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失くした地図 -2-



 着慣れない礼服のカラーが痛くて、征司は先刻から何度も衿元に手をやっていた。普段ソフトカラーばかり好んでいるせいで、少し首を動かす度に肌をこする感触が気になって仕方がない。控え室で出されたドリンクで早くも顔を染め始めた伯父たちはやたらに煙草を吸いすぎて、一角に陣取った新婦の友人たちのわざとらしい咳払いにも気づかないようだった。
 多香子の結婚式当日、仕度のために朝早くタクシーで出た母親と多香子ほどでなくとも、父親がモーニングを借りることになっていたので、征司は早目に会場であるホテルに着いていた。新郎側の家族に挨拶を済ませ、父親を貸衣装のところに送り込んでしまえば、着替えの必要がない征司は所在なく時間を持て余すはめになった。
 新婦側の控え室で親戚を相手にたいして盛り上がらない会話を交わしているうちに、だんだんと多香子の友人たちが集まってきた。教会式なので彼女たちも参列するのだ。華やかに装った若い女性たちが明るい笑い声の合い間にチラチラと征司にも視線を向けてくるので、居心地が悪くなった征司はロビーへと逃げ出すことにした。
 廊下に出た征司は、隣室の新郎側の控え室に集まった青年たちの中に朋章の横顔を見たような気がしたが、確めることなくそのままエレベーターへと歩いて行った。
 ロビーの喫茶コーナーでコーヒーを飲んでいると、しばらくしてホテル内を探索中の親戚のおばさん連中が通りかかった。
「あら、征司くん。どうしてこんなところにいるの?」
 パーテーションになっている観葉植物越しに派手な声をかけられて、征司は曖昧に言葉をにごした。
「はあ、ちょっと」
「控え室にきれいなお嬢さんたちがたくさんいるわよ。お話ししたらいいのに」
 逃げ出してきたのだとも言えずに、征司は誤魔化すようにカップを口に運んだ。コーヒーはすっかり冷めていた上に、ここぞとばかりに振りかけられたにちがいない女性たちの香水の匂いがもろに混じって、むせそうになる。早く式の時間にならないものかと時計に目を走らせたところに救いの声がかかった。
「ずるいな、兄貴。こんなところに避難してるなんて」
「あら、優也くん」
 アパートから直接来ることになっていた優也だった。喫茶コーナーの入り口から入ってきた優也は征司の坐るソファのそばに立った。
「俺なんかうっかり控え室に行っちゃったもんだから、女の子たちに散々からかわれたよ」
 大仰なしかめ面を作る優也に親戚の女性陣は笑い声をあげた。
「だらしがないわね。それで逃げてきちゃったの?」
「そりゃ、あんなにいっぱいいたらコワイもん。これからコーヒー飲めるかな?」
 チラッと手元の時計に目を落とした優也のネクタイがずれているのに気づいて、征司は手を伸ばした。
「ネクタイ、曲がってるぞ」
「あ、サンキュ」
 征司の手元に上体を傾けてネクタイを委ね屈託なく笑う優也に、親戚の一人が声をかけた。
「なんだか優也くん、変わったみたい」
「え? そうですか」
「昔は、ちょっと怖い雰囲気があったわよ。征司くんとも仲悪そうだった」
 無神経な言葉に征司は眉をひそめたが、優也は微苦笑混じりに相手をしていた。
「あー、うん。俺、兄貴にコンプレックスあったしね。ようやく大人になったんですよ」
「そうね、かっこよくなったわよ。女の子にもてて大変でしょ」
「ははは、もてないから大変なんですよ。まさか多香子に一番乗りされるなんて」
「そうよ。情けないお兄さんたちね」
 声を揃えてけたたましく笑う。着飾った分だけ大きくなったような笑い声に、征司は孔雀を連想した。
「ね、そろそろ多香子ちゃんのお支度できたんじゃない?」
「あら、そうね。写真撮らなくちゃ。征司くんたちも行きましょうよ」
「あ、俺はコーヒー飲んでから行きます」
 優也の返事に「早くいらっしゃいよ」と言い置いて女性たちは去った。それを見送った後、優也は征司の向かいに坐り、二人分のコーヒーを注文した。
「変わったのは俺じゃなくて兄貴だよな」
 応えない征司に頓着せずにぽつりと呟く。
「暗くなった」
「そんなこと…」
