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STEP -3-


「亘、彼女は元気?」
 古河くんは俺と顔を合わせるたびに挨拶代わりのように彼女の話題を口にする。
「どうしてそう彼女のことばかり訊くんだよ」
 いつもの居酒屋。多少アルコールが入ってきていたところで、俺はつい苛々と古河くんに返してしまった。古河くんさえ余計なことを言わなければ、加賀くんとの間が気まずくなったりしなかった。こんなふうにわざわざ離れた席に坐ったりするような気を回さなくて済んだ。古河くんの向こう、俺をチラリとも見ない加賀くんに、理由もなく気持ちがざわつく。
「んー、どうしてって、やっぱり俺たちとしては亘にがんばってもらって、みのりちゃんのお友だちを紹介してほしいわけよ」
 古河くんもしっかり酔っ払っているらしく、こっちの気持ちを斟酌せずにヘラヘラと勝手なことをほざいた。暑さのせいで、みんなで競うように立て続けにビールを煽ってしまったから、いつもより早く酔いが回っているような気がした。
 空調の風がもろに当たる席でいつのまにか身体の表面がすっかり冷えていて、頭の芯だけに熱が残ってモヤモヤする。悪酔いしそうな予感があった。
「亘チャンの彼女ってみのりちゃんって言うんだっけ」
「可愛い名前。どういう漢字書くの?」
 色白の敦志が目の縁を染めて訊いてくる。いつもの敦志なら、俺が嫌がっていることくらいとうに察してくれるはずなのに。
「亘さあ」
 テーブルの向こう側、ふいに加賀くんが声を上げた。俺の名を呼んだのに、俺のほうを見ないまま。
「亘、本当にその子のこと好きなの?」
「え?」
「好きでもない子と付き合って何になんの?」
 ようやく向けられたのは、俺を糾弾する視線。俺は突然のことに言葉を失くしていた。みぞおちに冷たい塊を押し付けられたような気分だった。
「好きだよな。みのりちゃん可愛いし」
 答えられない俺の代わりに、古河くんがなだめるように口を挟んだ。加賀くんの口調に驚いたらしく酔いから醒めた表情になっていた。
「顔がかわいけりゃ誰でもいいんだ?」
 加賀くんの語気が徐々に強くなってくる。
「エッチできそうなら誰でもいいんだろ。真面目そうなフリして、亘は女の子なら誰でもいいんだよな」
「加賀くん、それ言い過ぎ。急にどうしちゃったんだよ」
 敦志も困惑した顔で制止したが、加賀くんは俺を見据えて言い募った。堰を切ったように俺を責める言葉が溢れる。
「そんな、たかが一緒に飲んだくらいで何がわかるっていうんだ。何が好きなんだよ? ちゃんと言ってみろよ」
「加賀ぁ」
 古河くんが加賀くんの肩を抱くようにして遮った。古河くんの肩越し、強い瞳が俺をなじっていた。かばうように俺の肩に信也の手が置かれるのを感じた。
「答えろよ、亘」
「ちょっと外行こ。な、加賀。少し酔い醒まそう」
 古河くんが加賀くんを店の外に連れ出していった。

 みのりちゃんに対する自分の気持ちをつきつめて考えたことなどなかった。好意を示されたら嫌いじゃないから断る理由もなかった。それを疑問に感じたことなどなかった。つき合っていくうちに好きになりそうな気もしていた。好意を寄せてくれる女の子に対して、それが自然なこと、当然のことだと深く考えずに思っていた。

 しばらくして戻って来たのは古河くん一人だった。
「加賀くんは?」
 古河くんは困った顔でガリガリと頭をかいた。
「んー、なんか村井さんに迎えに来てもらうらしい。先に帰るって」
 それを聞いて信也が眉をひそめて吐き捨てた。
「なんだよ、それ? 加賀くんちょっとおかしいんじゃん。いきなりどうしちゃったのって感じ」
 古河くんは軽くため息をついて、俺の肩をポンポンと叩いた。
「あんま気にすんな、亘。加賀、飲みすぎてたみたいだから。ゴメンて謝ってた」


