夏の朝に


 大学に入って二年目の夏休み。帰省して数日でオレはヒマを持て余し始めた。両親も姉も仕事だから、昼間は家にオレ一人だった。もともと一人が好きだったはずなのに、小日向に振り回されることに慣れてしまって、静かな環境が落ち着かなかった。
 一週間が過ぎたころには、もうアパートに戻ろうかという気にもなっていた。
 小日向の奴は電話もかけて来ない。もともと小日向とは電話をかけ合うことなんかほとんどなかった。あいつはいつでも勝手なときに押しかけて来て、こっちが留守だったりすれば文句を言う。以心伝心じゃないって悔しそうに言われても、オレだって困る。
 そうだよ、以心伝心なら、今ここに来てみろ。
 無意識にそんな悪態をついていた。
「バカだ、オレ」
 思わず口に出して呟いた。読みもせずパラパラとめくっているだけだった姉のファッション雑誌をテーブルの上に放り投げて、ソファに寝転んだ。
「あああ、ヒマだなっ!」
 ヒマだから小日向のことなんか考えてるんだ、オレは。
 退屈に飽かせてテレビを点けても気をひくようなものはやっていないし、気に入っているはずのCDをかけてもなんだか味気なく感じた。
 オレの部屋にはエアコンがないから、暑さに耐え切れず居間で涼んでいれば、仕事から帰ってきた家族に「大学生はヒマでうらやましい」などと嫌味を言われる日々にうんざりしていた。
 一人でエアコンを使っていると、温度調節がうまくいかない気がした。何もしないから、どんどん肌寒くなる。暑がりの小日向は、初夏のうちからやたらきつい冷房をかけたがって、そのくせすぐに「寒い」を連発して抱きついてくる。正直なところ、冷房の効いた部屋で抱き合うと、皮膚の表面の冷たさと内側の熱の感じが微妙に心地好くて、オレはうまく逆らえない。あれって絶対計算してんだと思う。そんなことを考えて、意味もなく自分の腕同士を触れ合わせてみたりした。


 そんなところに同じく帰省中のあゆみから誘いの電話があって、オレはあゆみと映画を観に行くことにした。高校のころよく行っていた映画館で単館系の作品を一週間だけ上映しているという。
 オレの住んでいるところは田舎で、家から一番近いバス停でさえ自転車で二十分はかかる。小日向たちには想像もできないだろう。日中の一番暑い時間にアスファルトの照り返しに顔をしかめながら、ようやくバス停に着くと、先に来ていたあゆみがにっこりと笑って手を振った。
 高校生だったオレたちは休日にはよくこのバス停で待ち合わせをした。バスで三十分で駅。そこから電車を使って映画館などのある**市に出る。それがオレたちのデートの定番だった。つくづく不便な高校生活を送っていたものだと思う。でもあのころはそれが当たり前だった。
 高校のころと同じように映画館前のファーストフードでハンバーガーを食べてから映画館に入った。
 あゆみと一緒にいるとなんだか穏やかな気分になれた。付き合っていたころだってあゆみからは「好き」と言えなんて強要されたりはしなかった。ただ二人でいることが心地好くて、同じものを見ている安心感があった。もしかしたらその当時からあゆみとオレの間にあったのは、友情だったのかもしれない。
 二本立ての映画を観終えると、喫茶店に入った。目当ての映画よりも同時上映のもう一本のほうが面白かったので、得したのか損したのかわからないなどと話していた。
「そういえば、高見くんは付き合ってる人、いるの?」
 ふいにあゆみから高見の名前が出てオレは驚いた。
「え、なんで?」
「スミちゃん、この前のコンパで高見くんのこと、いいなって言ってたの」
 夏前にオレたちはあゆみの大学の女の子たちと合コンをしていた。
「あ、あーそう。高見、どうかな。またみんなで遊ぼうか」
