BACKFANTASIA




スクランブル -2-





 借りたブックトラックをゴロゴロと押して研究室に戻った時には、すでに資料作成は終わっていて、みんなは帰った後だった。残っていた助手の人が「これ、先生から」と青葉さんに封筒を渡す。
「先生の伝言。青葉くん、お疲れ様でした、これでゴハンでも食べて、だって。領収書もらってきてくれたら嬉しいけど、なくてもかまわないそうよ。それ、この間の研究会で手伝ってくれた分も含めてだってさ。あと」と、助手さんは言葉を切って俺をちらっと見た。
「気が利かせてあげたって言ってたわよ」
 符丁のようなセリフに、青葉さんはかすかに顔をしかめた。
「…先生はもう帰ったんですか?」
「そう。用事があるんだって。ゴメンって言ってた」
「そうですか。じゃ、十河、飯行く?」
「いってらっしゃーい!」
 なぜかはしゃいだ声を張りあげて手を振ってきた助手さんに、青葉さんは「バーカ」と乱暴に言い捨てて研究室を出た。
 そのまま俺たちは、青葉さんの車で、夕食を食べに行くことになった。
「十河、何か食べたいものある?」
「今、特に思いつかないから、青葉さんの食べたいとこでいいですよ」
「嫌いなものとかもない? なら、任せてもらうけど」
 青葉さんは目当ての店があるらしく、そのまま車を走らせた。助手席に坐った俺は、運転する青葉さんの横顔を何度も盗み見てしまった。珠里が昔よく見ていたはずの横顔を眺めながら、ふしぎに懐かしいような気持ちに浸った。
「俺さ」
 街中の渋滞に入った時、青葉さんがおもむろに口を開き、俺は盗み見がバレないように、さりげなく視線を前方に戻した。
「俺さ、十河のことホモだと思ってたんだよね」
「は?」
 唐突な言葉に、俺は目を丸くして、青葉さんの横顔を凝視してしまった。青葉さんは車の列に目を止めたまま淡々と言葉を続ける。
「それで、俺のこと好きなんだと思ってた」
 青葉さんが何を言い出したのか、俺にはよくわからない。
「誰がですか?」
「だから、十河が」
「俺が?」
 いまいち理解できなくて、確かめるように見つめている先で、青葉さんの頬は徐々に赤みを帯びていった。
「十河が、俺のこと好きなんだと思ってたんだよ」
 俺がホモで、青葉さんを好き?
「どうしてそうなるんですか?」
 青葉さんは、俺の視線を避けるように左手で前髪をかきあげた。
「おまえさー、俺のこと見てたじゃん」
「あ……」
 青葉さんを珠里の元彼として意識していたのは間違いないけれど、そんな本人にもバレバレなほど露骨に態度に出していたのだろうか。
「それは」
 少し気まずい感じで口ごもった俺の言葉を引き継ぐように、青葉さんは「珠里なんだろ?」と言った。青葉さんはちゃんと知ってるんだ。俺はしぶしぶ頷いた。
「そうです」
「そうなんだよなー」
 青葉さんは天を仰いだ。
「おまえが珠里と一緒にいるとこ見かけてさ。あいつに訊いたんだよ。十河ってどんな奴?って」
 珠里と青葉さんはコンタクトを取ったんだ。いったいいつのまに? 珠里は俺にそんな話はしていなかった。ついショックを受けてしまった俺の前で、青葉さんはふっと息をついた。
「カレシって言われるとは思わなかったなー」
 青葉さんの声が落胆の調子を含んでいるように感じられたので、俺は訊いた。
「青葉さん、本当はまだ珠里のことを好きなんですか」
「え、なんで?」
 青葉さんは驚いた表情で俺を見た。
「なんか、青葉さん、がっかりしてるような声で言うから」
 俺の言葉に青葉さんは少し笑った。それは苦笑に近い感じだった。
「俺、一応今、付き合ってるコいるから」
「知ってます」
 遠距離恋愛の彼女。昔の珠里と同じ立場だ。
「ふうん」
 青葉さんはちらっと俺のほうを見たが、それきり口をつぐんだ。
