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秋物語1



 講義開始ギリギリに駆け込むと、窓際の席から一年の小島が合図を送ってきた。小島は、友人の斎藤と同じサークルで、斎藤が何かと目をかけている後輩だ。隣に置いてあったバッグをどかして席を空けてくれたので、そこに座った。後期の授業が始まったばかりというのに、ぼくはもう何度も遅刻していた。
「朝、声かけたんですけど。返事がなかったんで先に来てるのかと思いました」
 小島とぼくは同じアパートに住んでいる。大学に近いので住人の半数以上が同じ学生だ。ぼくは息が切れてすぐには返事ができなかった。昨日の長電話がたたって寝過ごしてしまった。電話の相手は恋人のカオリ。明日は一限があるからというぼくの言葉は無視された。前日に彼女のアパートに泊まって、その朝別れたばかりというのに、夜中の電話に起こされたのだ。
―どうして、今日来ないの?
「え?」
―都合が悪いなら言ってくれたらいいじゃない
「今日、約束してたっけ?」
―約束しなきゃ会わないって言うの? 私たち恋人同士でしょう? 今まで待ってたんだからね
 なんだか理不尽な気がしたが謝った。
「ごめん」
―ひどい。啓くん、私のこと好きじゃないの?
 カオリはしつこかった。そんな話に延々二時間も付き合わされて昨夜はくたくたになった。このところ睡眠不足が重なっている。そのせいか講義が始まって十分もしないうちに気持ちが悪くなった。まずいと思って、下を向いて耐えようとしたがうまく行かなかった。あぶら汗が出てくる。隣の小島がすぐに気づいてくれた。
「ちょっと、高井さん、どうしたんですか。顔、真っ青ですよ」
「…気持ち悪い」
 涙目で訴えると、小島は手を上げた。
「先生。授業の邪魔をしてすみません。気分が悪いそうなんです。退室してもよろしいですか?」
 その外見からは意外なくらい小島は面倒見がいい。さっとぼくを抱えるようにして教室から連れ出し保健室に向かった。その途中で、急いでいる様子の養護の先生に行き合った。小島が慌てて呼び止める。
「あ、先生! 気分が悪いそうなんですけど」
「ええっ? 困ったわねえ。私、これから用事があるのよ」
 先生はそう言ってぼくの顔を見た。額に手を当てる。
「貧血ね? どうしよう、君はついててあげられる?」
 小島に訊ねる。
「わかりました」
「ごめんね。保健室の鍵はかかってないから、ベッドに寝かせて、服をラクにしてあげて。足のほうを高くしてね。ごめんね、急いでるの。大丈夫よね?」
 先生は早口にそう言って小走りに行ってしまった。たどり着いた保健室には誰もいない。
「ごめん、小島。迷惑かけて」
「何言ってんですか。いいから横になってください」
 小島はぼくの靴を脱がせてくれた。毛布をたたんで足の下にいれる。
「衿、ゆるめますよ」
 そう声をかけて、シャツのボタンを外してくれた小島は「あ」と微かな声をあげた。
「?」
 ぼくがぼんやりと見上げると首を振って
「ズボンも緩めたほうがいいですよ」
 と言った。さすがにそれは自分でしようと思ったが、指に力が入らなくてベルトが外せず、結局小島が手を貸してくれた。もう一台のベッドから毛布をはずしてかけてくれる。それはひどく手際のいい行動で、ぼくは感心した。ぱっと見は、いかにもイマドキの若者って感じなんだけど、意外と礼儀正しかったりしっかりしているので、そういうところを斎藤も気に入っているんだろう。
「眠れば治りますよ」
「うん。ありがとう。もう戻って大丈夫だよ」