 ないと言い切ることもできず、征司は俯いて水の入ったグラスの縁をなぞった。
「朋章とケンカしてんだって?」
 その話を優也がいつ聞いたのかはわからなかった。八年前、大学生だった優也はすでに家を出て一人暮らしをしていて、滅多に家に寄りつかなかった。
「何、あんなガキンチョ相手にムキになってんだよ」
 運ばれてきたコーヒーに砂糖を入れながら優也は肩を竦めてみせた。
「もっとももうガキじゃないか。さっき向こうに挨拶に行ったら、いたけど、でかくなったな、あいつ。正直言って少し圧倒されちまったよ。どっかのモデルばりだな」
 先刻見かけたのはやはり朋章だったらしいと征司は思った。青年たちの中で頭一つ分抜き出ていた横顔。もう俺の知っている朋章はどこにもいない。
「昔はまるっきり女の子みたいだったのに。で、兄貴にばっか懐いてて、俺なんか全然相手にしてなくてさ。むかつくからよく苛めてやった」
 はははと声をあげて優也は笑った。ポケットからつぶれかけた煙草を取り出して火をつけた。
「兄貴も俺や多香子より朋章ばっかりかまってただろ? よく二人で過保護だって言ってたんだよ。多香子なんか朋章の性格が悪いのは兄貴のせいだってまで言ったことあるだろ」
「もう忘れた?」と覗き込まれて征司は答えることができずに視線をそらした。優也は煙草に火をつけたブックマッチを右手で弄んでいた。印刷されたホテルの名を指先でつつきながら言う。
「さっき朋章に訊かれたんだ。『征司くんは?』って、相変わらず兄貴しか眼中にないのな。…もう許してやれば?」
 征司はゆるく首を振った。ふいに胸に差し込むような痛みが走った。ちがう。俺が怒っているから、俺と朋章は絶交しているんじゃない。あいつはもう俺に許してほしいなんて思っていないんだ。八年前のことにこだわっているのは俺だけの問題だ。誰にも言えずに抱え込んでいた想いが重すぎて、征司は優也をすがるような目で見つめた後、自嘲に頬を歪めた。
「俺が許す、許さないじゃないんだ。もう、とっくの昔にあいつの方で俺に愛想尽かしてんだよ」


 大学からの帰り道、征司がその公園に立ち寄ったのは特に理由があってのことではなかった。そのまま大学院に進学することが決まってはいたけれど、間近に迫った卒業式に感傷的な気分になっていたのかもしれない。いつのまにか冬が終わって春めいてきた空気に誘われたのか。夕暮れの薄桃色に包まれた風景が優しげに映った。征司は錆の匂いのするブランコに腰を下ろした。揺れるたびにキイと軋む耳障りなはずの音さえ懐かしい。
 あのことがあってから、三度目の春が巡ってくる。あの秋の夜に朋章たちを振り切ってから、征司が朋章と言葉を交わすことはなかった。もともと生活圏のちがう朋章と征司が顔を合わせること自体がほとんどなく、偶然通りすがることがあっても、征司は決して朋章を見なかった。朋章のほうでももう声をかけてくることはなかった。
 子どもの頃はよくこの公園で遊んだ。征司は朋章と自転車の練習をした時のことを思い出していた。
 その春に朋章と多香子が小学校に入学するという年の正月、二人が補助輪を外した自転車に乗る練習をするのに付き合った。優也が多香子につき、朋章と多香子とどちらが先に乗れるようになるか、競争のようになった。征司が朋章の相手ばかりしているのを見て、優也と多香子が対抗意識を燃やしたのだ。結局ムキになっていたせいか多香子はその日は乗れるようになれず、飽きた優也が他に行ってしまうと多香子は半ベソをかいて「朋章なんかキライ」と言い残して先に帰ってしまった。乗れるようになったばかりの自転車で公園を回ってみせる朋章の嬉しそうな笑顔に見惚れて、征司はそんな多香子を気にかけることもなかった。
 顔を合わせなければ忘れられるというのは嘘だった。
 征司はずっと朋章のことを考えている。ガールフレンドができて朋章を気にかけなかった高校時代などまるでなかったような錯覚を覚えるほどに。その頃の自分の生活が信じられない。征司の生活には常に朋章が関わっていたようだった。
 あの夜のことを考えまいとすれば必然的に子どもの頃の朋章ばかりが浮かんだ。何度も夢に見た。征司の夢の中で、傷つき泣いているのは、征司ではなく幼い朋章だった。
