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トライアングル -1-



 入学式にはすでに散り始めていた桜が、アスファルトに汚らしい模様をほどこし、半端な葉とがくの残った枝も見苦しい。ぼくは視線の先に困って俯きがちに足を運んだ。
 ぼくには、自立心というものがないのだろうか。大学に入学して体験している初めての一人暮らしは、嫌になるくらい空しく感じられる。誰に気兼ねをする必要もない“自由”がたまらなかった。
 そして、第一志望の大学に入学できたというのに、ぼくの気分は今いち盛り上がらない。原因の一つは多分、今日子。もうすぐ十九歳になろうという男が、いつまでも姉を頼るなんて情けないとは思う。思うがしかし、今日子のしたことは騙し討ちだ。
 一人暮らしがこんなに空しいのは、覚悟ができていなかったせい。何しろぼくは、双子の姉の今日子と同じ大学に入り、二人暮らしをするはずだったのだ。それを今日子は、合格したにもかかわらずこの大学を蹴り、地元の女子短大に入学することにしてしまった。私立のお嬢さん学校なんて、親の負担を考えない奴の仕打ちだ。ぼくは今日子をさんざんに罵倒し、両親が呆れて咎めるほどだったが、今日子自身は冷静だった。
「私はそんなに勉強が好きなわけじゃないのよ。四年間大学に通ったとして、何かを見つけることができるとも思えなくなったの。社会に出るための猶予期間としては、二年で十分だと思うわ」
「英文がやりたいとか言ってたのは、間違いだったってワケ?」
「女子短にだって英文科があるわ。J大の先生が講師をしてるのよ。英文学は好きだわ。だけど、それを一生追求していくだけの気持ちが私にはないの。だから多分、趣味にしかならないのよ」
「そんなのおかしいよ。大学の勉強は一生続ける覚悟がなくちゃできないって言うの? ぼくにだって数学を一生やっていく気持ちなんてない。みんながそんな気持ちを持たなくちゃ大学に行けないんだったら、そんな人ほんの少数だよ」
「進路は自分で決めるのよ。別に遊ぶために大学に行く人がいたって、私はかまわない。短大を選んだのは私で、行くのも私自身だわ」
 今日子は何度もそんな説明を繰り返した。ぼくには、今日子の言葉が建前としか思えなかった。そしてある晩、とうとう彼女は言ったのだ。
「私がN大に行かないのは、明日太と離れるためもあるわ。私たち、あんまり一緒にいすぎたのよ」
 それは、本当にいきなりの宣告で、ぼくは不覚にも涙が滲みそうになった。
「そんなの、ない。いきなりそんなのひどい。ぼくと一緒が嫌なら、最初から言えばいいじゃないか。ぼくがいるからN大に行かないなんて。じゃあ、ぼくはどうすればいいんだよ? ぼくがN大をやめたら、今日子が行くってワケ? だったら初めっから言ってくれればよかったんだ、一緒の大学なんか受けないって」
「明日太がいるから行かないんじゃないわ。理由は一つじゃないもの。いろいろ考えて決めたんだもの。私のことだから、私が決めるのよ」
 四月まで、ぼくらは毎晩のように言い争っていた。…嘘だ、言い争いになんかならなかった。今日子は、聞き分けのない子供を諭すようにぼくに接した。最後には、ちっとも納得できないぼくを、憐れむように眺めるだけだった。
 どうして今日子は急に変わってしまったのか。彼女にとっては急ではなかったのかもしれない。だけど、それまでのぼくらは本当に仲がよかったのだ。血の繋がり以上に精神的な繋がりを信じていたぼくはなんだったのだろう。今日子の考えていることは全てわかっているつもりだった。
 突然に大人ぶり始めた今日子をぼくは激しく憎んだ。


 割り切れない思いを抱えたままで、始まった新しい生活を楽しむ余裕なんて、ぼくにはなかった。
 新しい友人も見つけられず、講義のほうもまだ登録の締め切りに間があるせいもあってガイダンスだけで終わってしまうので、ぼくはただ時間を持て余していた。
「きみっ! きみきみきみっ! そこのグレーのパーカーの可愛いコちゃん!」