「いいから、余計な気は使わないで眠ってください」
 肩のあたりを軽く叩かれ、ぼくはなんとなく安心した気分になって寝入った。電話の呼び出し音で目が覚めた。小島が応えている。
「はい。ええ。大丈夫みたいです。今眠ってます。…あ、目を覚ましたみたいです」
 振り返った小島は、目を覚ましたぼくに気づいて、受話器を押さえて「先生」とぼくに告げ「気分はどうですか?」と訊いた。ぼくが頷くと、
「大丈夫だそうです。ご心配をおかけしました」
 と言って電話を切った。ぼくが起き上がると小島は近づいてきた。ぼくが寝ている間に取ってきてくれたらしいバッグを差し出す。
「もうお昼ですよ。学食行きますか?」
 ぼくは首を振った。食欲もわかないし、学食の混雑を考えただけでうんざりだった。
「アパートに戻るよ。どっちにしろ午後の講義は取ってないんだ」
「じゃあ一緒に帰りましょう」
 ぼくの手からバッグを取り上げ、自分の肩にかける。
「一人で大丈夫だよ。小島、午後の講義あるんだろう?」
 三年のぼくと違って、一年生だから一般教養もたくさん取っているだろう。取り返そうとしたぼくの手を押さえてバッグを肩にかけたまま、
「普段真面目に出てますからね、一回くらいサボっても平気なんです」
 小島は片目をつぶってそう言い、アパートまでの道をぼくに付き添ってゆっくり歩いてくれた。ぼくの自己管理ができていないだけなのに、いたわってくれる小島に申し訳なかった。
「お昼はどうするんです?」
「う…ん。何か冷蔵庫にあったかなあ?」
 このところあんまり部屋にいないのでまともな食料なんかなかった。
「ぼくが作りましょうか。とりあえずぼくの部屋で休んでください」
「えっ、いいよ。悪いよ」
 小島の申し出をぼくはあわてて辞退した。いくらなんでも迷惑をかけすぎている。
「階段昇るよりラクですよ」
 小島の部屋は一階だった。
 小島が食事の支度をしてくれている間、ぼくは小島のベッドを借りて横になっていた。やがていい匂いがしてくる。
「お待たせしました。大丈夫ですか?」
 小島が作ってくれた雑炊はおいしかった。
「あの…」
 向かい合って食べ始めてすぐ、小島は言いにくそうに口を開いた。
「高井さんの彼女ってどんな人ですか?」
「えっ?」
「その、高井さん、振り回されてるみたいだから」
「な、なんで?」
「最近、朝帰り多いし。…肩にあるの、キスマークでしょ」
 ぼくは真っ赤になって衿を押さえた。さっきシャツをゆるめた時に見られたのか。もともとカオリには甘えん坊なところがあったが、この夏に二人で一泊の旅行に行ってからは極端なくらいにいつも一緒にいたがるようになっていた。このアパートでは階段を上がるには小島の部屋の前を通らなければならないので、ぼくは何度か朝帰りの現場を小島に見られていた。
「悪い奴じゃないんだ。ちょっと淋しがりっていうか…」
 そう言いかけたところにぼくの携帯がなった。着信音がちがうからカオリだとわかった。付き合い始めたときに彼女が自分で変えたのだ。
「もしもし」
 気まずいタイミングだったが仕方がない。出なければまた後でいろいろ詮索されてしまう。
―啓くん?
「うん」
―昨夜はごめんね
 カオリはいつもこんなふうに素直に謝る。だから我儘を言われても可愛いと許すしかない。
「いいんだよ」
―ワガママなのはわかってるの。でも啓くんのこと好きなの
 ちらりと小島に視線をやると、彼は俯いて雑炊を口に運んでいた。小島は左利きなんだなと関係のない感想が浮かぶ。
「ぼくもだよ」
―よかった。ねえ、今日の午後、授業ないんでしょ? 会えるよね?