 足がひっかかるほど低いブランコを惰性で揺らしていた征司の横顔に影が差して、征司はふと顔を上げた。
 逆光のせいで、朋章の表情はよく見えなかった。
 征司はぎこちなく立ち上がった。
 久しぶりに正面から向き合うことになったが、征司にかける言葉はなく、朋章も無言だった。
 二年と少しの間に朋章はさらに背が伸びていた。ほぼ同じ目線だった朋章を征司は見上げることになった。唇を引き結んで征司を見つめる朋章の顔は少年の域を脱しつつあった。短くなった髪やすっきりした頬がその印象を変えていた。
 朋章が征司と同じ大学に受かったことは知っていた。大学院に進学する征司は、構内で朋章と顔を合わせる可能性を考えた。
「俺、関西に行くんだ」
 長い沈黙の後で朋章はそう告げた。征司はわずかに目を見開いた。
「もう許してもらおうなんて思ってないよ。征司くんは俺を否定したんだ。もう会いたくない。だから征司くんと同じ大学には行かない」
 低く抑えた声で朋章はそれだけを言い捨てて、背を向けた。
「ま…」
 口を開きかけて、征司は自分で驚いて唇を噛んだ。「待て」と引き止めて、それで俺はどうするんだ?
 その時になって征司は、心のどこかで朋章を許すことができるかもしれないと考える自分がいたことに気づいた。もう一度あの笑顔を見たら、いつか許してしまうだろうと思っていたのだ。征司にとって朋章はいつまでも自分の後を追ってくる存在だった。絶対に許さないという決意は、朋章が謝り続けることを前提としていた。まさか朋章のほうから訣別を宣言されるなどと想像することもできなかった。
 それきり朋章が征司の前に現れることはなかった。



「朋章は、もう俺のことなんかなんとも思ってないんだよ」
 黙って見つめる優也の顔からわずかに視線をそらして、征司はもう一度くり返した。
 朋章を許してやれという周囲の言葉は、征司を別の意味で傷つけた。
 いつまでも八年前のことにこだわっているのは征司だけで、朋章の中ではとっくに片がついている。もう許してほしいとは思わないと言い切られたのだ。
 征司自身、朋章を許すことなど考えられなかったのは確かだ。絶対に許しようのないことをされた。そう思っている。
 そして、ただあの夜の自分をなかったことにしたかった。あの夜を忘れたかった。そのためには朋章が自分の前から消えることが必要だった。謝罪の言葉を口にしながらつきまとう朋章への苛立ちは、そういうことだったはずだ。征司の望んだ通り、朋章は征司の前からいなくなった。
 それで終わりのはずだった。
 だが、征司にはそれであの夜を忘れることなどできなかった。今でも時折夢に見た。夢に出てくるのは必ず朋章の泣き顔だった。傷つけられたのは自分のはずなのに、なぜ朋章を傷つけたと錯覚してしまうのだろう。
 朋章はもう征司の許しを必要とはしていないのに。朋章にはもう征司などどうでもいいのだ。
「そんなことないと思うけど」
 優也が、吸っていた煙草の灰とともに言葉を落とした。まだ十分に長さの残る吸いさしをガラスの灰皿にギュッと押し付けて消してしまう。
「でも、相変わらずなんだな、兄貴は」
「何が?」
「多香子も可哀そうな奴だ。結婚式でまで朋章に負けてんだもんな」
 優也はにやっと笑って見せた。
「いつまでもこだわってんのって不健全だよ。さっさと仲直りしちまえ」
 答えられない征司に、もう一度励ますような笑みを浮かべて立ち上がる。
「とりあえず我らが麗しの妹の晴れ姿を拝みに行こうか」
 坐ったままの征司に、優也は片手を広げ片手を胸に当てて礼をしてみせた。おどけたふうを装ってもそれは優雅に見えた。優也はいつの間にこんな仕種を身に付けたのだろう。征司はやや虚をつかれた恰好だった。拗ねたように肩を丸めた姿ばかりが記憶にあった。「ほら」と促す優也は、今では征司よりもわずかだが上背がある。
 並んで歩き出してすぐ優也は「痩せた?」と征司の方に顔を寄せてきた。
「兄貴、縮んでんじゃないの? それ、やばいよ」
「バカ」
「だってさ、なーんか、ちっせえ感じがするよ、こう並ぶと。やばいね、それ、年齢のせいで縮んでんじゃない?」