 入学式からしばらくは、クラブや同好会の勧誘がしつこく、まともに構内を歩けない。どう見分けるのか、新入生というのはすぐにわかってしまうらしい。楽しくクラブ活動という気分ではなかったから、ことごとく無視して歩いていたが、その日はとにかく声のデカイ奴につかまってしまった。『可愛いコちゃん』などと呼びかけられて、思わず足を止めてしまったせいだ。
「知らん顔して行っちゃうなんてヒドイなあ」
 前に回り込んで来た上級生は、無遠慮にぼくを眺めて、言った。
「きみ、すごく背が高いねー。モデルになれるんじゃないの?」
 ぼくの身長はせいぜい170センチどまりで、とても『すごく背が高い』とは言えなかったから、ぼくは呆気にとられて、相手の顔を見た。だいたいそう言う彼自身、ぼくと同じくらいの身長だ。そんなぼくに斟酌せず、彼はさっそく勧誘の言葉を並べた。
「あのさ、まだクラブ決まってないよね? ウチは、いちおうワンゲルなんだけどね、実際はなんでもアリなんだ。テニスとかスキーとかもOKだし。あ、ワンゲルってわかんないかな? ワンダーフォーゲル、山岳部ってとこ」
 にこにこと人懐こい笑みを浮かべる相手にぼくは「はあ」と頼りない相槌を打った。初対面の人間によくもここまで愛想よくできるものだと感心し、それをうらやましくも感じた。
「山岳部ってむさいイメージじゃない。やっぱ女の子に入ってほしいんだけどさ。正直言って、きみみたいに目立つコなら、いい宣伝になるんだよね。一人で入りづらかったら、友だちも誘ってさ」
 ここに至って、ようやくぼくは自分が女の子に間違えられていることに気づいた。
「あのー、すいません、ぼく男です」
 ようやく口を挟むと、上級生はひどく驚いたらしかった。
「ええっ! …っと、ごめん! や、失礼、てっきり……ごめん。ごめんごめん! 勘違いして」
 彼の慌てようがおかしくて、ぼくは思わず吹き出していた。
「いいですよ。女の子に間違えられるなんて初めてだけど、別にそんな謝ってもらわなくても」
「いやー、ごめんねー。なんでだろ、女の子だと思い込んじゃったんだよね。背の高いモデルみたいなコだと思って」
 上級生は屈託のない笑顔を見せ、ぼくもつられて笑った。
「ほんとごめん。でもさ、ワンゲル入らない? 全然厳しくないし、人数多いし、楽しいと思うよ。どうかな?」
「…入ろうかな」
 この明るい上級生のおかげで、少し憂鬱な気分をとばしてもらったぼくは、『ワンゲル』に入部する気になっていた。
「ほんと? じゃ、向こうで受付やってるから、行こう」
 立て看板の並んだ、入部受付コーナーのなかで、ワンダーフォーゲル部には、それなりに人が集まっているようだった。女の子も多いようで、きゃっきゃとはしゃぎながら受付をしている。その机のそばに背の高い男が、所在なげに立っていた。ぼくを勧誘した上級生は、彼に声をかけた。
「妹尾。お前、客引きはもちっと愛想よくしてくれ」
「先輩。新入生の俺がなんでこんなことしなくちゃなんないんですか?」
「まあまあまあ」
 上級生は彼を宥めて、ぼくを引き合わせた。
「ほら、入部希望の…えっと、名前は?」
「佐古です」
「佐古くん。こっちは同じ一年生の妹尾くん。ちなみにぼくは、新城。はい、よろしく」
 新城さんは、無理やりに三人で握手させ、ブンブンとぼくらの手を振り回した。
「じゃ、ぼくはもう一度勧誘に回るから、妹尾、佐古くんの受付やってあげてよ」
 と言って、新城さんは消えた。
 残されたぼくらは、女の子たちで混雑している机を見やり、もう少し待つことにした。
「妹尾くんは、早くにワンゲルって決めてたの?」
「まさか。新城さんが高校の先輩でさ、無理やりだよ、無理やり」
 妹尾くんが顔をしかめて、ぼくは笑った。
「しかも、客引きなんかやらされて、ずっとあそこに立ってろって、冗談じゃねえよ」
 ルックスのいい彼はきっといい宣伝なんだろう。それで女の子たちが寄ってくるってわけだ。妹尾くん自身は、そんな自分の外見になど無頓着な雰囲気で、ぼくは好感を持った。
「もう、取る授業決めた?」
「いや、まだ。そんなすぐは決まんないよ。そっちは?」
「同じく。妹尾くんは学部どこ?」
「法学。佐古は?」
