むのも無理はないのかもしれない。
「一度言ってやりたかったんだ」
 貴子は唇の端を吊り上げて笑った。
「なんか悔しいんだもん。ジラフ、すっごくよかった。臼井ばっかりズルイって言わせてよ」
 それは何かを吹っ切ったようなすがすがしささえ感じさせる表情だった。
「なんだか貴子、変わったな」
 一緒にバンドをやっていた頃は、オレにとって貴子はきつい女だという印象が強かった。よく佐竹と衝突ばかりしていた。久しぶりに会った貴子は、大人っぽくなったようで余裕を感じさせた。
「変わったなんて言うほど、臼井は私に興味ないくせに」
「…やっぱり変わってないか。相変わらずきつい」
 オレが呟くと、貴子は唇の端でフフンと笑ってみせた。丸くなったわけでは決してないけれど、昔より気軽な雰囲気になった気はした。
 オレはふと思いついて、貴子に言ってみた。
「そうだ貴子、ハニムーンでキーボード、募集してるらしいんだ。やってみないか?」
 ジラフに入ったばかりのころ、貴子も短大の軽音に入ったとあゆみから聞いていた。音楽を続けているなら、ハニムーンに参加するのも悪くないんじゃないかと考えたのだが、貴子は「お断りー」と即答して鼻の頭に皺を寄せた。
「もう私はミュージシャンなんて人種と関わるのは遠慮する。たまに手伝うくらいならいいけど、バンドはもうやる気ないわ」
 ずいぶん嫌われたものだと思った。佐竹とオレはそんなに貴子にひどいことをしただろうか。
「臼井は、佐竹が雑誌に出てるの知ってる?」
 貴子に訊かれて、オレは首を振った。
「いや」
「佐竹、モデルやってるらしいわよ。雑誌でも結構よく見かけるし。…ふーん、あんたたち、本気で音信不通なの?」
 呆れたような顔で見られて、オレは俯いた。
 高校に入学して一年のときに同じクラスだった佐竹は、ハンサムだけどスカしたところがなかったから、女の子だけじゃなく男にも人気があった。どちらかといえば地味なオレがなぜ佐竹と仲良くなったのか、よくは覚えていない。
 佐竹には七歳も上の兄貴がいて、その影響でバンドを組むことになった。もともとは佐竹と同じ中学だった平山との間で、高校に入ったらバンドをやろうという約束になっていたらしかった。放課後、二人がしゃべっているときに、そばにいたオレを佐竹が誘ってくれたのがきっかけで、オレはベースを始めた。
 二年生になってオレは理系、佐竹は文系でクラスは分かれたけれど、バンドがあったからいつも一緒にいた。バンドのメンバーの中で、オレだけがクラスがちがってしまったから、佐竹は逆に気にかけてくれたのかもしれない。休み時間などにしょっちゅうオレのクラスに来ていた。
 進路を決めるころ、バンドはやめると言っていたのに、佐竹は東京に出て音楽を続けようなんてオレだけを誘ったから、他のメンバーとの関係が微妙にギクシャクしたりした。
 はっきりとケンカをしたわけではなく、ただ佐竹の誘いに頷けなかったことがしこりとなって、オレは佐竹に連絡を取れずにいた。そのうえ小日向と付き合い始めたせいで、佐竹の誘いをプロポーズみたいだったなどと考えてしまったりもする今の自分が、オレは嫌だった。
 そして佐竹からの連絡がないのは、あいつがオレに対して怒っていることを意味しているように感じられた。
「平山が心配してたわよ。私は関わりたくないけど。佐竹もまたバンドやってるみたい。モデル仲間で作ったんだって。お遊びって言ってたけど夏に雑誌のイベントでライブやるらしいから行ってみたら?」
 高校のころから平山と貴子は付き合っていて、そこからの情報だと見当がついた。
「うん……」
 オレは曖昧に頷いた。
「はっきりしないのね。平山は行くつもりだから、その気があるんなら連絡して」


 そこに携帯が鳴り出して、出ると、慌てた様子の高見の声が聞こえてきた。
―臼井っ。おまえ、どこにいんだよ?
「え? 駅前のファーストフードだけど?」
 問い返そうとしたオレの言葉を遮るように高見が言った。
―小日向が泣いてんだよ。悪かったって言ってるからすぐに戻って来いよ
「はあ?」
 高見の言っていることはオレには全然理解できなかった。小日向が泣いて謝っている? 誰に?