 翌日、その日最後の授業が終わったところで、信也から携帯に着信があり、お茶しようと誘われて、学食に行った。信也はどうでもいいような冗談を連発して俺を笑わせた。昨夜のことがあったので、なぐさめてくれているつもりなんだろう。仲が良かったはずの加賀くんに一方的に弾劾された俺に同情しているのかもしれない。
 そこに、古河くんが加賀くんを連れて現れた。
「加賀が謝るって。ほら、加賀!」
 古河くんに背中を押されて、加賀くんは黙って頭を下げた。
「ちゃんと『ごめんなさい』は?」
「もういいよ」と古河くんをさえぎった俺の脇で、信也が口を開いた。
「そうだよね。何でも謝れば済むってもんじゃないよ」
「信也」
 古河くんがたしなめるように信也の名を呼び、信也はムッとした顔で口をつぐんだ。
「いいよ。俺、別に気にしてないから」
 俺は俯いた加賀くんの顔を下から覗き込んだ。
「昨日は暑かったから、みんな飲みすぎたんだよ。俺も酔っ払ってたし、何言われたかあんまり覚えてないし」
 そんなふうに落ち込んだ様子は、加賀くんには全然似合わない。負けず嫌いの加賀くんは、どんなこともすべて楽々と乗り越えてみせる人のはずだった。
「俺、加賀くんに怒られたの初めてだから、びびっちゃったよ。信也の気持ちが少しわかった」
「亘」
 冗談めかして笑ってみせると、加賀くんはほっとしたようにかすかな笑みを返した。それは力ない弱々しい笑みで、まるで泣き顔にさえ見えた。
「今度ダブルデートしよう、亘。おわびに俺、おごるから」
 加賀くんが言いかけると、信也が脇から遮るように腕を出した。
「亘チャン、そんなのやめときな。加賀くん、なんかおかしいよ。勝手だよ。いいじゃん、亘チャンが誰とつき合ったって。そんなのいちいち加賀くんが文句つけることじゃない」
「…だから、悪かったって言ってんだろ。謝罪するって言ってんだよ」
「嘘だね。亘チャンの彼女が気に入らないんだろ。会って文句つけるつもりなんじゃないの?」
 加賀くんはうつむいて首を振った。
「ちがう」
 崩れそうな肩。支えるために手を伸ばしそうになった。両腕をつかんで目を合わせて「大丈夫だよ」と言ったら、加賀くんはちゃんと笑ってくれるだろうか。
「今度の週末」
 俺は言った。
「土・日のどっちかでいい? 彼女に都合訊いてみるから」
「亘チャン」
 信也が非難するような目を向けてきたが、俺はそれを無視して加賀くんに言った。
「結構忙しい子なんだ。都合がつかなかったらごめん」


