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春風 -1-



 初めて会ったのは、春一番が吹いた日だった。いや、本当は二番か三番だったのかもしれない。とにかく強い南風が吹いていたその日、温己(はるみ)は俺の前に現れた。


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 きれいに晴れた日だったのに、お昼近くなって強い風が吹き始め、巻き上げられた砂埃で通りは白茶色に煙った。
 せっかくの休日だったが、風の強さに出かける気にはなれず、俺は本を読んだりピアノを弾いたりしてダラダラと時間をつぶしていた。一緒に住んでいる大学の先輩の中川さんは、北海道から出てくるという従弟を迎えに空港に行っていた。
 中川さんと俺が同居しているのは、些細なきっかけからだった。
 一年以上前の十二月、学科の一、二年生合同の忘年会があり、俺はそれに出席した。そのとき初めて一年先輩である中川さんと言葉を交わした。参加者はかなりの大人数で、初めは学籍簿順に並んだので、俺の向かいに坐ったのが中川さんだった。
 飲みながら他愛のないことをしゃべっているうちに中川さんが「決めた」と呟いた。
「長瀬、今どこに住んでんの? 家賃はいくら?」
 訊かれた俺が答えると中川さんは「いい物件があるんだ」と言った。
「一戸建ての平屋なんだ。一人で借りるには家賃が高くて。一緒に住む奴を探してるんだけど、長瀬、どうかな?」「ヘタな奴と同居すると面倒だろ? 長瀬ならいいかなと思った」そんなふうに言われて、俺もその気になった。それまでは構内で顔を見かけたことがある程度だったが、中川さんは信頼できる人に思えた。その直感は正しかった。俺たちは互いに納得できるルールを決め、それを守って生活した。必要以上に干渉せず、全くの無関心というほどでもなく、中川さんは、俺にとって理想的な同居人だった。

 推理小説を読み終えた俺は、気まぐれに居間のピアノを弾き始めた。この家は中川さんの知り合いの、さらに知り合いのもので、その人が地方に転勤している間貸し出されているのだった。だからそれなりの家具が配置されていて、アップライトのピアノまであった。俺は子どもの頃ピアノを習っていたことがある。中川さんがいる時には「弾いてくれ」と頼まれない限りピアノには近寄らなかったが、一人の時には趣味として、昔覚えた曲を弾いていた。俺はピアノの音が好きだった。指先から溢れ出すメロディー。もともと基礎程度しかやっていないから、表現などというものはわからなかった。人に伝える必要もなく自分のためだけの曲を弾くのが心地好かった。
 ふと気づくとピアノに混じって、ためらいがちに玄関のチャイムが鳴らされていた。この家には訪ねてくる客などいないから、新聞の勧誘か何かだろうかといくぶん警戒しながらドアを開けた俺の前に立っていたのは、中川さんの高校生バージョンだった。ただし中川さんより数段グレードアップしている。中川さんも女子学生の間で話題になる程度にはハンサムな人であったけれど、こちらはもう尋常ではなかった。
 真っ直ぐな眉の下が陰をつくるように深くくぼみ、そこに形のよい奥二重の目が収まっている。西洋人めいた細い鼻梁と飛鳥時代あたりの古い仏像を連想させるような少ししゃくれた唇。造りは中川さんと同じようだが、まだ幼さの残る顔立ちがなぜか逆に色気を感じさせて、俺は急に自分が年を取った錯覚さえ覚えた。しかもその顔の位置といったらかなり上の方で、身長は優に一八〇センチを超えているだろう。黒のダッフルコートの衿元からベージュのタートルセーターを覗かせている。シンプルな服は着ている中身によってずいぶん引き立つものだ。
 思わず見とれてしまい、すぐには言葉が出なかった。相手のほうも呆気に取られたような表情でしばらく無言だったので、少しばかり見つめ合ったような状態が続いた。
 その時、正面から強い風が吹きつけた。ぼんやりしていた俺は風の勢いにドアを抑えきれず、挟まれるところだった。彼がさっと俺と玄関との間に入り込んで俺をかばった。身長差のせいか抱きしめられたような形になって、ドキッとした。
「あ…、温己くん?」
 先に我に返った俺が振り仰いで訊ねると、彼は瞬きをしてから、こくんと頷いた。
「入っていい?」
 訊かれた俺は、ドアから半身を引いて「どうぞ」と促した。すれ違う瞬間、俺の目線は相手の顎の位置だった。ドアを閉め、奥に入って行こうとする長身を見上げて後ろから言葉をかけた。
「あのさ、中川さんと会わなかった? 空港に迎えに行ってるはず」
 居間に向かいかけた温己は急に足を止め、俺はその背にぶつかりそうになった。振り返った不満げな顔が見下ろしてくる。
「ええっ、なんで? 俺「いい」って言ったのに。自分で来られるって」
 顔も小さいが、身体も痩せているらしく、ダッフルコートの肩が尖っていて、マネキンみたいだなと、関係のない感想が浮かんだ。