 そんな他愛のない話題で、ぼくらはすっかり打ち解けた気分になった。妹尾多貴は、話すときには真直ぐこちらの目を見るのが癖らしく、少し圧迫感を覚えるほどだった。


 ワンダーフォーゲル部に入ったおかげか、少しずつぼくは大学に馴染んでいった。週2回の活動日は、その日の最終授業が2回とも、妹尾多貴と同じ一般教養の講義だったので、いつも連れ立って部室に行くことになった。多貴とは、同じ学部に友人ができてからも、大学での初めての友人という意識があるせいか、何かと行動を共にすることが多かった。
 ワンダーフォーゲルの新入部員は、新城さんの勧誘の巧みさもあってか、50人を越え、顔を覚えるのも困難なほどだった。しかもそのうちの半分以上が女子だった。
 一カ月も経たないうちに、新入部員の中でも、まとめ役というか、主流グループができたが、ぼくも多貴も見事にそこから外れていた。多貴は、意外にもとっつきにくいと思われることが多く、また彼自身けっして愛想がいいほうでもないことが、そのうちぼくにもわかってきた。一生懸命に話しかけてくる女の子たちに、まともな返事も返さないことが、みんなの反感を買ってしまうらしい。ぼくと多貴はすっかりワンセットと見なされていたから、ぼくもあまり女の子たちには相手にされなかった。
 それでもぼくには気になる女の子ができた。英文科の沢井柚里は、とりたてて目立つところもないコだった。話す時には、少し顔を赤くして伏し目がちになった。ヘンに意識されているようで話しづらいと避ける奴もいたが、ぼくは好感を持っていた。それを多貴にも伝えて、コンパの時などには何げなさを装って彼女の近くに陣取るようにした。
 人気のある、打てば響くような軽快な女の子たちとは少し違ったが、柚里との会話は楽しかった。柚里もぼくの好意を感じていたのだろう、やがて打ち解けるようになった。
 ぼくが柚里に告白したのは、初めて3人で海に行ったときだった。まだ梅雨明け前で、小雨がパラつく、完全に見込みちがいの寒い日だった。服の下に着込んでいった水着になることもできず、ぼくらは砂浜をウロウロしていた。多貴だけが、意地でも泳ぐと言って一人海に入っていき、柚里を笑わせた。
「水温のほうが高いから、けっこう平気だよ。二人とも来いよ」
「悪いけれど、遠慮する」
「風邪ひいても知らないから」
 ぼくらが手を振ると、多貴は大仰に舌打ちして、沖にむかって泳ぎ始めた。
「うわー。本気なのかな」
「絶対、唇紫にしてあがってくるわよ。妹尾くんて意地っ張りね」
 残されたぼくらは、堤防まで戻って、並んで座った。
「せっかく来たのに、こんなに寒くて残念だな」
「でも、楽しいからいいわ」
 本当に楽しそうに笑いながら、柚里がぼくを見た。多分それが、初めて見た柚里の真直ぐな視線だった。
「ぼくは沢井さんを好きだよ」
 すんなりと言葉が出てきた。
「付き合ってくれないかな」
 柚里は少し真顔になって答えた。
「いいわ」
 やがて、多貴が海からあがってきて、ぼくらは、波打ち際まで歩いていった。多貴は、近づいたぼくらのつないだ手を見て、悟ったようだった。いきなり、手をのばしてぼくの鼻をつまんだ。
「いてっ。もう、何すんだよ!」
 ぼくが抗議すると、多貴は高笑いして、シャワーを借りてくると背を向けた。
「もう、何だよ、あいつ」
 多貴の背中に思い切りしかめ面を送ると、となりの柚里がくすくす笑った。


 あのまま時間が止まればよかったのに。あとからぼくは何度もそう思い返すことになった。





 ぼくと柚里が付き合い出しても、相変わらずぼくたちは三人で行動した。遊園地や美術館に三人で出かけた。どこにも出かけない日には、たいてい多貴の部屋にいて、何をするでもなく終日過ごした。
 夏季休暇が終わると、十一月の学祭の準備に追われることになった。ワンダーフォーゲル部は毎年学祭で甘味喫茶をやることになっていた。一応の会議はあったが、他の部との兼ね合いもあって、今年も同じということで決まった。そしてこれも毎年恒例ということで、一年の男子が女装して接客をさせられることになった。もともと学祭で出る喫茶関係のもう一つが茶道部だったので、男ばかりの山岳部はゲテモノでアピールをしようと始めたらしい。ワンピースとは名ばかりの、布を長方形に縫っただけの貫頭衣が二十枚程度、部室に保管されているのだった。いつもなら、二年生もその役をしなければならないところだったが、今年は一年だけで十分な人数で、ポラロイドカメラを使った指名表まで作るという話になった。
