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失くした地図 -1-


 風呂上りにビールを飲もうと征司がキッチンに入っていくと、テーブルで母親と妹の多香子が話し込んでいた。間近に迫っている多香子の結婚式の話題らしい。二十八歳になる征司や一つ下の弟の優也を差し置いて、二十四歳になったばかりで多香子の結婚が決まってしまった。
 何度もクスクスと笑い声を洩らし楽しげにしゃべっている二人にチラリと目をやって、冷蔵庫から取り出した缶ビールを手にキッチンを出て行きかけた征司を、多香子が呼び止めた。
「お兄ちゃん」
「何?」
 振り向いた征司の表情を見て、多香子は微かに眉をひそめた。
「どうしてそんな不機嫌な顔するの」
「してないよ」
 否定した征司に多香子はかぶせるように言った。
「してる。まさか妹の披露宴をエスケープなんかしないでしょうね?」
 無言のままの征司に、母親と顔を見合わせてわざとらしくため息をついてみせる。
「わかってるんだから。朋章が来るのが気にいらないんでしょ。でも、私が呼ぶんじゃないもん、しょうがないでしょ」
 簡単に口にされた幼馴染みの名に、征司は風呂上りのほてりがさっと冷めるのを感じた。
 新郎が朋章と同じ高校だったので、披露宴の招待客の中に朋章の名があった。征司が幼馴染みの朋章と絶交してからすでに十年近くが経っていた。それでも朋章と顔を合わせることを考えるだけで動揺する自分が、征司には苛立たしかった。
「そんなこと言ってないだろう」
 ことさらに不機嫌を装うのが虚勢だと自分でわかっていた。
「征司がこんなに執念深い性格だったなんて意外だわ」
 母親は困ったように笑ってみせた。
 征司の家と朋章の家とは家族ぐるみの付き合いだった。母親は、征司と朋章との間がこじれた当初はとりなそうとしていたが、頑なな征司の態度に諦めたらしかった。
「もういい加減に仲直りしなよ、お兄ちゃん」
 母親も多香子も何も知らない。征司が朋章に何をされたかを知らない。他愛のない行き違いが続いているだけだと信じているようだった。
 もともと征司と、四歳年下で多香子と同い年の朋章との仲が良かったのは子供の頃の話で、絶交した八年前には、すでに疎遠になりかけていたのだ。そのまま仲直りのきっかけを逸しているとでも考えているにちがいなかった。
 二人がかりの言葉に返事をせずに踵を返しかけた征司を多香子が再び呼び止めた。
「待ってよ、お兄ちゃん。二次会に出るか訊きたかったの。ねえ、坐って。私、お嫁に行っちゃうんだからね。こうやって話す時間なんてもうないよ」
「ここに坐ったら、おつまみ出してあげるわよ」
 おどけて付け加えた母親に「いいよ」と苦笑して、征司は腰を下ろした。八年も経てば、あんなことさえ日常に紛らすことができるのか。簡単に気分を切り替えられる自分が不思議な気がした。決して消えはしない傷なのに、そればかりを考えているわけではなかった。こうして遠くなっていくのだろうか。
「俺は二次会には出ないよ。どうせお前たちの友だちだけだろ? 場違いになる」
「できれば出てほしいんだけどな。お兄ちゃんに会いたいって子がいっぱいいるんだ」
「優也に頼めよ」
「優ちゃんだと格が落ちるからねえ」
「多香子」
 肴を用意し始めた母親がたしなめるように口を挟んだ。征司と弟の優也は年子だったので、周囲の目は何かと二人を比較した。それが優也を傷つけてきたことを知っている母親が見せた気遣いだった。
 だが、そんな優也の反発はいつしか過去のものになっていた。大学に入って始めた一人暮らしが余裕を生んだようで、今では優也も生来のものだったのであろう屈託のなさを取り戻していた。多香子が征司と較べるような台詞を口にしても気軽な冗談として躱してみせた。
「えへへ、冗談。だって優ちゃんはラブラブじゃない。二次会には美紀さんも来てくれるでしょ」
 優也の恋人の美紀を披露宴に招待するかどうかで家族が迷ったことを征司は思い出した。就職後も一人暮らしを続けている優也と、美紀は半同棲のような状態らしいが、まだ正式な約束を取り交わしているわけではなかった。結局美紀の方からも披露宴は遠慮したいと言われて、二次会に優也と二人で来ることになっていた。