「今度、従弟が受験でこっちに来るんだ」
 一週間前、中川さんは言いにくそうに切り出した。
「しばらくここに泊めてやりたいんだ。協定違反なのは、わかってる」
 同居を始めたときのルールで、俺たちはお互いの友人たちはもちろん、恋人もこの家には呼ばないと取り決めていた。
「本当はウィークリーマンションでも借りさせるべきなんだろうけど、俺がこっちにいるから頼まれちまって。悪い奴じゃないから、できたら一ヶ月くらい、置いてやってくれないか」
 中川さんはひどくバツが悪い表情だった。俺は笑って頷いた。
「いいですよ、中川さんの従弟なら」
 一年間、俺たちはうまくやってきた。この家はなかなか居心地の好い場所で、それは中川さんの提案で始まったことだから、感謝の意味を込めて、しばらくの間、目をつぶる気になっていた。そんな彼の従弟であるなら、温己もそう嫌な奴ではないだろうと見当がついた。


 温己は、私立大学の入試から、国公立の二次試験までの間、こちらにいることになっていて、数えたらまるまる一ヶ月強、滞在することになる。
 北海道から一人で来るという温己を心配して、中川さんが空港まで迎えに行ったのだが、すれ違いになってしまったらしい。
 中川さんの携帯にかけてみたら、電波が届かない場所にいるらしく留守電に繋がってしまった。
「参ったな」
 紹介する人のいない、いきなりの温己との対面に、俺はため息をついた。
「ま、そのうち連絡があるだろう。俺は中川さんの後輩で、ここに同居している長瀬。よろしく。何か飲む?」
 温己が頷いたので、俺は居間につながっているキッチンで二人分のコーヒーを淹れた。
 カップを用意しているところに背後からポーンとピアノの音が響いた。蓋を開けたままの鍵盤を温己がはじいたらしい。
「さっき、ピアノ弾いてたの、長瀬?」
 トレイに載せたコーヒーを運んで行くと、温己はピアノの脇に立っていた。俺のほうを向いたまま軽く身を預けるような姿勢で、すうっと鍵盤をなぞる。映画のワンシーンめいた風景に目を奪われそうになった。
「そう。ごめん、チャイムに気づけなかった」
 俺が謝ると、温己は「ううん」と首を振った。
 着いたばかりの人間を放っておくわけにもいかず、居間で向かい合ってコーヒーを飲んだ。マグカップを両手でかかえ、物珍しそうな視線でしばらく俺を眺めていた温己は、唐突に口を開いた。
「ねえ、宏樹の恋人なの?」
「はあ?」
 言われた意味がわからず問い返すと、温己は生真面目な口調で続けた。
「姉ちゃんが言ってた。男と同居なんておかしいって。絶対恋人だって」
 端整な顔立ちに似合わない、それはいかにも子どもっぽい台詞で、俺はおかしくなった。ほとんど不躾なまでの眼差しで見られて、いつもだったら感じたかもしれない不快が、なぜか起こらなかった。
「残念でした。女の子がいると思った? 俺がほんとに同居してるよ」
「ちがうよ。あんたが恋人なんじゃないかって、姉ちゃんは言うんだ」
「…ユニークなお姉さんだ」
 俺は呆れて首を振った。
 そこに電話が鳴った。中川さんからで、まだ空港にいると言う。俺が温己が着いていることを告げると、呆れたように「つまらないところで意地を張るんだから」と言った。
――悪いが、バイトの時間に間に合いそうにないんだ。このまま直行するから、温己のことを頼む。ほんとに悪いな
 よく知らない人間を押し付けられたような気がしたが、しきりに謝られて抗議もできなかった。
「中川さん、このままバイトに行くって。終わったら待ち合わせて夕食を食べようって言ってた」
 俺が告げると、温己は悪びれる様子もなく「ふうん」と頷いた。
「俺、どの部屋使っていいの?」
「中川さんが部屋を提供するって。その間、彼はここに寝るから」
 居間を示した俺に、温己は言った。
「宏樹はあんたの部屋に行くんじゃないの?」
「しつこいな。面白くないよ、その冗談」
「だって、なんか長瀬ってそんな雰囲気がある」
「ケンカ売ってんのか?」
 細く通った鼻筋に人差し指を突きつけると、温己は俺を真っ直ぐに見た。
「キスしていい?」
「ダメ」
 とっさに即答したが、よく考えるとすごいことを訊かれたものだ。
「俺、ほんとにうまいよ。泣かしたことあるもん」
 重ねて言われて、ため息が出た。どうやらこいつは普通じゃない。半端じゃない外見の奴は、神経も半端じゃないといったところか。
「つまらない自慢をするんじゃない」
 言い捨てて俺は温己を中川さんの部屋に押し込んだ。


