始まりの朝「浅田さん、浅田さん」 夢うつつに何度も名前を呼ばれた。せっかくの睡眠を邪魔される不快感。呼びかける声が低くて耳に心地好いのは救いだが。 「浅田さん、起きてください」 「うん? 今、何時?」 重い瞼をなんとかこじ開け、声の主に無意識のまま問いかける。 「五時です」 思いもかけない答えに慌てた。 「五時っ? って、夕方の?」 自分がかなりの低血圧で朝に弱いという自覚があるが、まさか他人の家で、夕方まで眠り続けてしまったのか。 「いえ。朝です」 オレを起こした後輩の遠山が生真面目な声で返すので、思わず怒鳴った。 「ばっ! ふざけろよ。なんで朝の五時に起きなきゃならないんだ?」 昨夜、遠山の部屋に着いたときには午前を回っていた。すぐに眠ったけれど、それでも睡眠時間は四時間と少しの計算になる。遠山は途方に暮れたように言う。 「もう電車、走ってますから、帰ってくださいよ」 「おまえ、始発でオレを帰そうっていうの? 薄情者! やだね。もう少し寝かせろ」 オレは寝返りをうって布団を引きかぶった。 昨夜は仕事が一段落ついたので、課での打ち上げだった。金曜の夜ということもあって、みんなハメを外しすぎた。女の子たちは二次会で見切りをつけ、さっさと帰って行ったが、男だけになるとさらに乱れてしまった。今回の仕事がきつくて鬱憤がたまっていたせいもある。普段はそんなに付き合いのよくない課長も最後まで残っていた。 「浅田ちゃん、あんまり飲んでないでしょ?」 「飲んでますよ」 すでにへべれけっぽい課長に声をかけられ、オレはとりあえずグラスをあおって見せた。オレはあんまり酒が強くない。だから宴会では、勧められるまで自分からは酒に口をつけないようにしている。 「浅田ちゃんもスレちゃってさー。入ったばっかりはすーぐ赤くなっちゃって可愛かったのにな」 隣の加藤さんがつまらなそうにブツブツと呟いた。飲めない人間が標的になるのは悪しき慣習だ。何度も酔い潰されれば自衛の手段を身につける。 「そりゃもう、いろいろと鍛えていただきましたから」 にっこりと笑顔を返す。 「だいたいそういうのは新人の仕事です。遠山くんに勧めてくださいよ」 遠山は入社四年目にしてようやく現れた後輩だった。不運なことに不景気のせいでオレは課の中で三年間も下っ端の地位に甘んじていたのだ。 「あいつ、ザルだよ。面白くない」 確かに一番飲まされているはずの遠山が、メンバーの中では一番マトモに見えた。そのおかげでお開きの後始末はオレと遠山の仕事だった。電車の連中は勝手に帰ってもらえばいい。課長は放っておくわけにもいかないからタクシーをつかまえた。どうにか送り出したあと、腕時計に目をやってオレは舌打ちした。 「あーあ。オレが終電、間に合わなくなっちゃったよ」 田舎にアパートを借りたので、最終が早いのだ。酔っ払いたちに付き合うとロクなことがない。 「タクシーか、痛い出費だ。遠山は大丈夫か?」 「ぼくのとこはまだ大丈夫です」 そう答えた遠山は、少しの間をおいて付け加えた。 「あのー、浅田さん、ぼくのとこに泊まります?」 「えっ、悪いよ」 催促したみたいに聞こえたのかもしれない。オレは赤面した。 「明日は土曜だし。もし用がなければ泊まってください」 遠山が重ねて誘ってくれ、タクシー代が惜しいオレは結局好意に甘えることにしてしまった。遠山のアパートは、駅からは少し歩いたが、まだ真新しい感じでキレイだった。1DKだが台所が広い。オレは物珍しく見渡した。 「へえ、いいとこに住んでるんだな。家賃いくら?」 後輩のくせに生意気な、なんて内心の声を隠して遠山に訊ねる。答えはオレのアパートと大差がなかった。 「なんだよ、結構安いんじゃん。いいなあ、ここ。オレもここに住みたい」 「えっ。ど、どうぞ」 なぜか赤くなって遠山が言った。 「マジ? 空き部屋あるの?」 オレが勢い込むと遠山は首を振った。 「空き部屋はないみたいです」 「アホか」 ガクッとこけた。