 高見は多分あゆみのことが好きらしい。なんとなくそう感じていた。最初のころは「すっげー可愛いよな」などと軽く言っていたのに、近頃あまり口にしなくなったから、もしかしたら本気なのかもしれない。でもそれをあゆみに言うわけにもいかず、オレは曖昧に誤魔化した。
 地元の駅に着いたころには五時を過ぎていた。
「失敗した。たった今、バスが出たばかりだよ」
 駅前のバス停の時刻表を確認して舌打ち。次のバスは三十分後だった。時間を潰すような場所もないから、ベンチに座って待つことにした。
「本当は車があればいいんだけどな」
 帰省にだって本数の少ない電車やバスを乗り継ぐより車を使えれば自由が利く。二年になって小日向と高見は教習所に通い始めた。オレがこっちに帰省するころ卒検に受かったと言っていたから、もう免許を手に入れたかもしれない。高見はともかく小日向の運転なんて想像もできない。
「小日向と高見は教習所の卒検受かったんだよ。オレがこっちに来る時、自慢してた」
 オレが言うと、あゆみがクスッと笑った。
「小日向くんが運転するの」
「笑っちゃうよな。絶対乗りたくないと思わない?」
「ううん、乗りたい。楽しそうじゃない」
 傾きかけた陽射しがもろに横顔にあたっているので二人とも眩しさに目を細めながら、しゃべっていた。
「あいつ、意外と器用だから、運転もうまいかな」
「小日向くんて、器用なんだ?」
「ヘンなとこで器用」
 答えてオレはちょっと赤面した。夕暮れの陽射しに誤魔化せただろうか。
「でも夏っていいよね。いつまでも明るくてさ」
 そんなことを言いながら、のんびりとバスを待っていた時だった。目の前の道を駅に向かって通り過ぎて行った車が急ブレーキをかけて、ギュンと音をたてるように歩道のほうに曲がってきた。車体のどこかが縁石にぶつかったらしく、ものすごい音がした。きれいに手入れのされた赤いスポーツタイプの車だった。
 驚いて見つめるオレたちの前でバタンとドアが開いて、車から転がり出すように現れたのは小日向だった。
「どういうことだよっ?!」
 突然真っ赤な顔でわめかれて、オレたちは呆然と立ち尽くしていた。だって何が言える? どうして小日向がこんなところに現れるんだ。
「臼井、なんで、あゆみといるんだ。オレに隠れてコソコソ浮気してんのか」
 いきなりの登場で、つまらないことを言われて、オレは心底呆れた。
「コソコソなんかしてねえよ。一緒に映画を観て来ただけだろ」
 帰省中に友だちと映画に行くにも小日向の許可がいるって言うのか。何が浮気だ、バカバカしい。
 助手席からは高見が降りてきて、車の周りを見て回った。
「おい、小日向。タイヤのホイールが思いっきり歪んでんぞ。買ったばっかりで、なんつー無茶を」
 こいつら、本当にどうしてこんなところにいるんだ。呆気に取られているオレたちの前で、高見が肩をすくめてみせた。
「小日向の車が届いたから、ドライブがてら見せに来たんだよ」
 ドライブがてらって、ここまで三時間くらいはかかったはずだ。小日向は免許取り立てのくせに無謀なことをする。
「奥田に頼んでたやつ? 結構いい車だな」
 オレは車に近づいた。届いたばかりならキレイに手入れされているのも当たり前だ。小日向が試験に受かる前から奥田の家に車探しを頼んでいたのは知っていた。さすがに新車ではないけれど、マトモなバイトもしてないくせに、免許を取った途端車を手に入れるんだから、小日向は意外とお坊ちゃまだ。
「オレが、オレがせっかく臼井に会いに来たのに、臼井は、臼井は」
 開け放したままの運転席から中を覗き込むオレの後ろで、鼻息荒く小日向が言い募った。アホウ。またガキみたいな態度取りやがって。うっとうしいと思う心の片隅で、わざわざ会いに来てくれたことを他愛なく喜んでいる自分がいて、オレは複雑な気分になった。ちくしょう、しばらく会ってなかったせいだ。
