STEP -2-高校時代の俺にとって加賀くんは、ただの一つ上の先輩ではなく衆目を集めるヒーローであり、自分には縁のない世界の住人だった。 初めて加賀くんを知った時。あれはいつのことだったか。確か一年の秋頃ではなかったか。とっていた選択授業の美術が自習になり、与えられた課題に飽いた俺たちはそれぞれ勝手なことをしていた。そのうち女子の何人かがベランダに出て行き、グラウンドに向かって声援を送り始めた。美術室は校舎の端にあって、ベランダからはちょうどサッカーコートが見下ろせた。その時間グラウンドでは、二年生の男子がサッカーの試合をしていた。キャーキャーとはしゃぐ声につられて、いつのまにか美術クラスの半分以上がグラウンドのサッカーを観戦していた。 「加賀センパーイ」 女子の口から出る何人かの固有名詞の中で、彼の名前が一番頻度が高かった。いつしか俺にも「加賀先輩」が誰か判別できるようになっていた。疲れを見せることなくコートの端から端までを駆け回るその人の姿は確かに目立っていた。シュートが外れれば大げさなほど悔しがり、ようやくゴールを決めた時にはたかが授業の試合と思えないほどの喜びようだった。近くの仲間に抱きついた後、校舎を見上げ、眺めていた俺たちに向かって大きく手を振ってみせた。周りにいた女子が悲鳴めいた歓声を上げて手を振り返す中、まるでアイドルだと呆気に取られるような気持ちで眺めていたことを思い出す。 その後にあった生徒会選挙で、会長の推薦人となった加賀くんは、人をくった応援演説をして講堂を沸かせた。場の盛り上げ方をよく知っている人だと思った。 秋の文化祭でも加賀くんは音楽室で行われたライブで、当時人気のあったロックバンドのコピーなどをして女の子たちに騒がれていた。彼は本当に高校のアイドルだった。 同じ大学に入って友だち付き合いが始まってからも、俺には加賀くんに対して気がおけるというほどでもなかったが、緊張する部分はあった。そういう俺の態度を、加賀くんは面白がっているという印象だった。 「こら、亘。何呆けてんだよ?」 話の途中ハンサムな顔にうっかり見惚れていて、気づいた加賀くんに額をぺチンと叩かれて我に返る。 「亘ってヘンな奴」 そんなふうに笑いかけてくる加賀くんの表情が好きだった。気さくなアイドルのようで、俺よりもずっと余裕のある人だと信じていた。 昨日の夜も、俺がうまくかわすことさえできていたら、ただのキワドイ冗談で済んだはずのことだったのかもしれない。加賀くんの友だちでいるには、俺はまだガキすぎるんだろう。ぎこちない反応がぎこちない結果を生んだようで、俺は自分を情けなく思った。 どうしてすぐに笑えなかったんだろう。どうしてあんなふうに逃げ出してしまったんだろう。 俺たちはそのまま学食に向かった。 学食のテーブルで、俺は加賀くんの隣に坐れなかった。先に敦志と加賀くんが奥に坐り、敦志の隣に信也が腰を下ろしたので、そのまま俺が加賀くんの隣に行くのが自然だった。でもできなかった。俺は信也の隣に坐った。それは傍から見れば取り立てて不自然というほどの行動ではなかったかもしれないが、俺自身ははっきり不自然さを自覚していた。そしてその不自然さに加賀くんが気づいただろうことも。 思い返せば大体いつも加賀くんの隣が俺の定位置だった。他の奴としゃべっている横顔にぼんやり見惚れていることも多かった。誰かの冗談に受ける度に加賀くんは、笑いながら俺に身体を寄り掛けてきたり肩を叩いたりした。あんなことの後では、そんなふうに触れられたら平静でいられる自信がなかった。 「そうだ、加賀。今日、夏季休暇の課題、出たぞ」 古河くんが先程の時間に配られた課題表を加賀くんに示した。 「今日の四限、休講だったよな。