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春風 -3-



 家に戻っても、はじめの何日かは実感がなかった。ただぼんやりと俺は失恋したのだなと思っていただけだった。
 何日か経ってふいにそれはやってきた。
 一人の部屋で、何の前触れもなくきっかけもなくこみあげてきた激情。それは痛みだったのだと思う。胸がしぼられ息ができなかった。見開いた目から涙があふれる。声を出すことができなくてのどがつかえて苦しい。
 会いたいと思った。声を聴きたい。吐息に触れたい。温己の腕。指先。唇。俺が失ったもの。
 俺はこんなに温己を好きなのだと思い知らされた。どうしたらいいのかわからない。苦しい。拳で床を叩き、身体ごと壁にぶつかった。床にうずくまる。
 温己。温己。
 声に出さずに呟く名前が、胸の中に渦を巻いて、呼吸をさせてくれない。俺は拳で胸を叩いた。ここに巣食っているもの。誰かこれを取り出してくれ。苦しくて死んでしまう。
 どのくらいの時間が過ぎたのかわからなかった。涙はあとからあとから溢れ永遠に止まらないと思った。
 やがて少しずつ気持ちが収まってくるのを感じた。深呼吸すると新しい涙が少しこぼれた。
 泣きすぎた瞼は腫れて目が開けられない。頬もひりひりと痛むから、きっとひどい顔になっているだろう。
 俺はそれから二日間、中川さんと顔を合わせないように気づかった。
 二日目の夜、風呂を使った後、中川さんのドアをノックした。
「中川さん、俺、風呂に入ったんですけど、すぐ使うんなら、スイッチいれたままにしておきますよ」
「あー、じゃ今入る」
 中川さんが風呂に入っている間に、俺はコーヒーを淹れた。俺はまだ中川さんに温己と別れたことを話していなかった。多分想像はついていると思ったが、中川さんには報告する義務があるように感じていた。
 居間にやってきた中川さんは「いい匂いだな」と言った。カップを差し出し、俺は口を切った。
「温己と別れました」
 中川さんはカップに目を落とし「うん」と頷いた。
「中川さんにはずいぶん心配をかけてしまったと思います。でも終わりです。俺、温己に振られたんです。もう俺のことは好きじゃないって。仕方ないですね」
 苦笑したつもりだったが、うまく笑えなかった。そんな俺を中川さんがじっと見つめていた。
 中川さんは温己によく似ていた。けれどその目が温己と違った。包みこむような柔らかで暖かな視線。それは、俺が温己の目を失ったことを強く意識させた。
 上を向いて堪えようとしたが、できなかった。左目からポロッと熱いものがこぼれるのを感じた。
 中川さんが立ち上がり、近づいてきて俺の頭を抱えた。その肩に身を任せて俺は泣いた。それは一人の時の激情ではなく、不思議な穏やかさの中で流れる涙だった。
「すみません」
 ひとしきり泣いた俺は、中川さんに謝った。我ながら情けない鼻声だった。中川さんのTシャツが肩からびっしょりと濡れていた。中川さんの唇がこめかみに触れた。
「俺が温己の代わりになれるなら、なってやるよ」
 俺の頭に顎を載せて静かに中川さんが囁く。
「中川さん」
「俺にしろよ、長瀬。お前のためならなんでもしてやる。彼女とも別れる」
 中川さんは俺の両腕をつかんで、正面から目を合わせた。俺は少し笑った。そのせいで目の中に残っていた涙がこぼれた。
「中川さんは、俺のことを好きなわけじゃないでしょう?」
 中川さんの中には、俺に対する恋愛感情など見えなかった。
「正直に言えばそれは俺にもわからない。でも好きになるよ。長瀬が相手ならホモになってもいい。俺は裏切らない。本気だ」
 俺を憩わせる穏やかな目。その目は温己と違う。