「失礼な奴だな。縮むわけないだろう。とっくに成長止まってんだよ。元からおまえより俺のが背が低いの。滅多に顔合わせないから勘違いしてるんだ」
「あはは。俺、すげー嬉しいかも。昔は並ぶと見劣りするって言われっぱなしだったもんよ。リベンジだ、リベンジ」
 屈託のない笑顔を見せられて、つられて征司の頬も緩んだ。
「征司くん、優也くん、こっちよ。見て、多香子ちゃん。きれいでしょう」
 控え室の前の通路は、写真を撮るためなのだろう、広く空けられていて、用意された椅子にウェディングドレス姿の多香子が坐らされていた。比較して身軽な服装の新郎のほうは友人たちに混じって歓談している。
「写真を撮るから、ここに立って」
 征司たちは手招きされて、多香子の両脇に立った。厚い化粧を施されて人形のような顔になった多香子が、二人を見上げてにこりと笑みを見せる。一緒に一、二枚写しただけで、後は多香子の友人たちに譲ることになった。
 はしゃぎ声をあげて代わる代わる写真を撮り合う女性たちをぼんやり眺めていた征司の肩越し、かすれた声がその名を呼んだ。
「征司くん」
  その声は記憶の中のものとは異質だったが、征司には誰のものかすぐにわかった。今、この場でこんなふうに声をかけてくる相手は一人しかいない。征司は一瞬つめた息をそうっと吐き出して身体ごとゆっくり振り向いた。
 朋章は緊張を湛えた目で真っ直ぐに征司を見つめていた。きちんと整えられた髪や身にまとう礼服のせいか、子どもの頃の印象がすっかり陰をひそめていた。征司は朋章に会わずにいた時間の長さを感じた。おそらく朋章にとっての征司も同様のはずで、いつのまにかお互いに大人の顔で、こうして対峙することになった。
「本日は、おめでとうございます」
 朋章はかすかに震える唇でゆっくりと言葉を紡ぎ、深々と腰を折った。それが征司の目には謝罪と映った。もう会いたくないと言った朋章。それでもまた頭を下げるのか。それは、征司の知っている泣き顔など微塵も感じさせない大人の態度だった。
「あ…」
 征司はぎこちなく口を開いた。渇いた唇を舐め、軽く咳払いする。
「来てくれてありがとう」
 短く応えて笑みを浮かべた。笑えたことに自分で驚いた。
 朋章の顔がくしゃりと歪む。目に涙が滲んだ。
「は…、ごめん」
 朋章は慌てたように目元を掌でおさえた。落ちた前髪がその顔を隠したが、俯いて「ごめん」とくり返す朋章の短い襟足から露わになった首筋や耳の先が真っ赤になっていた。
「洗面所に行こうか」
 征司は促した。上げかけた手を、わずかにためらった後、朋章の背にあてて連れ出した。自分よりも背の高くなった朋章にかすかな戸惑いを覚え、そんな自分を自嘲する。何を今さら。征司の保護を必要としていた幼い子どもは、とうの昔にいなくなったと感じたはずだ。
 真新しいホテルのトイレには他に人影はなく、不必要なほど眩しい光に満ちていた。上着を預かった征司は、顔を洗う朋章を斜め後ろから眺めていた。白いシャツに覆われたその広い背中は征司には馴染みのないものだった。まくり上げた袖から覗く手首も、力強い肩の線も、高い腰の位置も、何もかもが征司の知らない男のものだ。
 顔を拭いたハンカチを畳み直しながら、朋章は照れたように笑った。
「みっともないね」
 征司は黙って首を振った。そんな表情をしてさえ、もう朋章には子どもめいた甘えは感じられなかった。どこか舌足らずな印象のあった声も立派に大人の男のものになっていて、緩めたタイを直す仕種が板についていた。
「多香子ちゃん、きれいだね。武田さんは俺の部活の先輩なんだ」
「そうか」
 簡単には拭い去ることのできないぎこちなさはあったが、二人ともそれに気づかないふりで会話を続けた。
「征司くん、二次会には?」
「いや、俺はそっちには出ない」
 横目に見る鏡で髪を整えながら、朋章は何気ないふうに言葉を継いだ。
「そう。…今日がダメなら、今度、一緒に飲まない?」
「え?」
 とっさに返事を逡巡する征司を見て朋章は軽く唇を噛み、言葉を探すように視線を空にさまよわせた後、すぐに征司に戻した。
「あのさ…今度、俺も結婚する予定なんだ。だからその前にゆっくり話がしたくて」
「結婚」
 思いがけない言葉を征司はぼんやりとくり返した。
 朋章が結婚する…?
