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愛は裸眼で0.05-1-



 立ち読みしていたマンガ雑誌をほぼ読み終える頃、自動ドアの音が聴こえた。
「いらっしゃいませ」
 すかさずかけられた真帆の声にそちらに顔を向けると、入ってきたのは見覚えのあるサラリーマンだった。いや、本当にサラリーマンかどうかは知らない。中肉中背の、たいして特徴のない中年男。地味なスーツだからサラリーマンだろうと思っているだけだ。俺が駅前のコンビニでアルバイトをしているガールフレンドの真帆の仕事が終わるのを待っていると、必ず現れて、惣菜だの弁当だのを買い込んでいく。あの歳で独身なんだろうか。いつ見ても不機嫌な面で、コンビニの赤い買い物カゴがひどく不釣合いだった。
「こちらは温めますか?」
 清算のレジで真帆の問いかけに、黙って首を振る。毎回断られるんだから、訊いてやることないのに。
 自動ドアの手前で一瞬視線がこちらに来て、俺は慌てて顔を伏せた。次の瞬間にはドアの音。



 真帆とはつき合い始めて一ヶ月くらい経っていた。そろそろエッチしてもいい頃合だとタイミングを図っているところだ。いつも真帆のバイトが終わる頃に待ち合わせて、その後彼女の部屋に行っている。今のところは借りてきたビデオを一緒に観たりしておとなしく帰っていた。もしかしてヴァージンかもしれないから、あせりは禁物だと自分に言い聞かせる。
「ね、宝地戸くんがいる時にさ、いつも来る人いるじゃない? 今日も来た人。あの人、渋くてちょっとかっこいいよね」
 俺専用のマグカップに注いだ紅茶を手渡しながら、真帆が言った。あのサラリーマンのことだとすぐにわかった。ニコラス・ケイジやジャン・レノならいざ知らず、貧相なただの中年のどこがかっこいいんだ。
「ああ、あの中年」
 俺があっさり言い捨てると、真帆は不満そうに返した。
「まだ三十代くらいじゃない」
「十分おっさんだろ。ふーん、真帆ってジジコン? それとも俺にヤキモチ焼かせたいんだ?」
 俺の言葉に真帆は黙り込んだ。
「なんだよ?」
「宝地戸くんて、いつも自信満々なんだよね」
 真帆の言い方には非難するような響きがあって、俺は鼻白んだ。恋人に他の男をかっこいいと言われて、何と返せというんだ。まさか一緒になって「かっこいいな」と頷けばいいのか。
「そういうとこ、ちょっとついていけない」
 そんなふうに言われて、俺も少しムッとした。
「あっそー」
 真帆は女子大の一年生で、十月にあったうちの大学の学祭で知り合った。最初はニコニコと可愛らしい感じだと思っていたのに、時々生意気な面を見せるようになった。そういう態度を取られるとこちらもつい不機嫌になってしまう。せっかく可愛いんだからもっと素直にしてればいいのにと思う。
 結局その日もエッチはできなかった。
 次に真帆のコンビニに行くと、真帆のバイト仲間につかまってしまった。
「ねえねえ真帆の彼氏なんでしょう?」
 交替の時間になって一緒に帰ろうとすると、レジをやっていた女が、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「いっつも真帆から話、聞いてたのー」
「チカちゃん」
 真帆が困った顔で俺を見上げた。そこに例の中年がペットボトルと弁当を手にやってきたが、女がしゃべっているので、もう一つのほうのレジに移った。真帆と交替したのはおとなしそうな高校生のバイトで、黙ってレジを打ち始めた。
 チカと呼ばれた女は真帆と同い年だといって、ペラペラとしゃべり続けた。その日は店長や年輩の店員がいないようで、すっかり羽根を伸ばしているらしい。
「宝地戸くんて、変わった苗字だよね」
 チカが言うと、財布から金を出しかけていた中年がパッとこちらを見た。きゃっきゃとはしゃぐ声が耳障りなんだろう。俺もあんまり面白くない。
「そうかな」
「学校に他に同じ苗字の人、いる?」
「いないと思うけど」
 俺は素っ気なく返した。正確には確実に一人いる。だがこんな女相手に面倒な話はしたくなかった。
「**大学なんでしょ。頭いいね」
