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春風 -2-



「ん…ッ、ああ」
 クチュクチュと卑猥な音が部屋に響く。その源が自分の下半身にあることが余計に俺を昂ぶらせる。
「足、ちゃんと抱えてて」
 温己の声が耳元で囁く。俺は力が抜けて滑りそうな手で必死に膝を押さえていた。自分で足を抱え上げて開くというポーズに屈辱を感じたのは初めだけで、中でうごめく温己の指に翻弄されて、もう何も考えられない。何本の指が入っているのかさえ、定かではなかった。
「…あッ! …み、温己、も…ッ」
 温己と身体を重ねて四度目の夜だった。
 二度目も三度目も、初めてのときに較べればマシだったものの、あまりうまくいかなかった。苦痛を感じるのは俺だけではなく温己も同様らしかった。ペッティングだけで済ませればいいのかもしれないが、これまで同性を相手にしたことのない温己は挿入にこだわるようだった。それは俺も同じで、肌を触れ合わせるだけでは何かが違う気がしてしまう。同性愛者の中にはアナルセックスをヘテロの真似事だと嫌う奴もいると聞いたことがあるのだが、そういう点で俺たちは既成概念にこだわりすぎているのだろうか。
 そんなぎこちなさに気が引けて、しばらく間を空けていたのだが、めでたく同じ大学に合格した温己の入学式の日、中川さんと三人で食事をした後、俺は温己の部屋に泊まることにした。温己と俺が付き合っていることに対して、中川さんは何も言わなかったが、中川さんと住んでいる家でセックスすることはルール違反だと感じていた。
「長瀬。今日は俺の言うことを聞いて」
 ベッドの上でそう言った温己がやけに真剣な顔つきをしていたので、俺はちょっと笑った。
「俺、長瀬が好きだから、ちゃんとイイ気持ちにさせてやりたいんだよ。痛いだけじゃ嫌だろ?」
「大丈夫だよ」
 確かに温己とのセックスは苦痛を伴ったが、それ以上に温己を愛しいと思う気持ちが勝っていた。
「俺がヤダ。長瀬に辛い思いさせるのは俺が嫌なんだ」
「バカ」
 俺は温己の頭を抱え込んだ。愛しい温己。子どものように無防備な温己を守ってやりたいと切実に思った。
 そのまま温己の唇が俺の胸を這い始めた。手が下半身に触れた。
「足、開いて」
 言われて少しだけ開いた足を、温己は容赦なく引き上げた。曲げた膝が胸に押し付けられる。
「こうやってちゃんと抱えて」
「いやだ、温己」
 信じられないような恰好をさせられ、俺は全身を朱に染めた。
「俺を信じて協力して」
 懇願ともとれる温己の態度に、俺は羞恥に顔をそむけつつも足を抱えた。剥き出しになった下半身に液体が垂らされビクッと震えた。
「何?」
 ぬるぬると拡げられる液体。
「こういう時に使うもの」
 温己がどうやってそんなものを手に入れたのか不思議だった。疑問を口にする間もなく、温己の指が中に埋め込まれる。それはローションの助けを借りて簡単に入ってきた。
「ふ」
 苦痛を感じないことに逆にとまどった。ローションを塗りこめながら温己がゆっくりと中を探り出す。
「痛くない?」
 訊かれて言葉を発するのも恥かしく、ただ頷いた。指が身体の奥まで進められた。
「あッ!」
 その場所を突かれて、抑えきれない声が洩れた。
「ここ?」
 温己がそこを執拗に刺激する。俺は堪えようもなく身をくねらせた。未知の快感にいつしか思考を放棄していた。
「温己、もう…」
 俺は指の刺激だけで一度絶頂を迎えていた。俺の哀願に温己はようやく指を引き抜いた。そして自分の下半身にもたっぷりとローションをつけて、ぐっしょりと濡れている俺の後ろにあてた。
「力、入れちゃダメだよ」