「朋章くんだって素敵じゃないの。小さい頃からあんなに可愛かったんだもの。しばらく見てないけれど、絶対かっこよくなってるわよ」
 母親の言葉に、多香子は鼻の頭に軽く皺を寄せた。
「うーん。朋章は、私の友だちには評判悪いんだよね。中学一緒だったりして、知ってる子もいるからさ。ママには意外かもしれないけど、朋章、女の子からは性格悪いって嫌われてたんだ。かえって男子に人気があったくらいだよ」
 征司は黙って缶のプルを押し開けた。何も知らない母親や多香子が、朋章の話をするのは仕方ない。忘れればいいんだ。ただの過去にいつまでこだわるつもりだ。
「あー、マズイこと思い出した」
 ふいに多香子は頓狂な声をあげた。
「朋章、二次会にも出る気なのかな。二次会に来る子に、昔、朋章と付き合ってた子がいるんだよね、困ったなあ」
「昔のことは仕方ないでしょう?」と母親がなだめる。
「そうなんだけどさ」
 そう、昔のことだ。どちらも子供だったんだ。
 うまく流し込むことのできないビールが征司の口の中に残った。いつもより鉄の味がするようで苦いと感じていた。
 沈黙している征司に、幾分おもねるような口調で、多香子が声をかけた。
「お兄ちゃんがフリーなんて信じられないってみんな言ってるよ。立候補したい子がいるんだから、二次会に出て」
「バカ、多香子の友だちじゃ年齢がちがいすぎる」
 征司はそっけなく言い捨てた。どちらにしても恋愛ゴッコなど自分には無縁のものだとわかっていた。
「ちがいなんかないでしょ。子供の頃じゃあるまいし、四歳なんて差のうちに入らないわよ」
「いいよ、俺は」
「なんでお兄ちゃんはそんなに消極的なの? ねえ、沢渡さんって今どうしてるの?」
 突然出てきた名前に、征司は口をつけた缶越しに多香子を見返した。沢渡あずみは征司が高校生の時に付き合っていた相手だった。
「知るわけないだろう。ずっと連絡も取ってないし。いきなりなんだよ?」
「だって、お兄ちゃんが付き合ってた人って沢渡さんしか知らないもん。別れた時もお兄ちゃん、すごく落ち込んでいたでしょ。そんなに好きだったんなら、また連絡してみたらどうかなあって思っただけ」
 征司は、沢渡のことを忘れていた自分に気づいた。あんなに好きで、別れを一生の傷だと思った相手さえ、あのことの後ではかすんでしまっていた。
「どうして俺の話になってんだよ。多香子の結婚式はもうすぐだろ。人のこと世話焼いてるヒマはないだろ」
「お兄ちゃんには全然そういう話がないからさ、心配になってくるのよ。もういい年なのに」
「俺は結婚できないよ、多分」
 八年前のことを忘れない限り、人を好きになることさえできない気がしていた。
「どうしてそんな暗くなっちゃったの、お兄ちゃん。昔はすごいモテモテだったじゃない。今だって私の友だちはみんなお兄ちゃんのことかっこいいって言ってるよ」
「俺の話はいいって言ってるだろ」
 吐き捨てて、征司は立ち上がった。大股にキッチンを出て行く。
「お兄ちゃん」
 背中にかけられた声にも今度は振り返らなかった。
 やっぱりダメだと思った。俺は朋章を忘れられない。
 自室に入り、鍵をかけた。その鍵は征司が自分で取り付けたものだった。そう、八年前から征司はすべてに鍵をかけて生きてきた。
 八年前、大学二年生だった征司は、家族ぐるみの付き合いをしていた朋章の家で、高校生の朋章にレイプされた。それは手酷い裏切りだった。



 中学生の頃まで征司にとって四歳年下の朋章は庇護すべき存在だった。子供の頃の朋章は、同い年の多香子よりもはるかに少女めいた甘やかな顔立ちをしていて、その並外れた可愛らしさのせいで周りから苛められることも多かった。そんな朋章を征司は何かにつけてかばってきたし、朋章のほうでも誰より征司を慕っていたはずだった。
