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誤算-1-



「マキちゃん、今日カウンターじゃないの?」
 事務室の机に座って、のんびりとジュースを飲んでいるマキちゃんに声をかけた。シフト表では、彼女はカウンター当番のはずだ。
「そうなんだけどォ」
 マキちゃんは唇をとがらせた。マキちゃんはぼくより年下だが、町役場に入ったのは先なので、しっかりタメ口をきく。いや、もしかしてぼくが先輩であるマキちゃんには敬語を使うべきなのか。
「今、図書館にあんまりお客さんいないの。ユカリさんとバイトの人で十分みたいよ」
「それはマズイんじゃ」
 ユカリさんは係長だし、立派なお局さまだ。彼女に仕事をやらせてマキちゃんが休んでいるのはさすがに問題だろう。言いかけたぼくの言葉をマキちゃんは唇をとがらせて遮った。
「わかってるわよォ。これ飲み終わったら行くってば。どうせユカリさんだって、おしゃべりしてるだけなのに」
 マキちゃんは平気でそう言うが、彼女のいないところでユカリさんに文句を聞かされるのはこちらなのだ。
 その時、事務室のドアが軽くノックされた。
「こんにちは」
 いくぶん身を屈めるようにして現れた長身を見て、マキちゃんがさっと立ち上がりニコニコと笑顔で迎えた。
「副館長さんはいらっしゃいますか?」
「あ、はい。ちょっとお待ちください」
 マキちゃんがいそいそと副館長を呼びに行く。この図書館の開館当初からの付き合いになる、建物管理会社の営業マンである杉本さんは、かなりの男前だから、若いマキちゃんだけでなく、四十歳をすぎたユカリさんまでが彼がやってくると妙にはしゃいだ。彼の左手の薬指に結婚指輪が光っているのを、マキちゃんはとても残念がっていた。
 応接セットに腰を下ろした杉本さんと目が合って、ぼくは軽く会釈した。いかにもやり手の営業マンといった雰囲気。
 本当はぼくも営業マンになりたかった。しかしぼくを入れてくれるという会社がなかったのだ。ダメモトで受けた教員採用試験も予想通り。公務員試験も国家で落とされ、県で落とされ、コネがなければ無理だと噂されていた町役場になぜか入ってしまった。人付き合いのあまりよくないぼくの家にコネのあるはずもなかったが、近隣に次々と建てられるようになった公立図書館を、この町でも作ることになっていて、ぼくの司書資格がものを言ったらしい。
 それを聞いたぼくは本当に驚いた。なぜなら図書館司書などというものは需要と供給のバランスが非常に悪く、希望者に対して職がないというのが現実のはずなのに、この町には有資格者の応募がなかったというのだ。そんなわけあるかと思うが、役場の皆さんは口を揃えてそうおっしゃる。ぼくは優秀だとおだてられ、照れるよりもうんざりした。
 だいたいぼくはもともと本など好きではない。理数系が苦手だから文系を選び、大学受験で受かったのが、地方の文学部だったというだけだ。うちの親は遊びで大学に行かせるわけにはいかないという方針で、取れるだけの資格は取れと言われた。ぼくの大学の文学部で取れる資格は教職と司書だけだった。どれも実際の就職には役に立たないと言われていた。司書課程なんか最初の講義で先生から「司書になれると思うな」と釘を差されたほどだ。それがどういうわけかぼくの場合は就職に役立ってしまった。
「あ、どうも。どうも」
 大声を出しながら、副館長が事務室にやってきた。手には歴史小説を数冊抱えている。また開架で自分の読む本を選んでいたらしい。
 杉本さんは、マキちゃんとユカリさんだけではなく、副館長のお気に入りでもあった。営業に来るたびに長話に延々付き合わされる彼には、少なからず同情を覚えていた。
 二年前に開館したばかりの図書館は、いろいろと不都合なことが多く、そのたびにそれぞれの業者を呼びつけては、メンテナンスを依頼しているのだが、営業に来た杉本さんの誠実そうな態度がいたくお気に召したらしい副館長は、当初エレベーターの保守点検だけを受け持っていたはずの杉本さんの会社と、防犯カメラの設置や清掃業務の委託などの新しい契約を結ぶようになっていた。杉本さんは「ウチは建物の管理に関係することなら何でもやっていますから」と言う。それはいいのだが、杉本さんが来ると副館長は何時間でも話し続けていた。