遠山って天然だったかなあ? 「ま、いいや。どっか空いたら教えてくれよ」 遠山の部屋にはシングルベッドしかなかった。そのベッドを使うようにすすめられたが、さすがにそれは辞退した。会社での付き合いしかない相手にそこまでずうずうしくはなれない。オレは床に座布団を並べて毛布を借りた。 「ん?」 あれ? オレ、今ベッドに寝てるじゃん。えっと、確か一度、目を覚ました。水を飲みに行って、トイレを借りて、無意識にベッドにもぐり込んだらしい。そういえば、遠山が慌ててベッドを降りたような。あちゃー、悪いことしたな。 オレはうとうととそんなことを考えながら眠りつづけていた。そうか、これ、遠山の布団か。馴染みのない匂いだと思った。このごろようやく朝が涼しくなってきたから、布団にくるまっていると気持ちいいんだよな。 「浅田さん」 また遠山が起こしにきた。 「浅田さん。七時ですよ」 「やめてくれ」 オレは八時間寝ないとダメなんだ。だいたい遠山は眠ったのだろうか? よくも五時なんて時間に起こしてくれたものだ。おかげでかえって布団から出る気がなくなってしまった。 「もう帰ったほうがいいですよ」 「い、や、だ、よ!」 どこかおろおろした声で遠山が言い募るのを、ぴしゃりとはねのける。たいして親しい相手でもなかったはずだが、下手に出られると高圧的な態度になってしまう。自分でも悪い癖だとは思うが。遠山は今のところオレが強気に出られる唯一の相手だ。 「浅田さん。ぼく、好きな人がいるんですよね」 「はあ?」 唐突な展開に面食らう。あ、待てよ。 「すまん。今日、デートか?」 慌てて身を起こす。邪魔だから帰ってほしいってことか。 「いや、違うんです。別に今日は何の予定もありません」 「あー、もー。なんだよ」 もう知らね。オレは再びベッドにもぐり込んだ。もう絶対起きてやらねえ。布団を頭からかぶって寝たフリをした。そんなオレに遠山はしつこく言葉を続ける。 「浅田さんなんです」 「何が?」 「ぼく、浅田さんのこと好きなんですよ」 「あっそー。ありがと。オレも遠山のこと好きだよ。だからもうちょっと眠らせろ」 朝っぱらから冗談に付き合ってられるか。 「じゃあ、いいんですね?」 低い声で遠山が呟くのが布団越しに聞こえた。その途端、重いものがのしかかってきた。苦しい。 「もう、いい加減にしろよ! どうして意地悪すんだよ?」 オレは仕方なく布団から顔を出した。至近距離の遠山の顔に驚く。 「わっ、遠山?」 どうしたんだよと聞く間もなく、唇を押し付けられる。言葉の途中で口が開いていたので、遠山の舌が侵入してきた。どういうことだ? 「浅田さん、オレ何度も忠告しましたよね?」 ようやく身を起こして遠山はオレの顔を覗き込んだ。一人称が変わっている。遠山はいつも礼儀正しくて、イマドキの若者にしては感心だっていうのが、課長以下うちの課の共通認識だったんだぞ。使い慣れなそうに「ぼく」と言うのが、初々しいとポイントを上げていた。 「オレだって男だし。我慢も限界なんですよ。だから早く帰ればよかったのに」 掛け布団が床に落ちた。 「遠山?」 いまいち状況がわからずに問いかける。再びキスがふってきた。今度はそのまま遠山の唇が頬をつたって、耳のほうに来る。耳朶を噛まれた。 「いてっ」 遠山の手が服にかかって、ようやくあせってきた。 「ちょ、ちょっと待てよ、おい?」 「ダメです。オレ、昨夜寝てないんだから。責任取ってもらう」 遠山の目が据わっている。オレは情けなく訊ねた。 「オレがベッド取ったから?」 「浅田さんて、バカですか?」 呆れた顔で遠山が訊ね返す。なんだと、このやろー。 「オレも男ですからね。好きな相手と一緒の部屋で眠れるほど、神経太くないんです」 「おまえ、それって、冗談?」 「こういう状況で、往生際が悪いですね」 すでに借りたパジャマのボタンが全開にされていた。冗談にしてもほどがあるのは確かだ。 「遠山ってゲイなんだ」 オレの言葉を遠山は心底意外そうに否定した。 