 甘えるような声にぼくが逆らえるわけがなかった。
「いいよ。今から行くよ」
 ぼくが言うと、小島がとがめるような視線を送ってきた。携帯を切った途端「行くんですか?」と訊ねられる。
「うん。ごめんな。今日はいろいろとありがとう」
 お礼を言って部屋を出るぼくを小島はドアのところまで追ってきた。ドアに凭れるようにして見送ってくれる。ずいぶん長い間、背中に小島の視線を感じていた。
 翌日、朝というより昼近くになってアパートに戻ると、すぐにチャイムが鳴らされた。
「高井さん」
 小島の声だった。ドアを開けると、瞼がはれぼったいせいかどこか憔悴したようにも見える小島が立っていた。
「ちょっといいですか?」
「…悪いけど、これから学校行かなきゃ」
 少人数の演習を休むわけにはいかない。ぼくが断ると、小島はちょっと唇を噛むようにした。
「じゃあ、夜は? 夜、ぼくの部屋でちょっと飲みませんか?」
「う…ん、いいけど」
「電話してください」
「え?」
「彼女に。今夜は会えないって」
「そんな毎日会ってるわけじゃ…」
 言いかけてぼくはやめた。小島が真っ直ぐにぼくを見つめていた。ため息をついて携帯を取り出してカオリの番号を呼び出す。何回かのコールのあと留守電につながった。
「啓太です。今夜は予定が入って会えません。ごめんね」
 伝言を残して「これでいい?」と小島を見上げる。
「じゃ、今夜」
 少しだけ笑みを見せて小島は帰って行った。
 演習は斎藤と一緒だった。先に教室に入っていた斎藤はぼくの顔を見るなり「大丈夫か?」と訊ねてきた。
「昨日、授業中にダウンしたんだって?」
「どうして知ってる?」
 斎藤は必修でもないかぎり一限目の授業など取る奴ではなかった。
「小島がかなり心配してたぞ」
 どうやら昨日はサークルの活動日だったらしいと見当がついた。
「ああ。あいつに迷惑かけちゃったから」
「それはともかく、高井、朝帰りばっかしてんだって?」
「な…。そんなことまでしゃべったのか」
 ぼくは思わず赤面した。いないところで自分の話題が出るのはあんまり気分のいいものじゃない。小島は何を言ったのだろう。ぼくの貧血がカオリのせいだって? まさか。
「小島は心配してんだよ」
「…わかってるよ」
 ぼくは不機嫌に呟いた。
 その夜、約束通り小島の部屋に行った。小島は缶ビールをぼくに手渡し、自分でも一本開けた。斎藤と話しているときには「おせっかいめ」と腹を立てたはずが、実際に小島の顔を見ているとそんな気持ちはどこかに行ってしまう。それでも一言言ってやりたい気分で「斎藤に言っただろ」と責めたが、真っ直ぐな目で「怒ってるんですか?」と訊かれると、力なく首を振るしかなかった。
「いや。怒っているわけじゃない」
「なんか高井さん見てると『雨月物語』思い出しちゃうんだよね」
 ぐいっと缶ビールをあおって小島は言った。ぼくは馴染みのない名前に首を傾げる。
「ウゲツモノガタリ?」
「蛇性の淫ってあったでしょ?」
「全然わからない。よくそんなの知ってるな」
 ぼくの言葉に、小島は小さく笑って返す。
「ぼく、この間まで受験生ですから」
 小島の動きは、ひとつひとつがサマになる。缶の持ち方とか。唇に指をあてる仕草とか。なんだかモデルみたいだ。ついつい見とれてしまうぼくとしては「こいつって計算してんのかな」などと思ったりもするほど。
 茶色の目がまっすぐにぼくを見た。
「蛇の化身に見込まれちゃう話」
 げほっ。ビールが喉にからまった。蛇の化身ってカオリのことか? あんまりな話にぼくは少し気分を害した。
「小島はカオリに会ったことないからわかんないだろうけど、そんなコワイ女じゃないんだ。フツーのコなんだよ」
 カオリはぼくの初めての彼女だった。いかにもモテるであろう小島には、ぼくのカオリへの気持ちなど理解できないのかもしれない。
