三日月のボート-1-


 それは高校最後の夏休みの初めだった。オレたちは、県主催の高校生バンドフェスティバルなどというものに出場した。あまり気は進まなかったが、いつも世話になっている滝口さんに頼まれたので仕方がない。大学の軽音楽部でバンドを組んでいる滝口さんたちとオレたちのバンド、ジラフは、ライブハウスで何度か一緒にやったことがあり、たまに飲みに連れて行ってもらったりしていた。
 たった十五分の演奏のために、昼過ぎに受付をして自分たちの出番以外は、観客席で他のやつらの演奏を聴かなくてはならないと言われ、すっかりウンザリした気持ちだった。
「これってさあ、ほとんど内輪だけのイベントだよなあ」
 会場をわざとらしく見渡して高見が言う。
「出演者以外の観客って何人だと思う?」
「なんでこんなとこでやるかね」
 だいたい文化ホールなどという千人近い収容人数のホールでやれるバンドなど、プロでも難しいんじゃないのか。大人はそういうことがわからないのだろうか。それは滝口さんもぼやいていたことだ。
「おい、小日向、寝るな」
 金のかかってそうなホールの椅子は座り心地がよく、オレは早々に昼寝を決め込むことにした。それを隣で高見が邪魔をする。他のやつらの演奏に対して、この曲はいいだの、全然なってないだの、いちいち批評を加えるので、うるさくてたまらない。オレは高見に背を向けて座席に丸くなった。
「ちょっと小日向、ロコツすぎ」
 高見の向こうから奥田が呆れた声を出す。
「だって、知ってるバンドばっかりじゃんか。今さら聴く必要ねえよ」
 県内の高校生対象とはなっていたが、参加バンドはこの近隣からばかりで、顔を合わせたことのあるやつらがほとんどだった。いちおうの出場審査なんてものがあって、それで滝口さんたちが関わっているらしい。審査基準をクリアしたバンドが少なすぎるから出てくれと頼まれた。参加バンドの中には、一人だけが高校生で他のメンバーは大学生なんてバンドも入っていた。
「でも次のバンドは遠くからだよ。**町って知ってる?」
 プリント刷りのチャチなプログラム表を眺めて奥田が言った。
「知らねえ」
 オレは即答して目をつぶった。
「県北のほうじゃないのか? すげ、わざわざやって来たのかよ」
「もうおまえらうるさいよ」
 せっかくの椅子の感触もだいなしだ。ステージにそのバンドが現れると、高見が感心したような声を出した。
「見ろよ。ボーカル、超ハンサム。もろビジュアル系ってやつか」
「かっこは普通じゃない? 化粧してないと思うよ」
 ああ、うるさい、うるさい。オレは椅子の上でさらに身を縮めた。始まった曲はUKバンドのコピーだった。
「珍しい、コピーだよ」
「でも結構うまい。ほら、小日向、ちゃんと聴けよ」
 揺すられて、しぶしぶというポーズを取って座り直す。たしかに聴く価値がありそうだ。ステージに目をやって、オレはドキリとした。オレたちの席はホールの右端だったので、最初に目に入ったのは、ステージの左側に立つベーシストだった。俯き加減で顔が見えないが、立ち姿がキレイだ。
「いい声してるよな。世の中不公平って気にならない? こんなふうにかっこよくてうまい奴もいるんだ」
 隣の高見の声を聞き流す。何言ってるんだ、ベースのほうがすごいじゃないか。夢中になっているらしく、半開きの口から小さく舌がのぞいて、オレはぞくりとした。ボーカルが近づいて、ベースに寄り添うようにして歌う。心底うらやましいと思った。二曲目のコーラスでベースが歌ったので顔が見えた。切ない声だった。もっと聴きたい。結局彼らがやったのは三曲だった。
「あいつら、いいな」
 彼らが退場すると、高見がため息をついた。オレは勢い込んで頷いた。