 学祭初日、ぼくと多貴の指名率はかなり低かった。二人の化粧をしてくれたのはもちろん柚里で、多貴はかなり迫力のある美人になってしまい、写真ではウケたが、接客などできるわけもない性格のせいで、うっかり指名してしまったらしい客は、早々に帰って行った。ぼくはといえば、多貴とは反対に地味に仕上がって、ほとんどの客の目に止まらないという有り様だった。実際、友人でもなければ指名がかかることはほとんどなかったし、前売り券を押し付けておいたクラスメイトたちも、化粧をしたぼくが相手では、落ち着かない様子ですぐに行ってしまった。初日の午後に新城さんが顔を見せたとき、ぼくたちは入り口の脇で所在なく立っていた。新城さんは、多貴の格好を見て大袈裟に吹き出した。
「妹尾、すっごい美人じゃん。スーパーモデルみたいだなあ。ちょっと歩いて見せてよ」
 午前中の接客で、すでに疲れていた多貴は、
「やめてくださいよ」
と、もろに不機嫌な顔で手を振った。
「どうしたの?」
「ちょっとぼくたち、全然人気なくって」
 ぼくは肩を竦めてみせた。
「えー、そう? 二人ともばっちりキレイドコロじゃん」
 新城さんはそう言って笑うと、案内係の女の子に
「ぼく今はお客ねー。喉渇いたから何か飲ませて。そいで、指名は妹尾と佐古」
 と声をかけて、空いているテーブルに座った。
「ダメだねー、君たち。ぼくなんかすごい売れっ子だったのに」
「向き不向きがあるんですよ」
 取り付く島もない感じで、妹尾が応える。
「ほら! ぼくお客なのにそういう言い方する。『何にしますか』って、メニューくらい広げなきゃ」
 次いで、新城さんはぼくの顔を見た。
「佐古くん、ちょっとハマリすぎだよ。誰に化粧してもらったの?」
「二人とも沢井さんに」
「沢井さん、化粧うますぎ! 佐古くんちょっとマジでかわいくて、こっちが居心地悪くなっちゃうよ。もっと濃くしてもらえばよかったのに。それじゃ写真には全然出てないしさ」
 ぼくの顔はナチュラルメイクというのか、自分でもあまりにも自然すぎる感じはしていたのだ。ノリのいい奴らは自分たちで鬘まで用意していたが、ぼくたちは化粧して、渡されたワンピースを着ているだけだった。
「明日は少し変えてもらいます」
 ついでにスカーフでも借りて頭に被ろうかと思いながら、ぼくは言った。
「沢井さんは今日はいないの?」
「今日は当番じゃないんで、朝、ぼくらの化粧をしたら、どこか行っちゃいました」
 実際のところ、今日はいつにもまして不機嫌な多貴と二人残されて、ぼくは困惑していた。薄化粧とは言え、顔に塗られたファウンデーションは、膜を貼られたようで、馴染みのない感触にぼく自身も苛々していた。
「じゃあさ、もう二人は呼び込み! 構内一周しておいで」
 新城さんはパンと手を打った。
「この格好で?」
 ぼくらは異口同音にハモったが、新城さんは頓着しなかった。
「学祭だよ? もっとスゴイ奴いっぱいいるって! 第一目立たなきゃ呼び込みの意味ないし」
 ぼくたちは券を持たされ、外に追い出された。あてもなくブラブラと歩きだしたが、学祭というお祭り騒ぎの中では、ぼくらの格好もそれほど奇異に映らないのは確かだった。それでも、こちらにチラチラと目をやる高校生らしい女の子の集団がいたので、ぼくは意を決して声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちはー」
 きゃあきゃあと歓声交じりに女の子たちが答える。
「ぼくたち、『峠の茶屋』って喫茶店やってるんだけど、来てくれない?」
「えー、どうしよう?」
「いいじゃない。そろそろ喉が渇いたでしょ? ぼくたちみたいなお兄さんの接待つきだよ。面白いと思うけど」