どうせなら今から準備始めねえ? やっぱ夏は心置きなく遊びたいっしょ」 「へえー、古河くんて真面目だねえ」 ちゃかすように言う信也に、古河くんは胸を張ってみせた。 「そうっすよ。俺はケジメつけるのが好きさ。つーことで三限終わったら図書館に集合な」 「あ、俺、今日は用事あってパス」 加賀くんが片手を上げてさえぎった。 「悪いけど、これコピーだけしておいてくれないか?」 「用事って何? デート?」 信也の問いに加賀くんが答えるより早く、古河くんが俺を見た。 「亘のほうは今日はデート、大丈夫なの?」 「別にそんなの…」 俺は口ごもった。加賀くんの前で彼女のことはあまり話題にしてほしくなかった。 「亘、彼女とはどのくらい会ってんのさ。ガッコが違うって結構ハンデだよな」 「早いとこモノにしないと、古河くんみたいに逃げられちゃうよ」 「信也、てめえ余計なこと言ってんじゃねえぞ」 古河くんは近くの女子大の子に携帯電話の番号を教えてもらったものの結局進展しなかったことがあって、今でも時々「あの子どうしてるかなあ」などと気にしていた。 「やっぱアレだよね、亘チャンは押しが弱いからさ、ガンガンいっとかないと」 「ははは、信也、それ自分に言ってんだろ」 「いや、もう俺はバッチリだよ。もうホント、すーぐ肩だって抱いちゃうもんね」 言いながら信也は隣に坐る俺の肩に腕を回した。 「キスだってしちゃうよ、俺は」 俺の目の下あたりを信也の唇が掠め、古河くんたちは噴き出した。 「バッカでー。せいぜい亘にしかできないくせに。ちゃんと女の子にやってみせろよ」 笑っている加賀くんの目が笑っていない。 俺は信也の腕の下で身体を硬くしていた。 「あ、加賀だ」 古河くんが目ざとく見つけて声をあげた。図書館二階の学習室に俺たちが陣取ってすぐに、窓の外、中庭を横切って図書館に向かってくる加賀くんの姿があった。 「用事終わったんかな。加賀くんの用事ってなんだったんだろね?」 「ズバリ女の子。最近挙動不審じゃん。新しい彼女でもできたんだよ」 敦志の言葉に信也が断言してみせた。 「内緒の彼女? やらしーなあ、加賀」 古河くんが笑って、信也が「追及しよう、そうしよう♪」と歌い出した。 しばらく経っても加賀くんは学習室には入ってこなかった。 「遅えな。何やってんだ、あいつ」 トイレに行くつもりで席を立った俺に、古河くんが「ついでに加賀を探して来い」と声をかける。 雑誌コーナーの奥、ソファに坐る加賀くんの背中が見えた。近づきかけて俺は足を止めた。加賀くんは一人ではなかった。加賀くんのさらに奥に女の子の横顔。加賀くんが以前付き合っていた、三年生の村井さんだった。別れたはずの二人が、寄り添うようにソファに坐っていた。 「もう私と会わないんじゃなかった?」 村井さんが口を開き、からかうような調子で言いながら加賀くんを覗き込んだ。 「意地悪言うなよ」 拗ねた口調で言った加賀くんは、ふいにしがみつくように村井さんを抱きしめた。その瞬間、ぎゅっと絞られるような痛みが俺の胸を走った。 「情けないなあ」 抱きしめられた村井さんがのんびりと呟く。 「うるせ」 村井さんの綺麗な指が加賀くんの髪を梳いていた。 俺はその場を逃げ出した。理由のわからない胸の痛み。 ──加賀は意外と年上好みだろ 古河くんの声が耳に蘇る。入学したばかりの頃、飲み会の席で女の子の話になった。その時加賀くんには付き合っている相手がいなかった。「あ、そうなん?」いかにもモテそうな加賀くんの意外な実態に古河くんはやけに嬉しそうだった。 ──きっと加賀にはお姉さまが似合うって! 傍で聞いていた俺たちは古河くんの勝手なオススメに笑っていたけれど、しばらくして加賀くんは村井さんと付き合い始めた。