スクランブル -3-車に近づいた時、ミズキさんは「怜二の車」と声を漏らした。追いかけて来なかった青葉さんのことを考えたのかもしれない。 「あの……、あの、青葉さん、今日、お酒飲んじゃってて、だから、俺が代わりに送っていきます」 ミズキさんは黙ってドアを開けて助手席に坐った。俺は慌てて運転席に乗り込んでエンジンを始動させた。 「駅で、大丈夫ですよね?」 発進する前に行き先を確認すると、俯いていたミズキさんは、やがてクスクスと笑い出した。 「あの……?」 「…バカみたい」 クスクスと笑いながら、ミズキさんは呟いた。 「バカみたい、私」 もう一度くり返したミズキさんの声に、涙が混じった。ぼろぼろと涙をこぼしながら、ミズキさんは笑っていた。やがてクスンと小さく鼻を啜る音がしたので、俺は黙って車の中にあったティッシュペーパーの箱を彼女に差し出した。 「ありがと」 受け取った彼女はそれで涙を拭い始めた。それは一枚では足りなかったらしく、何枚目かのティッシュを顔に当てたままミズキさんは「さっきの、痛かった?」と訊いてきた。一瞬何の事だかわからなくて首を傾げた俺に「バッグ」とつけ加える。 「俺には、当たらなかったですよ」 「そう。ごめんね」 「いえ」 泣き止んだミズキさんには青葉さんのアパートで最初に見た時の怖さはなくて、むしろ知的な雰囲気を感じた。 「みっともなかったでしょ、私」 相槌の打ちようがなくて、黙っている俺に、ミズキさんは続けた。 「みっともないとこ見せたら、抱きしめてくれるかなーって、計算」 主語のないセリフが切なかった。 「計算、外しちゃった」 自虐的に言い放つミズキさんに、慰め方がなかなか見つからない。 「青葉さん、今日、酔ってたから」 俺の言葉に、ミズキさんは小さく笑った。 「駅に、送ってくれる?」 促されて、俺は車を走らせた。 「十河くん、だよね?」 「あ、はい」 名前を確認されて、名乗っただろうかと不思議に思いながら頷いた俺に、ミズキさんはさらに意外なことを言った。 「怜二と仲がいいんでしょ」 「いえ。あの、俺はゼミの後輩で、今日はたまたま……」 「そうなの? 怜二はよく話題にしてたけど」 「え?」 「ゼミの後輩が、ってよく話してたの、十河くんのことだと思ってた」 「それは、他の奴のことだと思います。俺は今日まで、青葉さんとはあまりしゃべったことなかったし」 青葉さんと親しいゼミ仲間が誰かとっさには思いつかなかったけれど、とりあえずそう言った。 「怜二、誰か他に好きな人できたのかな」 ミズキさんの言葉に、俺の頭には珠里が思い浮かんでしまい、慌てて振り払った。 「俺には、わかりません」 「そう」 ミズキさんは窓の外に目を向けた。 「昔ね、私、友だちと怜二のこと取り合ってたの」 「え」 「付き合うようになる前、私ともう一人、怜二のことを好きなコがいたの。それで、怜二は私を選んでくれて──でも、もう一人のコはその後すぐ、怜二の友だちと付き合い始めたのよ。こうなってみると、いろいろ考えちゃうわね」 窓の外に目を向けたまま、ミズキさんは独り言のように呟いた。 「怜二は最初から知ってたんじゃないかしら。友だちが彼女のことを好きだって」 「そんな」 ミズキさんの言葉の意味に気づいて、俺は思わず声をあげた。 「それって、つまりミズキさんは、青葉さんが自分の友だちがもう一人の人を好きなの知ってて、それで、友だちのために自分はミズキさんと付き合い始めたと思ってるんですか?」 「それだけじゃないとは思うけど。でも、そういうことも少し関係してると思う。結果的にみんなハッピーエンド。四人で一緒にコンサート行ったりしてね」 ミズキさんはふふっと声を漏らして笑った。 「怜二って優しいんだよね。優しいんだけど、私はその優しさに傷つけられちゃうの」 「ミズキさん」 「一緒にいる時は気づかなかったの。離れている時に、冷静になって考え始めると不安ばかり募っていくの。怜二は私に対して怒ったことないのよ」 「でも、さっき青葉さんは、ミズキさんを心配して、帰れって……」 「優しい声でね」 ミズキさんは皮肉っぽく唇をゆがめた後で、困ったように俺を見た。 「ごめんなさい。十河くんに八つ当たりしてもしかたないのにね」 駅について、ロータリーに車を停めると、シートベルトを外しながら、ミズキさんは「ありがとう」と言った。 「聞いてくれてありがとう。十河くんに話したら少しすっきりしたわ」 「ミズキさん。