「車、ぶつけたの、どこ? ちゃんと見たほうがいいよ」
 オレは小日向の手首をつかんで、車の反対側に回った。高見があゆみに何か話しかけるのを見て、歪んだホイールを確認するふりをしてしゃがみ、ひっぱってかがませた小日向の頬に素早くキスした。
「三時間もかけて来てくれたことには感謝する」
 一瞬ポカンとした表情になった小日向の耳元に囁いた。そう、会いたいと思ってたんだ、オレは。くやしいことに。
 オレの思惑と小日向の行動とは不一致ばかりで、それでもたまにこんなふうにピタリとはまると、運命なんて言葉を信じてしまいたくなる。
 途端にニンマリと笑みを浮かべた小日向が調子に乗って、さらにキスしてきそうになったので、慌てて押しのけて立ち上がった。
「こういうふうにホイール歪んじゃうとさ、カバーが外れやすくなっちゃうよな」
 さりげなく高見のほうに声をかけたつもりだったが、多少顔が赤くなっていたかもしれない。高見は一瞬、隣のあゆみを見てから、こちらに視線を戻した。
「自分でやったんだから、しょうがねえだろ。それよりこれからどうする?」
 高見は気づいたのか気づいていないのか微妙な態度だった。
「小日向はすっかり忘れてるみたいだけど、オレは小日向とケンカしたから、電車で帰る予定なんですけど」
 皮肉っぽい口調に、オレは訊ねた。
「ケンカって?」
「オレは、ちょっと試運転つって、ここまで連れて来られたんだぜ。冗談じゃねえよなあ」
 小日向はオレの家なんか知らないくせにどうするつもりだったんだろう。本当に突拍子もない行動ばかりしやがる。
「電車で帰るっつっても、駅の場所はわからねえし、もうムカつくの、ムカつかないの」
 高見が大げさな身振りをつけて文句を言うので、あゆみが「あはは」と声をあげて笑った。
「ようやく標識見つけて、ここに来たら二人がいるんだもん、びっくりだよ」
 びっくりさせられたのは、オレたちのほうだ。
「じゃあさ、四人でどっか夕飯食べに行かない? それで、よかったら今日はウチに泊まれば」
 オレはそう提案した。今から夜になるというのに、初心者の小日向がまた三時間かけて運転して帰るというのでは、さすがに心配だった。
「オレの車、狭いから二人しか乗れないよ」
 小日向があゆみをちらっと見た後、唇をとがらせて言った。おい、そういういじめっ子みたいな台詞、自分で恥ずかしくならないのか。あゆみは吹き出しそうな顔をしていた。小日向よりあゆみのほうが大人だ。
「じゃ、いいよ。高見と食べてくれば? オレたちはバスで帰るから」
「臼井ー」
 冷たく言い放つと、小日向が情けない声を出した。
「私、狭くてもいいから、小日向くんの車に乗せてほしい。ダメ?」
 笑いをこらえるようにして、あゆみが小日向を覗き込んだ。
「う。うー、いいよ」
 唸るように小日向が頷く。まったく。
「ありがとう」
 あゆみがクスクス笑いながらお礼を言うと、小日向は「ちぇ」と呟いた。
 レストランでも小日向はオレとあゆみがしゃべっていると、露骨に面白くなさそうな顔をしてみせた。
「小日向」
 オレや高見がたしなめる度、小日向は子どものように「ふん」と鼻を鳴らすので、あゆみがクスクス笑った。
 オレはまだあゆみに小日向と付き合っていることをはっきりとは告げていなかったが、これでは多分バレているだろう。そしてあゆみがそれを気にしていないらしいので、オレはほっとした。もともとあゆみには文学少女っぽいところがあって、そういう小説や映画を知っているから、同性愛に偏見はなさそうだった。オレ自身もあゆみとそんな映画を観て「そういうのもアリだよな」なんて話したことがある。その時は、自分が同性と付き合う可能性など少しも考えずに、ただリベラリストを気取っていた。