「特にベース! あいつうまい!」
「うん、ベースもうまい。でもやっぱりボーカルじゃねえ? なかなかいないよ、あの声」
「オリジナルやんないのかな」
 高見と奥田にあっさり流されて、オレは少しむかついた。ベースの話だってば。
「オレはやっぱりベースが気に入ったね。あいつすごいじゃん。オレ、あいつと話してみたい」
「お? 小日向、珍しいな」
 高見がちょっと驚いたように言う。オレはうっとりと呟く。
「いいなあ。オレたちもベースほしくなった」
「あほか」
「ちょっと、そろそろ控え室行かない? 早めに行ったほうがいいよ」
 奥田がステージの脇の時計に目をやって気づいたように促した。
「あいつら、いるかな?」
 ちょっとうきうきしながら、控え室に向かったが、彼らは出て行った後だった。
「なあ、終わったら声かけてみようぜ」
「はいはい。わかったから、とりあえず自分たちの曲をちゃんとやりましょうね」
「やる曲、変えていい?」
 ふと思いついて言ってみると、高見と奥田は目をむいた。
「なんだと、このやろっ」
「だってこの曲、辛気臭くって」
 急にやるつもりだった曲に気が向かなくなってしまった。この五月にそれまで付き合っていた彼女に振られてから、オレは失恋の歌ばかり作っていた。オレにとって初体験の相手で特別だと思っていた。三歳年上のフリーターだった彼女は「結婚するの」とあっけらかんと告げた。おかげでセンチメンタルな歌ばかり浮かんでいた。それは今の気分じゃない。
「いい加減にしろよ、小日向。無理に決まってんだろうが」
 高見が低い声を出す。オレは古い曲のタイトルをあげた。ほとんど初めて作った曲たち。
「最初の二曲を『ジェット・コースター』と『ひまわり』に変えよう? いいじゃん、最近やってなかったし」
「最近やってないんだから、そんな急にできるかっつーの!」
 ぱしんと頭を叩かれる。
「いってー。奥田? 奥田はやってくれるよね?」
 高見より奥田のが優しい。
「答えるんじゃないぞ、奥田」
「でも、小日向の気が乗らない曲じゃ、まずいんじゃない?」
 風向きが変わった。
「…わかった」
 高見が宙を仰いで大げさなため息をつく。
「もめてるより少しでも合わせたほうがいい。今回はしょうがない。だけど小日向、少しは大人になってくれよな」
 びしっと目の前に人差し指をつきつけられた。その指に「サンキュー」とキスする。高見は「げっ」と言ってあわててシャツでぬぐった。もう何度も何度もやってきている曲だから心配はしなかった。ステージに出てライトを浴びたらすぐにかなりテンションが上がってしまった。知っている顔たちがすぐ近くまで駆け寄って声援をくれる。そうだよ。そんな椅子なんかいらないんだ。奥田のカウントで曲を始める。ほら、やっぱりこの曲だ。オレは頷く。
 あいつだ。
 すぐにわかった。先刻までオレたちが座っていた席のすぐ近く、あのベーシストがいた。オレを見てる。彼の身体が揺れている。オレの歌があいつを動かしてる。たまらないくらい嬉しくなって、オレは声を張り上げた。張り上げすぎて途中で咳き込む。そんなのは平気だ。オレは笑って歌い続けた。オレとあいつを同じリズムがつなぐ。四曲はあっという間だった。
「もう終わり? もうちょっとやりたい」
 思わず呟くと、会場が沸いた。
「やっていいの?」
 嬉しくなって訊き返すと、高見があわててオレを押さえた。
「ダメに決まってんだろ。バカ」
「けち」
 会場の笑いの中から「もっとやって」と声が上がって、高見が応えた。
「ありがとう。でももう時間なので。えっとオレたちは時々ライブをやってます。今のところ予定は決まってないけど、ぜひ来てください」