「自分じゃ気づいてないかもしれないけど、痩せましたよ、高井さん」
「夏のせいだよ」
 今年の夏はいつもより暑かった。夏バテだと誤魔化そうとしたが、小島は許さなかった。
「いい加減にしてください。彼女が悪いんじゃなかったら、悪いのは高井さんだ」
 眉をひそめて忠告する。たかが同じアパートの住人に対してさえ親身になれる誠実さ。小島を見てるとレベルの違いっていうのを実感させられる。アルコールのせいか、どんどん考えが卑屈なほうに向かって、自分でも嫌になった。
「付き合い方を間違えてるのは高井さんでしょ」
「小島にはわかんないよ」
 パーツのひとつひとつはどうってことない。いや顔の造作全体も特にハンサムなわけじゃないかもしれない。
 そんなことを考えながら、ぼくは小島の顔を盗み見た。
 結局のところ雰囲気なのだろう。長い手足、色素の薄い髪や目がどこか外国人めいている。初めて小島を見たときに「カリフォルニアが似合いそうだ」と言って、ぼくは斎藤に笑われた。どことなく大型の犬を連想させるので、斎藤はじめ年上の連中のウケがいいのがよくわかる。無邪気そうに見えて生真面目なところがあるから、同性から好かれるのだ。女の子の人気が高くても、悔しいけど認めざるをえないものを持っている。そう思った。
 小島にはぼくの気持ちなんかわかんないだろうなあ。
「カオリはぼくの初めての彼女なんだ」
「は?」
「ファーストキスも初体験も彼女が相手だよ」
 自分で言って赤面した。小島相手に何言ってんだ、ぼく。
「高井さん、女の子みたいですね。初めての相手だから『特別』なんて」
「わかってるよ。…小島みたいにモテる奴にはぼくの気持ちなんかわかんないんだよ」
 拗ねたぼくの言葉に小島はちょっと笑った。
「ぼくだって振られたことありますよ」
「ふーん?」
「受験、失敗したとき。浪人生で失恋中でサイアクだった」
 小島は浪人してたのか。じゃあ年齢はぼくと一つしか違わないんだ。だから大人びているわけか。うちの大学には浪人組が多かった。斎藤なんか二浪してるのでオッサンくさいんだけど、その分だけ周りの連中に頼りにされてもいる。
「多分彼女にとってぼくはブランドだったんじゃないかと思うんですよ。ぼく、高校で結構モテてたから。それが受験に失敗した途端パア。あれは落ち込んだな。でももっと最悪なのは、ぼく自身、彼女をブランドにしてたとこがあって。お嬢様大学に受かった彼女が、手の届かないとこにある宝石みたいに見えたんですよ。今考えるとすごくばかばかしい」
 自嘲気味に頭を振る。そんな話をされるのは気のおけない友人にランクされたようで正直に言ってちょっと嬉しかった。それから小島はぼくをじっと見つめた。
「キスなんてどうってことないですよ」
 言うなり小島は唇を押し付けてきた。
「な…」
 抗議しようと無防備に開きかけた口の中に舌まで入れられた。慌てて押しのける。一瞬だが強く吸われた上唇がしびれたようになって、ぼくは指で押さえて赤面した。
「ほら、これで彼女だけが特別じゃなくなった」
 小島はにっこりと笑った。酔っているのかもしれない。こういう表情向けられたら、女だったらたまらないだろうなあ。一瞬だがぼーっと見とれてしまった。小島はいたずらっぽい目で覗き込んでくる。
「いっそぼくとセックスもしましょうか? そうすれば完璧でしょ。彼女なんかどうってことなくなる」
「すごいこと言うな」
 ぼくは呆れて首を振った。
「わかったよ。ぼくも少し考えるよ」


 週末にカオリと映画にでかけた。映画館の暗闇の中でカオリはずっとぼくの手を握っていた。そういうのは正直に言って可愛いし、嬉しくもなる。ぼくに頼りきっているカオリ。