 一旦はおとなしく部屋に入ったものの、温己(ハルミ)はすぐにドアから顔を覗かせた。
「ねえ、ピアノ聴かせてよ」
 読み終えた推理小説の代わりに雑誌を眺めていた俺は、呆れて温己を見た。受験生に気を使ったつもりで、ピアノを弾くのをやめたのに。
「勉強するんだろ?」
「まさか。着いたばっかりで疲れてるもん、頭に入るわけない。荷物開けるから、その間、ピアノ弾いてよ」
 温己は、俺の寝そべっているソファに近づいて来て、手から雑誌を取り上げた。そのまま何気ない様子で俺の指先を握った。
「きれいな手」
 軽く触れた程度だったのに、俺はひどく驚いてとっさに振り払うことさえできなかった。重ねられた温己の手のほうがよほどきれいだった。細く長いけれどしっかりした指。真っ直ぐな爪の形。俺はぎこちなく手を引き抜き、立ち上がった。
「ピアノ、何が聴きたいんだ? 俺に弾ける曲なんかほとんどないよ」
「なんでも。長瀬の弾いてくれる曲ならなんでもいい」
 温己はにっこりと手放しの笑みを浮かべた。手を握るなど温己にとってはたいしたことではなかったらしく、さっさとドアを開け放した部屋に戻って行った。
 ピアノの前に座った俺は、深く息をついた。温己の感触の残る手をぎゅっと握り、口元にあて人差し指の関節を噛んだ。心臓がドキドキしていた。なんなんだ、この感覚は。俺はその手を鍵盤に落とした。衝動のままメロディを奏でる。それは開け放されたドアから温己のいる部屋へと流れ込んでいった。