きっと今、青葉さんは、ミズキさんが忙しいみたいだから無理をさせたくないんだと思います」 「そうね。怜二は優しいからね」 俺の言葉に、素直に同意したミズキさんを、俺はもう一度見つめた。 「本当です。青葉さんは、ミズキさんを大切に思ってるんですよ」 ほんの短い時間、車に同乗しただけでわかる。ミズキさんはきれいなだけじゃなく、頭がよくて誠実な人だ。きっと仕事だってがんばっているんだろう。だからこそ青葉さんは彼女に無理をさせたくなかったにちがいない。 「青葉さんがどんな人か、ミズキさんはわかってますよね?」 重ねて訊ねた俺に、ドアを開けて車を降りたミズキさんは、にっこりと鮮やかな笑みを向けた。 「ええ、わかってるわ。それじゃ、ありがとう」 青葉さんのアパートに戻ると、青葉さんは部屋の前で俺を待っていた。 「アパートの鍵も、車の鍵と一緒にしてあるんだ」 手の中を確認すれば、青葉さんのキイホルダーには車の鍵だけでなくたくさんの鍵がついていた。 「すみませんっ」 慌てて謝って鍵の束を差し出すと、青葉さんは小さく笑って受け取った。 「いいよ。自業自得。おかげでいろいろ考えることができた」 部屋のドアを開けた青葉さんは「入れよ」と俺を促した。 「ミズキさん、駅まで送ってきました」 「ん、ありがと」 後ろから声をかけた俺を振り返らず、青葉さんはキッチン脇にある浴室のドアを開けた。シャワーのセットをしているらしい青葉さんの背に重ねて言う。 「その……泣いてましたよ」 「ん」 背中越しに短く答えるだけの青葉さんに、俺はそれ以上言葉を重ねることができなかった。 ──青葉さんの本命は誰ですか? いっそストレートな言葉で詰問したい気分だった。 ──ミズキさんをどう思っているんですか? そして、珠里のことはどう思っているんですか? 青葉さんの気持ちがどこにあるのか、無性に気になっていた。もちろんそんな質問を口にすることなどできないまま、俺は青葉さんの部屋に泊まり、翌朝、青葉さんの車に同乗して学校に行った。 青葉さんの部屋に泊まった翌々日は土曜日で、大学は休みだったが、必修の授業で出された課題のレポートがあったので、一日中自分のアパートにいた。 そして、午後になって部屋に遊びに来た珠里が、夕食を作ってくれた。俺がパソコンでレポートを打っている間、珠里は音量を絞ったテレビを見ていた。同じことをしていなくても、同じ空間にいられる幸せ。青葉さんを好きだったころの珠里や、今のミズキさんはそれが叶わない状況にいる。 ──怜二、誰か他に好きな人できたのかな ミズキさんの声が耳によみがえった。ミズキさんも珠里もタイプがちがって、それぞれに魅力的な女の子だった。珠里は青葉さんと再会したことを俺に言わなかった。青葉さんと珠里が会っているとしたら、青葉さんが再び珠里に惹かれたとしてもしかたないような気がした。青葉さんがN大にいた時とは逆に、今、青葉さんの近くにいるのはミズキさんではなく珠里のほうだ。 「離れてるって、物理的な距離のことだけじゃないからね」 いきなり声を発した珠里に、俺はびっくりして彼女の方を見た。青葉さんと珠里との距離を考えていたところだったので、タイミング的にも驚いてしまった。 「いきなりどうしたの?」 珠里は立ち上がって近づいてきて、後ろから俺に覆いかぶさった。柔らかな重みが背中にかかる。 「十河くんが私から目を離したら、すぐどっか行っちゃうからね」 「胸、当たってるよ」 「ばーか」 からかうと、珠里は俺から身体を離して、再びテレビの前に坐ってクッションを抱え込んだ。 「十河くんのばーか」 俺は苦笑して、パソコンをやめて珠里の傍に行った。 「どうしたの?」 珠里は唇をとがらせて俺を見た。 「ちゃんと私のこと見てよ」 「ん、わかってる。もうちょっと待ってて。もうすぐレポート仕上がるから」 なだめるつもりで頭を撫でたら、珠里はふいに抱えていたクッションで俺を押し返した。 「その言い方、キライ」 「え、何?」 「そういう口調、私、嫌いなの!」 珠里の悪態は、小さな仔猫が暴れているみたいだった。相変わらず珠里は俺にとって少し難しいパズルで、でもやっぱり可愛かった。たとえ珠里が青葉さんを好きでも、今、ここに──俺の傍にいてくれるだけでいいと思った。 そして、もし珠里がやっぱり青葉さんを好きだとしたら──いつか彼女がそう告白したら、俺はいさぎよく身を引こうとも思った。 