 幼い朋章は母親に伴われて征司の家によく遊びに来ていた。それが休日ならば「征司くん、いる?」と真っ先に征司の部屋を覗きにきたし、平日には学校から帰ってくる征司を待ちわびていたかのように必ず玄関に迎えに出てきた。「おかえりなさい」と笑う朋章に、征司はクラスメイトとしていた遊ぶ約束をキャンセルしたりした。
 征司が高校生になり、朋章が中学に入った頃から二人の間は疎遠になっていたが、征司は、単純にお互いに大人になっただけのことだと考えていた。高校生になった征司にはガールフレンドができて、子供の頃のつき合いより彼女との時間を優先させるようになっていた。初めての恋人に征司は夢中で、朋章のことはいつしか気にかけることがなくなっていた。高校時代につき合っていたあずみとは大学進学を機に破局が訪れて、その悔いがしばらく征司を苦しめていた。
 あの夜。
 征司は朋章から思いもかけなかった弾劾を受けた。
 その日、母親同士が泊りがけで遊びに行くことになっていて、征司は朋章の家で朋章と二人で過ごすことになった。
 久しぶりに顔を合わせたことへのぎこちなさと、成長してもまだ愛らしさを残していた朋章に感じた安堵。
 だから突然の朋章の豹変にはとまどうしかなかった。
 朋章は征司を好きだと言った。それは征司にとって予想だにできなかった告白だった。朋章は、ガールフレンドを作った征司を不実だとなじる言葉を吐き、同級生二人を呼び込んで、レイプしたのだ。許しようのない卑怯な行為だった。
 押さえつけられ泣き叫ぶ征司を、朋章は容赦なく犯した。
 悪い夢だ。
 征司にとって朋章は可愛い弟だった。まさかその朋章が征司に牙を向けるなど誰が想像しただろう。
 未明に目を覚ました征司は、泣き疲れて眠りについた幼い頃に戻ったような錯覚の中にいた。身体のあちこち、特に喉と下半身がひどい痛みを訴えていたが、それをかばうような優しい腕に抱えられて、安心してまどろんでいた。
 思うさま涙を流した後の気怠い心地好さは、身を委ねているのが誰の腕かを思い出した途端に霧散した。幼い記憶の中の母のように征司を抱えていたのは、自分を傷つけた張本人の朋章だった。
 征司は自分を抱えて眠り込んでいる朋章の腕から抜け出し、ボロボロの身体で家に戻った。
 浴室に直行してシャワーを浴び始めると涙が途切れることなく込み上げてきた。屈辱に嗚咽しながら身体に残る朋章の痕跡を始末した。
 自室のベッドに潜り込んで震えていた征司は、昼過ぎに目を覚ました。家にいたはずの父親は征司が戻ってきたことには気づかずに仕事に出かけたようだった。
 鍵がかけられているはずの玄関が開く音が、敏感になっていた耳に刺さって征司の心臓が早鐘を打ち始めた。誰が、来たのだろう。
「ただいまー!」
 間髪を入れずに階下から妹の多香子の明るい声が響いて、征司の口から深い安堵のため息が洩れた。高校一年生の多香子はマネージャーをしているサッカー部の合宿に参加しているはずだった。途中で帰ってきたのだろうか。顔を合わせたくないと感じた征司は、ベッドの中で身を縮めてじっとしていた。
「あ、お兄ちゃん、いるみたい。ちょっと見てくるから待ってて」
 多香子は一人ではないらしく、誰かとそんな会話を交わした後、階段を駆け上がってくる音が聴こえた。
「お兄ちゃん、いる?」
「なに?」
 一度目の声は掠れて自分の耳にさえ聴こえなかった。征司は咳払いして「なんだよ?」と再びドアの向こうに問いかけた。
「朋章が来てるよ」
 多香子は言った。征司の全身に冷水を浴びせることをごく当たり前のように。
 なぜ朋章が? 昨夜の今日で何をしにこの家に来たんだ。声をなくした征司に頓着せず多香子は早口に言葉を継いだ。
「お兄ちゃん? ねえ、朋章がいるんだけど。私、これからまた出かけるの。荷物置きに来ただけなんだから、すぐ行かなきゃいけないんだよ」
 返事がないことに苛立ったのか、言葉の合い間に軽くノックをくり返し「入るよ」と言いながら多香子はドアを開けた。カーテンを引いた薄暗い部屋とベッドにもぐりこんでいる征司に驚いたように声をかけてくる。
「お兄ちゃん、具合悪いの?」
「…帰ってもらってくれ」
 布団の中で呟いた掠れた征司の声は届かなかったようで、多香子は自分の言葉を続けた。