 家に帰って、先に小日向が風呂を使っている間、高見とオレは部屋で缶ビールを飲みながら待っていた。開け放した窓から虫の声が響いていた。エアコンのない部屋にはまだまだ暑さが残っていたが、昼間に較べれば少しはマシだった。
「なんで小日向の奴は、あゆみにあそこまで対抗意識燃やすかなあ」
 勉強机の前に坐ったオレは、床に直接腰を下ろしている高見を見下ろして、ぼやいた。
 今日の小日向の態度は異常だ。あゆみが気にしてないようなのが救いだったけれど。オレとあゆみは友だちってことで小日向も納得していたはずなのに。一緒に合コンだってしたじゃないか。
 椅子を半回転させながらため息をついてみせると、高見が「ごめん」と謝ってきた。
「オレが車ん中でつい言っちゃったの。臼井はあゆみちゃんといるほうが自然だって。ケンカしたって言っただろ? そういうこと。しかもタイミングよく二人が一緒にいるところに出くわしたからな。小日向もショックだったんだろ」
 オレは複雑な気分で高見を見た。オレとあゆみが自然だと言われても、オレにとってあゆみは友だちだし、高見はあゆみを気に入ってるんじゃないのか。
 高見は手の中のアルミ缶をペコペコと鳴らし始めた。
「臼井は本当のところ小日向のこと、どう思ってんの?」
 いきなり直球で訊かれて、オレはビールを喉につまらせそうになった。
「奥田は、お前らが付き合ってるの、わりと当たり前みたいに思ってるようだけど、オレは正直言ってわかんねえよ。誰がどう見たって小日向よりあゆみちゃんだろうが」
 やっぱり高見はあゆみが好きなんだろう。だから、オレとのことが気になるんだ。オレはちょっと笑った。
「高見、あゆみが好きなんだろ? オレのことなんか気にする必要ないのに」
 オレの言葉に高見は面白くなさそうな顔をした。
「ちぇっ、そんな話じゃねーよ。オレと奥田が余計なこと言ったから、臼井が苦労してんのかと後悔してるわけだよ、オレは。言ったら悪いけど、昔、小日向が付き合ってた女の子って、おんなじようにテンション高いコばっかりだったからさ。お互いに振り回し合ってて、ハタで心配する必要なんかなかったんだけどさ」
 言ったら悪いけど、か。小日向はあゆみを気にしているけれど、オレは小日向が昔付き合っていたコなんて一人も知らないんだ。小日向に似合うのはちょっとエキセントリックなくらいのコなんだろう。高見に言われるまでもなく、オレもそんな気がする。でも。
「オレと小日向は似合わない?」
「似合わないとかそういうんじゃねーんだけど」
 オレが訊くと、高見は空いている右手でガリガリと頭をかいた。
「…って、えっ、やっぱ臼井はマジで小日向が好きなわけ?」
 途中で気づいたように目を丸くして、確認してきた。なんというか、そう改めて訊かれると答えにつまる。
「好きっつーか、うん、まあ、な。それなりに好きだよ。じゃなきゃ付き合えないだろ」
 高見にこんなこと言ってもしょうがないんだけど。
「それなりって、それってさ、オレとかとどう違うわけよ? オレも小日向は好きだよ。だからってあいつと付き合いたいとか思わないじゃんか。臼井は何が違うんだかわかんないんだよな」
「何がって」
 自分でもわからない。答えようもなく俯いて、オレも自分の手の中の缶を鳴らし始めた。
 オレにとって小日向はもともと特別な奴で。でも、小日向が特別っていうのはオレだけじゃなくて、もっと普遍的なものなんだ、多分。だからオレは迷う。みんながあいつの曲が好きで、あいつを特別だと思っている。その気持ちとオレの気持ちがどう違うのかと訊かれたら、オレにもわからない。