 中川さんのバイトが終わる時間を見計らって、俺は温己を連れて約束のレストランへと向かった。
「俺と長瀬、身長差ちょうどいいよね」
 電車が混み始める時間帯で、座ることができず、乗車口そばに並んで立つと、温己はそんなことを俺の耳に囁いた。どんな基準で何がちょうどいいと言うのか。俺はとりあえず聴こえなかったふりを装った。
 電車の中や、駅からレストランまで歩く間にも、温己はたくさんの人の目を集めずにはおかなかった。すれ違いざまにチラリと見るなんていうのは可愛いほうで、行き過ぎてからわざわざ振り返る奴さえいた。たいした距離ではなかったけれど、女の子のグループが後をつけて来たりもした。背後からひそひそ、くすくすと笑い合う女の子たちの声が離れず、並んで歩いている俺は落ち着かない気分になったが、温己は不躾な視線に慣れているらしく、そうしたことを気にも止めなかった。
 中川さんは先に来ていて、レストランの入り口で待っていてくれた。
「うっわー、ずいぶん伸びやがったな」
 温己を見た中川さんは第一声でそう言った。腕をつかんで引き寄せ、無理に肩を抱くようにして温己の頭をガシガシとなでた。身をかがめた温己がくっくと喉で笑う。
「痛いってば。背が伸びたって、それ、宏樹は夏に会った時も言ったよ」
「それにしてもすごいよ。それだけひょろ長いとすごく目立つな」
 レストランの玄関をくぐりながら、中川さんは感心したようにくり返した。
「おかげで、俺、バイトが見つかりそうだよ」
「何?」
「今日、空港でモデルクラブの人に声かけられた」
 確かに温己はそういう声がかかってもおかしくない容姿をしている。長い手足に真っ黒な髪や瞳がオリエンタルな雰囲気を醸し出していた。容姿だけではないのかもしれない。人を惹きつける魅力。そんな曖昧なものを信じたくなるような何かを温己は持っているような気がした。
「温己、それアヤシイヤツじゃないだろうな?」
 中川さんが少し心配そうに温己の顔を見た。温己は平然とグラスの水を飲んだ。
「ちがうと思う。これから旅行だとかで急いでいるみたいだったけど、ちゃんと名刺もくれたし、クラブに入るなら保護者の同意書が必要だとか、そういう話もしてた」
「ふーん、それはすごいな。でも、そういうのは受験終わってからだろ?」
「うん。だけど登録だけはしておいてもいいかなと思う」
「相変わらず自信家だな。絶対受かると思ってるだろ」
 ひやかすような中川さんの言葉を、温己はさらっと流した。
「どこかは受かるよ。たくさん受けるもん。受験料が大変だって母さんが歎いてる」
「それで本命は?」
「本命は宏樹のとこ。長瀬に会ってますます行きたくなった」
 温己はそう言って俺を見た。長い睫毛に縁取られた、光を放つ強い瞳。どうしてそんな目で俺を見るんだ。
「なんで?」
 中川さんが笑みを含んだ声で訊いた。
「長瀬がきれいだから、同じ大学に通いたい」
「バカ」
 俺はその一言をかろうじて吐き出した。どうしてこいつはこういう冗談が好きなのだろう。今日初めて会った俺に対しての台詞とも思えなかった。


「中川さんの従弟、ヘンじゃないですか?」
 俺の言葉に中川さんは口元に運びかけたカップを止めた。温己が来てから早くも三週間が経っていた。
 その日は、温己の公立の二次試験で、中川さんも就職の面接に行き、夕方に珍しく中川さんのほうが先に帰ってきた。お茶にしないかと誘われ、二人で居間でコーヒーを飲んでいた。
 この四月から四年生になる中川さんは、就職活動やバイトで忙しいようで、最近は滅多に家にいず、勉強のためにこもっている温己と二人で過ごす時間が多かった。図書館の場所を教えてやったのだが、温己はここのほうがいいと言って、出かけることをほとんどしなかった。しょっちゅう勉強に倦んでは、気分転換に俺にピアノを弾かせたりした。俺は最近まで家庭教師のバイトをしていたのだが、教え子がめでたく推薦を勝ち取り、お役ご免となって、新しいところを紹介されるまでの間ヒマを持て余している状態だった。
 温己は度々キスさせろと迫ったり、もっと露骨な誘いまで口にするので、俺は困惑していた。相手にしないようにしてあしらっていたが、そのしつこさには辟易した。
 温己は自分の魅力を知らないのだろう。あんなにきれいな顔で「抱かせてよ」などと囁かれたら、軽くかわすことが難しかった。一瞬でも反応が遅れたら命取り。捕えられて身動きできなくなる。まるで真剣勝負のようで息がつまった。
 そんな俺の気持ちなど知りもせず、傍若無人な温己は、中川さんの前で俺に抱きついたりしてみせる。ようするに温己は残酷な子どもだった。面白い冗談を見つけたつもりなのだろう。黙っていればクールな印象さえある温己が、遊びたい盛りの子犬がじゃれるように俺につきまとっていた。
 俺のしかめっ面に中川さんはにやっと人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ。まあ俺も長瀬が相手だったら…」
 そんなふうに言われて、俺は仕方なく笑った。
「ははは。あんまり面白くないです、それ」
「冗談はともかく、さ。俺は大人だから常識に邪魔されちゃうんだよな」
 そう言いながらカップを置いて腰を上げた中川さんの手が俺の顎にかかった。
 一度目は軽く。目を閉じるひまもなかった。唇は乾いたまますぐに離れた。そのまま三十センチの距離に留まっている顔に問いかける。
「どうしちゃったんですか、中川さん?」
「わからない。温己に刺激されたかな」
 中川さんはソファに座っている俺に覆い被さるような体勢になった。二度目の口づけで、舌が入ってきた。
「んっ、ちょっと中川さんやりすぎ…」
 合い間に抗議したが、中川さんは喉の奥で笑うだけだった。
 去年の秋に中川さんは長く付き合っていたらしい恋人と別れていた。当時はかなり落ち込んでいたが、今はすっかり立ち直っている。新しい恋人ができたのかまだなのか、それは知らないけれど、中川さんにこんな趣味はなかったはずだ。
 俺自身も、男とキスするのは初めてで、体勢的に「されている」という感じが強くて「なんだかなあ」とは思ったが、不思議と嫌悪感はなかった。
 中川さんは温己と違い、大人だから安心できた。こんな冗談に俺がへたな気を回す余地などなかった。気心の知れた相手との単なるじゃれ合いにすぎない。
 どのくらいの時間が経ったのか、ふと気づくと居間の入り口に温己が立っていた。
 何の表情もない顔。黙ってこちらを見ている。その瞬間、俺はそれまでの温己の行動が冗談ではなかったのかもしれないと悟った。軽く投げかけられる言葉に緊張していたのは俺だけではなくて。
「あ、帰ってきたのか」
 俺の視線をたどって、温己に気づいた中川さんが声をかけると、温己は無言のままくるりと背を向けた。
「ちょ…っと、温己。これはふざけてただけ…」
 慌てた中川さんの言葉に、温己は後ろ姿のまま左手をあげて応え、中川さんの部屋に入った。
「あいつ、傷ついたかな」
 中川さんが困ったように呟いたが、俺は何も言えなかった。中川さんとのキスと大差のなかったはずの温己の言葉が、急に違う意味を帯びて俺に迫ってきた。