「熱でもあるの? 大丈夫? どうしよう、私、また学校行かなきゃならないんだけど。お母さん帰ってくるの、遅いと思うよ。ねえ、朋章に看病してもらう?」
「よせ!」
 驚きのあまり鋭い声をあげて征司は咳き込んだ。横になったままだったので咳はなかなか静まらなかった。昨夜叫び続けた咽喉が痛い。
 多香子は気遣わしげに征司のベッドに近づいた。
「朋章なら、いいじゃない。私、ほんとにすぐ行かなきゃならないの。まだ合宿終わってないんだ。ちょっと朋章に頼んでくるから」
 朋章とは家族ぐるみの付き合いだったから多香子は自分が至極真っ当な提案をしていると疑いもしなかった。
「やめろ」
 征司はベッドに半身を起こした。その勢いに多香子が一瞬身を引いて丸く目を見張った。征司は右手で顔を覆って、もう一度「やめろ」とくり返した。この部屋に朋章を呼ぶことなどできるわけがない。征司は奥歯を噛みしめた。
「大丈夫だから。すぐに階下(した)に降りていくから。あいつには、下で待ってるように言えよ。絶対ここには上がらせるな」
「う、ん。…大丈夫なら、いいんだけど。じゃあ私はこのまま出かけるから。ほんとに急いでるの。お兄ちゃん、ごめん」
 低い声で吐き捨てた征司の剣幕に気圧された多香子は曖昧に呟き、部屋を出て行った。
 征司はのろのろと身体を起こした。できるならこのまま消えてしまいたかった。昨夜の朋章と顔を合わせることを考えただけで身体は情けなく震えを刻んだ。
 だが朋章がこの部屋に入ってくることだけは避けたかった。
「ちくしょう!」
 布団を握りしめて征司は叫んだ。「ちくしょう、ちくしょう!」滲みかけた涙を征司は乱暴にこすった。そのまま額を何度も叩く。どうしてこんなことに。
 居間の入り口で足が止まった。開いたままのドアからソファに坐っている朋章が見えた。緩くウェーブした茶色の髪。優しげな輪郭。成長過程にある朋章の容貌は、いまだに少女めいた甘さを残していた。その外見と前夜の所業がうまく繋がらない。ソファに浅く腰掛け、アンバランスに長い手足を持て余しているようだった。両膝に肘をつき組んだ両手で唇の下を軽く叩いていた朋章は、気配に気づいたのか振り向いて征司を見るなり微笑んだ。
 どうしてそんな顔ができるんだ。
 血の気の引いた身体は冷たくなり、どこか離れたところにあるように感じられる頭で、征司は思った。
 朋章が立ち上がり、近寄ってくる。身を翻して逃げたいと思ったが、金縛りに遭ったように動けなかった。呼吸さえうまくできずに、短く息を吸い込むばかりで吐き出せなくなった。
 朋章の整った顔立ちは、作り物めいて現実味を欠いていた。男でも女でもない精巧な人形のようだった。それが優しげな笑みを浮かべて近づいてくる。怖い、と征司は思った。ただひたすら怖い。
 朋章の手が左腕に触れた瞬間、そのまま叫び出すと思ったが、声は出なかった。いやに暖かく感じられる朋章の手を振り払いたいのに、腕は一ミリたりとも動かせなかった。
「身体、大丈夫?」
 屈託なく訊いてくる朋章を、征司は黙って睨みつけた。朋章の声を聴いた瞬間、呪縛は解けたようだった。張りつめていた空気がふっと和らぎ朋章は生身の高校生に戻った。征司は知らず深く息をついていた。
「傷とかついてないよね」
 無神経に言葉を重ねて無言を通す征司に朋章は困ったように笑った。
「怒ってるの? ごめん、無理強いしたことは謝るよ。だけど、ああしなきゃ征司くんは手に入らないと思ったんだ」
「…それで?」
 征司はようやく声を絞り出した。
「え?」
 ぽかんとした朋章はあどけない子どもめいていた。そんな顔でこいつは俺に。征司の中に憎しみがたぎった。泣き喚きたい衝動を拳を握ってこらえる。
「もう俺を手に入れたと思ってんだろ? それで満足したんじゃないのか。今さら俺の前に顔を出す必要はないだろう」
 早口に言葉を紡いだ。少しでも途切らせたら、もうその先は言葉にならない。ただ嗚咽が待っているだけだとわかっていた。こいつの前で二度と泣くことはするものか。昨夜の自分を征司は消し去りたかった。
「怒らないでよ」
