天体の回転-1-「戸田ですか?」 問い返した俺に本橋さんが頷く。昼下がりの研究室に院生の俺と研究員の本橋さんの二人きり。俺にデータ整理の手伝いを頼んできた助教授は、ものの五分も経たないうちに「おっとしまった、午後の授業があるのを忘れていた」と言い出し、唖然と見上げた俺が文句を言う隙も与えずに行ってしまった。彼の普段の態度を考えれば最初から狙っていたとしか思えず、またやられたと諦めるしかなかった。 部屋に二人きりの相手が妙齢の美女だけに少しは気にかかる状況とも見えるが、当の美女はまったく意に介していないようだ。平気な顔で学部生の噂話を始める。 「資料を借りにきたんだけど、なーんかやつれた顔してるんだって。助手の香枝ちゃんが心配してた。香枝ちゃん面食いだから、戸田くんがお気に入りだしね」 二年になったばかりの戸田が最近物思いにふけっているらしい。悩み多き年頃で、一年遅れの五月病だろうか。 「外山くん、戸田くんと仲良いでしょ。相談に乗ってあげたら?」 「仲良くないですよ」 俺は「残念ながら」と首を振ってみせた。 「何言ってんの」 本橋さんは丸く目を見張った。 「いや、俺は戸田を好きですけどね。なんかあっちには嫌われてるような気がしてんです」 「まさか」 「本当ですよ。俺、多分何かマズイことやったんじゃないかな。フィーリングは合うと思うんです。だけど時々妙な雰囲気になっちゃって」 楽しくお話していたはずがむっつり黙り込まれたりする。一度や二度なら偶然かとも思うが、俺の前での戸田の唐突な不機嫌は近頃頻発していた。 「外山くんて変わってるよね」 親指と人差し指で挟んだボールペンをブラブラと振りながら本橋さんは言った。 「は?」 「普通言いづらいことまでポロッと口にする」 机についた左手に顎を乗せて、やけにしみじみとした口調だった。俺としては「変わっている」という台詞はそっくり本橋さんに返したかった。表面だけに目を向ければ美貌の才媛と形容可能な本橋さんは、どこか浮世離れした雰囲気をまとっていた。それが学問だけに携わってきた間に培われた学者気質なのか生来のものなのかさえ不明だ。 「滅多な人には言いませんよ。本橋さん相手だから相談してるんです」 俺としても戸田の態度が気にかかっていたところだから、名前があがれば相談したくもなる。俺の言葉に本橋さんはひょいとボールペンの先を俺に向けた。 「それ、相談なの?」 「大上段に構えられると困るけど、相談っていうか愚痴ですね。人に嫌われてるっていい気持ちじゃないから。まして自分が好意を持っている相手だと特に」 俺は戸田を気に入っている。育ちのよさがにじみ出ているような生真面目な風貌で、素材はいいのに女の子受けがそんなに良くはなさそうなところが後輩としては好ましい。戸田が一年のころはうまくいっていたように思うんだが。 「外山くんは本当に変わってるわ」 本橋さんは肩をすくめた後で、ふいにキャスター付の椅子を滑らせて顔を近づけてきた。首筋に息がかかって、反射的に身をすくめる。 「ね、外山くん、私と付き合わない?」 「どこへですか?」 俺が問い返すと本橋さんはむっとした表情になって軽く睨んできた。 「もう! とぼけないでくれる? 恋人になりませんかってお誘いしてるのよ」 「本橋さん、彼氏がいらっしゃいましたよね」 本橋さんが助手や院生の女子と恋愛談義を交わしている場面に出くわしたのは、一度や二度ではない。本名は知らないが本橋さんが「ブーチャン」と呼ぶ彼氏とはずいぶん長く付き合っているようだった。本橋さんの話では聞く度に印象が違ってどんな人なのか想像もつかない。 「おりますよ。おりますけどね。おりますけどー、最近微妙なのよ。