「俺は大丈夫ですよ。大丈夫。温己が好きなんです。あいつがどう思っていようと俺は温己が好きで…」
 どうして温己の気持ちは離れてしまったのだろう。俺は何も変わってないのに。
「俺がたまらないんだよ。そんな顔するな、長瀬。忘れちゃえよ。全部なかったことにしろ」
 中川さんの手が頬に触れる。俺はゆるく首を振った。なかったことになんかしない。俺は確かに温己に愛されていた。例えそれが温己にとっては幻想だったとしても、俺はあの温己の目を信じていたかった。
「しない。中川さん、俺は不幸じゃない。俺は温己に会えたから幸せだよ」
 中川さんは顔を歪めた。ぐいっと腕を引かれ、強く抱きしめられる。
「中川さん?」
「そうだよ、俺がじれったいんだ。俺が嫌なんだ、長瀬がそんな顔してるの。どうにかしてやりたくてたまらないんだよ。でも俺じゃダメなんだろう?」
「俺、そんなひどい顔してますか? 情けないな」
 俺は中川さんの肩に額を預けた。優しい手が、髪を、背を撫でてくれる心地好さにしばらく身を委ねていた。


 その後は、中川さんは何も言わなかった。何も訊かなかったし、いたわりの言葉も口にしなかった。
 俺は中川さんと一緒に住んでいることを幸運だと思った。こんな時に彼は本当に理想の同居人だった。
 そして、彼と同居していなかったら、温己と知り合うこともなく話すこともなく一緒に過ごすこともなく愛し合うこともなかっただろう。そう思ったら、俺は中川さんに本当に感謝すべきだった。
 例えこんな結末を迎えたにせよ、俺にとって温己といた時間はとても大切なものだ。あの時間を与えられたことを幸せだと思う。温己の言葉や仕種を思い出すと暖かな気持ちになれた。
 それでも温己を失くしたつらさは決して消えることはなかった。
 眠れない夜にいつも温己のことばかりを考えた。
 もっと温己に好きだと言えばよかった。俺の気持ちをもっともっと口にしておけばよかった。きちんと温己に想いを伝えきれていなかったような気がした。こんなに早く終わりが来ると知っていたら、俺はもっと温己に好きだと伝えておいたのに。
 そうしたら、終わりをもう少し遅らせることができただろうか。温己は俺の気持ちを知らないから、あんなに簡単に「好きじゃなくなった」などと言ったのかもしれない。
 いっそ温己を抱くべきだったかもしれない。俺がどんなに温己を好きか、あいつの身体に刻み込んでおくべきだった。
 いや、温己の気持ちが俺から離れてしまっては、俺の想いは温己の負担にしかならない。好きだなんてしつこく言わなくて幸いだったのだ。
 もしかしたら遊びでなら、温己は今でも俺と寝てくれるだろうか。日下や巴音が一緒なら、温己と寝ることができるのか。温己の心は手に入らなくても、身体だけを重ねることは可能かもしれない。
 なんて俺はさもしい人間だろう。何度そう自嘲しても、温己のことを考えることをやめられなかった。
 再生のしすぎで擦り切れそうなくらい二人でいた日々をくり返し思い出した。
 そして一週間も経たないうちに、本当に記憶の中の温己の顔はあやふやになっていた。目や唇などのパーツばかりが鮮やかに浮かんで、全体の造りがわからない。雑誌などに載っている写真で確認しても曖昧で、その雑誌を閉じれば俺の中の温己の像は、あっさりとぼやけていった。
 ただ幸福だった記憶だけが俺の胸を軋ませた。思い出の中の温己はいつも見えない顔で愛しい台詞を吐く。なのにその声さえもう俺には思い出せない。




 巴音のガールフレンドの友人を経由した伝言ゲームの末、俺は日下と巴音に呼び出された。
「どうしてハルミを振ったの?」
 彼らにはそぐわないような居酒屋で、二人はビールを飲んでいた。陽気に騒ぐ周囲の客の雰囲気から、もう夏なのだと実感した。温己と別れたのは梅雨のさなかだった。それが着実に過去になっていく。