 困惑したようなその顔はまだ笑みを残していた。朋章の態度に滲む甘えに吐き気がした。こいつはあんなことをされた俺が簡単に許すと思っている。
 男として年上としての尊厳を粉々にされた征司は朋章を激しく憎んでいた。
「俺、本気なんだよ。本気で征司くんが好きだ。だから、これからちゃんと付き合っていきたいんだ」
「何を、言っている?」
 征司には朋章の台詞を理解することは不可能だった。ただの勝手な主張としか思えない。そんなことを平気で口にしてくる朋章は征司にとって宇宙人に等しかった。
「おまえ、俺にあんなことをしておいて、どんなつもりでそんなことが言えるんだ?」
「だって、俺…」
 朋章は軽く下唇を噛み、拗ねたような上目遣いの後、甘えた表情で囁いた。
「征司くんだって、気持ちよかったんだろ?」
 征司はさっと青ざめた。
「帰れ」
 抱きしめようと伸ばされた朋章の腕を振り払い、征司は力任せにその頬を張った。征司の行動をまったく予期していなかったらしい朋章は叩かれた勢いのまま床に倒れ込んだ。呻き声をあげる朋章を征司は容赦なく引き立てた。
「帰れよっ、帰れ! おまえなんかに好きにさせるか! それともまたあいつらを呼んでくるか? 三人がかりで俺を…っ」
 激昂して叫びながら玄関に突き飛ばす。頬を腫らした朋章は呆然と征司を見た。
「征司くん」
 ためらいがちに伸ばされた手を征司はぴしゃりと叩き落とした。
「俺は一生許さないから。おまえとは二度と口も聞かない。さっさと出て行けっ!」
 朋章はひどく傷ついた目で征司を見つめた。足元のスニーカーを探り爪先を入れただけでじりじりと後退りした。その背中がドアに当たると朋章は後ろ手でノブを回した。
「征司くん」
 朋章の目に涙が滲むのを征司は忌々しい気分で見た。今さら無害な羊を装われても何も感じられない。征司の保護を必要としていた可愛い幼馴染みはどこにもいない。
「帰れ」
 短く吐き捨てて顔を叛けた。力なく閉じられたドアの音が響くと素早くドアに取りつき、断罪する気持ちを込めて音高く鍵を下ろした。
 そのまま征司は家中の鍵を点検して回り、すべての窓にカーテンを引いた。再びベッドに戻りかけて短く逡巡した後、ドアスコープで朋章の姿がないことを確認し家を出た。征司の無力さを晒すかのようにことさらに明るく晴れ渡った空だった。これまでの倍以上の距離に感じられる近くのホームセンターに行き、自室のドアにつける鍵を買った。



「征司、電話よ」
 夕食後、征司が自室にこもって勉強しているところに母親が顔を覗かせた。差し出された子機を受け取らず、征司は訊ねた。
「誰から?」
「朋章くん」
 朋章の名前を耳にした途端、表情を消してくるりと椅子を回し背を向けた征司に、母親はため息をついた。
「ねえ、征司、いい加減に仲直りしなさい。征司のほうがずっと年上なのにいつまでも意地を張ってるなんておかしいわよ」
 これまで何度もかかってきた朋章からの電話の一切を征司は無視してきた。初めの頃は「いないと言って」という征司の言葉に驚きながらも電話口だけは取り繕って断った後で事情を訊き出そうとしていた母親も、近頃は半ば呆れ気味だった。
「何が原因か知らないけど、朋章くんは謝ってるんでしょう? せめて話を聞いてあげたらどうなの」
 頑なに無言を通す征司に、母親はむっとした様子で保留のランプが点灯している子機を乱暴に押しつけた。
「もう! 居留守の片棒担ぐなんてお母さんは嫌。自分で断りなさい」
 目の前に突き出された子機を征司はそのまま切った。
「征司!」
「俺、風呂に入るから」
 眉をつり上げた母親の脇をすり抜けて征司は階下の洗面所に向かった。点てたばかりの風呂は脱衣場にまでクロルカルキの鼻をつく匂いが満ちていた。以前は気になったその匂いが、わずかでも自分の穢れを漂白してくれるような気がして、もっときつく強くなればいいと思った。
 朋章は電話をかけてくるだけでなく何度も待ち伏せをくり返していた。征司はそれをことごとく無視した。