この際、外山くんに乗り換えようかなって」 ヒールの音を立てて床を蹴り椅子を滑らせて遊びながら、本橋さんは勝手なことを言う。 「やですよ、俺。トラブルは苦手ですから」 「トラブルにはしないわよ。じゃあちゃんと別れてきたら付き合ってくれる?」 俺の真横で椅子を止めて、本橋さんは真直ぐに俺の顔を覗き込んできた。大きめの目にきっちり引かれた青いアイラインが迫力を増していてちょっと怖い。最初は確かに冗談だったはずなのに、話の方向が少々やばめになってきた気がする。これ以上やばくなる前にオレはさっさと謝ることにした。 「あ、えーっと、すみません」 外見通りの気紛れなお嬢様に付き合って火傷なんかしたくない。友人としてなら気安くて付き合い易い相手だけに関係をややこしくするのは嫌だった。 「何それ。傷つくなあ。私のどこがダメ?」 まったくダメージなど受けていないような顔。大人だからごまかし方を知っているのか。 「本橋さんがダメってんじゃなくて、ほら、俺と本橋さんだと、いかにもじゃないですか」 「いかにもって何?」 「俺、いかにもヒモっぽくなっちゃうでしょ」 俺の釈明に目を丸くした後で本橋さんはがっくりと机に突っ伏した。 「まったくー。ニャンコセンセイには参った」 「ニャンコセンセイ?」 いきなり会話に混じった不可解な名詞をオウム返しにすると、本橋さんは「自分のあだ名知らないの?」と顔を上げた。そっちのほうがよっぽど猫っぽい仕種だ。 「俺がニャンコセンセイですか」 「戸田くんが付けたって話だけど」 ニャンコセンセイって、昔のマンガに出てくるエラそうな猫だよな。主人公にすぐ説教する。戸田には俺がそんなふうに見えているんだ。それって結構ショックだな。 「失礼します」 開いていたドアの向こうから声がかかって、入ってきたのは噂の主、戸田だった。あまりのタイミングに俺は思わず「お」と声を上げたが、戸田は俺を一瞥もしなかった。その横顔をまじまじと見つめれば確かに戸田は痩せたようだった。もともと身体は細かったが、顎の線がひどく目立っていた。 「お借りしていた資料、返しにきました」 「あら、戸田くん。今、きみの話をしていたところよ」 「そうですか」 戸田はそっけなく言い、抱えてきた資料を棚に戻して「お邪魔しました」と出て行った。 本橋さんが軽く目配せを送ってくるのを受けて、俺は戸田を追って研究室を出た。階段の上から「戸田」と声をかけると、戸田は踊り場に足を停めたものの、こちらを振り向かない。頑なな肩の線。俺は戸田のもとまで階段を下りて行った。 「どうしたんだよ?」 前に回って下から覗き込む。 「何がですか?」 戸田は斜め下、手すりのあたりに視線を向けていて俺を見ない。戸田の視線を捉えることができないままでは言葉はなかなか出てこなかった。 「本橋さんが話しかけたのに無視しただろ」 「無視なんかしてませんよ」 視線を合わせずに返してくる戸田の意地を張った子供みたいな物言いに、俺はちょっと鼻白んだ。こいつはこんな奴だっただろうか。声をかければ戸田はいつも笑みを浮かべて頷いてきたはずだった。ひと昔前のアイドルみたいだと内心で揶揄しながら、それでも俺はその笑顔を気に入っていた。無言で見つめる俺を、戸田はチラッと横目で見た後、そっぽを向いて呟いた。 「正直言って面白くないです」 「ん?」 戸田は俺に向き直った。くっきり二重の目が俺をとらえてなじる。 「ダシに使われるの、面白くないって言ってんですよ」 「ダシって何が?」 「俺をダシにして、付き合うの付き合わないのってやらないでもらえませんか」 「あ? ああ、あれは別に戸田をダシにするつもりなんか」 俺は思わず苦笑を漏らした。生真面目な戸田には本橋さんと俺の馴れ合いが不快だったのだろうか。 