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失くした地図 -3-



「今日は、来てくれてありがとうございます」
 生真面目な顔つきで頭を下げられて、征司は苦笑した。和樹の態度はまるきり新人の営業マンといった風情だった。
 朋章に連れられて行った店には、すでに宏信と和樹が待っていた。テーブルの向こうに二人の姿を見て、征司は一瞬吐き気がこみ上げるのを感じた。征司は朋章の友人だという二人のことをほとんど何も知らない。そのために朋章に対する以上に本能的な恐怖があるのかもしれなかった。軽い貧血を起こしたように足が萎えた。
 征司を見て口を開きかけた朋章が言葉を探せずに唇を歪ませる。その途方に暮れた顔に征司はふっと息をついた。朋章に軽く頷いてみせ、怯えを振り払うように深呼吸してからテーブルに近づいた。
 和樹がすぐに腰を浮かせて頭を下げた。
 征司が席に着くと二人は緊張した面持ちで何度も謝罪の言葉を口にした。彼らの硬い表情を見ているうちに少しずつ征司には余裕が生まれた。
 明るい雰囲気の店を選んだのは、おそらく彼らなりの配慮なのかもしれない。品のよい居酒屋という感じの店は週日であるにも関わらずそれなりの混雑を見せていた。テーブル同士の間は広く空けられ、そこここに置かれた民芸調の調度が目隠しの役目を果たしている。
 まるで接待を受けているような感じだった。征司以外の三人は同級生同士で、征司だけが異質だった。微妙な距離で交わされる会話は、三人が征司を接待しているとしか思えない。あるいは恋人の友人たちに引き合わされているような。そんな連想をした自分を、バカだなと征司は自嘲した。
 一番緊張しているらしい和樹は喉が渇くようで、しきりにビールをあおっていた。
 痩せて背の高い宏信には、頭の回転が速いと思わせる皮肉っぽい雰囲気があったが、あの時よりずいぶん落ち着いて見えた。別のことで知り合ったなら信頼できる人間と感じたかもしれなかった。
 しばらくして朋章の携帯に会社からの連絡が入った。
「はい。え、まだ会社なんですか? ええ、その件は来週、先方から連絡が入ることになっています。え? いいえ、来週の確認を待ってからということで。…ええと、それ、誰からの電話でした? ちょっと待ってください」
 込み入った内容らしく、朋章は電話の途中で征司たちに軽く合図を送り、席を立って店の外へと出て行った。
 その背中を見送った和樹が口を開いた。
「上野さん。俺、これだけはどうしても言っておきたいんです」
 あの当時、三人の中では一番おとなしそうに見えた和樹は、今でもやはり同じ印象だった。その左手の薬指に指輪が光っていることを、征司は目に止めていた。そう、もう朋章だって結婚してもおかしくない年頃なのだ。当たり前の顔で仕事の応対をしていた。
 会社勤めの経験のない征司は、そのせいでうまく大人になり損ねているのだろうか、と自問してみた。
 三人の高校時代を想像してみる。おそらく魅力的な少年たちだったのだろうと感じられた。苦労知らずで、誰からも可愛がられて、屈託なく常にイタズラを企んでいるような。征司にしたことも彼らにとってはイタズラの域を出ていなかったのかもしれない。一瞬胃液がこみ上げた。
 和樹は真っ直ぐな目で征司を見つめた。
「朋章の気持ち。あいつは本気であなたが好きだったんだよ。あなたを怒らせたことで朋章はすごく苦しんでた。俺たち本当に悪いことしたと思ってます。絶対に許されないことしたって。だけど、それでも朋章はあなたのことが好きだから」
 そんなことを言い出した和樹の意図を測りかねて、征司は黙ってその誠実そうな顔を見返した。八年前には反発しか覚えなかった内容だが、今また同じことを重ねて言われて反応に迷っていた。和樹は、征司が朋章の気持ちを無下にしたと責めているのだろうか。
「バカ和樹」
 隣の宏信に小突かれて、和樹は「ちがう」と首を振った。