「臼井は、小日向に押し切られてんじゃないの? ほんとは別に付き合うとかそういうことじゃなくって普通に友だちでいいのに、あいつが臼井を好きだから付き合ってやってるとか」
 高見はやけにしつこかった。
「小日向は強引だもんな。今日だって最初は本当に試運転のはずだったんだぜ。それがちょっと臼井のこと考えたらもう我慢できないんだ。どこまで行く気かと思ってたら、いつの間にかこっちに向かってて。ご機嫌で鼻歌なんか歌いやがって。ま、そういう強引なとこも小日向の魅力かもしんないけど、それに臼井は逆らえないだけじゃないの?」
「それは違うよ」
 オレは顔を上げて首を振った。確かに小日向がオレを好きだと言わなければ、オレは同性相手にそういう感情を持たなかったかもしれない。でも、好きだと言われたからといって、どんな相手でも好きになれるわけじゃない。きっかけは小日向からの好意の表明かもしれないけれど、オレの小日向への気持ちは、あいつに応えているだけのものではないはずだ。
「違うよ。オレ、そういう気持ちで小日向と付き合ってるんじゃない。うーん、そりゃ、時々は迷うけど、でもオレは小日向を好きなんだよ。高見はそういうの、気持ち悪いと思うかもしれないけどさ」
 バンド仲間が同性同士で付き合ってるなんて、高見としたら対処に困るだろうことはわかっていた。けれどどう思われていてもオレは小日向を好きで、それだけは変えられない。オレの手の中でアルミの缶はデコボコになってしまった。残りのビールもぬるくなって口当たりが苦かった。
「バカ。気持ち悪いなんて言ってねえだろ」
 眉の片方を上げて、高見はへの字に口を歪めた。飲み終わったらしい缶をグシャリと潰す。
「しつこく訊いて悪かったよ。ほんと言うとさ、オレもちょっと悩んでるわけ。ま、あゆみちゃんね、あのコさ、やっぱまだ臼井のこと好きだと思うよ。なーんか、いろいろとうまくいかないわな」
 高見は床にごろんと仰向けになった。
「オレからしたらさ、臼井はあゆみちゃんとより戻したほうがいいと思ったんだよ。小日向はミサオちゃんにでもくれてやって。そんで、オレの居場所はないってわけ」
「高見」
 椅子を降り、にじり寄って上から顔を覗き込むと、高見はやけにシリアスな目をしていた。オレと目を合わせてふっと笑う。
「オレも正直なところマジであゆみちゃんを好きかどうかわからなかったりもするんだ。最初は顔が可愛いと思ってただけだからさ。今まで縁のないタイプだし。でも、彼女をいいなと思うと、オレが余計なこと言ったせいで、臼井とあゆみちゃんが別れたっていうのがひっかかる」
「だから、それは」
 オレはそんなふうに言われるのを悔しく感じた。オレは誰かに言われたから小日向を好きになったんじゃない。
「わかってるよ」
 高見は寝転んだまま手を伸ばしてきて、オレの頭をなでた。
「臼井って時々可愛いな。オニイチャンぶりたい奥田がかまうのもわかるよ」
 高見がふざけたように言うので、オレは苦笑した。
「なんだ、それ?」
「奥田って一人っ子のうえに早生まれだからさ、オレとか小日向が昔、ちっちゃいコ扱いしてたのが気に入らないんだよな。だから臼井相手にオニイチャン風吹かせてんだぜ」
 高見はもうあゆみの話をする気はないようだった。だからオレもしなかった。オレにとってはあゆみも高見も友だちだけど、あゆみと高見の関係はオレが口出しできるものではない。
「それ、奥田が聞いたら怒るぞ」
 そんなことを言ってふざけているところに、風呂からあがった小日向が戻ってきた。
「何してんだよ?」
 ノックもせずにドアを開けた小日向は、オレと高見を見て、不機嫌な表情になった。
「高見、勝手に臼井に触んな」
 どうしてこいつはいちいちアホなことを言うんだ。