―うるさくって手に負えねえよ。今、奥田が迎えに行ったから、すぐ来いよな
 高見は自分の言いたいことだけを一方的にしゃべって電話を切ってしまった。
 オレはわけがわからず狐につままれた気分のまま、とりあえずあゆみと貴子に「用事ができた」と告げて店を出ることにした。
 駅の改札までオレは二人を送って行った。
「後で電話してもいい?」
 あゆみに訊かれて頷いた。
「オレから電話するよ。オレもずっとあゆみに連絡したかった。今日、来てくれて本当嬉しかったよ」
 泣いているという小日向が気がかりではあったが、あゆみと仲直りできたことにほっとして、手を差し出してくれたあゆみに感謝していると伝えたかった。


 あゆみと貴子が駅の構内に入って行くのを見送って、外に出たところにタイミングよく奥田の車がロータリーを回ってきた。
「一体何がなんだかよくわからないんだけど、小日向がどうしたって?」
「なんで雲隠れなんかしたの?」
 助手席に乗り込みながら訊こうとしたら、奥田の言葉と重なってしまった。
「雲隠れ?」
「いきなり臼井がいなくなったから、びっくりしたよ」
 言われてオレは「ごめん」と謝った。
「知り合いに会って。ちょうど奥田も誰かと話してたから後で携帯かけるつもりだった」
「小日向とミサオちゃんに怒ったんじゃないの?」
 小日向と高見がいるという奥田の家へ車を走らせながら、奥田がオレを伺うように見た。オレはきょとんと問い返した。
「何、それ?」
「そんなわけないとは思ったけど、臼井がいなくなっちゃったからね」
 奥田は独り言のように呟いた後、説明してくれた。
「アンコールで、ミサオちゃんが小日向と高見に『ありがと』って頬にキスしたんだよ。で、小日向が調子に乗ってミサオちゃんの頬にキスを返したら、ミサオちゃんが小日向の口にもキスしちゃったんだ」
 オレはため息をついた。そんなの別にそれほど気になるようなことじゃない。かなり盛り上がっていたからそんなこともあるだろう。
「終わってから打ち上げに行こうとしたら、臼井がいないから、小日向が急に青くなってさ」
「タイミングが悪かったんだ。オレ、あゆみと仲直りしてたんだよ」
「あゆみちゃん?」
「オレの高校ん時のガールフレンド。今年、ハニムーンと同じ大学に入ってライブに来てたんだ」
「それはまた揉めそうだなあ」
 奥田は肩を竦めて呟いた。
「いや、あゆみとオレはもうそういうんじゃない。普通に友だち付き合いするつもりだよ。あいつ、ジラフのファンだって言ってたし」
「そう」
 奥田は何か言いたそうな表情をしたが、結局飲み込むように短く頷いただけだった。


 奥田の家に着くと、わあッと泣きながら、小日向がしがみついてきた。
「ごめん。臼井、ごめん」
 なんだ、なんだ。オレは小日向の勢いを受け止めかねて、後退りした。
「オレ、浮気したんじゃないよ。あれはその場のノリっていうか」
「小日向」
「ごめん、オレ、そんなつもりじゃなかったんだ」
 何もそんなにボロボロ涙をこぼして謝るほどのことではないと思うが。あまりの勢いに呆気に取られて、言葉が出てこない。
「いいよ、別に」
 そっけない口調になったのは、どうしていいかわからないからだ。
「あんまり怒るなよ、臼井」
 脇から高見までなだめるような声をかけてきて、オレは情けなくなった。
「オレ、別に怒ってなんかない。たまたま知り合いと話してただけなんだよ」
 高見は半信半疑という顔つきだった。
「打ち上げやるって言ってたじゃん。臼井がいないから小日向はパニクるし、もうメチャクチャだよ」
「ごめん。オレ、後から遅れて行くつもりだったんだ。連絡しそびれて悪かった。それで打ち上げは?」
「とりあえずミサオちゃんたちだけで始めてもらってる。落ち着いたら行くって言ってあるけど」