「本橋さんはちゃんと戸田のこと心配してんだよ。そのくらいわかってやれよ。あれはたまたま話が流れただけ」 こういう生真面目さが、戸田の可愛いところなんだけど。 戸田はむっつりと黙り込んだ。ややあってポツリと呟く。 「あと俺、外山さんを嫌ってはいませんから」 これはかなり最初の頃から本橋さんと俺の会話を聞いてたな。 「そうかあ?」 俺はわざと軽く流すことにした。そんなの、本人を前にして嫌いだと言えるわけはないだろうし、そういうことを一々訂正したりする戸田を少し痛々しくも感じた。 「本当です」 「ん、それなら嬉しいけど。それじゃ、今日どっかで飲む?」 「え」 「何か予定があるならいいよ」 本橋さんに言われるまでもなく、戸田に悩みがあるなら相談に乗ってやりたかったが、戸田は俺に相談したいとは思っていないかもしれない。視線を合わせない戸田に俺は不安を感じ始めていた。 「いいえ、別に予定はありません」 時々俺は戸田の真直ぐさに悲しいような気分を味わわされる。ごまかすための嘘さえ思いつかない不器用さを見れば「もっと適当に生きろよ」と言ってやりたい衝動にかられた。 「じゃ、授業が終わったら携帯入れて」 俺は戸田の肘あたりを軽く叩いて階段を駆け上がった。嫌なら忘れたふりをする程度の処世術くらいは戸田に身につけてほしかった。 五時限目の終了時間きっかりくらいに戸田から携帯が入って、俺は戸田と飲みに出た。 「『大和』でいいよな?」 「はい」 開店時間まもない居酒屋は空いていた。奥のテーブルに坐り、ビールを注文する。駅前の通りを少し入ったところにある『大和』は値段が安く、量の多さを売りにしているわりには味もよかったから、週末でなくてもすぐに混んでしまう。学生や若いサラリーマンがほとんどで、うちの大学でも人気があった。 「こないだの新歓もここにすればよかったのに。新しい店なんて無理しないでさ。あれ、絶対赤字出ただろ。追加徴収しなくって大丈夫なのかな」 戸田と俺は同じ天文研究会に入っていた。イベントの幹事は基本的に二年生が担当することになっていて、今年の新人歓迎会は、会員の大部分を男子が占める俺たちには不似合いな、開店したばかりの小洒落た店が会場だった。終わりのころには味もわからないくせにワインなどまで出ていたから、参加費内には収まらなかっただろうとひそかに心配していた。 「足が出た分は二年生で分担しましたから」 「マジで? なんだよ、言ってくれれば先生でもだまくらかしてやったのに」 「次は気をつけます」 「そうだな。てか、俺はここが好きだよ。安いしうまいし」 この『大和』でやった去年の忘年会の時に、戸田は俺の隣にいた。遅れて来た俺は一年生のところしか席が空いてなくて、一年生の中では比較的よくしゃべる相手であった戸田の隣にもぐり込んだのだ。 「がははー、言ってろよ、梶野!」 宴会の中盤に差しかかったころ、背後のテーブルの真ん中、三年生たちの間で大げさな叫び声が上がり、俺は振り向いて「どうした?」と声をかけた。 「外山さーん、聞いてやってくださいよ。梶野の奴、家庭教師先の子にコクられたんですって」 「あおいちゃん似の美少女ですってよ。そんな子が梶野なんかにコクると思います?」 「嘘じゃねーよ」 からかわれた梶野は俺たちのほうににじり寄ってきた。俺と戸田の間のわずかな隙間に強引に割り込む。 「外山さん、嘘じゃないっすよ。本気も本気。彼女、目がでっかいんですよ。そいでもってウルウルしながら見つめられちゃったりして、もう俺、どうしようって感じ」 梶野はすっかり酔っ払っているらしく、大柄な身体がグラグラ揺れている。 「つか俺、本当は地元に彼女いるんです。