 二日後、温己はここを出て行くと言い出した。
「温己、まだあのこと気にしてるのか」
 この二日間、中川さんは何度も釈明をくり返したが、温己はそれにあやふやな笑みを浮かべるだけだった。実際のところ中川さんと俺がキスをした理由なんて成り行きとしか言えなかった。中川さんにも俺にもお互いに対する特別な感情があるわけではなかった。
 中川さんの言葉に温己は首を振った。
「ちがう。試験は終わったし、いつまでもここにいるわけにいかないから。契約した部屋が、もう空いてて移ってもいいって聞いたんだ」
 温己は私大の試験が終わった頃、アパートの賃貸契約を結んできていた。結果が出る前の大胆な行動には中川さんも俺も呆れたが、当の温己は手応えを感じたからどこかは受かるはずだと平然としたものだった。
「引っ越し、手伝うよ」
 俺が口を出すと、温己は俺の目を真っ直ぐに見返した。
「うん。ありがとう」
 一瞬見つめ合った。キレイな顔だとあらためて感じた。

 温己がいなくなったことで、俺は温己のことを考えるようになった。真っ直ぐなあの目が、まるで焼き付けられたみたいに俺の頭を離れなかった。
 温己の引っ越しは、北海道から送ってくるものもなかったらしく、たいした荷物もなく昼過ぎには簡単に終わった。中川さんが借りてきた軽トラックの出番もないくらいだった。
「本当に何もないんだな」
 ガランとした部屋の真ん中に立ち、中川さんは手持ち無沙汰に見回した。
「家具とかどうするつもりなんだ?」
 ベッドやクローゼットは備え付けのものがあったが、あまりに殺風景な部屋だった。
「そのうち少しずつ買い足していく」
 フローリングの床に直接座り長い足を投げ出した恰好で、温己はのん気にそう答えた。
「温己、食事だけはちゃんとしろよ。お前、餓死とかしそうで怖いんだよな」
 中川さんの言葉に温己は声を出さずに笑った。首をかしげて肩を揺らす様子は、あどけない子どもめいていた。
「笑い事じゃないぞ。その体型じゃ脂肪の蓄えもなさそうだしな。気をつけろ」
 口調は冗談めかしているが、中川さんは本気で心配しているようだったし、俺もその気持ちに共感した。温己にはどこか危ういところがあった。
「温己、なるべくうちに顔見せに来い」
 俺はそう口を挟んだ。
「やっぱりこっちに知り合いができるまでは、俺たちと住んでいたほうがいいんじゃないか?」
 いくつかの大学からはすでに合格通知が届いているようだったが、大学生活が始まらなければ友人だってできないだろう。頼る相手と言えば中川さんと俺しかいないはずの温己が危惧された。
 だがそれだけではなく、手からこぼれた宝石を慌てて拾うような気分も確かにあった。俺はあさましい人間だ。
「大丈夫だよ。ここね、実はモデルクラブの紹介なんだ。今度、初めての撮影があるんだよ。ファッション雑誌だって」
 温己は俺に目を向けた。
「雑誌が出たら見てくれる?」
 俺は黙って頷いた。温己がにっこりと笑う。
 俺を求める温己の気持ちは疑いようがなかった。恋愛だとか情欲だとか分類することもできないほど、真っ直ぐに向けられた温己の目。俺にはその目を受け止めることができるだろうか。女のように温己を愛せるだろうか。考えてもそれがわからなかった。俺は俺でしかいられない。温己が望むものを与えられる自信がない。
 一つだけ確かに言えることがあった。あんなに鮮やかな目を知ってしまったから、俺には他のすべてが色褪せていた。それまで気になっていた女の子の存在など簡単に消えてしまった。
 多分俺は温己を好きなのだろう。望むものを与えたいなんて、どちらかというと恋愛感情より保護欲だな。自分でちゃかしてみたが、温己を愛しいと思う気持ちは、確かに俺の中に根を張っていた。
 気を静めようとピアノに向かっても、上の空になりがちで、いつしか指が止まっていることが多かった。