「ちがいますよ。浅田さんがそうなんじゃないんですか?」 「なんでオレがゲイになるんだよっ! 好きだっつってんの、おまえじゃんか!」 オレは声を荒げた。これはやっぱりからかわれているのかもしれない。 「浅田さんが誘ったんでしょう」 「オレがいつ、おまえを誘ったっ?!」 「いつも」 とんでもない言いがかりをつけられて、オレは頭を抱えた。 「遠山、おまえ寝ぼけてんの?」 「何かっていうと流し目くれたでしょ」 「流し目ってどんな目だよ? オレにそんな器用な真似ができるかっ」 真っ赤になって怒鳴って、ふと気づく。もしかしてと思い当たることがあった。確かに誰かの冗談に笑うときなど、いつも遠山と目を合わせて笑っていたような気はする。だけど、それはたんに職場にオレより下なのが遠山しかいないからだぞ。だいたい男同士で目が合ったからって気にするほうがおかしい。 「昨夜なんかオレのベッドに入ってきたでしょ」 オレはぐっとつまった。仕方なく謝る。 「それは悪かったよ。寝ぼけてて、無意識におまえのベッド取っちゃったんだ」 「そう。無意識に誘ってたんだ」 「だから! 誘ってねえよ」 「じゃなきゃ、オレが男にこんな気持ちになるの、おかしい」 哀しげにさえ見える表情だった。そう言って再び遠山はオレの上に覆い被さってきた。 「うわー! やめろ、遠山」 オレは慌ててもがいた。遠山の肩に手を当てて引き離そうとしたがうまくいかない。 「わかった! これはお互いに誤解があったということで! オレも悪かったっ。謝るからこれでやめよう」 精一杯譲歩したつもりなのに、遠山は手を止めなかった。 「誤解でもなんでも、オレは浅田さんを好きになってしまったんだから、もう止められません」 必死に身体をひねるオレの抵抗など、どこ吹く風で遠山はオレを押さえ込んで舌を這わせてきた。 「ちょっと! ヘンな冗談やめろよ!」 思わず泣き声になってしまった。遠山の唇が首筋から胸まで降りてくる。 「あっ」 我ながらすごい声が出た。 「男でも胸で感じるんだ」 遠山が感心したように言う。オレもそんなことは知らなかったので赤面した。 「じゃあ、昨日の話もありだと思います?」 突然の質問に頭にクエスチョンマーク。 「なんだ? 昨日の話って?」 「人間ドック」 言われて青ざめた。ちょっと待て。人間ドックって、加藤さんの話か? うちの会社では三十歳以上は人間ドックが義務になる。今年初めて人間ドックに入った加藤さんがその話を始めた。 「あれって、けっこうビビりますよね、大腸ガン検診。指入れられんだもん」 オレと遠山以外はみんなすでに何度か受けているらしい。 「ははは。感じちゃったりしてな」 「なんであんなので感じるんですか?」 「知らないの? アナルプレイってあるじゃんか」 「えー、やったことあるんですか?」 「ないけどさあ、週刊誌に書いてあるだろ」 「それって、ホモじゃなくって?」 「ちがうって。風俗にあるんだよ」 やたらと盛り上がるオヤジ連中に、オレはなんて下品なやつらだと顔をしかめていた。その時ふと遠山と目が合って、やつが真っ赤になるのがわかった。よしよし純情な奴だ。オレは内心嬉しくなったのだった。 あれは間違いだったってことか? 遠山の赤面は、純情の証ではなくって…。 「やめろっ。オレはそういうの、興味ないからなっ!」 悲鳴混じりの声をあげて、逃げ出そうとした。けれどしっかり抱え込まれていて動けない。 「オレが興味あるんです」 ぞっとするような声音で遠山が囁く。パジャマのズボンまで脱がされそうになって必死で押さえる。遠山が舌打ちした。 「オレは女としかしたことないし。女にやるようにしかできない」 「だったら、女とやればいいんだっ」 とうとう涙がこぼれてしまった。オレの必死さに脱がすのを諦めたらしい遠山は、今度は強引に手を入れてきた。 「よせよ」 慌ててその手をつかもうとしてパジャマを押さえる力が緩んだところを、すばやく下着まで一緒に下ろされてしまった。 