遠恋なんだけど、かなり長いんですよ」 梶野の言葉に同じように酔ってハイになっている三年生たちがゲラゲラ笑う。 「ヨッ、梶野、イロオトコッ。とりあえず飲んどけ!」 背後からグラスに溢れるほどのビールを注がれて、梶野は一気にあおった。 「もてる男はつれぇ」 調子よくはしゃいでいた梶野は、少しずつトーンダウンしてきた。俺たちのほうに来たせいで周りで騒いでいた三年生集団に背を向ける格好になり、やや距離ができたからか。 「俺、本当どうしよう、外山さん」 テーブルの端に手をついた梶野はかすかにうなだれて、上目遣いに俺を見た。 「本当に素直で可愛い子なんですよ。でも中学生なんです」 「中学生」 俺は少し驚いて呟いた。俺も塾の講師のアルバイトをしているが、俺の生徒たちは、中学生も小学生もほとんど差がないくらい幼い印象の子ばかりだ。タイプがちがうのだと言われればそうかもしれないと思うが、中学生に告白されるなんて想像もできない。 梶野は目を伏せた。 「ほんと真面目な子で。それでもって地元の彼女はすっごいいい奴で。中学ん時からずっと付き合ってんです。もう本当長くって。あいつ、いい奴で。裏切れないよ」 酔って冗談のように騒いでいても、梶野が本気で悩んでいるらしいことは想像がついた。梶野はノリがよくて周りを盛り上げることに長けていたが、基本的に真面目な性格だった。 「あーもう。俺、もう決められないんで、外山さんが選んでください」 いきなり顔を上げた梶野はやけになったように言い放った。 「もう外山さんに任せた! さあ、どっち?」 無遠慮に人差し指を俺の鼻先に突き出す。目の縁が真っ赤で、それは酔いのせいばかりではないのかもしれない。 俺は静かに「もしここで大災害が起こったとする」と切り出した。梶野がぽかんとした顔になる。俺は構わずに続けた。 「周りは瓦礫の山。生きのびたのは梶野一人かもしれない状況だ。バッテリーの切れかけた携帯があったら、梶野はまずどっちの子に連絡を取ろうとする?」 「え」 固まった梶野を、俺は諭した。 「梶野、本気で悩んでるんだろ? 自分で決めなきゃダメだよ。おまえが一人で決めるんだ」 「一人で決める。一人で決める──うー、冷たいな、外山さん」 オウム返しに呟いた梶野は頭を抱え込んだ。その向こうの戸田と目が合う。俺は梶野の肩を手の甲で軽く叩いた。 「そりゃ他人事だからな。だから決断は自分で下せ。自分の気持ちくらいきっちり把握しとけ」 「なんだよ、外山さん。もてる男の苦悩を知らないんだから」 顔を上げた梶野は唇を尖らせ、恨みがましい目で俺を睨んだ。 「ああ、知らないよ。俺はもてないからな」 知らん顔してグラスを口に運ぼうとしたら、梶野は俺の肩に手をかけてきた。 「大体冷たいですよ。他人事って、俺は外山さんの他人なんだ」 「他人だろ」 ビールをこぼしそうになった俺は舌打ちし、グラスを置いてしがみついてくる梶野の腕を引き剥がしにかかった。 「ひでえ」 梶野はますますしがみついてくる。 「酔っ払い! おい、誰か、こいつ引き取れよ」 三年生がいる辺りに向けて怒鳴る俺をものともせず、梶野は腕にぎゅうぎゅう力をこめてきた。 「外山さーん、俺、外山さんならわかってくれると思ったんですよ」 「わかんねえよ、俺はもてないから」 「そんなんじゃなくってー。…あー、なんか外山さんて抱き心地いいなー」 梶野はふいに力を抜いて俺の背を上下に撫でた。 「気色悪いこと言ってんじゃねえ」 拳を固めた俺の肩に額をつけて梶野がボソッと言葉を落とす。 「俺、やっぱ自分で決めなきゃダメですかねえ」 俺は頷いた。 「そうだよ。梶野が一人で決めるんだよ。それがその子たちに対する礼儀だろ」 ようやく三年生のうちで梶野よりは多少マシな状態の二人が奴を俺から引き離してくれた。