「ちがうんだ。本当に朋章は苦しんだんだよ。勝手なこと言ってるってわかってます。わかってるけれど、あなたに知っててほしいんだ。朋章は…」
「和樹、和樹。もうやめな」
 宏信が脇から和樹の頭を押さえ込んだ。
「だって」
 宏信の腕を振りほどいて顔をあげた和樹は涙目になっていた。
 そんな和樹の態度に征司はなぜか安堵に似たものを覚えていた。和樹の中にもまだ割り切れないものが残っている様子は、自分だけを残して周りの時間が進んでしまったようなやるせなさを緩和してくれる気がした。和樹の言葉が自分を責める内容だとしても、昔のことにこだわっているのは、自分だけではないのだと思えれば少しは楽になれた。
「おまえ、バカ、飲み過ぎ。顔洗って来い」
 宏信にパシンと頭を叩かれた和樹はよろよろと立ち上がった。ふらつきながらその姿が洗面所にたどり着くのを見届けて、宏信は征司に向き直った。
「すみません。和樹は飲み過ぎると泣き上戸になって」
「いいんだ」と首を振る征司に、宏信は真顔で頭を下げる。八年前の少年の面影など微塵も感じさせなかった。誰もがこうして大人になって、リアルだった感情を想い出にすりかえていく。許さないと唇を噛みしめたのは、八年前の自分。そうして許せないと思ったはずの相手は、どこに消えたのだろう。目の前で頭を下げる男に怒りを抱き続けることはできなかった。
 その時、征司が感じていたのは淋しさだった。許すなどという積極的な行為ではなく、ただあの怒りがどこかに消えてしまったのだ。
「不愉快な思いをさせて本当に申し訳ありません。上野さんが、俺たちに会うのは嫌だろうってわかってたんです」
 かつては三人の中で宏信が一際長身だったが、今の朋章は宏信にも大差ないくらいだ。まだ朋章の戻ってくる気配のない店の入り口に目を走らせて、宏信は早口に言った。
「だけど俺、あなたと話したいことがあって。できたらもう一度、あいつ、朋章のいないところで会ってもらえませんか」
 宏信は携帯の番号を記した名刺を征司に差し出した。


「ね、上野くん、次はあれに乗りたい!」
 薄暗いアトラクションの中から外に出て、眩しさに目を眇めた征司の腕をあずみが引っ張り、彼方に見える別のアトラクションを指し示した。
 よく晴れた土曜日のテーマパークはひどく混んでいた。
 クラス会をきっかけに連絡を取り合うようになったあずみが、人気のテーマパークに連れて行ってほしいと言い出した時、征司は電話口で笑ってしまった。
―沢渡が遊園地? 本気で?
―何よぉ
 頬を膨らませる顔が浮かんで、征司は自然に顔をほころばせた。
―ジェット・コースター、苦手だっただろ?
―あそこのは平気なの!
 電話での主張どおり、あずみはコースター系のアトラクションに征司を引っ張って行く。高校時代に行った遊園地でもあずみはキャーキャー叫びながら結局はすべての絶叫マシーンに乗ったことを思い出す。
「何笑ってんの?」
 長い列を作って順番を待つ間、あずみは征司の顔を覗き込んだ。
「沢渡って実は絶叫マシーン大好きだろ」
「あは、バレてる? うん、コワイけど好きだよー。でももうずっと乗ってなかったの。久しぶりですごい楽しい」
 征司はあずみの笑い方が好きだった。すべてをこちらに預けるような、そんな笑い方をする。どちらかと言えば丸顔で、右頬にだけできるえくぼが愛らしかった。
 同級生ではあっても、征司にはあずみが年下のように感じられることが多かった。小柄なせいもあって、つい頭を撫でたくなった。伸ばした手の先で、あずみは首をすくめて笑った。
「もー、何?」
「相変わらずちっちゃいな」
「ひどい」
 つき合っていた当時とまるで変わらないあずみが、征司には嬉しかった。
 はしゃいでいたあずみは、日差しが傾いてくるにしたがって、少しずつ無口になった。
 歓声を乗せて回り続けるアトラクションがオレンジ色の光を反射し始めた頃、風が冷たいと言って征司にしがみつき「もう帰ろう」と口にした。