 優しく諭すようにして温己が囁く。ぬるりとした感触でそれは俺の中に入ってきた。何度試みても痛みを伴ったものがあまりにあっさり体内に収まって、俺は混乱した。
「温己」
 なぜか泣き声になっていた。温己の手が頬を撫で、前髪をかき上げた。
「大丈夫」
 温己が身をかがめてキスしてきたので、更に深く奥に入った。
「あぁッ…」
 声が温己の舌に絡め取られた。唇を離した温己はにっこりとキレイな笑みを見せた。「大丈夫」と何度もくり返しながら、俺の太腿をつかんで揺さぶり始める。
「あっ、あっ、あ」
 俺は口を閉じることもできなくなった。痴呆のように半開きにした唇から喘ぎが洩れる。
「長瀬、すごい顔、すごい声。イイ? ねえ、イイんだよね?」
 温己の熱っぽい声。すでに手から外れた足は温己の肩に抱え上げられていた。何度も指で刺激された箇所を今度は温己のものが直撃する。信じられないような高みへと突き上げられた。
「やッ、やだよ、温己、温己」
「すごい、長瀬。どうしよう、俺、もう、どうしよう」
 涙が溢れて、もう何も見えない。俺は温己の首筋にしがみついた。


「すごくよかった。今すぐ死んでもいいくらいだよ」
 頭の上で、感極まったような声で温己が囁く。その吐く息が微かに髪を揺らすのを感じていた。火照っていた身体が冷えてくると徐々に恥かしさが湧いてきて、俺は温己の首筋に顔を押し付けた。
 少し経ち、ちょっと身体を離して温己は俺の顎に手をかけて覗き込んだ。
「ねえ、俺、本当に長瀬が好きだ」
 なんてキレイな顔だろう。こんなにキレイな温己が真っ直ぐに俺を求めてくることに胸が締め付けられるような幸福を味わった。切なくて涙が滲んできた。
「俺のどこが好きなんだ?」
 照れ隠しにそう尋ねた。
「どこって」
 温己は困ったように俺を見た。
「長瀬、俺の告白を信じてないの?」
 拗ねたように唇をとがらせる温己に、ゆるく首を振った。
「温己の気持ちを疑うわけじゃない。ただどうして温己が俺を好きなのかわからないだけだ」
 こんなにキレイな男が俺を好きだということに実感がわかなかった。温己の目を疑うことはなかったけれど、それでも温己が俺に何を見ているのか、わからない。
「一目惚れって信じる?」
 温己は囁くように言った。
「顔が好みっていうだけじゃなくってさ。全体の雰囲気っていうか、そういうのかな。一目見ただけでドキッとした。その後はもう」
 温己はクスクスと笑った。
「しゃべり方がいいと思った。声がいいと思った。仕種が好きで、表情が好きで、目が離せない。わかる? こういうの」
 キラキラと光る目が真っ直ぐに俺を捉える。
「どうして、俺?」
「ねえ? どうしてだろう?」
 逆に訊ね返され、答えようがなくて俯く俺を、温己は下から覗き込んだ。
「俺にもわからないよ。だからさ、こういうのって運命だと思う。そうじゃない?」
 ちゅっと音を立てるようにキスしてくる。
「俺と長瀬が出会ったのはさ、運命なんだよ」
 温己は自分に確認するようにして頷いた。



「今日、学食で温己につかまったよ」
 何日かぶりに中川さんと住んでいる家に戻っていた俺に、大学から帰ってきた中川さんが、苦笑を含んだ声をかけてきた。
「二人で住みたいんだって? 就職が決まったら俺は別の部屋を探すんだろうって言うんだ。早く出てけって言わんばかりの口振りでさ」
 居間で新聞を読んでいた俺の向かいに腰を下ろした中川さんはそう言って、肩をすくめた。俺は新聞をたたみ、中川さんに「すみません」と謝った。一緒に住もうと言い出した温己の提案を、俺はすでに断っていたのだけれど。
「どうして? どうして宏樹と住んでいるのに俺とじゃダメなんだよ?」
 不満げに唇をとがらせて言い募る温己を俺は諭した。