 週末の遊園地。最初からみのりちゃんは気乗りがしないようだった。
 実際ぎこちない組み合わせだった。加賀くんは、らしくないほどみのりちゃんに対して遠慮がちで、そんな加賀くんの態度にみのりちゃんのほうもどう接していいか、とまどっていた。二人の間を取り持つべき俺にしてもそれは同様で、どんなふうに話しかければいいのか、まるで見当もつかない有様だった。
 ほとんど初対面に近い俺と村井さんが一番しゃべっているようにさえ感じられた。
「亘くんと加賀は同じ高校だったんでしょ」
 休日の遊園地はそれなりに混んでいて、ファーストフードでお昼を食べるにもずいぶん待つ羽目になって、ようやくテーブルについたときに、村井さんが俺に訊いてきた。
「そう。でも高校のときは全然接点なかったよ。加賀くんは有名人だったから、俺は加賀くんのこと知ってたけど」
「そうなの? 部活が一緒だったんじゃなかった?」
「それは敦志っていう別の奴です」
 今まで顔を見かけていた程度ではわからなかったけれど、村井さんはふんわりした外見と異なり、割とサバサバした雰囲気を持つ人だった。
「みのりちゃんは? 地元の人でしょ」
「M女子」
 村井さんに話をふられたみのりちゃんは短く答えた。
「あ、知ってる。頭いいんだよね。女子高だったんだ」
「ええ」
 みのりちゃんはつまらなそうに俯いて相槌を打った。今日の彼女にはいつも電話で話しているときのような快活さがなかった。気にはかかっても俺は加賀くんの前で彼女に話しかけることをためらってしまっていた。
 加賀くんは心ここに在らずという雰囲気だった。何度か村井さんに肘でつつかれているのを見た。午後にはみのりちゃんも自分から話しかけることをやめてしまったので、村井さん一人がクッションになって無理に会話をしている感じだった。
 ジュースを飲もうとスタンドに向かいかけた時、急にみのりちゃんが俺の腕をひっぱった。
「私、さっきの乗り物に忘れ物をしたの。付き合って」
 俺の腕をつかんで歩き出したみのりちゃんは、アトラクションにたどり着く前に足を止めた。
「私、今日つまらない」
 きっぱりと言い切った瞳が俺を見上げた。
「え?」
「せっかく会うのに、どうして他の人が一緒じゃなきゃいけないの?」
「ごめん」
「亘くんの友だちだって私には知らない人だもの。もう少し気を使ってよ」
 俺には返事のしようもなかった。
「亘くんて意外と冷たい人だったんだ」
 黙り込んだ俺に、みのりちゃんは呆れて責める表情をつくった。
「帰るから、私」
 言い捨てるようにしてみのりちゃんは背を向けた。遊園地の出口のほうへスタスタと早足で遠ざかっていく。斜めにあがった右肩が、俺への怒りを表していた。
 追いかけるべきなんだろう。ここで追いかけなかったら、彼女とは終わってしまうかもしれない。それはわかっていた。それでも俺は彼女を追いかけなかった。
 俺は彼女を好きじゃない。はっきりわかった。俺は彼女に対して特別な感情など持っていない。
 好意に応えるだなんて、なんて思い上がって考えていたんだろう。今まで彼女のことを知る時間はいくらでもあったのに。もっとちゃんとみのりちゃんという女の子について考えるべきだった。
 今の俺にはもう彼女のことを考える余裕なんてない。だから彼女を追いかけることができなかった。