「パレードを見なくていいの?」
 夕方のパレードや閉園前の花火がそのテーマパークの目玉の一つであるので、少し驚いて訊ねた征司にあずみは俯いて首を振った。
「パレードはいいの。寒いから帰ろう」
 笑みを消した横顔は年齢相応に大人びて見えた。
 車を走らせてしばらくは、あずみは湾岸に沈んだ太陽の名残に目を奪われたように窓の外に顔を向けていた。やがて車内にエアコンが効き始める頃、カーラジオから馴染みのある音楽が流れてきて、あずみは小さく歓声をあげた。
「やだ、この曲、懐かしい!」
 ちょうど征司たちが高校だった頃に人気を博していたバンドの曲が、テレビドラマの影響でリヴァイバルしているのだ。
「私、この曲大好きだったの」
「覚えてるよ。俺、全然わからないのに、カラオケで歌わされたことあったよ」
「えー、そうだった?」
「うん。この曲じゃなかったかもしれないけど、確かこのバンドの曲だよ。『歌ってー』って。知らないよって言ったのに」
 クスクスと笑う声が車内に満ちる。あずみとドライブするのは初めてであるはずなのに、征司は軽いデジャヴにとらわれていた。
 けれど、あずみは途中のレストランに寄ろうとした征司に首を振った。
「あんまりお腹空いてないの。ごめんね、このまま送ってくれない?」
 征司は仕方なくそのままあずみの家に向かった。朝はバス停で待ち合わせたので、十年ぶりの場所だった。家の周りは昔と変わりなく見えた。反対側の空き地に乗り入れて車を停めた。外灯が弱い光を投げかけている。
「今日はありがとう。本当に楽しかった」
 エンジンを切るとあずみはニッコリと笑みを浮かべた。
「沢渡は変わらないな」
「そう?」
「いや、かえって高校の頃より子どもっぽくなった気がするよ」
「何それ、失礼じゃない」
 唇をとがらせるのが可愛くて、征司は目を細めて首を振った。
「いや、いいなと思った」
 征司の言葉にあずみは「ふふふ」と笑った。その瞬間、征司の中にスライドするドアのように高校時代が戻ってきた。あずみを嫌いになって別れたわけではなかった。
「上野く…」
 柔らかな唇は、高校生のあずみが使っていた甘い匂いのするリップクリームとはちがう、すこし粘りついてくるような感触だった。
 征司は頭の隅で変に冷めている自分を感じていた。あの頃のあずみに対する愛しいという気持ちをどこに置き忘れてしまったのだろう。その片鱗が戻ってきたと感じたのに、唇を重ねる刹那、再び見失ってしまった。



「私、変わったのよ」
 触れるだけのキスの後、あずみは呟いた。夕闇に沈んだ車内に言葉はポトンと落ちた。小さく息をつき、あずみは笑った。
「私、もう沢渡じゃないの。ちょっと待っててくれる?」
 あずみは車を降り、家の中に入っていった。しばらくして戻ってきたあずみは小さな子どもを抱いていた。
「私の子なの。私、結婚してるのよ」
 征司は驚いてあずみの顔を見た。あずみは晴れやかな笑みを浮かべていた。
「今、夫は出張中なんだ。だから実家に戻ってて。ごめんね、上野くん。少しだけ夢を見たかったの。でも、やっぱりちがうのね」
 あずみはその肩にしがみついている幼児の顔を覗き込んでその頬を指先でなぞり、征司に視線を戻した。
「変わらないのは上野くんの方よ。なんだか私、お姉さんになった気分。淋しいから、がんばってはしゃいで若作りしちゃった。バカみたいね」
 落ち着いた、淋しい笑み。
「つき合ってた頃、上野くんてお兄さんみたいだった。同級生なのに、私、頼ってばかりいたよね。ほんとに王子様みたいに思ってたの。優しくてかっこよくて大好きだった」
 高校を卒業して別々の大学に進学してからは会える時間が極端に少なくなった。デートをするためにお互いにずいぶん無理をした。別れ際、あずみに「ずっと一緒にいたい」と言われることが征司には辛かった。泣き出すあずみをなぐさめることができない自分が苛立たしくて、電車の時間ばかりが気になった。