「あの家、一人じゃ家賃が高すぎるんだ。急に俺が出ると中川さんに迷惑をかけることになる」
「それに」と俺は続けた。
「あんまり一緒にいすぎると飽きるだろ」
「飽きないよ! なんだよ、長瀬は俺に飽きるんだ?」
「温己が俺に飽きるのが怖いんだ」
 本音のつもりだったが、温己はむっとしたように頬を膨らませた。
「それ、絶対嘘だね。長瀬はいつか俺に飽きるつもりなんだ」
 恨みがましい目で俺を睨んでいた温己。納得した様子はなかったが、まさか中川さんにまでそんなことを言い出すとは思わなかった。
「じゃなきゃ、この家とあのアパートをトレードしようとも言ったな。俺が温己のアパートに移って、温己がこっちに住むって。差額は温己が持つそうだ」
 俺は返す言葉もなく中川さんを見た。あのバカ。
「俺はゼミの連中と一緒にいたのに、温己が傍若無人に長瀬、長瀬って連呼するからみんなヘンな顔してた」
 苦笑いしつつも中川さんは少し気遣わしそうな様子で「大丈夫か、長瀬?」と俺の顔を覗き込んだ。
「温己、ちょっとヤバイくらいじゃないか。仲がいいのはいいけど、なんだか心配な気もしてくる」
「すみません」ともう一度俺は頭をさげた。従弟が同性と付き合っているなんて、中川さんにしたら憂慮すべき事態だろうに、彼はそんなことは口にしなかった。純粋に俺たちのことを気にかけてくれていると感じて、申し訳なかった。
「温己は子どもだし、俺に責任があると思ってますよ。俺が温己を好きになったんだから、ちゃんと引き受けます」
 俺の言葉に中川さんは「バカ」と笑った。
「あんまり思いつめるなよ」
「いえ、そんな深刻なんじゃないんですけど。ごく素直な気持ちです。温己みたいなガキを相手にしてるのは俺の責任だと思って。自分で犯罪かもって考えるくらいですよ」
 冗談めかして笑ってみせたが、それは俺の本心だった。温己は子どもなのだ。判断力も何もなく、ただ好きという感情だけで突っ走っているような子どもを相手に恋愛を始めたのは、俺の責任だ。
「長瀬、そんなに温己が好きか」
 中川さんはちょっと困ったように呟いた。
「長瀬も温己と二人で暮らしたいと思っているんだったら、俺も考えるけど。今だって、ここの家賃を出してるの無駄なんじゃないか?」
「いいえ、それは」
 俺は即座に首を振って否定した。
「きちんと自分の場所を持っていたいんです。俺の家はここだから。形にこだわってもしょうがないかもしれないけど」
 温己との関係は加速がつきすぎている気がして、俺も不安だった。「幸せすぎて怖い」などという陳腐な気持ちがよくわかる。俺には中川さんとの生活が必要だった。形だけにしても温己以外の居場所を確保しておきたかった。




「ええっ、今日、長瀬の誕生日なの?」
 朝のベッドで他愛なくじゃれ合っている時に、口にした俺の言葉に温己は大げさな声を上げた。
「なんで言ってくんないんだよ、もう」
 くやしそうに唇をとがらせてみせる温己に俺は笑ってしまった。
「別に誕生日なんかどうってことないよ」
「どうってことあるね。あーもう、今日、仕事入ってんだよな」
 半身を起こし、左手でガリガリと短い髪を掻く。しかめっつらさえ絵になる温己。シーツに横たわったまま俺は見とれていた。
「ね、スタジオに一緒に行ってよ。速攻で撮影終わらせるからさ。そしたら、デートしよう」
 俺の上に覆い被さるようにして温己が額をつけてきた。キラキラと光る真っ黒な目が俺を真っ直ぐに見つめる。
「すぐだよ、すぐ。今日のはそんなにかからないはずなんだ」
 小学生のような物言いに、笑みが抑えられない。俺は手を伸ばして、温己の頭を撫でた。
「可愛いな、温己」
「なんだよ、もう。長瀬って俺のこと、子どもだと思ってんだろ?」