 ジューススタンドの前のテーブルで休んでいた二人に、彼女が帰ったことをどう伝えようか少し迷った。
「カッワイイんじゃない、みのりちゃん」
 こちらに背を向けた椅子の上、伸びをするようにして村井さんが言うのが聞こえた。
「けっこう気が強そう。亘くん、振り回されたりして。でも亘くんは優しそうだから、ああいう気の強そうな子とお似合いだよね」
 加賀くんと村井さんこそ誰が見ても絵になるカップルだった。午後の陽射しの中、ジュースを前にしゃべっている二人の姿は、そのままパンフレットになってもおかしくなかった。加賀くんの隣にはもう俺の場所はないのかもしれない。
「──俺さあ、現役の時にもっと受験がんばればよかったよな」
 村井さんの言葉を遮るように加賀くんがしゃべり出した。
「なあに、いきなり?」
「したらー、村井と同級生になれたじゃん」
 投げやりな口調で加賀くんが答える。
「同級生だったらよかった?」
「まるまる四年間一緒にいられるっしょ」
「ふうん。加賀ってば私と一緒にいたいの」
 冷めた口調で村井さんは言って「本当に?」と加賀くんの顔を覗き込んだ。
「村井ってほんと意地ワルイ」
 加賀くんは不貞腐れた顔で、村井さんの視線を避け、テーブルに肘をつき片腕で頭を抱えた。
「一年ずれなきゃあいつに会わずに済んだんだよ」
 あいつって──俺のことだろうか?
 加賀くんは俺と出会いたくなかったと、そう考えているんだ。加賀くんと友だちになれてよかったなどと浮かれていた頃の自分が悲しくなる。
「そうしたら平穏無事な人生を送れた? 加賀って自虐的だよね。よくこんなダブルデート思いつくわ。感心しちゃう」
 村井さんは加賀くんの態度を鼻で哂った。
「どうしろって言うんだよ」
「どうしようもないんでしょ。諦めるために傷口に塩塗り込んで、余計に傷を忘れられなくなってんじゃない」
「おまえなんかに俺の気持ちがわかるか」
「わかるわよ。わかるから苛々するんだってば」
 加賀くんはもう一度「どうしろって言うんだよ」とくり返した。
「すっぱり諦めるか、がんばるか、どっちかしかないでしょ。半端なことしてるの見ると苛々する。私だっていつまでも加賀に付き合えると思わないで。駄目ならさっさと諦めなさいよ」
「そんな、そんな簡単にいくんだったら俺だって楽なんだよ!」
 加賀くんは顔を上げて怒鳴った。
 俺は今まで加賀くんを怒りっぽいと思ったことはなかった。正義感の強い人だし、気に入らない時には不機嫌な顔を見せたりはしたけれど、いきなり怒鳴りつけるような人ではなかったはずだ。最近の加賀くんは追いつめられた野生動物さえ連想させる。
 加賀くんの迫力に身をすくませた村井さんに、加賀くんは視線をそらし親指の爪を噛み始めた。わずかに見えたその横顔は泣き出しそうに歪んでいた。
 村井さんは軽くため息をついた。
「ごめん。私も最近苛々してて」
 村井さんは加賀くんの腕に手をかけた。
「ねえ、もうちょっとがんばってみない? 自分で納得しなきゃ諦められるわけないわよ」
「がんばるってどういうんだよ。もうどうにもなんねーよ」
 ふてくされた声で加賀くんが投げ出すように言うと、村井さんは唇を噛んだ。
「やっぱり加賀、私と会うのやめたほうがいい」
「何?」
 ぼんやりと見返した加賀くんの前で、村井さんは立ち上がった。
「あんまり情けないじゃない。甘えるのもいい加減にして。悪いけど私もう帰る。亘くんたちには適当に言って」
「村井」
 立ち上がった村井さんを見る加賀くんのすがるような目。
「これ以上一緒にいたら全部ぶちまけたくなっちゃうわよ。バイバイ」
 加賀くんはうなだれて首を振った。
 村井さんがこちらに向かって真直ぐに歩いてくる。避けることもできずに立ち尽くす俺と目が合い、村井さんは軽く会釈し、すれ違って行った。
 俺はうなだれたまま動かない加賀くんの背を見た。
 一瞬躊躇し、俺は村井さんの後を追いかけた。