 さすがにイライラしてきた。真帆と同じバイトをしているからって、この女は俺には何の関係もない。やけに馴れ馴れしい奴は苦手だった。
「チカちゃん、ごめんね。私たち、もう行くから」
 俺が苛立っているのを察したらしい真帆が、チカのおしゃべりを遮って、俺を促した。真帆がバイバイとにこやかに手を振ると何も感じていないらしいチカは「じゃあね」と平然と見送ってきた。
 コンビニを出るとさっきの中年が立っていた。
「話がある」
 通り過ぎようとしたところをいきなり呼び止められて、驚いて男の顔を見た。中年の視線は、真帆ではなく真っ直ぐに俺をとらえていた。やけにキツイ目で睨みつけてくる。
「なんですか」
「俺は三輪だ」
 そんな名前に心当りはない。眉をひそめて見返してやった。
「三輪倫子のことで話があると言えばいいのか」
 イライラと言葉を継いだ中年、三輪は、チラリと隣の真帆を見た。
「とにかくここじゃ話せない。つき合ってもらう」
 俺はその強引さに抗議の声をあげた。
「ちょっと待ってくださいよ。なんか勘違いしてるんじゃないですか」
 知らない名前を並べられて、人違いでもされているとしか思えない。落ち着いてもらおうと、なだめるように丁寧な言葉を使ったが、三輪は俺が何か言い逃れようとしていると取ったらしい。
「ごまかそうとしてもそうはいくか」
 頑固に言い張る三輪に、俺はため息をついて、真帆に言った。
「なんか知らないけど、インネンつけられたから、ちょっと話聞いてくる。先に行ってて」
「大丈夫なの?」
 真帆は心配そうに訊いてきた。
「平気だろ」
 相手は俺と体格も変わらないただの中年だ。腕力なら若さの分だけこっちが有利なはず。ケンカになったところで負けることはないだろう。
 真帆をその場に残して、三輪は俺を少し離れた場所にある月極の駐車場に止めてあった車に連れ込んだ。どこかに連れて行かれるようならやばいと思ったが、エンジンをかけたりはしなかった。
「きみは一体どういうつもりなんだ? あの女の子とつき合ってるんだろう。倫子のことは冗談だったとでも言うつもりか」
 なじられている内容がよくわからない。そもそも倫子って誰なんだ。俺のクエスチョンマークが目に入らないのか、三輪は一人で言い募った。
「きみの気持ちが一時的なものなら、俺は倫子とは別れない。あいつが目を覚まして帰ってくるのを待つ」
「ちょっと待てよ、おっさん」
 俺は呆れて遮った。
「あんたの言ってることは何がなんだかわからない。俺にわかるように説明しろよ」
「倫子は、俺に離婚してほしいと言っている。アパートを借りて家を出て行ったよ。まさかきみが知らないわけはないだろう。倫子はきみとつき合うから俺と別れると言い出したんだから」
 三輪はイライラとハンドルの上部を指で叩いていた。倫子というのは三輪の奥さんのようだ。ようするに俺は三輪の奥さんが家を出た原因と勘違いされているらしい。
「倫子って、俺、そんな人知らないよ。だいたいあんたの奥さんなんだろう? なんで俺とつき合うんだよ。俺、学生だよ。そんなおばさん知るわけないじゃん」
 三十半ばを過ぎているであろう三輪の妻が、まさか十代とでもいうんだろうか。
「…だから言ったんだ。そんな年下の男が本気のはずないって。なのに倫子は聞かなかった」
 三輪は苦々しげに呟いた。どうあっても俺がその相手だと思い込んでいる。
「俺じゃないっつってんだろ! 本当に知らないよ、そんなの。もともと俺の好みは年下だよ。騙すにしたって絶対おばさんには手は出さない」
 はっきり言って年上になんか全然興味がない。
「**大学の宝地戸というのはきみなんだろう?」
 確認されて「まさか」と頭に浮かんだことがあった。**大学の宝地戸は、俺の他にもう一人いる。でもまさかそのもう一人がそんなおばさんとつき合っているわけじゃないよな。
「ちょっと待ってくれ。もしかして、あんたの言ってるのは、まさか幸宏のことじゃないだろう?」
 ぽかんと俺を見返した三輪の顔がそうだと言っていた。おいおい待てよ、本当に幸宏なのか。幸宏がこんなおっさんの奥さんとつき合っているっていうのか。
「きみは、宝地戸幸宏くんじゃないのか?」
「俺は亮介だよ。宝地戸亮介。幸宏は弟だ」