 高見と奥田だけをハニムーンの打ち上げに送り出し、オレは小日向を連れて自分のアパートに帰った。
 どんな騒ぎだったのか想像したくもないけれど、オレが原因だと思われているのなら、のこのこ打ち上げに顔を出すのは恥ずかしかった。それに高見や奥田の前で、すっかりテンパってしまっている小日向をなだめることなどできそうになかった。
 オレの部屋に着いても、小日向はしゃくりあげながら一人で謝っていた。
「怒んなよ、臼井」
「怒ってなんかないって何度言えばわかるんだよ」
「オレ、別にミサオちゃんのこと、どうこう思ってるわけじゃないよ」
 しつこく言い訳されているうちに、かえって腹が立ってきた。そんなに気にするってことは、小日向にとってミサオちゃんとのキスは、なんでもないことじゃなかったってことじゃないか。
「本当に悪かったって、臼井」
 伺うように下から見上げてくる小日向がうっとうしい。
 悪いことをしたって本気でそう思ってるのかよ。オレに謝らなきゃならないようなことを、小日向は仕出かしたんだ。
「ごめんってば」
 オレはしつこい小日向を押し倒した。
 とまどったような表情で、見上げてくる小日向。そんな頼りない顔をして。
 だんだんむかついてきたオレは、小日向のTシャツを捲り上げて、肉の薄い身体に指を這わせた。
「臼井?」
「黙ってろよ」
 おまえが余計なことを言うからオレはイライラするんだ。どうってことなかったはずのことが次第に気に障ってくる。
 唇を避けて、顎の下にキスを落とした。そのまま首筋をたどる。オレの唇の下で、小日向の喉が上下した。噛みついてやりたい。一瞬本気でそう感じた。
 ハーフパンツの中に手を入れると、すでにきざしがあった。
「臼井ッ」
 強く握ると小日向が悲鳴に似た声をあげた。
 おまえはオレのことが好きなんだろう。
 オレは小日向を抱え込んで、脚を開かせた。ギプスは膝下だけになっているから、ほとんど支障はなかった。
「臼井、ごめ……」
 いつまでもバカな言葉を繰り返す口をふさいで、小日向の下半身に指を差し込んだ。押し殺した悲鳴がオレの口の中に注がれる。
「う、うす…い。あっ」
 キスなんか今さらどうだって言うんだ、バカ。
 オレの腕にしがみついて震えている小日向をとにかくいじめてやりたかった。
 ミサオちゃんがなんだっていうんだ。女の子とのキスなんか今さらどうってことない。オレと小日向は女の子には絶対できない方法で繋がっている。
 オレは小日向をうつぶせにしてのしかかった。
「臼井」
 抵抗を無視して押し込もうとした瞬間、ふいに気持ちが萎えた。
 オレ、何してんだ?
 冷水を浴びたようにさっと頭が冷えた。
 動きを止めたオレの下で、うつぶせの姿勢のまま小日向が問いかけてくる。
「臼井?」
 オレは黙って小日向から身を引き離した。
 オレ、何しようとしてんだ。
 なんで無理やり小日向のこと抱こうとしたんだ。こいつはオレのもんだって、主張しようとしたのか。
 小日向がゆっくりと身体の向きを変えて起き上がった。オレはその視線を避けるように顔を背けた。
「どうしたの、臼井?」
 先刻と反対に小日向がオレの肩に腕を回してきた。
「…なんでもねえよ」
 無理に抱いて所有権を主張しようなんて、最低だ。自分の行動にオレは落ち込んでいた。自分の情けなさに唇を噛んで首を振る。
「臼井……? 臼井」
 うなだれたオレの肩を撫でながら、何度も名前を呼んでいた小日向の声がやがて不自然に歪み始めた。語尾に震えるような響きが混じってくる。
 不審を覚えたオレがそろそろと顔を上げていくと、やけに嬉しげな表情に出くわした。目が合った途端、小日向はこらえ切れないというように笑い声を立てた。
「臼井、ヤキモチやいてくれんの?」
 こ、んのバカ!!