 気まずい空気を乗せたまま車は住宅街を抜けて、こじんまりとした和風のダイニングに到着した。
「ちょっと高そうな店ですね」
 車を降りながら、俺はそう言ってみた。柔らかな平仮名で「うさぎや」と看板のかかったその店は、隠れ家として雑誌に載ってもおかしくないような外観で、学生の俺たちが来るには不釣合いな高級そうなイメージだった。
「平気だよ」
 軽く言ってさっさと中に入って行く青葉さんを、俺はあわてて追いかけた。
「いらっしゃいませ──あら」
 出迎えてくれたのは和装の似合う美女で、女将さんらしき彼女と青葉さんとは顔見知りのようだった。
「こんばんは。先生は、来ていませんか?」
「いいえ、来てないわ。連絡なかったけれど、ここで待ち合わせ?」
「なんだ、残念。急いで帰ったみたいだから、デートじゃないかと思って、ヤマカンでここに来たんです」
「やだ。青葉くんも人が悪いことするのね」
 軽く腕を叩かれた青葉さんは、にっといたずらっぽく唇の端をつり上げた。
「冗談です。先生から夕食代をいただいてるんですけど、領収書もらってこいって言うから、ここがいいと思って。こいつも先生のゼミなんです」
 そう紹介されて、俺はぺこっと頭を下げた。
「十河と言います」
「女将さんは、先生のご親友なんですよね」
「そんな大層なものでもないけど」
 青葉さんに目を向けながら鷹揚に笑った女将さんは、俺に視線を移した。
「ずいぶん可愛らしいお顔をしてらっしゃるのねえ」
 しみじみとした口調で言われて、反応に困ってしまった。
「いえ、全然……」
 もごもごと口ごもる俺を見て、女将さんはクスクスと声を立てて笑い、「こちらへどうぞ」と促した。
 案内された店の中は、カウンターを除くほとんどの席が半個室のように区切られていて、そのうちの一つに青葉さんと俺は向かい合わせで坐った。
 先付けの小鉢が来ると、青葉さんは俺に飲み物のメニューを示した。
「十河、何飲む?」
「車なんだから、いいですよ。食事だけにしましょう」
 首を振った俺に、青葉さんは自分を指して、にっと笑った。
「運転手、いるじゃん」
「そんな。青葉さんが飲んでください。帰りは俺が運転しますから」
 先輩を運転手にして、酒を飲むわけにもいかない。
「やーだよ。俺の大事な車、十河に運転させるの心配だもん」
 注文を待っていた女将がクスクスと笑って言った。
「今日は青葉くんの好きそうなお酒が入ってるんだけど。運転代行を呼びましょうか?」
「いや、いいんです。今日は食事だけ」
 そう言っていた青葉さんは、先付けの料理をつまんでいるうちに、気が変わったらしく「やっぱり少し飲みたくなってきた」と言い出した。
「これ、絶対日本酒に合うよ。代行頼もうか?」
「俺は日本酒は苦手なんで、青葉さん飲んでください」
「ん、飲むよ。それじゃ十河はビール?」
「いいですよ。ここの料理おいしそうだから、ビール飲んで、入らなくなっちゃったらもったいない」
「うーん。じゃ、十河に甘えちゃえ」
 青葉さんは子供っぽい口調で言って、女将さんオススメのお酒を頼んだ。
「十河って、メヂカラあるよね」
 日本酒が好きというわりには、青葉さんはあまりアルコールに強いほうではないらしく、飲み出すとすぐにとろんとした顔つきになってしまった。顎の下に手を置いて支えながら、俺の顔をじっと見つめてきて、唐突な言葉を吐いた。
「メヂカラ?」
 首を傾げる俺に、酔った青葉さんはため息のようなかすかな息を吐いて、呟いた。
「強い目、してる」
 酔っている人特有の表情と低い声とが相俟って、目の前の青葉さんが妙に色っぽく感じられた。
「ああ、目の力」
 結構使われてはいるけれど「メヂカラ」なんて、おかしな造語だと思いながら頷くと、青葉さんはふいに真面目な顔つきになって俺を見た。
