BACKFANTASIA




スクランブル -1-





 彼女が初めて、そして唯一自分から告白した人だと聞いた。それからずっと彼のことが気になっている。

 はじめはどうってことのない人だと思っていた。顔立ちはとりたてて美形と言われるほどのこともなく、ファッションセンスも普通という感じで、衆に抜きん出たかっこよさがあるわけではなかったから、珠里(じゅり)に名前を聞いていなかったら、他の先輩と勘違いしていたんじゃないかと思えるほど、彼の印象は薄かった。
 男に人気のある珠里が、自分から告白した相手としては、青葉さんはあまりに平凡に見えたのだ。
 カノジョノモトカレ。
 俺にとって青葉怜二(あおばれいじ)の存在は、ゼミの先輩という以前にそれだった。その名前を知ったのも恋人である珠里の口からだった。


 無理かもしれないと思いつつのアプローチだった。彼氏と別れたという話を聞いた途端に即行で立候補なんて、俺のキャラではないと自分でもわかっていた。けれど、俺が密かに想いを寄せていた長谷川珠里はとにかくもてる女の子だった。せっかくのチャンスにグズグズしていたらすぐに他の男に持っていかれてしまう。ごくわずかしかないはずのチャンスを逃すわけにはいかなかったのだ。
「今ね、先輩と別れてきた」
 サークルの卒業生追い出しコンパの二次会、遅れて店に現れた珠里は一人で、入り口のところにいた彩菜(あやな)が「新藤先輩は?」と訊ねると、「私と別れたから、二次会には出ないって」と軽く笑ってみせた。彩菜の目が丸くなる。
「え? 何、どういうこと?」
「ん、ダメになっちゃったんだー、先輩と私。だからここには来ないって」
 唇を尖らせて、珠里は答える。サークルの名物カップルだった新藤先輩と珠里のあっけない破局に、自分の耳が信じられない様子で互いの顔を見合わせている仲間たちの中で、俺は珠里の姿から目を離すことができなかった。珠里の口調は明るかったが表情にはかげりが見えた。
「どういうことよ?」と訊ねる彩菜をあしらうようにかすかに首を振り、珠里は空いている席を探して俺たちのテーブルを見回した。
 彼女が店に入ってきた時から珠里を見ていた俺と、珠里の目が合った。その瞬間、俺の中でスイッチが入ってしまった。
「珠里」
「十河(そごう)くん」
 名前を呼んで椅子から立ち上がった俺を、小柄な珠里が小首を傾げて見上げてきた。
「あのさ、俺……俺は、珠里が好きだ。俺と付き合ってください」
 直球勝負の俺の告白に、「うそー」と悲鳴に近い声が周囲を飛び交うのをどこか遠い感覚で聞きながら、俺はまっすぐに珠里の顔だけを見ていた。やがて丸く見開かれていた珠里の目元が緩み、唇が動いた。
「うん」
 こくんと頷く。
「うん、て、え? OKってこと?」
 とっさに信じられず問い返した俺に、珠里はもう一度「うん」と頷いて、にこっと笑みを浮かべた。周囲は再び「うそー」の大合唱に包まれた。


 三年の新学期が始まって、ゼミに入ることを決めた俺に、珠里はさりげなく言い出した。
「そこ、私が昔付き合ってた人も行くかもしれない」
 その人の名前が青葉怜二。珠里の二歳年上の幼馴染みで、高校時代の彼氏。今年、N大からの外部受験で俺たちの大学の院に受かったという。
「怜ちゃんの家は塾をやってたから子供の頃から知ってたの。上にお姉さんとお兄さんがいたんだけど、二人とも人気あったよ。けど私は怜ちゃんが好きだった」
「ふーん」
「同じ高校に入って、よく話すようになって、でもなかなか告白できなかったんだ。付き合うようになった時はほんと嬉しかったな」
 そう語る珠里はひどく懐かしげな表情をしていて、俺の胸には嫉妬よりも淋しさに近い感情が沸いた。青葉さんと付き合っていたのは、俺と出会う前の珠里の時間で、そこにいるのは俺の知らない彼女の姿。
 何を隠そう大学に入学してすぐの頃からほぼ二年間、同じサークルの珠里に片想いを続けてきた俺だ。同じ学年だったからすぐに友だちのポジションには入り込めた。いや、むしろ友だちの距離にいたからこそ俺は珠里を好きになった気がしている。
 男性人気の高い珠里は、一部からは軽い女のように見られることもあった。けれど彼女をずっと見てきた俺は、珠里の本質が素直で純粋なことを知っている。
 珠里は、会話をしている相手の顔をまっすぐに見るコだった。誰かの他愛ない冗談に、ほんの少し唇を曲げた後で子供のように無邪気に破顔する。俺は珠里のその笑い方が好きだった。そして何より、彼女の目が俺を映す時、それが「友だち」への視線であったとしても、俺はひどく幸せな気分になれた。
 珠里の一番近くにいたい。彼女の瞳に一番多く映りたい。ずっとそれが俺の望みだった。そして望みは叶って、今、俺の傍らに珠里がいる。