 頬を膨らませながら、それでもどこか嬉しそうに温己が文句をつける。何も言わずクスクス笑っていたら、温己は下半身を絡ませてきた。
「そういう態度取ってるなら、俺だって反則するもんね」
「なんだよ? 可愛いと思ってんのに、怒ることないだろ」
 俺は温己の頭を抱え込んだ。
「怒ってんじゃないよ。あー、ちくしょう、もう、好きだ。長瀬、大好き」
 ストレートな言い方に胸がいっぱいになった。「俺もだよ」と言葉にせず呟く。可愛い温己。俺がおまえを好きなんだ。


 実を言えば、温己のバイト先に行くのは気が進まなかった。モデルをしている温己の華やかな世界に俺は馴染めなかった。
 大学でも温己は、どちらかといえば派手で目立つ連中といることが多かった。同じモデル仲間であったり、クラブのDJや常にパーティを主宰しているような奴ら。そんな中にいても温己は、俺を見つければ、屈託なく声をかけてきた。俺の居心地の悪さなどおかまいなしに。そういう時、俺は温己を少しだけ無神経だと感じた。
 その日も温己は当然のようにスタジオまで俺を連れていくつもりでいたが、俺はそれを断り、スタジオの入っているビルのロビーで待っていることにした。
 しばらく経って、入り口の自動ドアが開き、一人の男がフラリと現れた。長めの髪に薄い色のついた眼鏡。背も高く、その圧倒的な存在感から、温己と同じようにモデルか何かだろうと見当をつけた。奥に坐る俺にチラリと視線を流し、離れたソファに腰を下ろして、煙草を吸い始める。何気ない仕種が一つ一つ計算されているように見えた。
 することのない俺は、気を抜くとその男の行動をぼーっと眺めてしまいそうだったので、手近な雑誌を広げた。
「もしかして、ナガセ?」
 ふいに声をかけられ、そちらに顔を向けると、男が俺を見ていた。
「ハルミの。違う?」
 所有格の後に省略された言葉が気になったが、俺は黙って頷いた。
「あーあ、なんだよ。バッティングかよ」
 男はつまらなそうに言って横を向いた。しばらく無言だったが、やがて再びこちらに目を向けた。
「長瀬、今度、ハルミのこと抱いてみたら? けっこうイイぜ」
 とっさに返す言葉もなく男を見つめた。その時、降りて来たエレベーターから大袈裟な声が響いた。
「あっれー、日下さん。なんでここにいんの?」
 現れたのは、またしてもキレイな男だった。短い髪が白く見えるほどの金に抜いてある。
「終わったのか? ハルミは?」
「ハルミはもうちょっとかかるみたい。でも残念でした。ハルミ、今日は約束があるってよ。ぼくも断られたんだから。あっと、もしかして約束って日下さん?」
「いや。じゃあトモ、一緒にメシ食いにいこ」
 日下と呼ばれた初めの男はそう言って、後から現れた男の肩を抱いた。金髪の頭越しに一瞬だけ視線がこちらに来た。
「なんだよ、それ。ぼくはハルミの代わり?」
 腕の中で金髪の男は冗談まじりに文句をつけた。二人はそのまま外に出て行った。


 その日下という男のことを俺は温己に問わなかった。多分温己は日下と寝たのだろう。いや、もしかしたら日下との関係は現在進行中なのかもしれない。けれど温己が他の誰と寝ようと俺との間に関わることではない。負け惜しみや強がりととられたとしても、俺は心からそう考えていた。俺が温己を好きで、温己が俺を好きな限り、俺たちの間は変わらない。
 温己と関係があるのが、日下だけでなくトモと呼ばれていた巴音もであることがわかっても、俺は平静だった。
 温己と待ち合わせていたセルフサービスのカフェで、俺は偶然日下と巴音に行き合わせた。
 後から入ってきた二人は、温己を待つ俺を見つけると気安く近寄ってきた。
「ナガセ、なんでしょ?」
 先に声をかけてきたのは巴音だった。
「ハルミを待ってんだ?」