 清掃業務の契約のときなど、杉本さんは夜の十時過ぎまで解放されなかった。もともと副館長は話が長くて、近くにある役場の本庁舎に行っては「忙しい」と言いつつ一時間以上も世間話をしてくるような人だった。その日は杉本さんと五時に約束していたにもかかわらず、三時すぎに出張に出て、七時近くまで戻らなかったのだ。図書館勤務の定時は六時三十分だからユカリさんとマキちゃんは先にあがってしまい、一人残されたぼくは、申し訳なさにいたたまれない思いをした。
「大丈夫、こちらに来るときはある程度覚悟してますから」
 しきりに謝るぼくに対して杉本さんは苦笑しつつもそう言ってくれた。
「それより君島さんはいくつなんですか?」
 放っておけばいつまでも謝るとでも思ったのか、杉本さんは話題を変えてくれた。
「ぼくは二十四です。ここができた時に入ったので。杉本さんは?」
「二十五。すぐ二十六になるんですけど」
「へえ、そんな若いのにもう結婚してるんですね」
 ぼくの言葉に杉本さんはちょっと笑った。
「実は、出来ちゃった結婚」
「え」
 別に珍しいことではないが、品行方正というイメージの杉本さんに似合わない言葉に、ぼくは一瞬絶句してしまった。
「交際期間四ヶ月で結婚しちゃったんですよ」
「はあ、そうですか。…お子さんは男の子? 女の子?」
 なんとか態勢を立て直して訊ねる。
「娘です」
「可愛いでしょう」
「まあ。でもぼくが可愛がると妻が怒るんですよね。普段育児に協力しないで好きなときにだけ構うってヒス起こしたりして」
「うーん、でも杉本さん、仕事忙しいんだから仕方ないですよね」
「君島さんは彼女います、よね?」
「実は最近微妙なんです。学生の頃からの付き合いだから今は遠距離恋愛中で」
 そんな話をしながら副館長の戻るのを待っていた。仕事上の付き合いしかなかった杉本さんとプライベートな話をしていると親しくなれたような錯覚があり、マキちゃんじゃないけれどなんだか心が浮き立った。

 今日の副館長は応接セットに腰を下ろすなり、杉本さんに言った。
「杉本さん、せっかく来てくれたのに悪いんですけど、私、今日は用事があって早退しなければならないんですよ」
 一瞬だが杉本さんがほっとした顔をしたのに気づいて、ぼくはにやっとしてしまった。杉本さんもぼくに目配せをよこす。ぼくと杉本さんはあの日以外にはあまり言葉を交わしたことはなかったが、副館長の横暴ぶりに虐げられる者同士の連帯感のようなものを感じていた。
 建物の管理について何か不都合があると必ずぼくが走り回らされることになっていた。空調の不調にも雨漏りにも(信じられないことに開館まもなくの雨でロビーに雨漏りがしたのだ)ユカリさんもマキちゃんも騒ぎ立てるだけで何の対応もせず、副館長に追い立てられたぼくが、わかりもしない設計図面をひっくり返し、業者に連絡を取った。
「そうだ、君島くん。まだ時々空調の調子おかしくなるだろう? 杉本さんにちょっと調べてもらえば」
「は?」
 ぼくは唖然として副館長を見返した。杉本さんは営業マンで技術者じゃない。それどころか空調のメンテナンスは完全に別の会社に委託されている。
「いいじゃないか。いろいろ見てもらって、来年は杉本さんとこに頼んでもいいんだし」
 副館長は度々こういうことを言い出しては杉本さんをいいように使っていた。
「ついでにあちこち見てもらっていろいろ教えてもらえば」
 この人は何を言ってるんだろう。副館長の話は「あちこち」とか「いろいろ」とかまるで具体性のない指示ばかりで、ぼくはいつも困惑させられた。杉本さんに「あちこち見てもらう」のは、もう何度もしていることだった。結局は「では後で技術をよこします」で終わるのがわかっていても、杉本さんは副館長に逆らわない。さすが営業マンだと思わざるをえなかった。ぼくならとっくに切れている。くやしいけれど採用試験の面接官の目は節穴ではなかったらしい。
「杉本さんよろしくお願いしますよ。君島と一緒に調べてやってください」
「わかりました。今日はこれで会社に寄らずに直帰の予定ですから、時間もあります」
 杉本さんが言わずもがなことを口にしたのは、副館長さえいなくなればすぐ帰るつもりだからだろう。
「じゃ、申し訳ありませんが私はこれで」
 帰りかけた副館長は、なぜかカウンターのほうに声をかけた。
「ユカちゃん、君島くんの代わりに事務室にいてくれよ。マキちゃん、カウンター一人で大丈夫だよな?」
 それを聞いたぼくは内心「げっ」と思った。