 そう言ってオレを引きずるようにしてステージを降りる。拍手をもらって、オレはニコニコと手を振った。オレたちが戻ってすぐ滝口さんが控え室に顔を出した。
「やっぱやるなあ、小日向」
 感心したような口調を誉め言葉ととって、「いやあ」とオレは照れた。高見が口を挟む。
「煽るよりしかってください。今日、小日向、暴走気味」
「止めなきゃマジで歌い続けるからなあ」
 奥田がタオルで顔を押さえてくっくと笑う。
「いいじゃん。オレ、今日マジで楽しい。ねえ、滝口さん、今日、飲みません? あのバンドも誘って」
「どのバンド?」
 滝口さんが不審な顔になる。高見が呆れた声で注意した。
「バカ小日向。それで滝口さんにわかるかよ?」
「洋楽のコピーバンドです。えっとー、フランケンシュタイン?」
 奥田がプログラムを見てくれた。その名前を聞いて、滝口さんが「あ」という顔になる。
「もしかして、そいつら、もう帰ったよ」
「えええっ?」
 思わす叫び声をあげてしまった。奥田がオレを見て、滝口さんに訊ねてくれた。
「だって全員が終わるまで帰っちゃダメって」
「**町からの参加だろ? 交通手段の関係で特別に認められたんだ」
「そんなの、ない」
 オレはひどくがっかりしてしまった。だって一言もしゃべってないんだぜ。
「じゃあオレたちも帰る」
 力なく呟くと滝口さんは苦笑した。
「おいおい。おまえたちは地元だろうが。なんだよ、小日向、あいつらそんなによかった?」
「っていうか、小日向はベースに惚れたんだって」
 高見が笑いながら言う。オレは髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「だって、あいつ、よかったよ。ちぇー、なんだよ。そんなんありかよなあ。もうほんとにオレ帰りたい」
 ぶちぶちと呟くと、三人ともが笑う。オレが本気で落ち込んでいるのに、むかついた。

「なあ、オレたちもベース募集しない?」
 夏はあっという間に過ぎ、秋風が吹くころになってもオレはあいつを忘れられなかった。二学期が始まり、昼休みに学校の屋上で三人で飯を食っている時に、思いついて言ってみると、高見は嫌な顔をした。
「あのな、小日向。もうちょっと冷静になれよ」
「いいじゃんか。真面目に言ってんだよ。ベースが入ればオレら、もっと幅が出るし。やっぱバンドにベースは必需品でしょ」
「言ってることは正しい。確かにベースは欲しいよ。でもおまえが欲しいのは臼井だけだろう」
「誰、臼井って?」
 オレが訊き返すと、高見は頭を抱えた。横から奥田が教えてくれる。
「フランケンシュタインのベーシストだよ。小日向はあいつがいいんでしょ」
「臼井っていうの、あいつ?」
「臼井柾之。プログラムにメンバーの名前書いてあっただろ。小日向さあ、好きならせめて目の前にある情報だけでもインプットしなよ」
 臼井柾之。呟いたら、あいつの顔が目に浮かんで、オレはうっとりした。あいつの横で歌えるのか。
「あああ、いいなあ。確かに臼井が一番だ。誘ったら一緒にやってくれるかな?」
「できっこないだろ! 住んでるとこ遠いんだから」
 呆れ果てたという顔で高見が断言する。
 あまりにオレがしつこいので、奥田が「それじゃあいつらのライブでも聴きに行こう」と提案してくれた。滝口さんを通して事務局に頼んで連絡先を聞いた。佐竹というボーカルの電話番号を教えてもらって、高見が電話をかけた。最初に母親らしき人が出て、呼び出してもらう。オレは高見の持つ受話器に耳を寄せた。
―もしもし
「あのー、オレ、高見と言います」
 高見の声が裏返ったのでおかしかった。緊張してやがる。吹き出すと頭を叩かれた。
―はい?