 俺の言葉に三輪は混乱した声を出した。
「おと…弟って。待ってくれ、きみは何年生だ? まさか倫子はきみよりもさらに若い奴と…」
 俺はため息をついた。
「双子だよ。俺と幸宏は双子なんだ。だからどっちも二十歳」
 かえって弟の幸宏のほうが大人っぽく見えるらしいから、あいつに会えば三輪は納得するだろうか。だがいくら幸宏が大人っぽいと言ったって、このおっさんの奥さんとでは釣り合いがとれるわけがない。
「俺、そんな話知らなかった。どういうことなんだか、ちゃんと教えてくれないか」


 三輪から話を聞いた俺は、真帆のアパートには行かず、家に戻った。三輪の車で送ってもらったのだ。
 三輪の奥さんは突然他に好きな相手ができたから離婚してほしいと言ったらしい。その相手が大学生だと知らされた三輪は、奥さんを止めたが、彼女は家を出て行ってしまった。きちんと記入され三輪の判を押すばかりにした離婚届が送られてきたが、三輪はまだ彼女が帰ってくるのを待っている。
 話しているうちに俺はなんだか三輪に同情を覚えていた。
「ごめん、俺の弟が」
「きみのせいじゃないさ。勘違いして取り乱したところを見せてみっともないな」
 三輪は自嘲したが、俺は三輪をみっともないとは思わなかった。落ち着いた声や物腰を大人だと感じた。
 家に着いて真っ直ぐに幸宏の部屋に向かいドアをノックすると、その日は幸宏も家にいた。大学に入ってから、俺も幸宏も家にいることはあまり多くはなく、顔を合わせるのも久しぶりな気がした。
「ユキ、おまえ、十二歳も年上の女とつき合ってるって、本当か?」
 三十七歳だという三輪の妻、倫子は三十二歳だった。
「誰に訊いたの?」
 何かの予習をしていたらしい幸宏は、椅子に坐ったまま静かに俺を見上げた。双子といっても、俺と幸宏はあまり似ていない。幸宏はどちらかといえばおとなしくて真面目なタイプで、俺より大人っぽく見られることが多かった。
「マジなのか? 俺、その女のダンナに、おまえと間違われたんだよ。なんでそんなことしてるんだ」
「なんで、って、それ、どういう意味?」
 俺の問いに幸宏はちょっと唇を噛むようにして問い返してきた。
「お前とつき合ってるから離婚するって聞いた。どうするつもりなんだ?」
「卒業したら結婚したいと思ってる」
 幸宏は真っ直ぐに俺を見て答えた。
「本気で、本気でそんなこと言ってるのか? 相手は十二も上なんだろう」
 呆れて首を振る俺に、幸宏は唇を歪めた。
「亮ちゃんにはわからないよ」
「ああ、わかんないね。なんでそんなおばさんとつき合う必要があるんだ。普通に可愛い女の子とつき合えば誰にも迷惑かけないだろう」
 あの三輪って男が可哀そうじゃないか。
 幸宏は小さくため息をついた。
「亮ちゃん、俺、亮ちゃんのそういうところが嫌だと思う。本気で誰かを好きになったこと、ないんじゃないの?」
 なじるような幸宏の言葉が癇に障った。
「つまんないこと言うなよ。ユキより俺のほうがずっと経験あるだろ」
 大人っぽく見えても幸宏が俺よりオクテなのは間違いない。女の子に好意を寄せられてもどうしていいかわからなくて戸惑っているようなところを何度も目にしてきた。
 幸宏は俺から視線をそらした。
「そういうことじゃない。いいよ、亮ちゃんにはわかんないんだよ」
「知ったふうな口、きくな。三輪さんに悪いと思わないのか? あの人、きっと傷ついてるぞ」
 ほんの少し話しただけだが、俺には三輪がそんな仕打ちを受けていい人には思えなかった。真面目で誠実そうだった。それなのに奥さんに出て行かれて、毎晩一人でコンビニ弁当を食べているんだ。想像したらなんだかたまらないくらい可哀そうになった。
「…わかってるさ。ごめん、俺、風呂入ってくる」
 幸宏は立ち上がり、俺を残して部屋を出て行った。子どもの頃は何をするんでも一緒だったのに、いつからか俺と幸宏の間には会話が少なくなっていた。



 いつものように真帆のコンビニに行く途中で、偶然駅から出てくる三輪を見かけた。どうやら電車で通勤しているらしい。それで真帆のいるコンビニで買い物をして家に帰るんだ。今日も寄るだろうと思ったのに、三輪はコンビニの前を素通りして行った。もしかして俺と会うのを避けたんだろうか。