「はーい、はいはいはい」
 半身を起こした高見は両手を上げてみせ「よいしょ」と声をかけて立ち上がった。
「風呂、借りるから」
 オレは小日向にビールを飲むかと訊ね、やつが頷いたので台所に取りに行った。
「高見、なんか落ち込んでるみたい」
 戻ってきて缶を手渡しながら言ったが、小日向は話に乗ってこなかった。
「なんだよ、臼井。高見なんかどうでもいいだろ?」
 差し出したビールを受け取りもせず、オレの腕を引いて目の前に坐らせた。オレはとりあえず缶を床に置いて小日向の耳を引っぱった。
「いいわけないだろ」
 仲間が元気ないって言うのに、気にもとめないってどういうことだ。小日向の調子が悪い時にはみんな心配してくれるだろうが。
「臼井ってどうしてそう人のことばっか気にするかなあ? 臼井はオレのことだけ考えてればいいんだよ」
 額をつけて覗き込んでくる小日向の茶色の瞳。洗いざらしの髪からオレのTシャツにまで雫が滴った。そのまま唇が触れる。オレの下唇をペロッと舐めて、小日向はちょっと顔を離した。珍しいものでも見るようにしげしげとオレの顔を眺める。
「オレがこんなに臼井のことばっか考えてんのに、臼井はあゆみとデートしてんだもんな。薄情者」
 言いながら再び顔が近づいて、口の中に小日向の舌が入ってきた。
「デートじゃない」
 否定の言葉さえ吸い取られて。ちくしょう、こいつ、キスがうまいんだ。舌が普通より長いにちがいない。ああ、なんだか酸欠になりそうだ。
 風呂を使ったばかりで、少し湿っぽい小日向の身体。石鹸の匂い。オレ、まだ風呂に入ってないのに、小日向は嫌じゃないのかな。
 背中を撫でていた小日向の手がTシャツの中に入ってきたので、オレは牽制した。
「ダメだ。すぐに高見が出てくるだろ」
「くそー。あんな奴連れてくんじゃなかった」
 オレの首筋に顎を乗せて、小日向が呟く。わりと素直に手を止められて、少しだけ肩透かしを食らった気分。
「ここに来るまでにケンカしたんだって? どうせ小日向が悪いんだろ」
 顔を覗き込んでクスクス笑ってやると、小日向は唇をとがらせた。
「なんだよ、それ。悪いのは高見だよ。無神経なんだ、あいつ」
「小日向に言われちゃ、おしまいだ」
 オレはからかいながら小日向の手をつかんで口に持っていった。長い指先にキスしたり軽く噛んだりしてみる。しばらく会っていなかったから、人肌恋しいというか、そういう気分なのだ。
 そんなふうにじゃれ合っていたら、コンコンコンとおかしなリズムをつけてドアが何度も叩かれた。いつの間にか床に横になっていたオレたちは慌てて坐り直した。
「入っていいかー? まだダメか?」
 歌うような高見の声。オレは立ち上がりドアを開けた。
「バカ、何言ってんだ」
「邪魔しちゃ悪いからよ」
 おどけたように言う高見に、小日向が人差し指で廊下を示した。
「高見、お前、廊下に寝ろよ」
「小日向」
 オレは小日向を睨んだ。高見に何を言うんだ。オレはそういう冗談は嫌いだし、冗談でないなら余計始末に悪い。
 小日向と高見には床に布団を敷いて寝てもらうことにしたのだが、小日向は、ベッドを高見に使わせて、オレと一緒に寝るなどとしつこく言い張ったので、諭すのに一苦労させられた。どう考えても小日向の思考は普通じゃない。


 小日向と抱き合う夢を見た。夢の中でなんとなくこれは夢だとわかっていた。何度も軽いキスを交わして、やけに幸福な気分だった。オレの上になった小日向の重みがしっかりと感じられて、それが心地好かった。
 そうか、やっぱりオレは小日向と抱き合うのが好きなんだな。
 小日向のこと、こんなふうに好きなんだ。
 これは夢だから、オレの願望が素直に出たんだろう。そう思った。余計なことを考えなければ、答えなんか簡単に見えてしまうんだ。