「あ、あの、夏のフェスティバルで、フランケンシュタインを見て。あの、いいなと思ったんで、ライブとかの予定教えてもらいたくて」
 一瞬の間があって、ため息が聞こえた。
―あんたさ、どこに住んでんのかしんないけど、うちのほうにはライブハウスなんてないの。そんなライブなんてやったことねえよ
 ライブをしたことがない? バンドやっててそんなのありかよ。オレはびっくりした。
「えっ? え、えっと、それじゃ…、文化祭、学校の文化祭とかは?」
 高見、えらい。食い下がる高見にオレは小さく拍手を送った。だが無情な声が告げる。
―うちの文化祭は六月に終わったよ
「じゃあ、もう演奏しないの?」
―しない、多分。オレたち受験だし。バンドやってるヒマなんてないんだよ
 イライラした声で言った後、佐竹はちょっと声のトーンを落とした。
―悪かった。せっかく『いい』って言ってくれたのに、嫌な言い方して。ちょっとここんとこトラブってたからさ。あんまりバンドの話、したくなかったんだ。ごめんな。電話ありがとう
 それで電話は切られた。奥田が呟く。
「やめちゃうんだ、あいつら」
「なんでだよ? もったいねえ」
 高見も言って、なんだかしめっぽい雰囲気になった。
「臼井の連絡先、聞いてくれたらよかったのに」
 オレが恨みがましく言うと、高見はがっくりというリアクションをとった。
「小日向って、ほんと自分のことしか考えてねえな。訊けるか、あほう!」
 オレの高校最後の夏はそんなふうにあっけない幕切れを迎えた。

 秋から冬にかけては、受験生らしく勉強や模試に明け暮れた。ま、その合い間にライブもちょこちょこと。正直なところ、受験で危ないのはオレだけだったんだ。高見と奥田は模試の結果も毎回安全圏で、オレだけがギリギリ。奥田などは担任にもっと上を狙えとしつこくハッパをかけられて「一人っ子なんで地元じゃないと」といい加減なことを言って誤魔化していたくらいだ。オレは滝口さんなどにも「ちゃんとウチに来るんだろうなあ」と心配されていたが、自分では落ちる気がしなかった。落ちても東京の私大に入れば、バンドは続けていけるとタカをくくる気持ちもあった。結果はごらんのとおり。オレたちは三人揃って無事滝口さんの後輩になることができた。
 オレたちはさっそく軽音学部に入った。五月の連休明けにある新歓ライブにも出させてもらうことになった。
「最初っからおまえらは新人じゃねえよ。歓迎する側だ」
 滝口さんがそんなふうに言ったライブの日、オレは臼井を見つけた。彼は会場である講義室の一番後ろの壁にもたれるようにして立っていた。ステージの上からその姿を見たときは、ついに幻覚が現れたかと思った。細長いシルエットが、腕を抱えるようにしてリズムを刻んでいる。本物の臼井なのか、臼井に似た奴か。どちらでもいいと思った。オレはあいつと話したい。自分たちの演奏が終わって超特急で観客席のほうに回ったのに、もう臼井はいなかった。なんでだよ。涙が出そうになった。バカだ、オレ。演奏の途中でも「ちゃんと待ってろ」って言えばよかった。
 オレは高見と奥田に臼井の話をした。あるいは臼井に似た奴。すぐに奥田が調べてくれ、確かに臼井柾之が同じ大学の工学部にいることを突き止めてくれた。すごい、これは運命かもしれない。オレはマジでドキドキしてきた。
 そしてついにオレたちは臼井をつかまえた。一緒にやろうと誘って臼井が頷いてくれた日を、オレは一生忘れないだろう。


「小日向、臼井への態度、なんとかしなよ」
 臼井が近くにいることになかなか慣れずにいたある日、オレは奥田に責められた。真面目に授業に出ている臼井を、三人で軽音の部室で待っている時だった。高見は窓際で楽譜を広げて、空を睨んでケースに入れたままのキーボードの蓋をたたき、曲のアレンジをしていた。オレは所在なくパイプ椅子の上だった。ペットボトルのお茶を飲んでいた奥田は、ふと思いついたようにオレを見た。
「臼井、小日向に嫌われてんのかなあって心配していたよ」
「なんでっ」
 オレが臼井を嫌ってなんかいないのは、奥田だってよく知ってるんだから、フォローしといてくれればいいじゃんか。
「小学生みたいな態度取ってるからだろ」
 臼井の笑顔を見るとオレは緊張して何を話したらいいのか、わからなくなってしまう。
「おさわりバーじゃないんだからさ、臼井のこと触りまくるのだけは、やめろよな」
 高見が半分笑いながら横から口を出す。オレは臼井が隣に座っていると、無意識に抱きしめてしまう。臼井の身体って触り心地いいんだよな。肩とか足とか、なんつーか骨っぽい感じ。出来のいい彫刻みたいについ触りたくなる。
「だいたい小日向は臼井とどうしたいの?」
「キスしたい」
 奥田に訊かれて思わずぽろっと言ってしまうと、聞いていた高見が、大げさな声をあげた。
「げーっ。気持ち悪。臼井は男だぞ」
 それはわかってんだけどさあ。なんでだろうな、オレ、臼井のこと好きなんだ。くしゃくしゃと髪を掻き混ぜると、奥田が言った。
「告白しちゃえば?」
 告白う?