年齢的には二人は同い年だったけれど、学年が上のせいか村井さんには年上っぽい雰囲気があった。 学習室に一人で戻った俺に、みんなは「あれ?」と声をあげた。 「亘、加賀は?」 古河くんに訊かれて首を振った。 「加賀くんは、俺たちのとこに来たんじゃないよ」 「え?」 「下に、村井さんがいた」 変に息苦しくて言葉が咽喉につかえた。 「なっにー? なんだよ、あいつらまた付き合ってんの?」 「あららー、そうなんだ」 騒ぎ立てる古河くんたちの前で、俺はうまく笑うことができなくて唇を噛んだ。 ──夏休みに海に行かない? コンパで知り合った彼女、みのりちゃんはファミレスでアルバイトをしていて、いつも忙しかった。そんなにしょっちゅうデートはできず、普段は夜の電話がせいぜいだった。古河くんに言われるまでもなく会う機会が少なければ進展のしようもなかった。 「夏休みはどうするの?」と聞いた俺に、みのりちゃんは海に行こうと提案してきた。 ──亘くん、夏休みは帰省するんでしょ。その前に一緒に海に行こうよ 去年の夏、加賀くんの車で海に行った。加賀くんの車に五人が乗るのは無理があって、コンビ二休憩ごとにジャンケンで席を決めた。運転席の加賀くんは「信也が一番デカイんだから、助手席に来るしかないだろ」と言ったけれど、古河くんが「それは不公平だ」と反対したから。 海に着くまでは「ナンパする」と散々はしゃいでいたのに、結局話しかけることができたのは、中学生のグループだけだった。飛んできたボールを捕まえて、ビーチバレーの仲間に入れてもらった。お遊びの試合に一番ムキになったのはやっぱり加賀くんで、ミスして怒鳴られた信也が「俺、もうヤダ」と頭を抱えて中学生に慰められていた。 「俺、海はちょっと苦手かも」 ──え、そうなの? 「去年行って、焼きすぎて熱出したんだ」 ──ほんとに? クスクスと笑う声。 ──じゃあ日焼け止めの強力なの用意してあげるよ 「そうだね」と言って電話を切った時、俺の頭に浮かんでいたのは、みのりちゃんではなく加賀くんだった。 去年の海の帰り、古河くんたちのアパートで三人が降りた後、助手席に移ると加賀くんは俺の顔に手を伸ばしてきた。 「やっぱり熱がある」 乾いた手のひらを俺の頬に押し当てるようにして確認する。 俺は海でうっかり焼きすぎてしまったらしく身体がだるかった。夕食に寄ったファミレスでも料理にほとんど手をつけられず残していた。 加賀くんは、帰りの車でほとんど口を利かなかった俺を気にしてくれていたらしい。 そのまま車は加賀くんの部屋に向かった。加賀くんのベッドに寝かされ額に冷たいタオルをあてがわれた。その晩加賀くんは何度もタオルを交換してくれた。ずっと運転していた加賀くんこそ疲れているだろうと思うと面倒をかけていることが申し訳なかった。目が合って「ごめん」と謝る度に加賀くんは「気にするな」と笑ってくれた。一人暮らしを始めてから寝つくのは初めてのことで、そんな時に加賀くんがいてくれたことが涙が出そうなくらい嬉しかった。彼の笑顔は、俺を安堵させる力を持っていた。 ──亘。亘 頭の中、響いているのは加賀くんの声。 「あ……あ」 加賀くんの手を思い出していた。鼻先にコロンの匂いが漂っているような錯覚さえ覚えていた。 「ふ……、ん、ん」 どうしてこんなこと。 加賀くんの跡をたどるように自分に触れている。 「ん……ん」 ──亘。 低くかすれた声。あんな声、聴かなければよかった。耳によみがえる度に身体が熱を持つ。自分のあさましさを嫌悪しながら、それでも手を止められない。 ──亘。 「んっ、んっ」 終えた後には吐きそうなほどの罪悪感が残った。 |
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