 その瞬間ほとんど殺意に近い感情が沸いた。
 オレが誰のせいで混乱してると思ってる。誰のせいで落ち込む羽目になったと思ってるんだ。
 別に小日向が誰とキスしたってオレは平気なはずだった。余計なことを言ってオレを煽って追いつめたのは小日向なんだ。
「小日向とオレはどうしても合わねえよ」
 言い放ったオレにひるむことなく小日向は額をすりつけてきた。
「臼井、かわいい」
「くそったれのアホウ!!」
 オレは小日向を突き飛ばした。なんだ、その態度。さっきまでビービー泣いてたくせにおまえには羞恥心というものはないのか。
 小日向はヘラヘラ笑いながら、オレに覆い被さってきた。
「かわいいなー、臼井」
 触れた頬はまだ濡れているのに、小日向はすっかり立ち直っていた。
「本気でむかつくんだ、てめえは」
 小日向の中でオレは、完全にヤキモチを焼いていることになってしまったらしい。オレが怒れば怒るほど小日向は笑み崩れ、見事にドツボにはまってしまっていた。
 オレはムカムカと言い募った。
「オレと小日向は絶対合わないんだよ。これでよくわかった」
 小日向といるとコンプレックスを刺激されたり、自己嫌悪に陥ったり、嫌な気分にばかりさせられる。男同士で付き合うなんて不自然なことをしなければよかったんだ。
「そんなことないよ」
 小日向は余裕たっぷりに否定してきた。
「臼井とオレは相性バッチリだよ」
 反論しようとした口を小日向のそれでふさがれた。唇と歯列を割って、小日向の舌が入ってくる。
「んっ」
 ちくしょう、やばい。オレはすぐに自分の劣勢を悟らざるをえなかった。
 口の中、馴れた舌が動き回る。
「ふ……」
 オレの思考を奪うように、何度も吸い上げてくる小日向の唇。
 オレは知ってるんだ。
 小日向が誰とキスをしても平気だと思える理由。
 オレは知っているから。挨拶のキスと、オレたちの交わすキスの違い。
「んん……」
 舌を絡ませながら小日向がオレの後ろを探り出した。
「ダメだ、小日向っ」
 卑怯者と罵りたいのに、頭が痺れて考えがまとまらない。
「オレと臼井が合わないなんて、そんなこと絶対ないもんね」
「小日向……ん…ッ。ちがう」
 こんなのはちがう。
「臼井は、オレのもんだよ」
「ちがう。あ……あ、あ」
 否定して首を振るオレの中に、小日向の熱が押し入ってくる。
「迷うなよ、臼井」
 オレの腰をつかんで揺さぶる小日向の腕。
「は……あ、あ、バカ、アホウ、んっ」
 今さら何も考えられない。身体の中に入り込んだ小日向の熱。オレの内側に入る奴はこいつしかいない。
「バカ…ッ、小日向、小日向ッ」
 なんでこんなことやってんだ。ああ、オレ、何を考えてたんだ……? もうダメだ。オレ、もうダメだ……。
「んっ、オレ、も、小日向……あッ、あ、あ」
 やや遅れて小日向が放って、しばらく二人ともバカみたいに息を切らしていた。
 少し経って小日向の身体が離れかけた隙を逃さず、オレは脇に投げ出されていた掛布団を引っかぶって丸くなった。
「臼井」
 頭の上で聞こえる小日向の声なんか無視してやる。
 精を放ってしまったせいか、全てどうでもいいと諦めるような、妙にすっきりした気分にもなっていたが、それが余計に悔しい気もして、何も考えるまいとオレはダンゴ虫と化すことにした。


 翌朝、小日向の顔はしっかりむくんでいた。腫れ上がった瞼を見たら、アホみたいに泣いていたことを思い出して、オレは苦笑してしまった。
「ひでー顔してる」
「うん、目が開かない」
 からかいの言葉に素直に頷かれて、なんだか可愛くなって、オレは小日向の瞼にキスを落とした。
「あゆみのこと、覚えてる?」
 抱きしめたまま訊ねたオレに、小日向は首を傾げた。
「誰?」
「オレの昔の彼女。あいつね、**女子大に来てるんだよ。オレたち、ちゃんと友だちになったから」
 オレは小日向に昨夜のことを報告した。
 やや不満げに口角を下げた小日向に笑いかけて、キスをする。言葉ではうまく説明できないけれど、オレにとって小日向がどんなに特別な奴か、このキスが伝えてくれる。そう信じたかった。
 瞼が腫れて一重になっている小日向の顔は、やたら狂暴そうに見えて、へんてこりんすぎて愛敬があって、おかしくて、オレはふざけたフリをして何度もキスを送り続けた。



END





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