「奥田ぁ、けしかけんなよ。困るのは臼井だぞ」
 アレンジをやめたらしい高見が楽譜をしまいながら、奥田の言葉を遮る。
「臼井も小日向のこと、嫌いじゃないと思うよ」
「ホントにっ?」
 うわっと、声が裏返っちゃったよ。奥田、本気でそう思う? 嬉しくなって身を乗り出したオレに、高見が水を差す。
「嫌いじゃないっつってもよー。男に告白されたらビビるだろ。…そういえば、奥田、高校ん時、ラブレターもらったことあるじゃんか」
 オレたちは男子校だったのだが、入学したばかりの頃、奥田の下駄箱にラブレターが入っていて、大騒ぎをしたことがあった。あの頃の奥田は背も低くて、確かにかわいい顔をしていた。いつの間にかこんなにでかい奴になっちゃったけど。
「あの時、どう思った?」
 高見に訊かれて、奥田は顔をしかめた。
「気持ち悪かった」
 オレの情けない表情に気づいて、慌てて付け加える。
「だって、ほら、口きいたこともない相手だったし」
「小日向だって、臼井とまともにしゃべってないぞ」
 高見は意地悪だ。思わず恨みがましい目で下から見上げた。
「でも臼井は小日向のこと、いつもニコニコして見てるよ」
 オレが滝口さんとかとしゃべっていると、臼井はクスクス笑うんだ。オレのこと見てるなって思うと単純に嬉しい。
「そりゃ、そうだろ。こんなヘンな奴、めったにいねえもん。なんだよ、奥田? ずいぶん熱心に勧めるんだな」
「だって、臼井もメンバーなのに、なんか遠慮してる感じしない? 小日向がヘンな態度取ってるからだと思うんだ」
「だからって、小日向に告白しろって無茶苦茶だぞ」
「そうかなあ?」
 授業の終わった臼井がやってきたので、結局その話はそれで終わってしまったが、奥田にけしかけられてから、オレは臼井に気持ちを告げたくて仕方なくなった。臼井にオレだけを見ていてほしい。そんな気持ちが高まってオレは臼井のアパートに押しかけた。「好きだ」と告白すると臼井はあまり驚いた様子もなく受け入れてくれた。その夜初めてキスをした。そのまま臼井のベッドで抱き合った。ようやく手に入れた臼井。オレは有頂天になった。オレの腕の中で汗ばむ臼井の身体。直接に触れ合う下半身。混じり合った二人の欲望。オレは夢中でキスをくり返した。
 その夏、オレの人生は最高潮だと思った。バンドも好調だった。臼井は曲も作るし歌も歌う。ちょっと切ないハスキーボイスがオレはお気に入りだった。大好きな奴がそばにいる。オレの隣でしょっちゅうクスクス笑っている。こんな幸せがあるだろうか。

 けれど秋が来た。十月には学祭がある。その学祭でオレは一気に奈落に突き落とされた。五日間続く学祭は週末がメインだった。軽音楽部の出し物はもちろんライブだ。ジラフの演奏は三回割り当てられていて、最後の日曜を残すばかりのときに、それはやって来た。土曜の午前中の演奏はかなりうまくいって、オレたちは御機嫌で控え室にいた。午後は一緒に学祭を回ろうと臼井を誘うつもりだった。
 控え室の入り口に女の子の顔が覗いた。高校生だろうか、けっこう可愛い。誰だ? 疑問が浮かぶより早く臼井が彼女を手招きした。笑顔になって入ってくる彼女の肩を抱き、そのままオレたちに紹介する。
「高校の後輩なんだ。一応、オレの彼女」
 当たり前の口調で、臼井はそう言った。オレは頭の中が真っ白になった。どうして? オレたち付き合ってるんじゃなかったのか。女の子はオレにも何か話しかけてきたようだったが、オレは何も答えられなかった。臼井の彼女。その言葉だけがぐるぐると回っていた。すぐに臼井は学祭を案内すると言って彼女を連れて出て行った。オレは何がなんだかわからなかった。高見と奥田が困った顔をしている。
「オレ、帰る」