 あの無力な自分をあずみは知っている。王子様などではないことをちゃんと知っているのだ。
 そうして自分もあずみがいつまでも可愛い少女ではないことを知らされた。「夢を見たかった」とあずみは言った。自分こそ夢を見せてもらったのだ、と征司は思った。つかの間でもあの頃の気持ちに浸れた。それは確かに幸福な一時だった。
 征司はドアを開けて車を降りた。
「そうか、沢渡が母親になったのか。こんばんは」
 声をかけるとあずみが抱いている幼児の顔を征司のほうに向けた。振り向いた幼児の顔を見て、征司は心臓が止まりそうになった。
 朋章。
 征司の口からとっさに零れたその名は幸い声にはならなかった。
 あずみの子どもの顔は朋章の幼い頃によく似ていた。征司を見て少しはにかんだように笑いかける、その笑顔。
「か、可愛いね。男の子?」
 呆然とその顔に見入りながら征司が問うと、あずみは不服そうな声を出した。
「やだ、女の子よ。かすみっていうの。男の子って言ったの、上野くんが初めてだわ。ちょっと傷ついちゃうな。私に似てるってみんな言うのに」
「似てる…?」
 ちがう、朋章に似てる。
 征司は心臓が早鐘を打ち始めるのを感じた。頭の芯が冷たく痺れていた。
 女の子のような顔立ちをしていた朋章。いつも自分の後をついて回っていた可愛い少年。
 征司はあずみの子どもから目をそらせなかった。真っ直ぐに征司を見上げる眼差しが幼い頃の朋章に重なる。
「なんだか上野くん失礼。そうね、この子はちょっと食が細くて痩せ気味なの。私は丸顔だから。でも笑い方なんてそっくりだって言われるわよ。ほらー」
 あずみは子どもに頬をつけて同じように笑ってみせた。それを目にして征司は全身から血の気が引くのを感じた。立っているのが困難なほどの脱力感に襲われる。
 あずみの笑い方は朋章に似ていた。
 そういうことだったのだろうか。
 つき合っていた当時、あずみこそが征司の守るべき相手だと信じていた。でも、それは巧妙なすり替えにすぎなかったのか。
 中学までは女の子に告白されても心を動かされることはなかった。征司に告白してきたのは、どちらかといえば勝ち気なタイプが多かったので、自分の好みではないと思っていた。女の子とつき合うことよりも、いじめられ易い年下の幼馴染みだけが気がかりだった。
 高校に入ってから征司の世界は変わった。新しい友人たちとの会話には女の子の話題も多かった。そして征司は隣のクラスだったあずみに惹かれるようになった。あずみの姿は、朝礼や合同の授業のたびに自然に征司の視界に入ってきた。決して人目を引く美人とは言えなかったが、友人たちの間でもそれなりの好感をもたれていたあずみに惹かれたことに、その理由など考えはしなかった。二年になって同じクラスになり、当然のようにつき合うようになった。
 あずみと朋章が似ているなどと、一度たりとも考えたことはなかった。
 けれど、と征司は砂を噛むような気持ちで思い返した。俺は意識せずにあずみを朋章の代わりにしていたにすぎないのか。自分を慕う相手を求めて、あずみの笑顔にそれを見ていたのだ。思い上がった傲慢な動機で、あずみに近づいたんだ。
 神様がいるとしたらなんて残酷なのだろう。今さらこんなことを知らされてどうしろというのか。



 ネオンの灯り始めた路地を宏信は大股に歩いて行った。時折、征司がついて来ているか確認するように振り返り「こっちです」と先導する。
 あずみの子どもに会ったその後で、混乱した気持ちのまま征司は宏信の携帯の番号を回した。自分にとっての朋章がどんな存在であったのかを突きつけられて、一人で抱えていることが耐えられなくなった。宏信の話が何か見当はつかなかったが、いっそすべてを曝してしまいたいような気分になっていた。
 一度目は留守電に繋がったが、折り返しかかってきた電話で、翌日の約束をした。
 日曜日、夕刻の駅で待ち合わせると、宏信は知り合いの店があるからと征司の先に立って歩き出した。