「私ってさ、モテるのよ。知ってた?」
 露悪的に言う村井さんに毒気を抜かれた俺は「はあ」と曖昧に頷いた。村井さんはアイスティーのストローを外してプラスティックのコップに直接口をつけた。
 俺が呼び止めると、村井さんは少し困ったような顔で振り向いた。みのりちゃんも村井さんもいなくなった後で、加賀くんと二人になるのが気まずくて、俺は村井さんを追いかけた。
 村井さんと一緒に遊園地を出て、近くのカフェスタンドに入った。加賀くんには携帯で「用事ができたから先に帰る」と告げた。加賀くんは何も言わずに「わかった」と頷いただけだった。
「それでタイミング悪いの。いっつも変なトラブルになっちゃうんだ。加賀と噂になったときも、別口でちょっともめてて、なんかそういうの、すごく面倒臭くなっちゃって、加賀に『付き合わない?』って声をかけたわけ」
 その話は俺も古河くんから聞いて知っていた。古河くんが二人をお似合いだなんだとからかっていたら、村井さんが「お似合いだって。じゃあ付き合おうか」と加賀くんに言ったというのだ。加賀くんも少しは驚いたようだったがすぐに「そうするか」と頷いたらしい。しばらくの間古河くんは「俺のおかげだろ?」とくり返してた。
「加賀にも何か理由はあるんだろうなって思ってたんだけど。見込みのない相手を好きだとか。なんとなくさ、そういうのって気づくものじゃない?」
 俺が何も答えないでいると、村井さんは少し笑った。
「私は気づいたの。加賀が亘くんを好きらしいなあって」
「……」
 俺は加賀くんに好きだなんて言われたことはない。いつも隣にいて笑いかけてもらって、それだけで単純に嬉しかった。
「私ね、多分加賀のことそんなに好きじゃないのよ。うーん、嫌いって言うんでもないんだけど、時々苛々しちゃうの。似てるんじゃないかなあ、私たち。それで、何かの時に険悪ムードになって、つい言っちゃったんだ。『加賀の好きな子って亘くんでしょ』って。怒るかなと思ったんだけど。私はその時、怒らせて喧嘩してやれって気分だったの。そしたら加賀ってば泣きそうになっちゃってさ。こっちも悪いこと言ったってのは自覚してるし」
 村井さんは「うん、言っちゃいけないことってあるんだよね」と自分で頷いた。
「だからそれで別れることになったんだけど。また加賀からSOSが来ちゃってね。弱っちいよね、加賀って。私、あいつといると自分がサドなんだなあってしみじみ思っちゃう。でも加賀は弱いくせにマゾじゃないから困るな。いじめても全然楽しくないの。こっちもモヤモヤするだけ。やっぱり私、加賀のこと嫌いなのかしら」
 村井さんはちょっと息をつき、コップに残ったクラッシュアイスを口に流してガリリと噛んだ。
「亘くんは、加賀のこと好き?」
「え」
 顔を上げた俺の前で、村井さんは手を振ってみせた。
「あ、いい。いい。私には答えなくて。ただ加賀には何か言ってやってくれない? さっきも私を追いかけてくるんじゃなくて、加賀の相手してやってほしかったかも」
「俺……」
「加賀ってば本当情けないやつなのよ。このままいったら、私、あいつと一生付き合うハメになるんじゃないかって少し恐怖してるところなの。それはあまりに非建設的にすぎると思わない? あなたたちが何か結論出してくれたら、私もちょっとは前向きになれそうな気がするのよね」
 村井さんは「勝手なこと言ってるね、私」と呟いた後で、俺を見た。
「で、どっちが加賀のとこに行く?」
 目が合うと村井さんは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「私さ、どうしても加賀のこと見捨てられないみたい。亘くんが行かないんなら、とりあえず今日のところは私が行くけど?」
「俺」
 俺は逡巡した。答えも持たずに加賀くんの前に立つのは怖かった。村井さんは黙って俺の顔を見ていた。
「…俺、俺が行きます。俺が加賀くんに会いに行く」
「そう?」
 眉を上げた村井さんに俺は言った。
「俺は加賀くんを情けないなんて思わない。それよりも村井さんに嫉妬してるんです。だから俺が行きたい」
 俺の言葉に村井さんはのけぞり「あはは」と白い喉を見せた。