 俺は黙って頷いた。巴音の人懐こさは別に不快ではなかった。彼は当然のように俺の前の椅子に腰をかけた。日下はその背後に立ち、面白そうな、からかうような表情で俺たちを見下ろしていた。
「ぼくたち、ハルミと同じクラブなんだ。こっちは日下さん。前、話したんでしょ。ぼくは巴音。ナガセのことはハルミからいっぱい聞いてるよ。実物見られて感激だ」
 間近で見る巴音の瞳はずいぶん薄い色をしていた。肌の色もただ白いというのではなく、西洋人のようだった。もしかしたらハーフででもあるのだろうか。
「ね、ナガセ、もう慣れた?」
 巴音はイタズラっぽく俺を覗き込んできた。
「ハルミとするの、大丈夫? ハルミ、泣きそうなんだもん。どうしよう、なんつって。可愛いよなあ」
「その髪」
 俺は口を開いた。
「え?」
「地毛なの?」
 俺が問うと、巴音はぽかんとした顔になり、すぐに吹き出した。
「あっは。ナガセ、いいな。地毛じゃないよ。ぼく、クウォーターだけど、さすがに金髪じゃない。色、抜いてるんだ。わかるだろ?」
 巴音は「触る?」と言って頭を突き出してきた。俺はその頭をおざなりに撫でた。そこに声がかかった。
「何、してんの?」
 温己だった。カフェの入り口近くで呆然と立ち尽くしていた。近づいてきた温己は、俺ではなく日下と巴音を交互に見た。
「どうして二人がいるんだよ?」
 歪んだ顔でなじるように言う温己の肩を、日下が引き寄せた。俺の反応を伺う目で、温己の耳の中に囁く。
「偶然、会ったんだよ」
「長瀬に何を言ったんだ?」
 巴音はパッと勢いをつけて立ち上がった。
「いじめてないよ」
 おどけた声で言い、手を伸ばして温己の鼻をつまむ。
「お邪魔虫は消えようっと。…今度、四人でしようって誘ったんだよ」
 アハハと声をあげて、巴音は日下の腕を取りカフェを出て行った。
 二人を見送った温己は、力が抜けたように巴音の坐っていた椅子に腰を下ろした。テーブルに肘をつき、握り合わせた両手で軽く何度か額を叩き、伺うように俺を見た。
「ごめん」
 温己は怯えた目で謝った。俺は少し笑った。俺は謝られる立場なんだ。
「俺、長瀬を傷つけたくなくて。やり方がよくわからなくて。あいつらに教えてもらうつもりで」
 早口で呟かれる言い訳は、次第に小さな声になった。テーブルの上でコツコツと不規則な音を刻み始めていた温己の手を、俺はそっとつかんだ。長い指先を軽く握りしめる。
「いいんだ」
「長瀬」
 とまどうように温己が俺の名を呼ぶ。
 俺が温己を好きなんだ。温己が他の誰にどんな感情を抱こうと俺のことを少しでも好きならそれでいい。日下や巴音への気持ちは、温己の俺への気持ちには関係がない。そう信じていた。



 五月が終わり、梅雨入りが宣言されるより先に、突然思い立ったような雨の日が何度かあった。朝から降りしきる雨は、冬に逆戻りしたかのような寒さを運んで来た。
 温己が俺を見なくなった。はっきりとしたきっかけがあったわけではない。気づくと、宝だと思っていた、真っ直ぐに俺を見つめるあの目が、いつのまにか消えていた。
 六月の雨が降りしきる部屋で寄り添って、俺の髪に唇を押し当て「好きだ」と囁く温己は、けして俺と目を合わせない。見上げる俺の目を避けた。目を合わせることを怖れるように俺を抱きしめ首筋に唇を這わせる。じれたように身体を合わせて、それでも温己は俺を見ない。
 どうして温己の瞳を失くしたのかがわからなかった。
 それは、温己の気持ちが俺から離れていくことを意味しているように感じた。愛してるとか好きだとか言葉だけをもらっていても、信じることはできなかった。消えた目のほうが確かだった。
 もしかしたら日下か巴音、あるいはまったく別の誰かに気持ちが移って、俺と関わる余裕がなくなったのかもしれない。