そのままその二人に送って行かれることになった梶野を見送ってから、俺は戸田を振り返って文句をつけた。 「見てないで助けろよ」 「すみません」 律儀に謝られて少し居心地が悪くなり、「ほれ」とビールを差し出した。戸田はもう一度「すみません」と頭を下げてグラスに口をつけた。 「梶野は本当は自分でわかってんだよ。どっちを好きか、はっきりさせたら片方を傷つけるし、自分も傷つくからな」 俺は戸田に言い訳してるのだろうか。 『ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な。か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り』 自分で選べなくて誰かに選んでほしかった梶野。そのほうがよかったんだろうか。お告げをくれる神様がいたら誰も傷つかずに済むのか。俺は梶野の神様の役を引き受けたくなくて逃げた。俺があいつに自分で決めろと言った一番の理由なんて結局はそれなんだ。 黙って聞いていた戸田はビールを一口飲んだ後で「さっきの」と呟いた。 「うん?」 「一人で決めるって外山さんの言葉で俺、『歩く花』を思い出しました」 「えーと、岡本太郎みたいな奴?」と俺が聞き返すと、戸田は怪訝な顔になった。 「レジェの作品だろ?」 原色で色付けられた、擬人化された陶器の花。『歩く花』と言われて俺の脳裏に浮かんだのは美術館で見た作品だった。戸田が首を振る。 「ちがいます。ロックバンドの歌ですよ」 懐かしむような、遠いどこかに憧れるような目をした。 「子供の頃一緒に住んでいた叔父が、そういうロックとか好きで。俺が中学校に上がる頃に叔父は結婚して家を出てったんですが、コレクションしていたレコードやCDはほとんど俺にくれたんです。それで初めて聴きました。そん時にはそのバンドはもう解散しちゃってて、最後のアルバムに入ってた曲なんです。もしかしたら、そのレジェの作品からインスパイアされたのかもしれないけど」 「すごく好きな歌なんです」と戸田は俺に視線を向けた。真っ黒な瞳に俺の顔が映っていた。 「その曲を聴くと運命とか感じるのってやっぱり思い込みかもしれないって思うんです。自分で決めなきゃなって。外山さんが同じこと言ってるの聞いて、なんだか嬉しかったです」 そう言って戸田はやけに清々しいような顔で笑った。あの時の戸田は雪をはね返す竹を連想させた。 ひと昔前のアイドルみたいに笑った時に片頬にエクボができて、俺はひそかにそれを可愛いと思ってたんだが、今の戸田の頬にはエクボの余裕はなさそうだった。 「痩せただろ?」 俺の指摘に戸田は「別に」と目をそらした。 俺はもう一度「痩せたよ」と呟いて手酌でグラスを満たした。会話の間が持たなくて、普段よりハイペースになってしまう。もともと俺はアルコールに強いほうではないのに。 「みんな心配してるよ」 俺の言葉は戸田の肩あたりで拒否されている。そう感じていた。痩せて尖った肩。 「本橋先生も香枝さんも戸田が何か悩みでもあるんじゃないかって言ってる」 一年の頃の戸田は、本当に幼い印象があって、縦にばっかり成長していまったような体型も童顔のせいでなんだか可愛らしかった。それが顔立ちの変わった今では痩せた身体まで痛ましく見えてしまう。 くだらない話にもキラキラ光るような目で真直ぐこちらを見て頷いていた戸田。無垢な子供とか仔犬とか、そんな雰囲気だった。 目の前にいるのは本当に同じ人物なんだろうか。 伏せられた瞼が取りつくしまもない感じで、俺は一人でビールをあおっていた。 「戸田が何に悩んでんのか、俺にはわからないんだよな」 わからなくって痛々しい。 