 呟いて、控え室を出た。お祭り騒ぎの構内がうるさくて頭が痛い。力の入らない足でよろよろと歩いているのに、ぶつかってくる人の多さにうんざりする。どいつもこいつもカップルに見えた。裏の駐車場では原付のエンジンがなかなかかからなくてイライラした。家に戻ると、妹の朋美が学祭のことを何か言ってきたが、無視して自分の部屋に入ってふて寝した。あの女の子、臼井の部屋に泊まるのかな。オレが何度も泊まって臼井と抱き合ったベッドで、あいつらはセックスするのか。オレと臼井がしてきたことは何だったんだ? 裸で触れ合うことも欲望の放出も臼井にとっては何の意味もなかったっていうのか。ふいに臼井を抱くという考えが浮かんだ。身体を繋ぐということの意味。オレとよりもあの女の子のほうが臼井と深く関わっている。それが耐えられない。想像しただけで吐きそうになった。
 その夜うまく眠れなかったせいで、日曜の演奏は最悪だった。朝からやたらに喉が渇いていたが、何曲目かに声が出なくなった。そしてオレの代わりに臼井が歌った。オレは指が滑ってギターもまともに弾けなかった。臼井の声に泣きそうだった。この声はオレのものじゃないのか。ようやく出番が終わったので、不調のオレを奥田が車で送ってくれた。
「ぼくたち、知ってたんだ。臼井の彼女のこと。夏のイベントの時にそんな話が出て…」
 オレの家に向かう短い間に、ハンドルを指で叩きながら、言いにくそうに奥田が呟いた。
「ぼくが悪かったのかな。勝手に小日向のこと、けしかけて」
「そんなの関係ない」
 オレはようやく口にした。オレが臼井を好きになったことに奥田は何の関係もない。吐き気がして口の中が苦かった。
「こんな時にこんなこと言うの残酷かもしれないけど、ぼく、臼井の気持ちもわからなくないんだ」
「オレにはわからない」
 オレはひどくみじめな気分だった。涙が出てきた。
「臼井は男だし、小日向のこと好きとかそういうこと考えてないんだよ、多分」
「ほんと、奥田って残酷」
 車の窓から見える景色はやけに明るくて、オレはだらだらと涙をこぼしていた。
「ちがうよ。言葉が足らなくてごめん。臼井は小日向を好きだよ。でも」
 奥田は必死で言葉を探しているようだった。やがてあきらめたようにゆるく首を振る。
「…わかんないな。ごめん。臼井の気持ちは臼井にしかわからないよ。…ううん、臼井にだってわかってないんじゃないの」
 家に着くとオレの家族はみんな出かけていた。天気のいい日曜だから当たり前だ。オレだけがこんな日にこんな気持ちでいる。「大丈夫か」とくり返す奥田を帰して、オレはベッドに丸くなっていた。胃がしぼられるように痛んだ。これが失恋か。ちくしょお、臼井のやつ。人の気持ちを弄びやがって。急に怒りがこみ上げてきてギリギリと奥歯を噛んだ。オレの前で見せた甘い表情は何だったんだ。信じていたものがあっけなく煙のように消された見事な手品。
 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。階段が軋んで、誰かが上がってくる気配がした。弟が帰ってきたのかもしれない。今日は模試だと聞いた気もしたがずいぶん早い。ドアがノックされた。普段まともに会話もしないのにこんなときに限って何の用があるんだよ。オレは胸の中で悪態をついた。ドアの向こうでオレを呼ぶ声がした。
「小日向」
 その声。オレはガバッと起き上がった。ゆっくりと開けられたドアから覗いた顔。臼井。オレは何も考えられなくなった。手に入れる。絶対に放さない。夢中だった。気がつくと無理やりに臼井を犯していた。臼井の上げる悲鳴を無視して後ろから抱いた。終わって見上げてくる臼井の目が耐えられなかった。オレ、何したんだ。身を縮めて謝る。謝っても遅いのはわかっていた。ボタボタと手の甲に落ちる涙の熱さだけを感じていた。
 だが信じられないことに臼井は笑ってくれた。その瞬間にわかった。臼井はオレのことが好きだ。臼井はオレのものだと思った。オレはまた運命を信じる気になっていた。



NEXT





fantasia
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送