 オレは小日向の首に手を回して笑いかけた。「好きだ」と口を動かした感覚で、目が覚めた。
「臼井」
 小日向の囁く声が聴こえた。目を開けたら、本当に腕の中に小日向の顔があって、オレは仰天した。
「小日向」
 呆然と呟くと、ニコッと笑った小日向から、チュッとキスが落ちてきて、これはまだ夢なのかと思った。しかし、絡んだ足の感覚はあまりにリアルで、つまりこれは夢ではなくて。
 窓を開け放したまま眠ったので、部屋の中は夜明け直前の冷たい空気で肌寒いくらいになっていて、覆い被さっている小日向の体温がやけに熱く感じられた。
「ちょっ、小日向! 何してんだよ?」
 オレは押し殺した声で叱りつけた。同じ部屋には高見が寝てるんだぞ。人のベッドに入り込んで何しようっていうんだ。
「オレ、我慢できなくなった」
「バ、バカタレ。ふざけるのもたいがいにしろよ」
 高見が目を覚ましたらどうするんだ。この状態を見られただけでオレは憤死するぞ。
「臼井はしたくないんだ?」
 確認されてオレはつまった。いましがたの夢が蘇る。触れ合った下半身の状態もバレている。小日向はわかっていて確認してくるんだからムカつく。
「…ゴム、持ってんのか?」
「持ってない」
 嬉しそうに否定すんじゃねえよ。オレは半身を起こして小日向を睨んでから、机の引出しを漁った。目当てのものを見つけ、小日向をこづいた。
「車でどっか連れてけ、アホ」
「了解」
 へらっと笑った小日向が勢いよくベッドから飛び降りたので、オレはあせった。
「ばっ、音立てんじゃねえよ」
 高見を起こしちまうだろうが。
「あ」
 階段を降りて玄関に向かいかけ、トイレの前でオレは足を止めた。
「先にエンジンかけとけよ」
 オレはそう言って小日向を先に行かせ、トイレットペーパーを一巻持ち出した。そこにドアの開く音がして、両親の寝室から父親が出てきた。
「うわっ」
 お互いの声がハモった。トイレに起きたらしい父親は不審そうな目を向けてきた。
「どうしたんだ?」
「え、えっと、オレたち、ちょっとドライブ行って来る。朝メシまでには帰るから」
 オレはあたふたと逃げ出した。まさかオヤジに見つかるなんて。真面目にびびった。もうどうしていいか、わからない。こんな思いまでして、オレは小日向としたいのか。
 トイレットペーパーを抱えたオレを見て、小日向はぷっと吹き出した。
「ティッシュはあったのに」
 くそー。そっちはいいんだよ、そっちは。余計な気を使う必要ないもんな。普通しないことをされるほうは大変なんだ、バカ。
 オレは仏頂面になって、小日向に道を指示した。町外れの自然公園は、何かのイベントがある時には人出も多いので、何ヵ所か駐車場が整備されていたが、普段はほとんど使われることはなかった。林の中にあって数台しか停められない駐車場なら人に見られる心配もない。そこに車を停めた。
 少しずつ明るくなっていく空に朝の匂いが混じっていた。
 車を降りた小日向が助手席に回ってくる間に、オレは椅子を後ろに引いて背を倒した。狭い車内でうまく態勢が作れなくて、照れ隠しに笑う。
 買ったばかりの車で何やってんだろうな、オレたちは。ホテルにでも行けばいいんだろうけれど、オレはまだそういうホテルに入ったことがない。男同士で入れるもんなのかもよくわからない。入れるんだろうとは思うが、オレには抵抗がある。だからと言って、車っていうのは、もっとすごいかもしれないな。
 小日向の手がTシャツの中をまさぐりながら、何度もキスを落としてくる。久しぶりのせいか、それだけでオレは他愛なく興奮させられた。部屋着のハーフパンツは簡単に引き下げられた。
 小日向の手がオレの足を押し上げて、指が中に埋め込まれる。
「んっ」