 温己が初めて雑誌に載った日、俺は温己の部屋を訪ねた。
 そのファッション雑誌は中川さんが買ってきた。俺は中川さんに何も言わなかったけれど、俺が温己のことを考えていることを、中川さんは多分知っていたのだと思う。中川さんは俺にその雑誌を渡すと、バイトに出かけていった。温己の写真は数点載っていた。左腕に女性を抱いた温己の目が真っ直ぐにこちらに向けられていた。まるで乞うような眼差し。俺はその目を知っている。隣のページには温己の横顔があった。真っ直ぐな鼻梁。唇の線。俺はその輪郭を何度もなぞった。
 温己を好きだと強く感じた。望むものを与えたいんじゃない。俺があいつを欲しいんだ。
 衝動に突き動かされ、俺は家を飛び出した。その日も風が強かった。まるで後押しするように後ろから吹き付けてくる風の中を、小走りで駅へと急いだ。
 引っ越しの日に一度行っただけの温己の部屋のある駅で降りると、暖房の効きすぎていた電車の反動で上着を忘れた身体に風の冷たさが沁みた。
 チャイムを鳴らして少し待つと、ドアの向こうから「誰?」と問う温己の声がした。
「俺。長瀬」
 返事をした途端、ガチャガチャと慌ててチェーンを外す音がした。ドアが開き、温己の顔が覗く前に、俺は素早くその内側に身を滑らせた。ドアノブを握ったままの温己がとまどうように俺を見た。俺は温己の腕を引いてドアを閉め、正面から視線を合わせた。俺がこの部屋に来た意味が、言葉を介さず確かに温己に伝わった。そう感じた。
「あ」
 くいいるように俺を見つめた温己が、強く抱きしめてきた。温己の鼓動が伝わってくる。切ないような浅い呼吸が俺の髪を揺らした。俺は昂揚していたが、不思議に静かな気持ちで温己の腕に身を任せていた。しばらく抱き合った後、温己はふいに身体を離して、俺を部屋に上げた。
「待ってて。俺、ちょっと出てくる。頼むから、帰るなよ」
 温己は俺の両腕を掴み、言い聞かせるようにくり返した。ドアにぶつかりながら、あせって出て行った温己は、コンビニの袋を手にすぐに戻って来た。俺が中を覗こうとするのを温己は真っ赤になって遮った。温己が慌てて買いに走ったものはスキンだった。俺はクスリと笑ってしまった。温己の腕が身体に回る。
「俺、なんかすごく餓えてるみてー。みっともないな」
 俺を抱え込み、温己は少し泣きそうな目で笑った。俺は温己の頭を引き寄せてキスした。唇に。瞼に。頬に。鼻筋に。温己が俺を床に仰向けに横たえて、荒々しいくらいの動きで俺の服を引き剥いだ。温己の指が俺の肌に直接触れ、ひやりとした冷たさに身がすくんだ。
「好きだ、長瀬。俺、どうしてかわからないんだけど、初めて会った時から長瀬が好きなんだよ」
 言葉が見つからないというふうにじれったげに温己はくり返した。すがるようにキスされ、俺は少し笑って温己の首筋に手を当てた。言葉ではなくて温己の雄弁な目がその想いを語っていた。シャツのボタンを外していき、手を滑り込ませた。温己の肌。表面が冷たくて、内側に熱を持っているようだった。
「ああ」
 ため息のように声を洩らした温己は、身を起こし、勢いよく服を脱ぎ捨てた。痩せ気味で手足の長い身体は、決して貧弱ではないのに、どこかアンバランスな印象だった。素裸になった温己は、俺の上に覆い被さりしがみつくように身体を擦りつけてきた。
「長瀬、長瀬、長瀬」
 俺は温己が愛しくてどうにかなりそうだった。むさぼるように舌を吸った。足も腕も指先まですべて絡み合わせてもまだ足りない。いっそこの肌が破れて溶け合ってしまいたい。温己の指が俺の後ろを押さえた。
「俺ね、ここに入れたい。男同士ってここ使うんだって。俺、長瀬に入れたい」
 熱っぽく囁きかける子どものような目。俺は温己にキスをした。
「うん。いいよ」
 俺はこの部屋に来るまでにすでに覚悟を決めていた。温己と一つになることにためらいはなかった。温己の手が俺の右足をつかんだ。上に引き上げるようにして押し拡げたその場所に昂ぶりを押し付けられて、俺は羞恥と恐怖に身体がこわばるのを感じた。
「長瀬」
 泣き出しそうな表情に、どうにか浮かべた笑みで応えた。深く息をついた途端、ぐっと俺の中に温己の身体が入ってきた。
「ん…ッ! …ッ、…ッ!!」
 声にならない。痛みが頭の先まで走り抜けた。熱が無理に入ってくる。深く穿たれるその衝撃。
 欲しいと思ったはずだ。俺が温己を欲したんだ。
「…やッ、いやだぁッ!」
 温己が腰を使い出すと、意志を裏切って、喉の奥から悲鳴が溢れた。
「痛いッ、やめ、…は、るみ…ッ」
 無意識に身をよじり、逃れようとずり上がるのを、温己は許さなかった。俺の右足をつかんだ温己の手は鉄のようだった。
「ダメだ、長瀬。俺、やめられない」
 温己は泣いていた。泣きながら温己は俺を抱いた。
「好きだよ、長瀬。好き。俺、長瀬が好きなんだ」
 しっかりと抱え込まれた腰を揺さぶられ、何度も突き上げられた。身体を出入りする熱に泣き喚きながら、それでも俺は温己を愛しいと感じていた。身体を割かれる痛みさえ、温己と一体となった証と考えればたやすく耐えられる筈だった。