 曇りガラスをはめた折り戸を開けて浴室に入ると正面に鏡がある。家族の誰かが先に使った後では曇って見えない鏡が、今は征司の全身を映し出した。征司は一瞬目をそらした後で挑むように鏡に対峙した。朋章に付けられた傷はすでに跡形もなかった。押さえつけられた肩や腕が今でも痛みを訴えるのは、ただの思い過ごしだ。征司は蛇口を最大限にひねって、勢いよく叩きつけてくるシャワーに身をさらした。あの日以来、征司が風呂を使う時間は長くなる一方だった。いくら洗っても汚れは落ちない。征司の落としたい汚れは身体の中にあり、染みついて一生落ちはしない。そう考えれば朋章に対する憎しみは尽きることなく湧き出した。


 翌日、大学からの帰りの電車に揺られながら、地元の駅が近づくにつれ征司の気は重くなった。今日も朋章はいるのだろうか。窓の外はすっかり日が落ちてガラスに映る車内にそっとため息をつく。朋章の待ち伏せは、大学帰りの駅が多かった。何時間待っているのだろう。初めのうちは謝罪をくり返しながら、足を緩めることのない征司の後を必死に追ってきたが、最近はその場に立ち尽くしたまま通り過ぎる征司の横顔を哀しげな目で見つめるだけになっていた。
 何のために朋章は征司を待つのか。今さら修復不可能な関係に何を望んでいるのだろう。降りたホームを吹き抜けていく、まだ微かに夏の温もりを残した秋風よりも冷えきった気持ちで征司は考えた。
 帰路を急ぐ人の流れに逆らわずに駅の改札を抜けた先にその三人の姿を見つけた征司は、心臓が止まりそうになった。駅の隣にあるコンビニからの明かりがかろうじて届く範囲。何度も朋章を振り切ったその場所に、その日は朋章だけでなく宏信と和樹が連れ立っていた。あの夜、朋章の家に来た二人。朋章が征司を犯す手助けをしたのが、宏信と和樹だった。足をとめた征司を避けて追い越して行く人々の何人かはあからさまな舌打ちを聴かせた。
 とっさに身を翻して駅の構内に戻ろうとし、征司は考えを改めた。逃げるもんか。征司は歯を食いしばって真っ直ぐに歩き出した。あんなやつらは知らない。俺には何の関わりもない。
 昂然と頭をもたげて脇目もふらず通り過ぎた征司を三人は一瞬そのまま見送った後、後ろから駆け寄ってきた。ばらばらと征司の進行先に回り込んでその足を止めさせる。
「征司くん」
 征司は正面に立つ朋章を精一杯睨みつけた。
「罰を、受けたいんだ」
 朋章は思いつめたような早口で囁いた。ひどく緊張しているらしくその言葉は何度も途切れた。
「俺、俺が、征司くんと同じ目に遭うから、宏信たちに抱かれるから、そしたら、征司くんは俺のしたこと忘れてくれない?」
 聞いた台詞の思いがけなさに征司はとっさに答えようがなかった。
「俺、バカなことしたって、本当にそう思ってるから、だから征司くんが全部なかったことにしてくれたら、もう諦めるから。征司くんを好きだなんて、もう言わないから、だから前みたいに笑いかけてよ」
 呼吸がうまくできないのか言葉の合い間に短い息を洩らしながら朋章は言った。もしもその朋章の目線が征司よりも下にあったら、もしかしたら征司は朋章を許したかもしれなかった。緊張で唇を震わせる朋章は、頼りなく保護を求める子どもの頃の面影を多分に残していた。四歳の年齢差が身長差となって表れていた子どもの頃、必死で見上げてくる朋章の視線が征司には愛しかった。だが今では二人の目線は同じ位置にあった。征司の後をついて回っていた小さな朋章はどこにもいず、目の前にいるのは男の自分を力づくで犯した相手だった。
「何をしたっておまえのしたことが消えるはずのないことは、おまえがよくわかってんだろう」
 低く押し殺した声で言い切った征司に、朋章は「だからッ」と悲鳴のような声を上げた。
「だから、俺も同じことされる。それで許してよ。お願いだから…」
 懇願しながら朋章は征司の腕を取ろうとした。
「これからうちに来て立ち会って」
「止せよ」
 征司は慌てて朋章の手を振り払った。
「そんなことに立ち会いたいわけないだろう」
 忘れたいと願っている行為を目の前で再現されることなど想像するのもおぞましかった。
「いいよ、何もするな。もう俺に関わるなよ。そしたら忘れる。おまえの顔さえ見なければ忘れてやる」