 映画の後、ぼくたちは喫茶店に入った。当然のように週末は一緒に過ごすことを疑いもしないカオリに、ぼくは言った。
「今日はカオリのとこに泊まるつもりはないんだ」
「え、どうして?」
 何か予定があるのと訊かれて首を振る。
「ぼくたち、あんまり一緒にいすぎてるような気がしてきたんだ」
「何それ?」
 少しずつ歪んでくるカオリの顔。泣きそうな瞳に「冗談だよ」と誤魔化してしまおうかとチラリと考えた。
「啓くん、私のこと、嫌いになったの?」
「違うよ。別れようっていうんじゃないんだ。ただ少し冷静になろうって言ってるんだ…」
 カオリの目から涙が落ちて、もっとちゃんと話さなければとあせりながら、ぼくは言葉を続けられなくなった。
「信じらんない。啓くん冷たい。好きな人と一緒にいたいってワガママなの?」
 わあっと泣きながら、彼女は店を飛び出した。追いかけるべきなのだろうか? ぼくは自問して、小島の言葉を思い出す。少し冷静になったほうがいい。
 一ヶ月。ぼくは勝手にそう決めていた。カオリと一ヶ月だけ会わずにいよう。長過ぎる気がしないでもなかったが、小島に言われるまでもなくお互いのことを考える時間が確かに必要だと思った。ただ季節がまずかった。秋が始まって、日の落ちるのが早くなり少しずつ風が冷たくなってくると人恋しい気分になってしまう。電話くらいいいかと考え、電話をすればきっとカオリは泣くだろうと思った。ぼくは気を紛らすためにたびたび小島を誘った。責任の半分くらいは小島にもある。小島はいつも気安く付き合ってくれ、もっと感じるだろうと覚悟していたカオリのいない淋しさもそれほどではなかった。
 カオリに会わないようにしてどうにか二週間が過ぎた。自分で課した試練の半分が終わったわけだ。ぼくは小島と買い物に出かけた。駅前にあるいくつかのデパートをハシゴしていた時だ。カオリを見かけた。デパートを出てきたぼくたちの目の前を知らない男と腕を組んで横切って行った。見間違えようのない距離。一瞬あっけにとられ二人を見送ったぼくは、慌てて小島を置き去りにして走り出した。
「カオリ!」
 呼び止めると振り向いたカオリは驚いたように目を丸くしたが、後ろめたさの微塵もない表情だった。
「高井くん。どうしたの? 偶然ね」
 にっこりと笑顔を向けられて呆然とした。組んだ腕を外そうともしない。それは誰だ? 訊くことができなかった。すぐに小島が追いかけきた。
「高井さん、どうしたんですか?」
「あ。いや…」
 何を言っていいかわからない。ぼくは途方に暮れた目で小島を見た。カオリは不思議そうにぼくを見て、またにっこりと微笑んだ。
「私たち、これから映画なの。じゃあね」
 バイバイと手を振って隣の男を促す。その様子はどう見ても仲のよいカップルだった。
「あの人、高井さんの…?」
 小島に訊かれて情けなくなった。

 その夜、携帯が鳴った。久しぶりの着信音。どんな言い訳を聞くことになるのだろう。カオリは浮気をしているのだろうか。
―高井くん?
 懐かしくさえ感じるカオリの声。名前ではなく姓を呼ばれたことに違和感を感じた。
「一緒にいた奴、誰?」
「あんなところで会うなんてびっくりした」とはしゃぐように言うカオリの言葉を遮って、昼間訊けなかったことを口にすると、カオリはためらいもなくさらりと答えた。
―あの人、新しい彼氏なの
 新しい彼氏? 何を言ってるんだ?
―高井くんに振られてすっごい悲しかったけど、今は幸せよ
「ちょっと待てよ。何言ってるんだよ? ぼくがいつカオリを振った? ぼくたち付き合ってるんじゃないか」
―何言ってるのは高井くんでしょ。もう会わないようにしようって言ったじゃない
「違う」
―違わないよ。私が淋しがりなの知ってて、突き放したのは高井くんだもの
 これは、誰だ? ぼくは誰としゃべっているんだ?