 雑居ビルに入り、狭いエレベーターで三階に上がった。休日のせいで、そのフロアにある数軒の店はすべて休業中のようだった。宏信が会員制らしいバーのドアをためらいなく開けると、中には三十歳くらいの女性がいて「いらっしゃい」と征司に頷いた。
 宏信は征司に坐るよう促して、自分はカウンターの内側に入った。飲み物を作る女性の脇で、勝手を知った様子で肴になるものを用意し始める。
 女性は征司に「どうぞ」と水割りのグラスを差し出した。きれいに丸く削られた氷が入っている。宏信にも同じものを渡して「後は好きに飲んで」と言い置いて、彼女は店を出て行った。
「彼女、俺の恋人です。この店のオーナー」
 閉まったドアのほうに視線をやって、宏信は言った。
「そうか」
 彼女はあの夜のことを聞いているのだろうか。どうしてもそのことばかりを考えてしまう征司を見透かしているように、宏信は言葉を継いだ。
「昔の火遊びの片をつけたいって言っただけだよ。この店、日曜は休みだから」
 バーカウンターから出てきた宏信は、征司から一つ置いたストゥールに腰掛けた。
「あれは、ゲームだったはずなんだ。和樹はもしかしたらちがうふうに考えてたのかもしれないけれど、俺はそうとしか思ってなかった」
 宏信はゆっくりと語り出した。

 高校で同じクラスだった宏信と朋章は、ゲームのように女の子を落とすことを競い合っていた。和樹だけは一緒に騒ぎながらも自分はそのゲームに加わることはせず、時折は「どうしてそんなことばかりしてるんだ?」と呆れてみせたりもした。宏信はいつも「楽しいから」と嘯いていたが、朋章のほうはしばらくして「好きな人がいる」と言い出した。「振られてやけになってんの」と笑った。何度か話題にあがるたびに少しずつくわしい内容を聞くようになった。「昔の話だし」と言いながら、結局朋章が征司にこだわっていることは、宏信にも和樹にもわかっていた。
「一回やっちゃえば?」
 そう言ったのが、自分だったのか和樹だったのか、宏信は正確には覚えていない。話の流れで口をついた半分冗談だった提案。
 だから夏休みのその日、朋章からかかってきた電話は、宏信たちにとっては思いがけない頼みだった。「トラウマを克服する」と朋章は言った。それでも宏信は少し毛色が変わるだけでいつものゲームの感覚でいた。狙った女の子を落とすこととたいして違いを感じていなかった。朋章にとってもそうだと信じていた。

「本気だったんなら、もっと他にやり方があったはずなんだ。バカだよ、朋章は。後になって、あんなふうに取り乱すくらいなら、なんで最初から、ちゃんと…。和樹は朋章が可哀そうだって、ずっとそればっかりだけど、俺は腹を立てたりしたよ」
 宏信は肩をすくめて自嘲してみせた。
「ごめん。結局、俺、言い訳ばっかりしてる」
 征司には言うべき言葉はなかった。宏信はグラスをあおった。
「実は俺、あの後、男とやったよ」
「こっくはく!」とやけのような大声をあげて、征司に顔を向けた。
「俺が言うべきことじゃないよ。それは承知してるけれど、でも、上野さん、もう忘れてください。俺たちひどいことしたってわかってるし、あなたは男なのにああいう目に遭ったことにこだわってしまうかもしれないけど、でも、男同士だって同じですよ。…そう思ってほしいんです」
 征司を見つめて宏信は「殴ってくれませんか?」と言った。ストゥールから降りた宏信につられて征司も立ち上がり、二人は正面から向かい合った。
「俺たち、本当に償いの仕方がわからない。だから、ここで俺のこと殴って。俺、バカだから、こんなことしか思いつかないんだ。朋章の分も殴ってください。和樹の分もしょうがないから俺が引き受ける」
 唇を曲げて、困ったような、それでいて真剣な目で宏信は言った。
 その表情を前にして、征司の頭に浮かんだのは宏信が朋章の同級生だということだった。同じように自分より年下で、どこかに甘えがあると感じた。