 離れていた間に、朋章の時間は着実に進んでいたのだ。征司がずっと朋章にとらわれていた間にも、朋章は征司の知らないところで征司の知らない相手と恋をして結婚の約束まで交わしている。
 明確に形をとらない感慨のまま呆然と見つめる征司の視線の先で、朋章は悲しげな目になり表情を引き締めた。
「征司くんにあんなことしたのに、ごめん」
「いいんだ」
 征司は首を振った。一瞬伏せた目をあげて、朋章を真っ直ぐに見つめる。
「いいんだ。なかったことにできるんなら、それが一番いい」
 ここから新しく始めることができるかもしれない。子どもの頃のこともあの夜のこともすべて忘れてしまおう。今の朋章は、征司の知らないただの若い男に見える。まったくの新しい相手として普通の付き合いをすればいいのだ。
 普通ということが具体的にどんなものなのかの実感もないまま、征司はそんなふうに考えていた。



 多香子の結婚式から二週間後、征司の高校時代のクラス会があった。
 一ヶ月前に届いた案内のハガキには早々に欠席の返事を出してあったが、当時仲のよかった友人からわざわざ誘いの電話がかかってきたこともあって、結局征司は間際になって出席を決めた。
 友人からの電話があったのが、朋章と飲んだ翌日だったことも少しは影響したのかもしれない。朋章以外のことに目を向ける余裕が出てきたということなのだろうか。


 その日、朋章の仕事が終わる時間を見計らって待ち合わせた。地下鉄の駅から地上に出ると、春先の強い風が吹いていて、通り過ぎる人々のコートやスカートの裾を乱した。待ち合わせたデパート前の広場に足を踏み入れた征司を目ざとく見つけて、人待ち顔に佇む人々の間から朋章が抜け出てきた。紺色のスーツを着こなしている、いかにもビジネスマンという雰囲気の朋章を目にして、征司はセーターにジャケットという自分の服装を少しだけ後悔した。
 研究員という形で大学に残り、週に二回ほど他の大学で講義を受け持つ生活をしている征司は、だいたい週の半分くらいはネクタイをせずに過ごしている。同じような人々の間では気にならないことが、朋章と並ぶとやけに気になった。征司を「先生」と呼ぶ学生たちと朋章は年齢的にはさして差がないはずであるのに、身にまとう服装だけでこんなにちがうものなのだろうか。
 二人はレストランを兼ねたバーに入った。カウンターの席で、征司は並んで坐っている朋章に違和感を覚えていた。やはりこれは自分の知らない男だという感じがした。
 正面から笑顔を向けられれば確かに子どもの面影は残っていたが、ふとした拍子に眺める横顔の線にまるで馴染みがなかった。その征司の視線に気づき、柔かい笑みを形づくる目元にもなぜか落ち着かない気持ちにさせられた。
 征司は自分よりも体格のよい相手が隣にいることが苦手だった。肩の位置がわずかに高いだけで圧迫感を与えられた。
 そんな気持ちを抱えながらも素知らぬふりで、軽い食事を取りながら、交流を絶っていた八年間を埋めるように互いの近況を語り合った。
 関西の大学を卒業した朋章は、こちらに戻って都内の企業に就職していた。家から通えないこともなかったが、アパートを借りて一人暮らしをしていると言った。
「俺と顔を合わせたくなかったから?」
 食事の後でワインから切り替えたウィスキーに、少し酔いの回りかけていた征司はストレートに訊ね、朋章は素直に頷いた。
「うん。征司くんに会わないようにしてた。ずっと会いたくて、でも会うのが怖かった。征司くんこそ、俺に会いたくなかったよね」
 征司は横顔に、確認するような朋章の視線があてられるのを感じた。
「わからない」
 征司はテーブルに肘をついて、額の前にかざしたグラスを見つめた。会わなければ忘れられると思っていて、でも忘れられなかった。だからと言って朋章に会いたいと思ったことはあっただろうか。
 子どもの頃のことばかりくり返し思い出していた。朋章が大人になることなど頭になかった。こんなふうに自分よりも余裕のある態度を取られる日が来るなどと考えはしなかった。