 図書館の職員は、名ばかりの館長の他に副館長以下四人しかおらず、カウンター業務と資料の整理にはアルバイトを頼んでいた。職員は事務室とカウンターを交替で勤めていて、今はユカリさんとマキちゃんがカウンター当番だった。
 女性たちがいくつになっても「ちゃん」付けで呼ばれていることも、ぼくが役場に馴染めない理由の一つではあったが、ぼくはユカリさんが苦手だった。
 ぼくの代わりにユカリさんが事務室にいるとなると、杉本さんが早く帰ればそれを副館長に告げ口するにちがいない。ユカリさんは面倒を起こすのが趣味みたいな人だ。
 ぼくはため息をついて立ち上がった。仕方ない、杉本さんには少し時間をつぶしてから帰ってもらうしかないだろう。
「じゃあ、空調機械室に」
 そう杉本さんを促す。彼と並んで歩くのは少しばかり抵抗があった。紳士服のモデルのような杉本さんのスタイル。ぼくを含めて頼りなげな公務員ばかりに囲まれているマキちゃんが憧れるのも無理はなかった。だいたい町役場には、ブルーのYシャツの似合う男なんてめったにいない。ぼくと同年代の多くは産業課や建設課に配属されていて、彼らはいつも作業服を着ている。図書館勤務のぼくにいたっては、ポロシャツにロゴ入りのエプロンだ。すっきりとしたスーツ姿の杉本さんと自分の恰好とを較べて、思わずため息が出た。
「時々エラーが出るんですよ」
 機械室に入って、空調の機械を示すと、杉本さんはふっと笑った。
「私が見てもわからないんですよね」
「そうでしょうね。いつも無理言ってすみません」
 副館長相手でないせいか率直に言う杉本さんに、ぼくは肩をすくめた。
「でも、申し訳ないんですけど、ここで十五分くらい時間つぶしてもらえませんか? すぐ事務室に戻るとちょっと差し障りがあって」
「十五分?」
 杉本さんはちょっと考えるような素振りを見せた。
「じゃあさ、イイコトしようか?」
 機械の音がうるさくて聞き間違えたかと思った。にっこりと笑顔を向けられて「え?」と聞き返すと、杉本さんはぼくの耳元に唇を寄せた。
「十五分じゃ足りないかな」
「何…ですか?」
 ぽかんと見上げたぼくの頬に杉本さんの唇が当った。これは何だろうと首を傾げていると杉本さんはスーツの上着を脱いで、機械の上に置いた。ネクタイをゆるめる。ぼくは杉本さんのしていることの意味がわからず、ただ彼の仕草を「いかにもサラリーマンっぽいな」などと眺めていた。ぐっと腕をつかまれて引き寄せられる。ぼくの唇に杉本さんの唇が押し付けられた。これって、これって…。
「えええ?」
 大声をあげようとして開けた口に杉本さんの舌が入り込んでくる。ぼくの舌に絡まり、歯の裏側をなぞる。息ができない。ぼくはパニックに陥った。もがけばもがくほど杉本さんの腕はきつくなって、ほとんど抱え上げられたような恰好になった。
「ちょっと! 何の冗談ですか!」
 ようやく杉本さんの唇が離れたので、ぼくは怒鳴り声をあげた。口の脇からよだれが尾を引いて情けない。睨みつけるぼくの目を杉本さんは平然と見返す。
「だから時間つぶしだよ」
 ぼくを抱きしめたままの杉本さんの手がエプロンの紐を解いた。シャツの裾をズボンから引き上げられ、あせる。
「杉本さん、どうしちゃったんですか」
「イイコトしてあげるって言ってんの」
 この人、何なんだろう。それはぼくには理解不能の事態だった。杉本さんの手がシャツの中で直接背中に触れ、撫で回してきた。頬から首筋を這う杉本さんの唇。これはヤバイ。杉本さんは錯乱しているのか、まともに話ができる状態じゃない。ぼくはそう判断して逃げ出そうとした。杉本さんの腕を外そうと身をねじる。ところが体格差のせいか腕は外れず、逆に後ろから抱きしめられたような形になっただけだった。
「放してください!」
 悲鳴まじりの声を杉本さんは鼻で笑った。今度は胸を触られる。
「アッ、やだ!」
 こっちのほうが直接的な刺激になった。ありもしない胸をぎゅっとつかんでくる。
「痛いっ。ちょっと、ほんとに杉本さん、やめて」
「十五分くれたのは君島くんでしょ」
「何、言ってんですか」
 まずい。ぼくの息があがってきた。杉本さんの手は胸から下に降りていった。腹をなでられ、ズボンのベルトにかかる。これはマジでヤバイって! 必死で押さえようとしたが杉本さんは難なくベルトを外してしまい、ズボンの中に手を入れてきた。下着越しに触られて憤死しそうだった。
「杉本さん、やめてください」