 他に好きな相手ができたとかそんなことはどうでもいい。ただ俺に対する温己の気持ちが冷めていくことがたまらなく怖かった。そして、それをどうすることもできない自分が空しかった。
 もともと温己が俺の何を好きだと感じたのかがわからないのだ。温己の気持ちが離れていくことだけがわかって、引き止める手立てが見つからない。どうしたら、あの目を取り戻せるのだろう。
 俺自身も温己と目を合わせることが怖くなった。目を逸らされるのがわかっていて、どうして見つめることができるだろう。部屋の隅でうなだれている温己を抱きしめることができなくなった。抱きしめて「どうしたんだ?」と声をかけても、「なんでもないよ」と笑みが返っては来ないことを知っているから。俺はいつしか温己の項の形を覚えた。それだけが今の俺に見つめることのできる唯一のものだった。交わす言葉の減った部屋で、雨音だけが響いた。


 決定的な瞬間の訪れは唐突だった。
 朝、目を覚ましたら、ベッドに温己の姿はなかった。その日、雨は降っていなかった。前日の雨の匂いを残したまま、空は軽やかに暑さの始まりを告げていた。一人残されたベッドの中で、俺は予感を覚えていた。もう終わりだとはっきり悟った。
 いいや、ちがう。本当はずっと感じていたのだ。温己の目を失くしたことに気づいてから。ふとした沈黙が、まさに終わりの瞬間のように感じられた。俺は何度もその予感に怯え、沈黙の後でくり返されるキスに慰められてきた。
 何度目かの予感に、俺はのろのろと起き上がりベッドを出た。朝の光が届かない薄暗いキッチンのテーブルに突っ伏す温己がいた。頭を抱え込んだ長い腕がオブジェのようだった。俺の気配に気づいたらしく、そろそろと顔を上げた温己は、吐き出すようにその言葉を言った。
「ごめん、長瀬。ごめん。俺、もう長瀬を好きじゃない。だから長瀬と付き合えない」
「そ…か」
 俺は真っ白になった頭で小さく呟いた。
「長瀬」
 温己が泣きそうな目で俺を見る。愛しい温己。抱きしめたいと本気で思った。バカだな。気持ちが冷めるのは仕方のないことだろう? もともと温己が俺を好きになってくれたこと自体が僥倖だったんだ。
「いいんだよ、温己」
 俺は笑ってみせた。いいんだ。温己が悪いわけじゃない。
「俺、もう長瀬を好きじゃないんだ。長瀬を好きじゃない」
 温己は呪文のように繰り返し、俺の胸を抉る言葉を吐いた。俺はぼんやりと笑っていた。他に何が出来ただろう。何も考えるなと自制した。温己の言葉をきちんと受け止めたら、俺は悲鳴を上げてしまう。
「わかった、わかったよ。大丈夫だから。温己、大丈夫」
 自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ終わりなのだと知った。あまりにも唐突な幕切れで、冗談のようだった。
 とりあえず。
 と、俺は必死にすることを探した。とりあえず俺はこの部屋を出よう。俺の家は、中川さんと住んでいる家なのだから。もう何日も帰ってなかったけれど、俺の家はここじゃない。大丈夫、俺には帰る家があるんだ。
 俺が温己の部屋にいつのまにか増えていた自分の荷物をまとめている間、温己はベッドにもぐり込んで、繭を作っていた。胸の痛くなるような静寂の中で、俺は自分の立てる物音に緊張して身体が震えた。荷造りの音が温己にあてつけがましく響くことをひたすら怖れた。
「さよなら」は言えなかった。ベッドの温己にかける言葉が思いつかず、俺は黙って温己の部屋を出た。
 ドアの外は冗談のような青空で、俺はうなだれることすらできず、駅への道を辿った。



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