―でも、もう平気よ。高井くんより今の彼のほうが好きだから
 混乱した頭で必死に考えようとするぼくを置いてきぼりにしてカオリは一方的に話し、電話を切った。
 どういうことなんだ。ぼくは自分がひどい間抜けに思えた。何の疑問もなくカオリと付き合っていた。恋人同士であることを当たり前だと信じていた。ぼくはカオリの何を見ていたのだろう。そんな気持ちを抱えて一人の部屋にいるのが嫌になったぼくは、小島の部屋のチャイムを鳴らした。部屋の明かりは点いていたが、ドアを開けた小島はパジャマ姿だった。ぼくを見てひどく驚いた表情だった。
「高井さん?」
「ごめん。もう寝るところ?」
 悪いと思いつつ訊ねると小島は首を振って、ぼくを部屋に入れてくれた。多分ぼくは小島の親切に甘えすぎている。反省めいた考えが頭をよぎったが、無視して靴を脱いだ。
「何かあったんですか?」
「彼女に振られた」
「…」
 そんなことを言ったところで、小島を困らせるだけだとわかっていた。だが無言の小島になぜか苛立ちが湧いた。こいつが余計なことを言ったから。ただの八つ当たり。
「わかってたんだ。カオリは淋しいのが嫌いだって。なのにぼくは無神経に彼女を傷つけた」
「それはちがう」
 冷静な小島の口調が気に入らなかった。「えらそうに」と反発したくなる。
「ちがわない。どうして会わないようにしようなんて、バカなこと…」
「高井さん」
 小島はぼくの肩をつかんだ。真っ直ぐにぼくの目を覗き込む。
「ちがうでしょう? たった二週間ですよ? それで別の男と付き合うなんておかしい。…彼女は高井さんのこと、本当に好きじゃなかったんですよ」
 小島の言葉はぼくの胸を抉った。わかりたくなかったんだ、そんなこと。それじゃあんまりぼくがバカみたいじゃないか。
「高井さんだって」
 小島の目はぼくを非難しているように見えた。
「高井さん、本当に彼女を好きでしたか? 初めての相手とかそんなんじゃなく」
 小島はぼくを追いつめる。ぼくはぎゅっと唇を噛んだ。ぼくの気持ち、カオリの気持ち、全部まやかしだったのだ。それを小島は最初から見抜いていた。
 ぼくは小島に何を期待してこの部屋に来たのだろう? カオリの気持ちを取り戻すアドバイス? そんなことではなかったはずなのに、言って欲しい言葉を言ってもらえないもどかしさのようなものを感じてしまった。
「…よく、わかったよ。ぼくたちが演じてた恋人ゴッコ。ハタからみたら滑稽だったろうな」
 自嘲的に笑うと、小島はひどく傷ついた顔で否定した。
「違う! どうしてわからないんだ?」
 いきなり抱きしめられて頭が真っ白になる。耳の脇で低く囁く声。
「ぼくが高井さんを好きだって、まだわからないんですか!」
「な…にを…?」
 身をよじって顔を覗き込むと小島は悲しげな目をしていた。
「彼女に嫉妬してたのも本当。高井さんを心配してたのも本当です。ぼくこそ高井さんに振り回されてたんだ」
 噛みつくようなキスが降りかかる。
「ぼくがどんな気持ちで、朝帰りする高井さんの足音を聞いていたか、全然知らないんだろう」
「ちょ、ちょっと、待ってっ」
 瞼と言わず頬と言わず痛いように口づけされて、ぼくはあせる。
「待たない。高井さんは優しいふりをして残酷なんだ」
 小島はぼくを抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。ぼくの背中でスプリングが大きく軋んだ。ぼくは小島の突然の変容を呆然と見上げた。
「高井さんが悪いんだ。こんな夜中にぼくの部屋に来るから」
 吐き捨てるように小島は言い、ぼくのシャツに手を伸ばした。ぼくを押さえ込んでボタンを外していく。
「やっ、やめろよ。小島、自分が何してるか、わかってんの?」
「わかってる! 高井さん、ぼくになぐさめてほしかったんでしょ? お望みどおり彼女のことなんか考えられなくしてあげますよ」
 冷たい口調で言われて、ようやく恐怖がこみ上げてきた。
「冗談はよせっ」
「まだそんなことを言う? これが冗談ですか?」
 はだけられた胸を小島の唇が這った。
「い…や、だ」
「彼女の痕なんか消してやる」
 みぞおちの辺りがゾクリとした。肩を押しのけようとする手を小島は無視して、ぼくのジーンズに手をかけた。
「ばかっ。やめろってば」
 抵抗するつもりが、身をよじったせいでかえってジーンズと一緒に下着まで脱げてしまい、ぼくは羞恥に頬を染めた。いきなり下半身を握り締められてビクンと身体がはねた。
