夏だけが使う魔法
開け放した窓から入ってくるのは、ジリジリとすべてを焦がすような陽射しだけで、午後になって風はぴたりと止んでしまい、アパートの部屋には生温い空気がよどんでいた。近くにある申し訳程度の街路樹のどこに止まっているのだろうか、アブラ蝉がひっきりなしに鳴き続けていた。
だが、蝉などの比ではないくらい暑苦しさを増させている存在が、オレの部屋の中にいて。 「暑いー。死ぬー。暑くて死んじまう。アツイー」 蝉の声が途切れる一瞬さえも、休むことなくバカの一つ覚えをくり返している。 「いい加減にしろよ、小日向。うるさくって余計に暑苦しい」 オレはうんざりと遮った。 「だってアチイよ、臼井」 床にダランと伸びていた小日向は半身を起こして犬のように舌を出してみせた。汗にまみれた真っ赤な顔を見せられて、オレの体感温度まで確実に上がった。オレは顎を上げて、斜めに睨んでやった。 「誰のせいだよ?」 「えー、臼井、まさかオレのせいでクーラー壊れたと思ってんの?」 当たり前だ。暑がりの小日向が酷使しなければ、いくらボロいクーラーだってオレが地元に帰省するくらいまではもったはずだ。 梅雨明け前から部屋にやって来るたびに小日向がやたらにかけていたせいで、肝心の夏に入ってすぐにアパートのクーラーがダウンしてしまっていた。大家に連絡して電器屋を手配してもらったものの、この時期だけに忙しいらしく、いまだに修理には来てもらえない。こんなことならさっさと帰省したいところだが、アルバイトの引き継ぎが残っているのでまだ帰れなかった。 「臼井、工学部じゃん。直せないの?」 「オレは実践系じゃないんだよ」 一応クーラーの中を覗いてはみたものの、部品がいかれてしまっているらしく、オレには手に負えなかった。 昨日までは日中は図書館に避難していたのだが、今日は月曜日で休館なのだ。間の悪いことにバイトさえ休みで行くところがない。 「なー、だからオレんち行こうってば」 小日向の言葉にオレは即座に首を振った。 「やだよ」 「なんでだよ。オレの部屋、ちゃんとクーラーあるよ。涼しいよ」 「弟、帰って来てんだろ?」 オレが確認すると、小日向はすっとぼけて小首を傾げた。 「行彦? どうだろ、もう来てんのかな」 こいつがこういう奴だから、オレは小日向の家に行きたくないんだ。 「なんで? 臼井、行彦のこと嫌いなの? いいじゃん、どうせあいつもどっか出かけるから、そんなにウチにはいないし、平気だよ」 何が平気なんだ。オレは内心で舌打ちした。だいたいオレが行彦くんを嫌いとかいう発想が出てくること自体が、小日向が何もわかっていない証拠だった。好き嫌いの次元じゃなく、オレは行彦くんと顔を合わせられない。 小日向の弟との初対面を思い出しただけで、さらに体温の上昇を覚えるくらいだ。 去年の夏、帰省から戻って来て数日間、小日向はオレのアパートに入り浸っていた。しばらくぶりに顔を合わせたせいで、オレはそれさえ嬉しいような気持ちでいた。 何日目かに高見や奥田と飲みに行った時に、高見に「それって同棲?」とからかわれたので、オレは小日向を家に帰すことにした。けじめのないことはしたくなかった。それがなぜか今度はオレが小日向の家に泊まることになってしまった。駅前の居酒屋を出たところで高見たちと別れて、バスを待つ小日向に付き合っている間に「ウチに来ねえ?」などと誘われて、つい同じバスに乗ってしまったのだ。 小日向の家に着いた時には、家族はすでに眠ってしまったようで静かだった。そのままオレは挨拶もなしに小日向の部屋に泊めてもらった。 翌朝、目を覚ました時にも家の中はしんとしていた。 「臼井、起きた? 二階(うえ)の洗面所使えよ」 先に目を覚ましていたらしい小日向に声をかけられて、オレは寝起きでボーっとしたまま立ち上がった。小日向の家には、二階にもわりと広い洗面所がある。すでに身支度を終えていたくせに小日向もオレと一緒に洗面所に入ってきた。歯を磨く後ろから抱きついたりしてくる。オレは口を漱いでから振り向き、軽く睨んだ。 「小日向。家の人に聞こえたら、ヤバイだろ」 「残念でした。ボクんちのお父サン、お母サンは働き者です。もうとっくにお仕事行ってまーす」 笑いを無理に抑えこんだ顔の中で茶色の目がいたずらっぽく動いた。 「だけど朋美ちゃんが」 言いかけたオレに小日向はクスクスと声を立てた。 「朋美だってとっくに出かけたよ。すごい足音立てて階段駆け下りてったんだけど、臼井は全然気づかなかったんだ?」 眠っていたオレはまるで気づいてなかったが、確かに家の中は静かで、みんな出かけてしまったらしい。 「臼井ってかなり寝起き悪いよな」 からかうように言いながら、小日向の顔が近づいてきたので、オレは素直に目を閉じた。歯磨き粉のミント味。ついばむようなキスが徐々に深くなってくる。