「どうする?」と口々に言い合う女の子たちに畳みかけるようにしゃべった。多貴は相変わらずの仏頂面でほとんど口をきかず、「こっちのお兄さんコワーイ」と言われる始末だった。女の子たちは券を買ってくれ、ぼくは会場にしている教室の場所を示して送り出した。騒ぎながら彼女たちが行ってしまうと、ぼくは多貴をこづいた。
「もう! ちゃんと営業しろよな」
 そのとき、綿アメ屋の前で友人と一緒の柚里が手を振っているのに気づいた。ぼくたちが近づくと、柚里はけらけらと笑った。
「やだー、妹尾くん、遠くから見るとすごい美人なのに、近づくとおっきいんだもん。コワーイ」
「ふざけろよ。沢井の化粧、評判悪いよ。俺も佐古も人気なし。おかげで呼び込みに回された」
「えー、私のせい? 明日太、かわいいじゃない。ほんとにお姉様みたいだよ」
 ぼくは肩を竦めた。
「かわいすぎてダメだってさ。コンテストじゃないんだからさ、笑えるほうがいいんだよ」
「笑えないねえ。ほんとにキレイになっちゃって。一緒にいたらドキドキしちゃうでしょ、妹尾くん?」
「うるせえよ」
 柚里がふざけて顔を覗き込むと、多貴は邪険に手を振った。他の人には一歩引いているようなところのある柚里が、多貴にだけはいつも気のおけない様子で、ぼくにはそれが少しだけ悔しかった。

 二年目の夏が終わる頃から、柚里の様子がおかしくなった。ぼくが何かに誘うたび、必ず「三人で?」と聞き返した。些細なことで苛立つようだった。ぼくには柚里の変化が理解できなかった。
 そんな頃、家では突然今日子の結婚話が持ち上がっていた。それはちょっとした騒動だった。相手は、二十歳以上も年齢の離れた子持ちだというのだ。今日子が家庭教師をしていた子供の父親ということだった。家庭教師といっても母親のいない女の子の相談相手のようなものだとは聞いていた。
 それがいきなり短大を卒業したら結婚するという話になってしまった。
 ぼくは連日家に電話しては、要領を得ない母の説明に苛立った。説明する母自身も事態がよく飲み込めないらしかった。
――お正月にみんなで食事をしましょうって言うのよ。でもどんな態度をとるべきか、私にはわからないわ
「ぼくは反対だよ。今日子は何を考えてるんだ? いきなり結婚なんて非常識もいいところじゃないか」
――でも、相手の方がどんな人かもわからないのよ
「四十過ぎの子持ちなんて、反対する理由としては十分すぎるよ」
――今日子の決めたことだから
 母は最後に必ずそう言った。ぼくはただ悔しかった。勝手に結婚を決めた今日子にも、いつのまにか納得しかけている両親にも腹を立てた。



 十二月に入ると突然、柚里が一年休学してイギリスに留学することを決めたと言い出した。それは相談も予告もない宣告だった。
「どうして急にそんな」
「急にじゃないわ。行けるとしたら今しかないと思うもの」
 柚里がイギリスに憧れていることは知っていた。一見不似合いにも思えるブリティッシュ・ロックが好きで、マイナーな映画によくぼくらを誘った。けれどぼくの目には、それはありがちなミーハーと軽く見えていたのも事実だ。「イギリスに行きたい」という柚里の言葉は単なる口癖だと思っていた。彼女が本気で留学を考えているなんて想像もしていなかった。
 ふいに柚里との距離を感じた。事前に相談してほしかったというのは、ぼくのエゴなのだろうか? 柚里の行動に口をはさむ権利は、ぼくにはないのか。彼女にとって、ぼくの存在はそんな意味を持たないのかもしれない。そんなふうに考えたら、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 黙り込んだぼくを柚里が真っ直ぐに見た。
「準備があるから、冬休みになったらなかなか会えなくなるわね」
 ぼくの内心の思いなど斟酌することのない、まるで屈託のない口調だった。一瞬責められたように感じたのは、馴染みのない真っ直ぐな視線のせいだろう。念願のイギリスに浮き立っているらしい柚里にぼくは小さくため息をついた。
「じゃあ、壮行会をしよう。多貴と三人で飲もうよ」
「そうね」
 ぼくが少しためらった「三人で」という言葉にもこだわりを見せず頷いた。



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