 俺は何も考えずに三輪を追いかけた。ドラッグストアの先で追いついた。
「三輪さん」
 走って追いかけた俺が、勢いのまま腕をつかんでしまったので、俺の声に振り向きかけた三輪は大きくよろめいた。
「あっ、あ、あ」
 左目に手をやって、あせったような声をあげる。
「コンタクトがはずれた」
「ええっ」
 俺は慌ててしゃがんだ。
「きみ、宝地戸くん」
 同じようにしゃがみこんだ三輪が俺を確認してきた。俺は横顔のまま「ごめん」と謝った。
「まさかコンタクト落とすなんて思わなかったんだ。目の中に残ってないの?」
 俺の言葉に三輪は目を閉じて探ってみせた。ドラッグストアからの眩しい蛍光灯の光に照らされたしかめ面が、ヘンに色気を見せていた。三輪を渋いと言った真帆の言葉に、今なら頷いてやってもいい。
「多分、なさそうだ」
 三輪は呟いて、コンクリートの地面を手で撫で始める。
「目、すごく悪い?」
 一緒に探しながら、俺は三輪の横顔を窺った。白い光に縁取られて、やっぱりキレイな顔立ちをしていると確認した。
「裸眼だと0.1ないんだ。0.05くらいかな」
「げっ」
「障害者手帳がもらえるよ」
 仕方なさそうに笑ってみせる。
「見つからないと、困るな。片目じゃ運転できない」
 地面に目を戻した俺の視界でちらっと光るものがあった。ビンゴ。俺はそっと拾い上げ、三輪を振り返った。三輪はこちらに気づかず、地面を撫で回している。それを見て、とっさに俺は見つけたレンズを口に入れていた。舌下に挟み込み、何食わぬ声をかけた。
「なあ、見つけるのは無理じゃないか。夜だし、探しようがないよ」
 少し不自然な口調になったかもしれないが、三輪は気づかなかった。
「ないと困るんだ。眼鏡も持って来てないし」
「俺、免許持ってるよ。オートマだろ? 運転してってやるよ」
 通行人の何人かが足を止め始めていた。余計な声をかけられる前にと、俺は三輪の腕をつかんで立たせた。
 左目を手で押さえて、右目だけで危なっかしく歩く三輪に、俺は肩を貸した。身長は多分同じくらい。三輪の年齢なら長身と言えるのかな。
「眼鏡、似合いそうじゃん」
 俺は三輪にそう言ってみた。理系っぽい雰囲気があって、理知的な顔をしているから、銀縁眼鏡がはまりそうだ。
「度が強すぎてダメなんだよ」
 俺は三輪の車を運転して、彼の家に向かった。
 三輪の家について居間でコーヒーを勧められた俺が、口からコンタクトを出して見せると、三輪は呆れて言葉もないようだった。
「…何を考えているんだ?」
 ややあって首を振りながら訊ねてくる。
「俺、あんたの家に来てみたかったんだ。倫子さんの写真、あるんだろう? 幸宏がどんな人とつき合ってるのか、知りかったんだよ」
 幸宏の恋人としてより、三輪の妻としての倫子に興味があった。どうして倫子は三輪を捨てたのだろう。
 洗面所でコンタクトをはめた三輪は、黙って写真立てを持ってきた。女性と寄り添う三輪が写っている。眩しげに眇められた眼差し。前髪が額にかかっていて、ずいぶん若く見える。全身が写っていて、バランスのよい体型だと思った。しばらく三輪ばかりに目がいっていて、それから隣の女性に視線を移した。これが倫子。小さく微笑みを浮かべている。だがそれだけだ。特に印象に残りそうなところもなく、例えどこかですれ違ったとしても俺にはわからないにちがいない。
「ありがとう」と返すと三輪は無言で受け取り、テーブルに伏せて置いた。俺は出されたコーヒーを飲み始めたが、三輪は何も言わなかった。手元のカップに視線を落としている。
「怒ってるのか?」
 俺は三輪の顔色を窺った。騙して家に押しかけてきた俺を怒っているのだろうか。
「ごめん。俺、ただ…」
 うまく言い訳できなかった。自分の行動の理由が自分でわからない。俺を見た三輪に、目だけで許しを乞うと「いいよ」と三輪はため息をついて、ふと思いついたように言葉を続けた。
「そうだな、その代わり夕食につき合ってくれないか。たまにはまともに料理したものを食べたい」
「そうだよ。三輪さん、コンビニ弁当ばっかじゃ身体によくないよ」
 勢いよく頷いてみせると、三輪が苦笑した。
 そして俺たちは買い出しに出た。