「十河くん、ここでお昼食べてるの?」
 昼休みの学生食堂の混雑を避けて、授業前の教室でパンをかじっているところに、四年生の篠原さんと武田さんがやってきた。木曜日の午後は、購読の授業とゼミが続いていて、顔ぶれが重なっている何人かのうちの二人が篠原さんと武田さんだった。
「今の時間だと学食混んでるし、一人で食べるの苦手なんですよ」
「いつも一緒の荒井くんは今日、休み?」
 荒井はわりと仲が良い友人だけど、「いつも一緒」というほどでもないのだが、同級生だからゼミではたいていつるんでいる。
「いえ、来ると思います。荒井は午前中の授業取ってないから」
「そうなんだ」
 当たり障りのない挨拶を交わしながら俺の前列に陣取った篠原さんたちは、さっそくおしゃべりを始めた。
「先週さぁ、青葉っちの彼女と鉢合わせしちゃった」
 篠原さんが口火を切って、武田さんが身を乗り出す。
「えー、何それ? どこで?」
 いきなり出てきた青葉さんの名前に、俺は思わずパンを喉につまらせそうになった。
 俺の入ったゼミは、学部の中では人気のあるほうで、それなりの所帯規模を誇っていたから、同じゼミと言っても顔見知り程度でほとんどしゃべったことのない相手も多いのだが、言葉を交わすことは少なくても、カノジョノモトカレである青葉さんは、俺にとって他の誰よりも気になる存在だった。
 紙パックのカフェオレで喉にひっかかったパンを飲み下しながら、篠原さんたちの会話に聞き耳を立ててしまう。
「青葉っちのアパート」と篠原さんは言った。
「先週、ゼミが終わった後に行ったんだけどさ、平日なのに来たんだよ、すごくない?」
「それより篠原はどうして青葉さんのアパートになんか行ったの?」
 篠原さんの言葉を武田さんがさえぎる。
 平凡に思えた青葉さんが、意外と女性にもてているらしいことに、俺は少しずつ気づき始めていた。
 初めて会った時には地味にしか見えなかった青葉さんの顔立ちは、よく見れば、かなり整っていた。行動は少々マイペース気味で、クールな印象もあったが、ふとした言動におおらかで優しい性格が感じられた。珠里の好きだった人である青葉さんは、確かに魅力的な男なのかもしれない。
 現に、やや派手目ではあるけれど美人の篠原さんも、青葉さんに興味を持っているようだ。
「ん、ちょっと教えてもらおうかなって」
 篠原さんは曖昧に濁そうとしたが、武田さんはごまかされなかった。
「何を教えてもらうのよ? もしかして篠原、青葉さんのこと狙ってんでしょ」
「うーん……まあね。でも無理かなあ。彼女、すっごい美人だった」
「彼女は社会人だっけ?」
 青葉さんは、学部時代の大学の同級生と付き合っているという話だった。
「そうだよ。新幹線使って来たんだよ、平日に。私、睨まれちゃったよ。こわーい」
「アンタみたいのがいるから心配になるんでしょ」
 おおげさに身震いして腕をさすってみせる篠原さんに武田さんがつっこむ。アハハと苦笑いした篠原さんは、俺の存在を思い出したのか、こちらを振り返って釘をさしてきた。
「ちょっと、十河くん。これ、内緒の話なんだからね」
「はあ」
 俺はカフェオレのストローをくわえたまま、逆らわずに頷く。
「そういえば十河くんの彼女もすっごい可愛いんだって?」
 同じく振り返った武田さんの言葉を否定する気にはなれなくて「どうも」と曖昧に頭を下げると、篠原さんが「あーあ」と声を上げ、手を頭の後ろに組んでのけぞった。派手系美人のわりに時々男みたいな行動に出る人だ。
「あーあ、私、十河くんもいいなーと思ってたのに」
「篠原、節操なさすぎ」
 武田さんが篠原さんの腕を叩く真似をした。この二人はいつも掛け合い漫才のような会話ばかりしているから、どこまでが本気のセリフなのか判別がつかない。
 もしも篠原さんが本当に少しでも俺をいいなと思ってくれていたとしたら、その理由を聞きたい気がした。
 俺のどこがOKだったのか、珠里の気持ちが俺には今でも少しわからないでいる。