 きっぱりと断罪されて朋章は悲愴な顔で目を閉じうなだれた。その唇が微かに動いたが意味のある台詞にはならなかった。
「そんな言い方しないでやってよ」
 かばうように朋章の肩に手をかけた和樹が口を開いた。征司はそちらをきっと睨みつけた。こいつらはどこまで甘えた考えでいるのか。三人を見た時の反射的な怯えが怒りにすりかわっていた。
「おまえらは、自分のしたことがわかってないんだな。立派な犯罪だろう。謝って許されるような問題だと思ってるのか」
「朋章は、警察に行ったんだよ。だけど相手にされなかった。その…そういうのは親告罪って言うんだって」
 言い訳めいた宏信の言葉に征司はびくりと身を震わせた。
「まさか相手が俺だって」
「言ってないよ」
 朋章はうなだれたまま力なく首を振った。宏信が言葉を継いだ。
「朋章はあんたの名前なんか出さなかった。ただ逮捕してくれってくり返しただけだよ。警察には高校生のじゃれ合いにまで付き合えないって追い出された」
 もしこの場に朋章を支える宏信と和樹がいなかったら、俺は朋章に手を差し伸べてしまうかもしれない。
 蒼白な顔で立っているのがやっとという風情の朋章に目をやって、ふと脳裏をかすめた考えに征司は慄然とした。それはあの夜にされたことを受け入れるということか。そんなことは絶対にできない。
「なあ、せめて何をすればいいか教えてくれよ。何をしたら朋章を許してくれるんだ」
 問いかけてくる和樹に、征司は唇を噛んだ。「許す」とはどういうことだ。何もなかったふりをするのか。あの夜を消すことを、誰より征司自身が望んでいた。だがその望みは朋章を許すことには繋がりはしなかった。
「…何もしなくていい。二度と俺の前に顔を見せるな」
 朋章の存在がなければ、すべてはなかったことになる。朋章によってもたらされる混乱した感情に惑わされずに済む。
「そんなのありかよ?」
 和樹が叫んだ。あの夜、悪ノリを始めた宏信とは対照的に困惑さえ見せていた和樹が、興奮に頬を染めて征司にくってかかった。
「じゃあどうして朋章に優しくしたんだ? こいつのこと夢中にさせといて、それで拒絶すんのかよ」
「和樹」
 宏信が困った顔で、和樹を抑えた。
「言ってやれよ。朋章は罰を受けるって言ってんだよ。何すればいいんだ? どうしたらこいつのこと許してくれるんだよ?」
 言い募る和樹に、征司は二、三歩後退りをし、黙ったまま身を翻した。許せるわけがない。
「朋章が可哀そうだろうッ!」
 征司の背に和樹の声が投げつけられた。
 可哀そうだと、ずっとそう思っていた。可愛らしい容姿をしているためにいつもいじめられていた朋章。征司はそんな朋章が可哀そうで、いじらしくて、何かとかばってきた。


 あれは中学に進学して初めての定期試験の頃だった。試験期間中は部活動も休みになるので、まだ日の高い時刻に家へと自転車を走らせていた帰り道、征司は公園で遊んでいる小学生たちの中に朋章の姿を見かけた。朋章は小学三年生だった。四歳違いの征司と朋章の生活はあまり重ならなかった。同じ小学生のうちはそれでも何かと面倒を見ることができたが、学校がちがってしまうと顔を合わせることさえ難しくなっていた。
 公園では他の小学生が朋章を囲むような体勢になっており不穏な空気を感じて、征司は自転車を停めた。朋章が何かといじめの対象になりやすいことを知っているので、その雰囲気が気遣わしかったのだ。
「ピアノだってー、バッカじゃないの」
 はたして征司の心配は的中したようで、朋章は集中攻撃を受けている最中だった。
「ピアノなんてオンナのやることじゃん」
「朋章はオンナ!」
 ドンと突き飛ばされて朋章がよろけた。
「何してるんだ」
 征司は自転車のまま公園に乗り込んで行き、小学生たちの間近でキッとブレーキをかけた。突然現れた中学校の制服姿の征司に、朋章を取り囲んでいたいじめっ子たちがひるんだ顔を向ける。それなりに見知った顔ばかりで、相手も征司のことをわかっていた。彼らの間で征司は、朋章が誰より慕っている年上の幼馴染みとして知られていた。
「おまえら、また朋章をいじめてたんだろう」
「朋章が悪いんだよ」