 村井さんの車で加賀くんのアパートに送ってもらうと、駐車場に加賀くんの車があって、もう帰ってきていることがわかった。加賀くんは部屋にいる時には寝る時くらいしか鍵をかけない。みんなで奇襲と言って押しかけて、怒らせたこともある。
 チャイムの返答がなくてもノブを回したら、ドアは開いた。夕闇が忍び寄る部屋の中、電気はついていなかった。
「加賀くん?」
 声をかけながらスニーカーを脱ぐと、部屋の奥から鋭い声が飛んだ。
「入ってくんな。今日はダメだ」
「加賀くん」
 とっさに足を止めたけれどすでにキッチンに上がっていた俺は帰ることも加賀くんのいる奥に近づくこともできず、その場に立ち尽くしていた。
「帰ってくれよ、亘」
 しばらくしてキッチンと奥の部屋との境に加賀くんの姿が現れた。柱にすがるように寄り掛かっていた。
「本当に今日はダメなんだ。……明日、明日には大丈夫だから」
 シルエットになった加賀くんの表情を確かめたくて、俺は足を踏み出した。下から覗き込もうとすると、加賀くんは唇を歪めて顔をそむけた。
「亘。俺、本当におまえのこと好きなんだよ。だから頼む。今日は帰れ。自分でも本当に何するかわかんないんだ。自信ないんだよ」
「初めてだ」
「え?」
「加賀くん、今まで俺に好きなんて言ったことないよ」
 見つめる視線の先、わずかに見開かれた瞳の中、俺の顔が映っていた。
 それが視界いっぱいに拡がる。
「亘」
 声にならない声が俺の名を呼んだ。どちらがどちらを引き寄せたのか。お互いの腕の中、唇を合わせていた。思考の入る余地のない行動だった。
 俺は最初から答えを知っていた。知っていたのに目を逸らしたから、こんがらがってわけがわからなくなった。隣で笑っていればよかったんだ。笑う加賀くんに見惚れていればそれでよかった。
 何度も何度もついばむようにキスをした。こんなふうに触れ合うことが一番自然な気がした。
「好きだよ、亘。好きだ」
 合間に囁かれる声。立っていられなくなって抱き合ったまま膝からくず折れ、そのまま床に横になった。
 海に似た夕闇の底で加賀くんを仰向けに押さえ込んで抱きしめる。愛しさとか切なさとかごっちゃになった感情が溢れて、制御が効かない。衝動のままむさぼるように舌を吸う。
 息が続かなくなって、それでも唇を押しつけ合った。それも次第に弱まってきて、やがて少し離れてふっと笑い合った。
「加賀くん、俺の何が好きなの?」
 今になってみれば本当は俺のほうが加賀くんを好きだったのだという気がしていた。俺が好きだったのに、加賀くんが俺を好きになってくれたのが不思議だった。
 加賀くんはまるでそこに答えが書いてあるかのように俺の顔を見つめた。暗さに慣れた視界の中で、愛しい顔が俺を見てる。
「目、かな。亘って人の目を真直ぐ見るだろ。子どもみたいに黒目のまわりが青いんだよな。見てると不思議な気持ちになる」
 加賀くんの指がまつげに触れた。
「だから亘が俺のこと見てくれなくなって、本当に落ち込んだ。もうダメだって思った」
「ごめん」
 謝った俺に加賀くんが一瞬目を丸くし、やがて彼の顔にゆっくりと笑みが広がった。
「何?」
 つられて笑いながら訊ねると、加賀くんは俺の目の下に唇を押しつけた。
「うまく言えないけど、亘に謝ってもらえると思わなかった。バカなことしたって後悔しても修正が効かなくて俺の気持ちばっかり空回りしてると思ってた。俺が勝手に好きになって勝手に暴走しただけなのに、亘が謝るのって……なんか、ほんとうまく言えないんだけど……それがすげー嬉しい」
「勝手じゃない」
 俺は首を振ってキスを返した。
「加賀くんの隣が俺の場所なんだよ。目を逸らしたからわかんなくなったんだ。考えることなんか何もなかったのに。俺はずっと加賀くんの隣にいたいだけだったんだ」
 加賀くんの瞳の中、映る俺は見たこともないくらい幸せな顔で笑っていた。



END





20020920UP




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