「頼む。もう許してくれ」 羞恥に身悶えして涙ながらに訴えるオレを一瞥して、遠山は肩をすくめた。 「もう無理です。そんな顔をして。誘っているとしか思えない」 「遠山っ!」 遠山はオレを押さえつけたまま、自分の服も脱ぎ捨てた。足の間に手を入れてくる。 「やめっ」 悲鳴をあげるオレに口づけて、あやすように舌を吸う。どうしてこんなことになってしまったんだろう。オレは自分がどこで間違えたのかわからなかった。遠山は左手だけでオレを愛撫しながら、右手でベッド脇のボードの引き出しをがちゃがちゃとかき回した。何をやっているんだ? オレは不安で青ざめていた。目的のものを取り出したらしい、遠山が少し動きを中断した。おそるおそる訊ねる。 「何?」 「ただの軟膏。やっぱり何かつけないと無理かなと思って」 しれっと言われて卒倒しそうになった。 「なっ! 無理だったら、やめろよ!」 「オレじゃないでしょ。浅田さんを傷つけたくないから気を使ってんです」 ヒヤリとした感触を感じた。それだけで不快だった。他人に触られる恐怖に呼吸が浅くなる。 「気持ち悪いよ。やめようよ、遠山」 「浅田さんって、ほんと往生際が悪いですよね」 遠山の指が中に入ってきた。 「ぐっ」 思わず喉が鳴った。その異物感。 「感じます?」 「バカッ。感じるもんか! 痛いから抜けよ」 必死で悪態をつくと、遠山は首をかしげた。 「おかしいなあ」 言いながら、指を動かす。 「あっ、あっ。よせ、バカ」 ぞくっと何かが背筋をのぼってくる気配があった。遠山がふっと笑うのがわかった。 「感じるんでしょ?」 「ううっ…」 悔し涙が溢れてきた。なんでオレがこんなこと。 「泣かないでくださいよ。オレが切なくなる」 ぬけぬけと言われて、ますます涙が止まらなくなった。ちくしょう。オレは涙にかすんだ目で遠山を睨みつけた。遠山は眉を寄せた。 「やめてくれって言いたいのはこっちです。そんな顔…」 遠山の息が速くなっている。指が引き抜かれ足を抱えられた。屈辱と恐怖に頬がこわばる。 「いやだっ」 言葉になったのは、それが最後だった。ぐいっと遠山が腰をすすめてきた。押し込まれる痛みにオレは痙攣した。逃げようとずり上がる肩を遠山がつかむ。 「あうっ! たっ…やっ、はっ…あっあっ」 遠山の動きに合わせて、喘ぎを洩らすしかできなくなった。身体が少しずつ熱を帯びてくるのを感じた。遠山も苦しげな顔をしている。そして遠山はオレの中で爆発した。 「いやだあっ!」 オレは悲鳴を放ってのけぞった。涙と汗で顔はぐしゃぐしゃだった。遠山はようやく正気に返ったように哀しげな表情になった。 「すみません。オレ、本当にこんなこと…」 今ごろ謝られても何を答えればいいのかわからない。へたをしたら子どものように泣き喚きそうで、オレは唇を噛んで遠山をにらみつけた。鼻から息が洩れ肩が上下した。遠山はぎゅっとオレを抱きしめてきた。 「オレ、やっぱり浅田さんが好きです」 「あほう!」 一瞬の隙をつかれ、必死でこらえていた涙がどっと溢れ出てしまった。 「おまえっ。好きって…好きな相手にこんなことするかよ」 わんわんとみっともなく泣き出す自分が嫌になった。遠山が困惑して覗き込む。 「こんなことは好きな相手にしかしないでしょ」 「オレの気持ちはどうなるんだよ」 後輩にこんなことされるなんて。 「浅田さん、オレのこと嫌いですか?」 嫌いだと反射的に返そうとして、オレはとまどった。オレは遠山をどう思ってるんだ? 遠山は職場の後輩で、そしてオレにとってどんな奴だ? 「嫌いなんですか?」 何かを確信しているように遠山はくり返す。オレは自分の気持ちがわからなくなった。嫌いだという言葉が喉につかえて出てこない。 「オレ、オレは…」 「ほら、浅田さんの気持ちですよ」 急に余裕を見せ始めた遠山が憎らしい。オレは…。 |
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