 ほとんど泣き声なのに杉本さんは気にも留めてくれない。下着ごと引き降ろされてぼくはついに泣き出した。こんなのないよ。
「やだ!」
 後ろから抱き込んできた杉本さんがぼくを弄ぶ。他人の手。それが快感を引き出す。大学時代からの恋人とは、卒業してお互いに地元に戻ったので、遠距離恋愛になってしまい、もう二ヶ月くらいそういうコトをしていない。
「ふ…っ、く、あっ」
 声が洩れた。機械音でうるさいはずなのに、なぜかぼくの息遣いだけがはっきりと響く。それはひどい羞恥を誘った。
「やだ…、あっ、あっ」
「イイ声してるね」
 耳元で囁いてくる声のほうがよっぽどいやらしくてぞくっとさせられた。足の力が抜けて自分で立っていることもできなくなり、抱えられた腰だけが重力に逆らっているようだった。その時、杉本さんの手がゆるんだ。
「表情、見せて」
 そう言って床に横たえられる。裸の腰にリノリウムの冷たい感触。杉本さんは覆いかぶさるようにしてぼくを追いつめてきた。
「いやだ!」
 こんな顔を観察される羞恥に涙が溢れてきた。相手が女の子ではないことのひどい違和感。触れてくる指の感触がまるで違う。
「は…、あ、や…。あ」
「一度泣かしてみたいと思ってたんだ」
 なんだ、それ。頭の片隅で冷静なぼくが呆れるが、杉本さんに追い立てられている身体のほうは収まらない。
「あっ…やっ、や。も…もう、もうやだ」
 もがく足が床ですべる。杉本さんから逃れたいのか擦りつけてるのか自分でわからない。どうすんだ、ぼく。もうほんとに我慢できないぞ。
「ああああ、いやだっ」
 やってしまった、杉本さんの手の中に。呆然と半身を起こしたものの、羞恥と屈辱で嗚咽がとまらないぼくの目の前で、杉本さんはぼくのエプロンで手を拭いた。
「何すんだよっ」
 どうすんだよ、それ。ぼくは杉本さんをきっと睨みつけ、エプロンを奪った。慌ててズボンを引き上げるぼくに、杉本さんが意外そうに目を見張る。
「あれ? けっこう気が強いんだ」
「あ、あんた、変態か」
 情けないが声が震えた。涙で視界が歪んでいる。
「どうかな?」
「奥さんとか、子どもとかに悪いと思わないわけっ!」
 そうだ、確か杉本さんは妻子持ちのはずだ。その彼がなんで男のぼくにこんなこと。
「奥さん、いなくなったんだよ」
 杉本さんは「ほら」と左手を広げて見せた。指輪がない。
「先日離婚してね。子どもも彼女が連れてった」
「…それって、ホモがバレたの?」
「俺はホモじゃないよ、多分。『仕事、仕事で家庭を顧みない男ってサイテー』ってよくあるパターンだと思わない?」
 そういう話、確かによく聞くかもしれない。杉本さん、帰りも遅そうだし。と考えてはっと気づく。違うだろ。
「…話、ずらしてるだろ」
 ぼくの睨みなんか、杉本さんにはまるで通じないのは、わかりすぎるくらいよくわかった。彼はしれっとした顔で腕時計に目を落とす。
「いいんだけど、もう三十分以上経ってるんじゃないかな」
「勝手に先、帰れよ。こんな恰好で、ぼくが出て行けるわけないだろ」
 泣き顔だし、エプロンは汚れてるし。事務室にいるのはユカリさんだ。どうしたらいいんだ、と思ったらまた涙が滲みそうだ。
「大丈夫、俺に任せて」
 つーか、あんたの責任だろ。杉本さんはぼくを抱え上げるようにして立たせた。事務室に戻ると、ユカリさんが「あら?」という顔で迎えた。杉本さんはいかにも心配そうな表情を作った。
「あの、君島さん、機械室で気分が悪くなっちゃって。アレルギーかもしれませんね。少し吐いちゃったんです」
 …こいつ、もう絶対信用しねえ。こんな平然と嘘つく奴、見たことないよ。
「ええ? 君島くん、大丈夫? 目、真っ赤よ」
 ぼくは羞恥で何と応えていいかわからない。ユカリさんの大袈裟な声に、カウンターのマキちゃんまでが事務室を覗きにきた。
「君島くん、どうしたの?」
「吐いちゃったんだって。君島くん、早退したら?」
「車、運転できるの?」
 マキちゃんの言葉に、杉本さんが口を出した。
「あのー、もしよければ、私このまま直帰なんで、君島さんのこと送って行きましょうか」
 冗談。
「あ、だ、大丈夫。自分で帰れます。近いし」
「大丈夫なのお?」
「大丈夫。すみません、副館長いないのに、ぼくまで早退で」
 ぼくはあたふたと荷物をまとめた。今日は厄日だ。早く帰って寝たい。とにかく眠って全部忘れてやる。



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