「だから、気になったんだよ」
「何がですか?」
「十河が俺のこと、ずっと見てるから」
「……」
 答えようがなくて、黙り込んだ俺に、青葉さんはかすかに唇を尖らせるようにして言った。
「俺だけじゃないよ。十河が俺のこと見てるって、先生たちも言ってたんだ。十河が俺のこと好きなんじゃないかって」
 脳裏に、青葉さんと俺が二人で食事に行くことになった時に助手さんが見せた意味深長な態度が浮かんだ。
「すみません」
 他に言葉が思いつかなくて、俺は謝った。
「おかしな態度を取って、すみませんでした。俺、珠里に対して、いまいち自信が持てなくて」
 青葉さんの眉がわずかにひそめられたように感じた。
「青葉さんと付き合ってたころの珠里って、どんなでしたか」
「どんなって」
「青葉さんは珠里のこと好きだったんでしょう。本当は今でも、その気持ち、少しは残ってるんじゃないですか?」
 青葉さんは珠里と俺が付き合っていることを珠里の口から聞いたと言った。青葉さんは珠里と再会して、どう思ったんだろう。そして珠里は。
「珠里も、もしかしたら青葉さんを好きなんじゃないかと思うんです。だって嫌いになって別れたわけじゃないんでしょう? 珠里は……一緒にいられないのが淋しかったんだって言ってました。だったら、今なら……」
 同じ大学にいて、会いたい時に会える。二人が別れる原因となった問題が、今は消滅してるんだ。
「あのさー」
 青葉さんは、少々不機嫌な顔つきになって遮った。
「俺と珠里が付き合ってたのって、何年前だと思ってる?」
「時間なんて」
 そういう問題に時間は関係ないのではないかと思った。
「それに、付き合うって言ったって、高校生の頃だし、そんな……深い関係じゃなかったよ」
 青葉さんは言い難そうに口ごもった。
「でも、珠里の気持ちは」
 珠里が自分から告白したのは青葉さんだけで、嫌いになって別れたわけではなくて。そんなふうに考えたら、好きな人と会えなかった高校生の珠里が可哀そうに思えてくる。
「もうやめてくれないか」
 青葉さんはしかめ面で低い声を出した。
「…すみませんでした」
 本格的な不機嫌に突入しそうな気配に、俺は謝って口をつぐむしかなかった。けれど俺は、珠里と付き合っている自分が青葉さんとこんな近くにいることが、なぜか珠里に対して申し訳ないような気持ちにさえなってしまっていた。


 食事を終えて、俺は青葉さんの車を運転して、彼のアパートに向かった。
 あの後は、珠里の話題を避けて、ゼミ仲間の他愛のない噂などを話していた。青葉さんは酔っているせいか、よくしゃべりよく笑った。
「少しうちで休んで行く?」
 アパートが近づいた頃、青葉さんは言った。
「車は後で返してくれればいいから、乗ってって」
「でも俺、駐車場持ってないんです」
 免許は取ったけれど車を持っていない俺は、駐車場の契約をしていなかった。
「あ、そっか」
「バスで帰ります。車を停める場所、教えてください」
「ん。……じゃ、泊まっていけば?」
「え、でも」
「こっちのほうはあんまりバス出てないし。明日、送っていくよ。…そこ、左に入って。月極の看板出てるから」
 話の途中で駐車場に誘導されて、はっきり「泊まらずに帰る」と口にするタイミングを逃してしまった。
 正直に言えば、もう少し青葉さんと一緒にいたい気持ちがあった。珠里のことを考えなければ、青葉さんと一緒にいるのは、単純に楽しかったのだ。俺は泊まっていくかどうかの決断を保留にして、誘われるまま青葉さんの部屋までついて行った。
「怜二」
「ぎゃっ!」
 青葉さんの部屋の階でエレベーターを降りた瞬間、突然暗がりからかけられた女の声に、驚いた俺は悲鳴をあげて、隣にいた青葉さんにしがみついてしまった。