「朋章が何したって言うんだ?」
「だって、みんなで遊んでるのに先に帰るって言うんだもん」
「朋章は用事があるんだろう?」
 その日は朋章がピアノ教室に通っている日だった。
「だって、そんなのずるい。せっかくみんなで遊んでんのに」
「だって」「だって」と口々に言い募る顔を征司が一人一人見回していくと、小学生たちはくやしそうに口をつぐんだ。結局彼らも朋章を嫌っているわけではなく、むしろ一緒に遊びたいらしい。だが朋章のほうにはそんな気持ちが乏しく、それが朋章へのいじめの一因になっていた。
 また朋章はどんな場合にも征司を優先させる態度を見せていたので、朋章の同年代の友人たちは征司に対して嫉妬に似た感情も持っていた。張り合ったところで年長の征司には敵わないという無力感がさらに朋章をいじめさせるのかもしれなかった。
 一瞬黙り込んだいじめっ子たちの一人が「ピアノだって、オンナみたい」と口火を切って後退った。その言葉を合図に一斉に彼らはわっと叫んで駆け出した。
「バーカ、オンナ男」
 悪態をつきつつ去っていく集団を見送って征司は朋章を振り返った。征司と目が合った途端、朋章の大きな目に涙が溢れてきた。
―朋章はお兄ちゃんの前でだけ泣くんだよ
 妹の多香子の非難めいた口調が耳の中に聴こえた。その数日前、部活動で遅くなった征司が帰宅したところ遊びに来ていた朋章を弟の優也がいじめていた。征司の顔を見た途端に泣き出した朋章を征司はなだめて、朋章が帰った後で優也を叱りつけた。
―小さい子を泣かせるなんて恥かしくないのか
 優也がろくに反論もせずぷいっと姿を消した後、その場にいた多香子が口を開いた。
―優ちゃんも可哀そう。朋章を贔屓してるお兄ちゃんが悪いんだよ。朋章は嘘泣きしてるんだもん
 嘘泣きじゃない、と征司は思った。もっと幼いうちはいじめられる度に簡単にしゃくりあげていた朋章が、成長して堪えることを覚えたのだ。いじめられて一人きりで耐えているところに庇護者である征司が現れるのだから気が緩んで泣き出すのは当然だと思った。朋章の気持ちは手に取るようにわかる気がした。自分だけを慕う朋章のけなげさが征司にはひどくいとおしかった。
「泣くなよ、朋章」
 征司は自転車のスタンドを立てて、朋章の前に跪いた。下から覗き込むと目線が逆転して朋章は涙の残る顔のまま照れ臭そうに笑った。濡れた睫毛はマスカラを使ったような効果をあげて、朋章の顔をますます少女めかしていた。征司は今にいたるまであの頃の朋章ほど可愛らしい子どもを見たことがないと思っていた。
「ピアノに遅れちゃうだろ。送って行ってやろうか」
 こくんと頷いた後で嬉しそうに笑った朋章の目に残っていた涙がまた転がり落ちて、征司は手を伸ばしてその頬を拭ってやった。
 一度朋章の家に寄ってピアノの道具を取り、征司の自転車でピアノ教室に向かう間、後ろの荷台に跨った朋章はしっかりと征司の胴に手を回してしがみついていた。征司は朋章の小さな手をいじらしいと思った。
 征司は庇護者で、朋章を守る立場にいたはずだった。慕われている、信頼されていると信じていた征司の気持ちをあの夜、朋章が踏みにじった。それがどうしても許せなくて征司は朋章を憎んだ。
 朋章があの夜傷つけたのは征司ではなく、征司が何よりも大切に思っていたあの頃の朋章自身であるような倒錯した感情さえ覚えていた。
 だが本当は征司が何より許せないのは、その夜自分が演じた痴態かもしれない。
 年下の朋章に抱かれて、激しく泣いた自分がひどくみじめだった。それまでの自分が無意識にもっていた自負心は粉々に打ち砕かれてしまった。征司のプライドを傷つけた張本人である朋章の甘えた態度は、征司により一層のみじめさを強いた。朋章を可哀そうだと思えば、その朋章に泣かされた自分がもっと悲惨に感じられた。
 あんなことをしでかしながら、昔のままに征司に対して甘えた素振りを見せる朋章を醜悪だと思った。単純に憎むことをためらわせるようなその態度が忌々しかった。



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