洗面台に押しつけられ斜めになった身体を支えるためにオレは小日向の背に腕を回した。 そこにガチャリとドアの音がした。 オレが目を開くのと、開いたドアから若い、オレたちと同年代くらいの男の顔が現れたのと、ほぼ同時だったと思う。相手の目が驚きに見開かれる。 見られた! オレは反射的に小日向を突き飛ばしていた。小日向はあっけなく離れ、その男に背中からぶつかった。 「イッテー! あっれー行彦?」 男の腕の中に収まった小日向は能天気な声を上げた。 「ユキヒコ……?」 オレは呆然と呟いた。ユキヒコ――行彦くんは一歳違いの小日向の弟だ。小日向とちがって優秀で、関西の有名大学に進学したと聞いている。向こうで一人暮しをしているはず。 「どうして行彦が家にいんの?」 「夏季休暇だから」 小日向の問いに行彦くんは冷静に答え、小日向の背を押して立ち上がらせた。二人並ぶと、顔立ちや体型はそれなりに似ているのに、雰囲気だけで全然ちがうように見える。行彦くんは確かに頭がよさそうで、小日向とは正反対の印象だった。彼の視線がすうっとオレを上から下までなめるのを感じた。 「邪魔して悪かったな」 クールな一言を残して、ドアは閉まった。 「小日向、てっめえ!」 一瞬の後、オレは全身から火を噴きそうな気分で小日向につかみかかった。 「わー、臼井、ごめん!」 小日向は慌てて手を前に出してオレを押し止めようとした。 「オレ、だって知らなかったもん、行彦が帰ってきてるなんて」 「し、知らないって、知らな、知らないで済むかよ?!」 あせって口が回らない。もろに見られた。男同士でキスしてるところ。しかも小日向の弟に。 「大丈夫だよ、あいつ、全然気にしてないみたいじゃん」 小日向がなだめてくる。 「そんな問題か」 オレが気にするんだよ! オレは相手にならない小日向を放し、部屋に駆け込んで服を着た。気づけば寝起きのまま下着しか身に着けていなかったのだ。返す返すも不覚というやつだ。 「臼井、どうしたんだよ?」 「帰る!」 叫んで部屋を飛び出そうとしたら、腕をつかまれた。 「えー、待って。したら、オレも一緒に行くよ。朝メシ食べに行こ」 ……こいつは本当にどこまで能天気なんだろう。一人でパニックを起こしている自分がバカバカしくなって乾いた笑いが洩れた。オレたちは小日向の車でファミレスに向かった。 それきりオレは行彦くんに会っていない。彼がオレをどう思っているのか、想像することさえ嫌だった。 「なー、臼井。素直にオレの家に行こうってば。こんなところにいたら、熱中症で倒れちゃうよ」 「だからおまえは家に帰ればいいだろ。そしたらオレは奥田ンちでも行くから」 まさか二人揃って押しかけて行くのはためらわれるが、小日向さえいなければオレは奥田の家に避難できるんだ。奥田がダメなら高見でも一日くらいなら泊めてくれるだろう。 とたんに小日向はムッとした表情を作った。 「勝手に他の男ンとこなんか泊まらせない」 その言葉のあまりのくだらなさにむかついたオレは「じゃあいいよ」と返した。 「じゃあ、オレはあゆみンとこに行くよ。男じゃなければいいんだろ」 何が他の男だ、バカバカしい。ただでさえ暑さで苛々しているっていうのに。 「信じらんねー!!」 小日向はひっくり返ってジタバタと手足を動かした。そっちこそ信じられない行動だ。幼稚園児じゃあるまいし。これ以上暑苦しい真似はカンベンしてくれ。 「わかったから、もう。とにかくどこか出かけようぜ。これ以上ここにいたら、本気で死にそうな気がしてきた」 根負けしたオレが言ったとたん、電話が鳴った。待ちかねていた電器屋からだった。結局部品を交換してもらいあっという間にクーラーは復活してしまった。 電器屋が帰った後、小日向はさっそく設定を20℃にしやがった。 「このバカ。地球温暖化という言葉を知らないか」 オレは奴の手からリモコンを取り上げ、設定を直した。 「んー、今日でイヤってくらい実感したよ」 小首を傾げて、へろっと笑うのは、まるきり子どもの仕草に見えた。オレも現金なもので、暑さが遠ざかれば小日向をうっとうしいと思う気持ちも簡単に薄れてしまった。 ふと気づくと部屋の中がいつのまにか仄暗くなっていた。夕刻にしてもいきなりの暗転だった。窓から外を確認すれば空が真っ黒な雲に覆われていた。 先刻まで熱をよどませてわずかの動きさえ忘れたようだった世界が、急変化を見せた。ザアーッと激しい音を立てて雨が降り出し、風が木々を揺さぶる。前触れもなく雷鳴が起こって、オレたちは声を上げた。空が光ったと感じる間もなく重い地響きが部屋を揺らした。 「うわっ、すげー」 オレは慌ててつけたばかりのクーラーを止め、冷蔵庫以外の電化製品のコンセントを引き抜いて回った。 突然訪れた夏の嵐を前に、他のすべての音が身を潜めた。 