「彼女はどこまでしてくれた?」
 耳元で押し殺した声で訊ね、返事を待たずに小島はぼくに口をつけた。
「やっ…」
 声が喉でからまった。こんなの嘘だろう? カオリはこんなことしない。ぼくはもうどうしていいかわからなくなった。どんどん呼吸が荒くなってくる。
「やだ、小島。…いやだ」
 うわ言のようにくり返して、言葉を裏切る自分の声音にあせる。あまりにもたやすくのぼりつめた。絶頂の手前で小島は口を離した。
「んっ…」
 正直に言って、つらかった。カオリに会わなかった二週間、こういうことをしていない。自分の浅ましさに涙が出そうだった。小島はぼくから目を離さず自分の服を脱いだ。まるで彫刻像のような小島の身体。まだ頭の片隅でそう考える余裕があった。足を抱え上げられ、張りつめた小島の下半身を押し付けられるまでは。
「何すっ…」
 おびえて口にする間もなかった。ぐいと進められた小島の身体。
「あうっ!」
 慌てて逃げようとする腰をしっかりとつかまれる。
「好きだ」
 かすれた声。ゆっくりと入ってくる熱い塊。
「くっ…」
 言葉にならない声を洩らして、ずり上がろうともがいても無駄だった。途中から小島はぼくの腰ではなく肩をつかんでさらに身体を進めてきた。のけぞることも許されない。
「やっだっ…」
 ついにぴったりと身体が密着した。信じられない。そして小島はゆっくりと動き出した。
「いっ…、いたいっ! 小島、やめて…」
 屈辱と痛みと羞恥とがないまぜになって、ぼくは混乱した。
「やっ、いたい。あっ、あっ、あっ…。こ、じまっ」
 情けない泣き声をあげるぼくを、小島は無言のまま荒い息だけを吐いて一心に揺さぶってくる。やがて小島の動きが速くなってきて、反らされた顎の線がキレイだと、こんなときなのに一瞬見とれる。
「…も、イク」
 荒い息の合い間に最後に低い声で呟いて、小島はぼくの中に放った。抜き取られた後の喪失感。そして確かにぼくは感じてしまった。小島の腹を汚しているのは、紛れもないぼくの欲望。
「うっ」
 喉の奥から嗚咽がこみ上げてきた。止めようがなかった。わああと声を洩らしてぼくは泣き出した。
「ちょっと、高井さん」
 小島のあせり声。だがどうしようもない。こんな泣き方は小学生以来じゃないか。涙が後から後から溢れてくる。リセットしたいと思った。こんなことなかったことにしたい。
 ぎゅっと抱きしめられた。裸の肩に顔が埋まる。すぐに小島の肩は溢れ出るぼくの涙でぐしょぐしょになった。頭をなでる小島の手。少しずつ涙が収まってきた。それはそれで恥かしかった。身をこわばらせたまま動けずにいると、小島の手で顔を上げさせられた。閉じた瞼の淵を指がなぞり、目元にくちづけられた。
「高井さん。ぼくは本気で高井さんを好きです」
 耳に心地好い低い声。ぼくは何も答えられずしゃくりあげながら、何度も囁かれる言葉を聞いていた。どのくらいの時間が経ったのか、ぼくの嗚咽が収まると、小島はそっとベッドを降りパジャマのズボンをはいて、裸のままのぼくを抱きかかえるようにして起こした。
「シャワー、使ってください」
 促されて力の入らない足で風呂場に向かう。熱いお湯を浴びて、再び涙がこみあげてきたが、それは長くは続かなかった。ぼくがシャワーを使っている間に小島はぼくの服を脱衣所に持ってきてくれていた。その服を身につけたものの、ぼくは小島にどんな顔をすればいいのかわからなくてその場から出ていけなかった。洗面台に腕をついて鏡の中の情けない顔を眺めていると扉のすぐ向こうから声がかかった。
「大丈夫ですか?」
「あっ。あ、うん」
 きっかけができたので、慌てて出て行くといきなり抱きしめられた。
「謝りませんから」
 髪に小島の息がかかる。
「謝りたくない。ぼくは高井さんが好きだから」
「…うん」
 説明のしようのない感情が浮かんだ。ぼくは小島の腕の中からそっと身を引き剥がした。
「帰るよ」
 ドアのところでもう一度キスされた。
 身体の奥がひどく痛んでいたが、こんなことをされてもぼくは小島を憎めなかった。それでも小島の言う「好き」を理解できたわけではない。ぼくはゲイではない。そしておそらく小島自身もゲイではないだろう。



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