「…せ、長瀬」
 ぼんやりと瞼を開けると、間近に涙に濡れた目が光っていた。
「ごめん、長瀬」
 ひどく傷ついた顔で温己は俺の頬を撫でた。俺はうっすらと笑った。温己の頭を抱え込み、耳元で「大丈夫」と囁く。
「大丈夫だよ、温己。大丈夫」
 温己は俺を見つめ、犬のように鼻先を押し付けてきた。
「長瀬」
 温己の仕種に俺はクスクスと笑った。笑いながら温己が愛しくて涙が溢れそうだった。俺は今、何よりも素晴らしいものを手にしている。そう感じた。純粋でキラキラ光る宝石のような温己。
 髪を撫でていると温己は顔を上げた。
「俺、多分長瀬は手に入らないんだって思ってた。どうしても欲しくても手に入らないものってあるよね。長瀬もそうなんだと思った。でも、それでも諦められなかった。磁石みたいなんだ。引き寄せられて目がそらせない」
 温己は額をつけて俺の目を覗き込んできた。真っ黒な瞳。そこに映る俺の顔。目がそらせないのは俺のほうだった。温己が望んで手に入らないものなどあるはずがない。
「俺がお前を守るよ、温己」
 なぜそんなことを口にしたのだろう。俺は温己をダイヤモンドのようだと思っていた。純粋で誰にも傷つけられたりはしない硬質な男。それなのに俺は温己を守りたいと思った。それは初めて抱き合った感傷だったのだろうか。



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