並んだバケツを誰かが順次ひっくり返していっているかのように間欠的に屋根を叩く雨と、それを凌駕して吹き荒れ咆哮に似た声をあげる風。低く鳴り続けた後で空を割くように落ちてきて地を走る雷。自然があらん限りの大音量を放っているのに、なぜか世界が靜かだと感じられた。 小日向が窓に近寄りガラス扉を引き開けた。冷たいくらいの風が部屋の中に吹き込んでくる。 「小日向、バカ」 オレは近づいて小日向の背中越し、手を伸ばして窓を閉めた。しかし音の割に雨の量は少ないらしく、部屋の中は濡れていなかった。 ギリギリ触れるか触れないかの距離にある小日向の身体は微かに熱を放っていた。子どもって体温が高いんだよな。自分の思いつきにクスリと笑いがこぼれた。 「何?」 振り向いた顔を雷光が縁取った。オレは笑って首を振った。 「なんだよー?」 すぐに笑いが伝染したらしく、小日向がオレにしがみついてきた。 「なんでもないよ。小日向、別に今、熱とかないよな?」 オレは小日向の前髪をかきあげて、額をつけてみた。ナントカは夏風邪を引くっていうから。くっつけた小日向の額を特に熱いとは感じず、本当に子どもみたいに体温が高いだけらしい。クックッと笑っているオレに、小日向はそのまま顎を上げてキスしてきた。 抱き合ったまま、ベッドに倒れ込んだ。 「台風とか嵐って、どうしてこんなにワクワクしちゃうんだろうな」 「野性の血?」 お互いにTシャツくらいしか着ていないから脱がせ合うのもすぐだった。 ちゃんと閉めたはずの窓に隙間ができているらしく時折冷たい風が吹き込んできて、剥き出しの肌を撫でるのが、熱っぽい小日向の身体とコントラストをなして、余計に興奮させられた。 「意外と臼井って野性的なんだよな」 オレの首の付け根に顎を当てて囁いた小日向の声は、耳の後ろから聴こえる。回された手が背骨を辿った。 「ん……何が?」 「実は外の方が興奮しない?」 わずかに半身を起こして、茶色の目がいたずらっぽく覗き込む。オレは少し唇を尖らせた.。 「何言ってんだ」 「臼井は外にいるほうが機嫌いいよ」 「野性は小日向だろ。サルみたいだってみんなに言われるくせに」 オレは身体を反転させて、小日向を押さえ込んだ。上から口づけを落とす。 「じゃなくってー、ン…やっぱ臼井はアウトドア派?」 キスしたまま、小日向が再び上になった。 「だから何言って……んんっ」 小日向の指が奥を探り出す。 「……はぁ…」 「今度、ン、外で…しようか」 お互いに息が上がってきていた。言葉の合間に洩れる、小日向の濡れた息が肌をくすぐる。微かなはずの息遣いが吹き荒れている風の音からもはっきりと分離して耳に届き興奮を煽る。 「バカなこと……ああッ」 不意打ちのように身体を入れられて、うっかり高い声を出してしまったが、風の音がかき消してくれたと信じたい。つられたように雨脚がザアッとひととき強まった。 繋がった腰を小日向がゆっくりと揺らし始める。時折、落雷が身体をすくませて、リズムが崩れ、その度に声が洩れた。 空が光る時に、真っ暗な部屋の中でフラッシュバックのように浮かび上がる、一瞬の小日向の顔を見逃すのが惜しくて、オレはずっと目を開けていた。それは小日向も同じらしく、雷光の度にお互いの目が合うのがおかしくて、そしてなぜか切なく感じた。 どうしてオレたちはこんなことをしているのだろうと今でも時々不思議になる。当たり前のように小日向の隣にいて、当たり前のように抱き合って。それがあまりにも自然になってしまっていることがとても不思議だった。 嵐は瞬く間に通り過ぎ、雨が上がるとまだ日没前だったらしく夕焼けが薄桃色に空を染めた。夜の後に夕暮れが来たような時間が逆しまになった錯覚を覚えた。 小日向が起き上がって窓を開けると、涼しい風が雨の後の匂いを部屋の中に運び込んだ。 「バカ、開けるな」 余韻の残る身体に風を受けて、本当に戸外でしてしまったような心細さがオレを包んだ。 オレはだるい身体を無理に動かし、ベッドの下に落ちていたタオルケットを拾い上げて被った。 小日向はタオルケットごとオレを抱きしめてきた。頬をつけて表情を隠すようにして囁く。 「オレ、ホントに臼井が好きだ」 保護された迷子みたいな、情けない声。そんな声を出す理由なんか、どこにもないだろうに。 オレはタオルケットから腕を出して、小日向をそっと引き剥がしその顔を両手で挟んだ。 素直にオレも好きだよと言ってやるつもりになっていたのだが、至近距離、真正面にある小日向のツラがあまりにも情けなさすぎて笑ってしまった。まるで生後間もない何かの動物の赤ちゃんを連想させられたので、オレは動物の母親を真似て舌を出してその唇を舐めてやった。 |
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