「どうして俺と付き合う気になったの?」
「知ってたから」
 付き合い始めてすぐの俺の問いに、珠里は短く答えて、いたずらっぽく見つめてきた。前髪をあげて丸いおでこをむき出しにしていたから、かなり幼い顔に見えた。
「何を?」
 俺が重ねて訊くと、珠里はふふっと小さな声で笑った。
「十河くんが私のこと好きなの、知ってたんだよ」
 珠里は、俺の肩に両手をかけると、ぴょんと背伸びしてきた。反射的に上半身を屈めた俺の唇に、珠里のそれが触れる。初めてのキス。
「んふ」
 俺が呆然としている間に、珠里はさっと離れた。
「いつから? いつから俺が珠里を好きだって知ってたの?」
 我に返って問い詰める俺の前で、珠里はすっと真面目な表情を作った。
「十河くんはいつから? いつから十河くんは、私のこと好きだったの?」
 その瞳があまりにまっすぐに俺を映しているから、俺は一瞬言葉をなくす。
「……初めて会った時から」
「ありがとう」
 そう言って目を閉じた珠里に、今度は俺から口付けた。
 可愛くて素直な珠里は、俺にとって解くのが難しいパズルでもあった。


「でもさ、どうなんだろ、青葉くん」
 再び前に向き直って話を続ける篠原さんたちの会話を、俺は後ろの席で聞くともなく聞いていた。
「何よ」
「彼女のこと好きなのかなー」
「それは好きだから付き合ってるんでしょ」
「だけど遠いじゃん」
「遠いってほどでもないんじゃない? 平日に来れるくらいだから」
「普通、来る距離じゃないでしょ。新幹線だよ?」
「それだけ青葉さんのこと好きなんじゃないの」
「青葉くんはどうなんだろー」
「あのヒト、優しいもんね。案外クセモノだと思うな」
「私に勝算ある?」
「そっれはどうかなーっ」


「どうして青葉さんと別れたの?」
 俺の質問に珠里は「うーん」とうなった。
「怜ちゃんが大学に入って会えなくなっちゃったからだと思う。好きだったから会えないのがすごくつらくて。離れてたらダメだって考えるようになったの、そのせいかも」
 珠里が新藤先輩との別れを決めた理由の第一は、新藤先輩の卒業だと聞いていた。先輩が卒業したら今までのように一緒にいられなくなるから、もう付き合うのをやめようと珠里から言い出したらしい。
「それだけが原因じゃないけどね。でも会いたい時に会えなくなるのが一番嫌だった」
 珠里は目をうるませて俺を見つめた。
「十河くんは私から離れないでね」
「離れないよ。俺、ずっと珠里のこと見てた」
 珠里のそばにいたいと、それだけを願っていた。