翌週の木曜日は午前中の授業が休講だったので、珠里に連絡を取って大学近くの定食屋で一緒にお昼を食べた。珠里は木曜の授業を取っていなくて、設計事務所のアルバイトを入れていた。 「今日、バイト休みだったの?」 何気なく訊くと、珠里は「ううん」とかぶりを振った。 「十河くんに会いたかったから、休むことにしちゃった」 「大丈夫なの、そういうことして」 「電話して休むって言ったら、ちょっと嫌な声出された」 和定食の南蛮焼きを箸でつついてそう言った後で、顔をあげた珠里は俺と目を合わせて「どうしても会いたかったんだよ」と小さな声で囁いた。単純かもしれないが、甘えるような言い方が可愛くて思わず頬が緩んだ。 「十河くん、今日部屋に行ってもいい?」 俺につられたらしい笑顔で、珠里が訊いてきた。 「どうしたの? あらたまって」 「そういうわけじゃないけど」 小さく唇をとがらせる珠里が子どもっぽく見えて、俺は彼女の顔を下から覗き込んだ。 「いつでも歓迎。このあとは購読とゼミがあるから図書館で待ってて」 本当はそのままキスしたいところだったけれど、他人の目が気になる小心者の俺は、人指し指で珠里の唇をつつくだけにした。 ゼミが終わった後、珠里の待つ図書館に向かおうとした俺を、青葉さんが呼び止めた。 「十河、今日何か予定ある?」 「なんですか?」 「ん、もし空いてたら、飲みに行かない?」 珍しい誘いに、少し驚いて青葉さんの顔を見返すと、彼はなんだか沈んでいるように見えた。 「何かあったんですか?」 俺の問いかけにほんのわずかためらうように視線をそらして、青葉さんは「…うん」と頷いた。 「十河に話を聞いてほしいんだ」 「わかりました」 珠里との約束を忘れたわけではなかったが、反射的に答えていた。青葉さんがこんなふうに言うのは余程のことだと感じた。 「けど俺ちょっと図書館に用事があるんで、少し待っててもらえますか?」 「じゃ、車を図書館の駐車場に回しておくから」 珠里は、一階の雑誌コーナーにいた。入っていった俺を目ざとく見つけて、ぱっと笑顔を作る。その表情が無防備すぎて少し胸が痛んだ。 「ごめん」 近づいて謝ると、珠里は軽く小首を傾げて俺を見上げた。 「なに?」 「今日、ダメになっちゃったんだ。ゼミの先輩に頼まれ事して」 「今日じゃなきゃダメなの?」 追及されて、俺は曖昧に言葉をにごした。 「わかんないけど、多分」 「時間がかかること? 私、待ってちゃダメ?」 こんなふうに食い下がってくるのは珠里にしては珍しいような気がしたけれど、俺が約束を急にキャンセルするのが初めてだからかもしれない。 「ごめん。どのくらいかかるかわからないから。明日はどうかな?」 俺の提案に答えず、珠里は質問を返してきた。 「誰?」 「え?」 「ゼミの先輩って誰?」 どうしてためらってしまったんだろう。俺はすぐに答えるべきだった。ためらいが不必要な間を生んで、意味のないはずのものに意味を演出してしまう。 「十河くん、誰に何を頼まれたの?」 沈黙がやけに長かった。珠里が黙って俺の顔を見つめている。 「……青葉さんなんだ」 ようやく答えた俺に珠里が小さく息をついた。 「あの、青葉さん、何か相談があるみたいで。だから、どのくらいかかるかわからないし」 「もう、いいよ」 ぷいっと珠里は横を向いた。 「珠里」 「いいよ」 声に涙が混じって聞こえたのは俺の気のせいだろうか。珠里は最近少し情緒不安定気味なのかもしれない。 「あの、ごめん。青葉さんはゼミの先輩だし、今日ちょっと沈んでいる様子だったから、その、明日、明日は絶対空けておく。だから明日来て」 「明日、十河くんは塾の日じゃない」 俺は週に一度、学習塾の講師のアルバイトをしていた。それが週休前の金曜日なのが珠里には不満らしく、以前から何度も「他の曜日に変えられないの?」と訊かれていた。 「バイトは休むから。俺だって本当は珠里と一緒にいたいし。だから今日はごめん」 「バイバイ」 いきなり手を振られて、俺は少し呆気にとられた。苦笑いに近いようだったが、それでも珠里は笑顔を作って左手をひらひらと動かした。 「怜ちゃんが待ってるんでしょ。バイバイ」 「ん、ごめんね」 俺は珠里が了解してくれたことにほっとして、軽く手を振り返して図書室を出た。 |
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