 征司はグラスの水割りを一口含んだ。口の中に拡がる味に酔いが深まった気がして身体を支えるために頬杖をついて朋章の方を向いた。
「いろんなこと全部、なかったことにしようか。もう一度最初からやり直すんだ」
 酔いのせいでいくぶん気怠げな眼差しで見つめる征司の先で、朋章は視線をそらして軽く俯いた。
「征司くんがそれでいいっていうんなら…俺には何も言う権利ないよ」
 酔っていた征司はその言葉の意味を深くは考えなかった。自分の口にした「最初」が正確にいつを指すのかさえ、考えてはいなかった。あの夜だけでなく、子どもの頃のこともすべてなかったことにしようという提案として、征司の言葉は朋章に届いただろうか。
 その時の話題は仕事や家族のことに終始した。なぜか朋章の結婚についての話にはならなかった。朋章が口にすることはなかったし、征司から訊くこともできなかった。
 朋章の恋人について聞きそびれたことに気づいたのは、翌朝になってからだった。自分を置いて大人になった朋章に嫉妬めいた感情があるのかもしれない。いつまでも過去にとらわれている自分が情けなくなる。朋章の結婚について征司は意識的に考えないようにしていた。


 卒業して十年を経たクラス会には、当時征司とつき合っていた沢渡あずみも出席していた。征司の高校時代は、すべて彼女と共にあった。その笑顔を誰よりも愛しいと思い、彼女こそが自分の守るべき存在だと信じて疑わなかった。別々の大学に進学して、会える時間の少なさが二人の間に溝を作った。嫌いになったわけではなく、その別れは十代だった征司に無力さを感じさせずにはおかなかった。
 征司とあずみは離れた席に坐っていたが、ふと顔をあげた拍子に目が合った。その瞬間あずみはニコッと笑みを浮かべた。懐かしい笑顔につられて、征司も自然に彼女に笑いかけていた。
「こら、征司、どこ見て笑ってんだ?」
「あー、上野くんたら、今、あずみと目配せしてた! やらしー」
 近くに坐っていた連中に目ざとく見咎められた征司は、苦笑して「ちがうよ」と返した。そこにタイミングよく征司の携帯が鳴り出したので、周りからのひやかしの声はさらに大きくなった。
 鳴り出した携帯の発信元は朋章だった。履歴を確認した征司はクラス会の喧騒を抜け出して、廊下の奥にある休憩所に避難した。朋章の用件は、再び一緒に飲みに行こうという誘いだった。
―宏信と和樹、わかるよね?
 携帯電話は微妙な声色までは伝えてこなかった。征司の返事を待たずに朋章は続けた。
―断られるの覚悟で言うよ。あのさ、あいつらが征司くんにちゃんと謝りたいって。征司くんが絶対会いたくないっていうんなら諦めるって言ってるけれど
「別に謝ってほしくなんか…」
 忌憚のない気持ちを言うならあの二人と顔を合わせたくはなかった。征司が言いよどむと朋章は簡単に引き下がった。
―わかってる。ごめん。こっちの気持ちの問題なんだ。勝手な押しつけだよ
 征司は軽くため息をついた。
「いいよ。いつにする?」
 たいしたことではなかったのだ、と征司は自分に言い聞かせた。ガキの暴走だったのだから、いつまでも気にしていても仕方がない。なんでもないふりをして紛らしてしまえばいいのだ。今こうして朋章と電話しているように、過去の出来事として整理すべきなのだ。
―征司くん
 朋章のためらいがちの呼びかけに、征司は自分の気持ちを引き立てるようにことさら明るい声を作った。
「おまえらでおごってくれるんだろ? 高い店にしろよ」
 携帯を切って、皆の元へ戻ろうと振り向くと、あずみが立っていた。
「彼女からの電話?」
 あずみはからかうような笑みを浮かべていた。別れてから初めて交わす言葉だった。その言葉は、卒業してからの気まずい時期も、別れてからの歳月も、まるでなかったもののように軽く飛び越えて、征司に届いた。
「ちがうよ」と征司は笑って首を振った。あずみは「本当に?」と疑わしげな声を出した後、一転して「ね、私にも番号教えて」と甘えるような態度を見せた。



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