 その日のゼミは、珍しく定刻に終了した。
「今日はここまでにしましょう。それで、この後、空いてる人がいたらボランティアしてほしいんだけど。明日の授業に使う資料の準備」
 にっこりと可愛らしく小首を傾げてみせる先生に、俺たちは「やっぱり」とため息をついた。ゼミが理由もなく定刻に終わるなどめったにないことだったからだ。
「どうする?」
 同級生の荒井に問いかけると、暇だから手伝うと言うので、一緒に残ることにした。
 青葉さんたち院生は、当然のごとく最初から頭数に入っていたようで、結局、資料作りのボランティアとして十人程度が残ることになり、ぞろぞろと研究室に向かった。
 研究室に着いた途端、俺の隣にいた荒井の携帯が鳴り出した。短い応答をくり返した荒井は、携帯を切って、俺に「悪い」と謝ってきた。
「バイト先で、急に休みになっちゃった奴がいて、どうしても出てくれって連絡だから、俺、そっちに行くわ」
 抗議する隙もなく、荒井は慌しく帰ってしまい、一緒に去るタイミングを逃した俺は、一人その場に取り残された。
 居残りボランティアの面々を見て、先生は「簡単なのよ」といつもの可愛らしい声で言った。
「この原稿を印刷してきて綴じるだけ。すぐ終わると思うんだけど。あっ、そうそう、青葉くんには別に頼みたいことがあるんだ」
 先生はA4サイズの用紙を青葉さんに示した。
「この資料、図書館で借りてきてくれない?」
 そう言って、先生が青葉さんに渡したリストを脇からちらっと覗くと、紙面を書籍のタイトルがびっしりとうめつくしていた。しかもそれが数枚にわたっている。うわ、お気の毒。
「本当は前もって図書館にお願いしておきたかったんだけど、遅くなっちゃったから、司書さんに頼めなくなっちゃったの」
「これを、今からですか?」
「ごめん。お願い」
 先生は、青葉さんに向けて手を合わせた後で、俺たちのほうを見回した。荒井が帰ってしまい、一人ぽつんと外れていた俺が目に止まったらしく、先生はつけ加えた。
「十河くんを助手につけるから」
 いきなりの指名に俺がきょとんとしていると、先生は「十河くん。今日、急いでる?」と訊ねてきた。特に予定のなかった俺は正直に首を振った。
「よかった。お願い、青葉くんを手伝ってあげて。やり方は青葉くんがわかってるから」
 言われて、俺が青葉さんのほうを向くと、彼は困惑したような顔をしていた。俺と目が合って青葉さんは、少しうわずった声を出した。
「あ。じゃあ、行こうか」
「はい」
 広いキャンパスを横切り、西にある図書室に向かう。二人の間になんとなく微妙な緊張感が漂っているのは、カノジョノモトカレ青葉さんを意識しすぎの俺の気のせいだろうか。
「十河は、荒井と仲がいいんだっけ?」
 気まずい空気を振り払うようにコホンと軽く咳払いをして、青葉さんが訊いてきた。
「まあ。仲がいいというか、とりあえず同級生ですから」
「今日は荒井は帰ったの?」
 青葉さんの声は低めで、少し響くような感じがあって、きっと女性に受けるんだろうなとふと思った。
「ええ。これからバイトだとか言ってました」
「あ、そう。十河は何かバイトしてる?」
「塾の講師をやってます」
 沈黙にならないように、かなり無理やりっぽく会話を繋げながら、図書室に着いた。図書室の中では、当然ながら必要最低限の話しか許されないから、心置きなく資料のピックアップ作業に没頭できた。
 一つだけなかなか見つからない資料があって、俺が「これ、どうしても探せないんですけど」と声をかけると、振り向いた青葉さんは、肩越しに俺の手にあるリストを覗き込んできた。
「どれ?」
 至近距離の耳元で囁かれて、ちょっと腰がくだけそうになった。うわ、フェロモンヴォイス。そんな言葉があるかは知らないけれど、もしかして女だったら、この声だけで落ちるんじゃないかと思った。
「これです」
 俺は努めて何気ない口調でリストを示した。
「さっき調べた分類では、ここの棚にあるはずなんですけど」
「これ? 確か製本かかってる雑誌だから、何冊かまとめて置いてあるはずだな。……あった」
 青葉さんは一番上の棚を指差した。同じタイトルがずらっと並んでいる。分類順に下ばかり見ていて気づかなかった。俺は立ち上がって本の列に目を凝らした。
「えっと……あれですね、左から三番目。踏み台を持ってきます」
「ん、届きそうじゃない?」
 踏み台を取りに行こうとした俺を青葉さんが止めた。
「そうですか?」
 俺が疑わしく思いながら確認した時。
「せーのっ」
 小さく声をあげて、体力測定の時のように横向きにジャンプした青葉さんの指先が、目的の本の背表紙にひっかかった。目の前に落下してくる本を、俺は慌てて受け止めた。間一髪、両手で表紙を挟み止めて、思わずハーッとため息をついてしまった。
「ナイスキャッチ」
 楽しげな表情で青葉さんが親指を立ててみせる。端整な顔立ちに似合わず予測のつかないイタズラをする人だ。
「もう。怒られますよ」
 受け止め損ねて落としたら本が傷んでしまう。
「最近、俺、運動不足を感じててさ。どのくらい跳べるかなと思って」
「なんですか、それは」
 呆れて頭を振る俺の前で、青葉さんは肩をすくめて笑っていた。その笑い方が、少し珠里に似ている気がした。それから先ほど俺を止めた時の「ん」という軽い頷き方。質問に答える時の珠里が、よく口にする「ん」と同じだった。ほんのわずかな癖が、俺に青葉さんと珠里の結びつきを感じさせた。
 すべての資料が揃うと、資料探しを手伝ってくれた司書さんの厚意で、特別にブックトラックごと借りられることになった。実のところ、青葉さんとは顔見知りらしい司書さんの態度から、厚意というよりも青葉さんへの好意をうっすら感じ取ってしまったけれど。
 我ながら、俺の中で青葉レーダーがおかしなほど敏感になってしまっている。



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