 アパートの通路に、髪の長い細身の女性が立っていた。美人は美人なんだけど、状況のせいか、整った顔があだとなって幽霊めいた雰囲気を醸し出していた。
「ミズキ」
 そう女の名を呼んだ青葉さんはしがみついた俺の肩に手を回して、「何やってんだよ?」と彼女に問いかけた。ミズキというらしい女性は、下唇を噛むような表情をした後、小さく呟いた。
「週末、来なかったから」
 彼女の言葉に、俺の肩に回されていた青葉さんの手にかすかな力がこもるのを感じた。
「遠慮したんだよ。今、仕事、大変なんだろ?」
 ミズキさんは無言のまま、しばらく青葉さんの顔を見つめていたが、ちらっと俺に視線を移した。俺は思わずごくんと唾を飲み込んで、「あの」と声を出した。
「あの、青葉さん。俺、帰ります」
 青葉さんに肩を抱かれたままの不自然な体勢を立て直そうと身体をねじったが、青葉さんの手をうまく外せなかった。青葉さんは俺を見ずに、ミズキさんに言った。
「今日、こいつが泊まってくことになってるから。悪いけど、帰ってくれないか。まだ電車、間に合うだろ」
「青葉さん!」
 青葉さんの冷たい言い方に、俺は思わず非難の声をあげてしまった。おそらくミズキさんは青葉さんの恋人なんだろう。平日に無理をして会いにきてしまうほど青葉さんを好きな恋人に対して、青葉さんの態度は冷たすぎるような気がした。
 俺を見た青葉さんは目が合ったあとで小さくため息をつき、口調を和らげてミズキさんを諭した。
「明日も仕事あるんだろ? この間みたいに、いきなり午前中休むなんて連絡しちゃダメだ」
「明日は、ちゃんと休み取ってあるわ」
 小さな声は震えていて、痛々しかった。
「ミズキ。頼むから、そういう無茶するなよ。今は、そんな休みが取れる時期じゃないんだろう?」
「帰るわ」
 べそをかくような表情になって小さく叫んだミズキさんは、肩にかけていたバッグの持ち手をつかんで、いきなり俺たちに向けてぶつけてきた。俺の肩を抱いたままの青葉さんは、俺をかばうように身体をひねり、腕を上げてミズキさんのバッグをはじき返した。
「帰るわよ! バカ!」
 ミズキさんは、青葉さんを押しのけて、俺たちが乗ってきたまま同じ階に停まっていたエレベーターに乗り込んだ。
「待ってください」
 声をあげてミズキさんを追いかけようとした俺の手首を、青葉さんが後ろからつかんだ。
「青葉さん!」
 俺は振り向いて、青葉さんの手を引き剥がした。
「彼女、行かせちゃダメですよ。追いかけてください」
 肩をつかんで、顔を覗きこむと、青葉さんは形容しがたい不思議な表情で俺の顔を見返してきた。つかのま、見つめ合う。
「青葉さん! 彼女のこと、追いかけてあげてください」
 妙な胸騒ぎを振り払うように、俺は叫んだ。エレベーターの下降していく音がやけに大きく耳に響いていた。
「…いいんだ」
 青葉さんは、ふっと息を吐いて俯いた。
「追いかけなくて、いいんだよ」
 チーンとかすかに、エレベーターが一階についた音がした。
「車、借りますから」
 俺は青葉さんを行かせるのを諦めて、非常階段を駆け下りた。青葉さんが行かなくても、こんな時間に女性に一人で夜道を歩かせるわけにはいかない。
「ミズキさん!」
 大通りに向かって歩いて行く後ろ姿を見つけて呼び止めると、振り返ったミズキさんは、俺を見て、不思議そうな顔になった。街灯の光に照らされた小さな白い顔を見て、きれいな人だとあらためて感じた。
「多分、もうバス、ないです。だから、車で、駅まで送っていきますから」
 息を切らしながら、どうにか言うと、ミズキさんは「そう」とかすかに呟いて、素直に駐車場についてきてくれた。



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