「俺にはわかんないし、戸田が俺のこと苦手だって思ってても、俺にはどうしようもない。俺は戸田の力になれないんだろ?」 戸田は俯いていた。伏せられた睫毛の陰に隠された瞳が見たかった。もう一度あの瞳に映る自分が見たい。ああ、俺、少し酔ってるな。つまらないことにこだわり始めている。 「ごめんな」 俺が謝ると、戸田は顔を上げた。 「何を謝るんですか?」 「戸田にはうっとうしいだろ、俺。戸田が俺にニャンコセンセイなんてあだ名つけたの、説教臭いからだろ」 どうにかして捉えようとあがいても視線は簡単に外される。 「そんな。俺、外山さんをそんなふうに思ってません」 「じゃあどんなふうに思ってるんだよ?」 追いつめるつもりなんかなかった。そうじゃない。これじゃいけないって頭の片隅ではわかっていた。 「俺には戸田が俺のこと避けてるようにしか思えないよ。俺が何かしたんなら、言ってくれたっていいだろう」 ちがう。俺は戸田の悩みを聞いてやりたいってそう考えてたはずだ。俺のことどう思ってるなんて、そんなの関係ないのに。酔っ払って自分のことしか考えられなくなってるんじゃないのか。 わずかに残った理性が警告している。 「俺、俺は」 しぼり出された戸田の声を聞き漏らすまいと耳をすます。 「俺は外山さんが好きです」 俺はがっかりして「気休めなんかいらないよ」と呟いた。みっともなくすがりついて結局得られたのは社交辞令。情けない自分にため息が出る。戸田はかすかに苦笑したようだった。 「ほらね。外山さんには理解できないと思ったんだ」 自嘲のような呟き。 「俺はあなたが好きです。どうしようもないってわかってたからつらかった」 「え」 戸田はまっすぐに俺を見つめた。その目は静かでやけに澄んでいるように見えた。 「俺は外山さんが好きです。外山さんには俺のこんな気持ち、全然理解できないでしょう?」 「こんな気持ちって」 自分が思っていた以上に俺は酔っているらしい。戸田の言葉が頭に入ってこない。そんな俺を哀れむ表情になって、戸田は吐き捨てるように言った。 「俺はゲイなんですよ。他の人に対してどうこう思ったことはないけれど、男のあなたが好きなんです」 頭の中が真っ白になった。 これが戸田の悩みなのか。ゲイだってことが。戸田がゲイ。 「そんな」 俺は混乱したまま口を開いた。 「そんな思い込まなくってもいいんじゃないか?」 なだめようとした俺の言葉に戸田は顔を歪め、目を閉じて二度ほどゆるく首を振った。力を無くしたようにテーブルに肘をつき顔を埋める。俺は戸田を励ましたくてその肩に手を置いた。 「戸田。そんなに思い込まなくったって。禁忌っていうのはさ、結局人間が決めるもんだし。父方の従兄弟はタブーだけど母方はOKとかその逆もあるじゃん。犬や猫なんか発情期には近親相姦もホモも意識しないでヤっちゃってるだろ」 戸田は真面目すぎるから。俺には戸田が必要以上に深刻になっているような気がした。もっと軽く考えればいいんだ。笑って冗談に紛らせておけばいい。俺は戸田の笑顔が好きなんだから。 「…アンタ、サイテー」 戸田はテーブルに伏したまま低く声を漏らした。ゆっくりと顔を上げる。 「外山さん、マジで最低ですね」 きっかり五秒間、俺の顔を正面から睨みつけ、戸田は憤然と席を立った。俺はうっかり見つめ合ってしまった戸田の迫力に気圧され、しばらく放心してしまった。戸田は本気で腹を立てているらしくまなじりの上がった表情が非現実的に色っぽかった。やがて我に返り、俺は慌てて戸田を追いかけた。あいつがかなり精神的に追い詰められているように感じたからだ。 |
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