 朋章。朋章。朋章。
 俺はいつもあいつのことばかり考えている。すべての中心に朋章がいる。
「殴る必要はないよ」
 征司はため息をついた。
「殴る必要はない。君たちも俺も子どもだったんだ。そういうことだろう」
 宏信は下を向き、ふーっと大きく息を吐いた後、顔を上げて苦笑した。
「ほんとは殴ってくれたほうがすっきりするんだけど。ここからが本題なんです」
 宏信はグラスを取り、立ったままで一口飲んだ。カウンターに戻したグラスに手をかけたまま、自分自身に言い聞かせるような口調で話した。
「こんなこと言ったら朋章に恨まれるだろうけれど、上野さん、朋章とはあんまり会わないほうがいいんじゃないですか?」
 征司は黙って宏信を見返した。
「あなたが、俺たちを許してくれて、もう忘れてくれるんなら、朋章には会わないほうがいい」
 カウンターの上のグラスと征司の顔を交互に見ながら、宏信は言葉を継いだ。
「誤解しないでほしいんだけど、俺は朋章が好きですよ。だけど、あいつ、ちょっとおかしいところがあると思う。ていうか、あなたに関することでおかしくなる。だから、上野さんは朋章には関わらないほうがいいんじゃないかと思って」
 征司はふいに泣きたくなった。
 こいつもわかっていない。誰もが誤解していたんだ。俺自身でさえ。
 おかしいのは朋章じゃない。俺だ。
「君は朋章がまだバカなことを仕出かすと心配してるのかもしれないけれど、あいつだって子どもじゃない。ちゃんと結婚するつもりの人がいるらしいし、もうあんなことにはならないよ」
 朋章はもう大人なんだ。征司は自分が泣きたいのか笑いたいのかよくわからなかった。判断力のない子どもとはちがう。朋章が征司に惑わされることはないだろうと思った。
「結婚…?」
 宏信は不審げな顔になった。
「朋章が結婚するって、そういう話ですか?」
「君は知らないのか?」
「あ、いや、俺たちもずっと会ってなかったから、朋章に恋人がいても知らない可能性は高いけれど。高校卒業してからはあんまり連絡取ってないんです。やっぱりあいつは、あいつなりにあのこと反省してて、きっと俺たちには会いたくなかったんですよ」
 宏信はため息をついて首を振った。
「そう、あいつ結婚の話なんかしたんですか」



「終電を逃したんだ。泊めてくれないか」
 自分の声が必要以上に挑戦的に響いたように、征司には感じられた。携帯の向こうで朋章は一瞬沈黙したようだった。
 征司は宏信の恋人の店を出た後、見慣れたカフェバーのチェーン店を見かけて足を踏み入れた。学生や若いOLなどでざわめく明るい店の隅で一人安っぽいカクテルを飲んでいた。
 地元への電車がなくなることがわかっていて、席を立たなかった。肘をついて頭を支えていると、ちょうど耳のそばにきた腕時計のカチカチと時を刻んでいく音が、いつもより緩慢に聴こえた。
 カフェバーを出て駅に向かうのにもことさらにゆっくり歩を運び、俺は酔っているのだ、と自分に言い聞かせた。
 朋章が部屋を借りていると聞いた駅で降りて、携帯をかけた。コール音が増えるごとに息苦しさが募った。出なくていい、そう念じた時、朋章の声が聴こえた。
 駅に迎えに来た朋章は、何も言わずに征司をアパートに連れて来た。キッチンの奥に六畳程度の部屋がついた、まるで特徴のない独身者向けのアパート。部屋の主である朋章だって同じだ。スポーツブランドのパーカーにコットンパンツというラフな服装で、休日の若いサラリーマンのサンプルみたいな涼しげな表情をしている。
「飲んでたの?」
 静かな声で訊かれて、自分のみっともなさを自覚して征司は俯いた。
「ああ、ちょっと。明日、仕事なのに悪いな」
「それはいいけど。お茶でも飲む?」
 征司が頷くと、朋章はキッチンからウーロン茶のボトルを持ってきた。グラスを二つ取ってきて、自分の分も注ぐ。その手元がわずかに揺れた。それを征司は見逃さなかった。
「緊張してる?」