 オレはこんなところに性感があるんだ。長い指でかき回されて身体が震え、呼吸が荒くなる。
「ね、オレに会えなくて自分でシた?」
 小日向が首筋に舌を這わせてきた。
「ここに、自分の指とか入れた?」
「い、入れるかっ、アホ!」
 自分でしなかったとは言わないが、中になんか入れたりはしない。
「あっ! ああ」
 小日向の指がさらに奥を突いてきて、オレはのけぞった。はずみで車が大きく揺れたのを感じて恥ずかしくなる。
「ここ、気持ちイイんじゃないの?」
 ああ、ちくしょう。そうだよ、おまえにやられると気持ちいいよ。頭にくる。自分でしても意味ないんだよ。だからヘンなとこで器用だっていうんだ、バカ。
「うっ、く…」
 不安定な姿勢のまま小日向を受け入れた。置きどころのない左足がドアに押し付けられて、オレは「痛い」と文句をつけた。シートに擦られる背中も痛かった。
「ん…っ、あ、あ」
 すぐに声が抑えられなくなる。
「イイ? なあ、臼井、イイ?」
 小日向が腰を使い出すと、車がぎしぎしと揺れた。大丈夫なのか、この車。最初からいろいろと酷使されて、気の毒だよな。頭の片隅でそんなことも考えつつ。
 でも、イイ。ああ、そうだ。オレはこういうふうに小日向が好きなんだ。
 高見や奥田とはちがう想い。小日向と抱き合うことに対する欲望をオレは確かに持っている。言葉にはうまくできないけれど、オレはこんなふうに小日向が好きで、身体を繋げたいと思っている。
 なんだかもうすべてどうでもいいような気分になって、オレは小日向にしがみついた。


 家に戻ると、幸いなことに両親も姉も慌ただしく仕事に出かけるところで、オレたちに気を留める余裕はないようだった。キッチンに三人分の朝食が用意されていたので、高見を起こしに行った。高見はオレたちがいなくなったことについて何も言わなかった。ただ先に目を覚ましたのだと思っていてくれれば助かるんだが。
 朝食を食べて午前中に、小日向と高見は帰って行った。帰りは交替で高見が運転するらしい。
 前日に自転車を置いてきたバス停までオレも同乗した。
「気をつけて帰れよ」
 車では五分もかからずに着いてしまうバス停で、オレは二人を見送った。
「臼井はいつ戻って来る?」
 助手席から上目遣いに見上げてくる小日向が子どもみたいで、オレは笑ってしまった。
「うん。すぐ戻るよ」
 どうせ戻れば、また小日向に振り回される日々が待っているのだけれど。たまの逢瀬はやけにロマンティックな気分を運んでくる。正直なところ小日向に会うのは二週間に一度くらいのペースが一番いいのかもしれないな。
 そんなことを考えながら、赤い車が遠ざかって行くのをオレはいつまでも眺めていた。



END






homeのカウンタ5001を踏んでくださったRJさまのリクエストで、テーマは「小日向に抱かれることに対する臼井の気持ちの変化」。うーん、鋭いリクエストです。臼井はねー、どうなんでしょう? 三歩進んで二歩下がるのヒトだから(苦笑)。いつまでもぐるぐる考えてるような感じ。本人は毎回悟り(?)を開いてるつもりでも、小日向には全然伝わってません。
これは時期としては「快晴の土曜日」の前。初めは高見視点の番外編として考えてました。臼井視点に変更したので佐竹のことなんかも絡ませようかと思ったんですが、あまりにまとまりがなくなって諦めました。
これから初めてこのシリーズを読んでくださる方には、順番として時間に沿って読んでもらうほうがいいのかしら。できればここまで読んでくださっている方にご意見をお伺いしたいです。2001.06.02
fantasia
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