「一人で料理する気にはなれなかったんだ」
 夜十時まで開いているという郊外のスーパーに向かう車の中で、三輪が言った。
「三輪さん、料理できるんだ? 俺もうまいよ。家庭科の評価、5段階の4だったもん」
 自分が妙にはしゃいでいるという自覚はあった。だが抑えられない。俺の言葉が三輪の笑みを引き出すとひどく嬉しかった。
 とりあえずイタリアンと決めて、手当たり次第食材を買い込んだら、外食のほうが安く済んだくらいだった。
 三輪の家に戻り、二人で大騒ぎしながら調理した。俺のテンションが感染したように、三輪も楽しげだった。メインのパスタに野菜のスープ、サラダとマリネのほかに魚もソテーした。すべてが出来上がったのは真夜中近かった。
「なあ、二人でレストランを開かないか」
 テーブルの上の眺めに満足して俺は言った。
「料理が出てくるまでに二時間もかかるようなレストランじゃ、客は来ないよ」
 三輪の切り返しに声を上げて笑いながら、それでも三輪と店を持つことを本気で魅惑的なアイディアと感じている自分がいた。悪くない夢想だった。
「乾杯」と言って軽く上げたワイングラスを口に運ぶと、切ないくらい幸福な気持ちが盛り上がった。そんな自分に困惑する。どうしたんだ、俺。
「俺、なんだか腹がいっぱいなんだけど」
「味見とか言って、先につまみ食いし過ぎたんだろ。俺も腹が空いたの通り越してるから、こんなに食べ切れそうにないな」
「ダメ。三輪さんはちゃんと食べろ」
「人にばっかり押しつけるなよ」
「なんだよ、俺はお相伴だもん。三輪さんが食べなきゃダメだ。な、せめて俺の作ったパスタは残すなよ。マリネは後で食えるだろ」
 三輪に「うまい」と言ってほしかった。
 食べているうちに、三輪の奥さんの話になった。俺が「訊いてもいいか」と訊ね、三輪が話してくれた。三輪は、どうして倫子が別れたいと願ったのかわからないと言い、俺にもわからなかった。三輪はいい男だ。何故こんな男と別れる気になったんだろう。
「きっと倫子には、俺がつまらない男に思えたんだろうな」
「そんなこと言うなよ」
「それでも俺は倫子を待っていたんだ。あいつが帰る場所を残しておいてやりたかった」
 三輪は大人だ。他の男に走った妻の帰りを待つなんてことがどうしてできるんだろう。三輪と較べたら、俺が真帆としていることは、恋愛ゴッコ、ただの遊びに思えた。
 結局作った料理のほとんどが残ってしまった。それらを冷蔵庫にしまいながら、俺は冗談めかして言った。
「これ、三輪さん一人じゃ食べ切れないね。明日も俺、食べに来ようか?」
「そうだな」
 皿を洗う手を止めることなく三輪は俺の言葉を軽く流した。まともに受け止めてもらえなかったことは、他愛ないくらい簡単に俺を傷つけた。
 その後、三輪の車で家まで送ってもらった。家に着いて車を降りようとシートベルトを外した時、三輪が独り言のように呟いた。
「離婚しようと思う。もう本当に倫子は帰って来ないだろう。あいつが望むなら、自由にしてやるべきなんだな」
 俺を見た三輪は、半分笑って半分泣いているような、頼りない表情をしていた。
 俺は手を伸ばして三輪の顎をとらえた。唇を重ねる。
 三輪は目を見開いて俺を見ていた。
 俺は自分の行動に自分で驚いていた。混乱したまま口を開く。
「大丈夫だよ。俺でさえキスしてもいっかなーなんて気になるんだからさ、これからいい女できるよ。どうせならもっと若いのにすればいいじゃん。向こうが大学生とつき合ってんだから、こっちも女子大生を相手にするとかさ」
 俺、何やってんだ? おっさんにキスするなんてどうかしている。
 三輪はハーと大げさなため息をついた。
「きみみたいな若い子の考えてることは本当に不可思議だな。子どもがいないのは幸いだったよ。俺にはきみらくらいの子が何を考えているか到底理解できそうにない」
「子どもって、俺が三輪さんの子ども? なんだよ、そこまで年齢ちがうかよ?」
 俺は何に傷ついているんだろう。
 降りて見送った車の、遠ざかって行くテールランプが胸に痛かった。



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