「え?」
 征司がふいに発した言葉に、朋章は目を見張った。
「緊張してるんじゃないのか? あの時みたいだろ。部屋に二人っきりでさ」
 ぴたりと視線を合わせて、征司は言い放った。
 朋章の喉が動いた。そのひるんだ顔を見て、征司はザマーミロという気になった。どうせ俺は大人になれない。いつまでも朋章にこだわっている。なのにその相手は素知らぬふりで自分を追い越して行ってしまった。
「でももうあの時みたいなことにはならないよな。おまえにはちゃんと恋人がいて、結婚の約束まであるんだから。…俺には何もないのに」
 言い募る征司を朋章は無言で見つめていた。見開かれた目に昔の面影を見つけ出した征司はそれにすがりたかった。
「俺には何もない。朋章のせいで俺の人生めちゃくちゃだよ。責任取れよ。何もなかったふりなんかできるかよ」
 嘘だよ、とすぐに笑うつもりだった。責めた後で冗談に紛らせるつもりだった。でも笑うタイミングなどどこにもなかった。
 一人で勝手に大人になって、俺を置いてきぼりにして。
 朋章の顔を見たら、泣きつきたい衝動を抑えられそうになかった。征司は顔を伏せて自分の身体を抱え込んだ。堰を切った涙が溢れ出した。俺だけが。
「く…っ」
 言葉をなくしていた朋章が、征司の嗚咽に弾かれたように口を開いた。
「ごめん。征司くん、ごめん。俺、本当に征司くんを苦しめるつもりじゃなかった。こんなに…」
 朋章は征司の肩に伸ばしかけた手を置くことができないまま自分の膝に戻した。
 ちがう。俺だ。俺が朋章を。
 征司は苦いものを飲み下すようにそう思った。傷つけられたと、被害者だと信じていた。けれど征司自身が朋章を愛して、縛りつけた。他の誰も見ないように自分だけを見ているように。
 ただの幼馴染みのはずだった。その関係が歪んだのは、朋章があんなことをしたせいだと思っていた。そうではなくて最初から歪んでいたのかもしれない。
 征司は腕で涙を拭って、首を振った。
「俺、本当にバカな子どもだった」
 征司が何を否定しているのか知らない朋章は、膝の上で拳を握りしめて自責した。
「征司くんに彼女がいるって知って、裏切られたって勝手に思って、ずっと許せなくて、だから征司くんも傷つけばいいと思った。征司くんを傷つけても自分の思いを遂げたかった。本当に俺、最低だよ。どうしたら償えるかわからないんだ。ごめん。謝ることしかできなくて、俺、本当にどうしたら…」
 うなだれる朋章に無言のまま征司は立ち上がりキッチンに逃れた。テーブルに坐り頭を抱える。
 征司は朋章の謝罪の言葉を聞きたくなかった。それは朋章のしたことが許せないからではない。朋章があの夜を過去として清算することが嫌なのだ。
 朋章のしたことが子どもの行為だとすれば許せるはずだった。こうして苛立ちをぶつけているのは、今でも朋章がほしいからだ。
 幼い頃とはちがう。朋章は、あの頃のような保護欲を刺激する外見はしていない。一人前の男として、誰の手も必要としていない。それでも征司は朋章を求めていた。叶わないことと知っていて自分の支配下に置くことを望んでいた。
 俺は醜いエゴを隠して、朋章のしたことを責めている。征司は苦い気持ちで考えた。忘れられないんじゃない。忘れないんだ。朋章が負い目を感じている間は、優位に立てると計算して。
 それでも朋章の打ちひしがれた姿は、征司の胸をえぐった。いいんだ、と言ってやるべきだと理性は告げていた。子どもの過ちだとお互いにわかっているのだ。だが、今の征司には、あれが過ちにすぎないと認めることが一層つらく感じられた。
 しばらくして、朋章は静かにキッチンにやってきた。椅子に坐った征司の脇にきて、床に膝をついた。
「征司くんに、会わせたい人がいるんだ」
 忠誠を誓う騎士のように、朋章は下から征司を覗き込んだ。



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