 日下と巴音から俺に話があると言われれば、温己に関係することだろうと見当はついていた。もしかしたら、この二人なら温己の心変わりの原因も知っているかもしれないと思った。原因がわかったところで、どうなるという保証もなかったが、ただ俺は温己に少しでも関わっていたかった。温己に繋がりのある二人と飲むことは、まだ俺にも温己への繋がりがあるような錯覚をさせてくれる気がした。
「別に責めるわけじゃないんだけど、ナガセ、どうしてハルミを振ったの?」と巴音は訊いてきた。
 飲み慣れたふうにジョッキをあおる様子に、巴音はいくつなのだろうと考えた。温己よりも年下だと思っていたのだが、もしかしたら俺より年上なのかもしれない。
「なんかハルミ、ヤバそうなんだよね。かなり痩せた。暑いのが苦手だからって言うけど」
 調子の悪い後輩を心配するような感じだった。俺は苦笑した。
「振られたのは俺だよ」
 二人は俺と温己が別れたことを知っていても、経緯までは知らないんだな。
「嘘」
 ひどく驚いた様子の二人にかえって傷ついた。
「嘘じゃないよ。多分、温己には他に好きな奴がいるんだよ。本当に本気で好きな奴。ヤバイのはそのせい」
 俺にはどうにもできない。温己が片思いでもして悩んでいるのなら、話を聞くくらいできたのに。そんな考えが浮かんで、自嘲に首を振った。
 吹っ切るようにビールをあおると、日下が口を開いた。
「本当は俺、ハルミには頭にきてるんだ」
 巴音が脇から言い添える。
「ナガセと別れたから、男には興味ないんだって、ぼくも日下さんも用ナシにされたんだよ」
「温己はガキだから」
 視線を落として俺は呟く。なんでもストレートに言ってしまう。計算のできない純粋さが好きだった。
「ナガセ、もうハルミには会わないの?」
「オトモダチとして?」
 おどけたつもりだったのに、唇が震えた。
 話を聞いてやりたいと思ったくせに、あらためて温己に会うことを考えたら、俺はやっぱり怖かった。俺は今でも温己を求めている。そして温己の拒絶が怖い。真っ直ぐな温己は飾ることなく簡単に俺の想いを拒絶するだろう。
 こんな俺を温己は一瞬でも好きだと思ってくれた。運命だと信じてくれたのだ。それでいいじゃないか。温己にはそうじゃなくても、俺にとっては温己は運命の相手だ。
 片思いは恋じゃない。いつだったか、そんなことを言っていた女の子がいる。たしかストーカーの話題だった。一方通行の想いは相手にとっては迷惑でしかないと、その場にいた女の子たちは頷き合っていた。今の俺はそんな残酷なことは信じない。想いを押し付けたいんじゃない。ただ俺にはこの気持ちしかすがるものがないんだ。
 どんなに好き合っている恋人同士でも、自分にとって相手の気持ちはフィクションだという。そして好意は向けられた本人にとっての意味しか持たない。温己にとっては俺の想いはまがいものなのだろう。温己には温己の気持ちだけが本物で、おそらく現在好きな相手からの好意こそが本物になるはずで。それでも俺にとっては温己への想いは本物だ。




 温己が倒れたという電話が、温己の所属するモデルクラブから中川さんの元にかかってきたのは、各地でこの夏の最高気温を記録した、ひどく暑い日のことだった。クラブの名簿には北海道の家族の代わりに、中川さんが連絡先として登録されていたのだ。温己は屋外での撮影中に気分が悪くなって病院に運ばれたという。軽い栄養失調と疲労ということで点滴を受けて、アパートに戻っているので、面倒を見てほしいという連絡だった。
「一緒に行かないか」と中川さんに誘われて、俺は首を振った。俺は温己に何もしてやれない。もう別れてずいぶん経つのに、まだ温己に会うのが怖かった。友人としてふるまえる自信がつくまで、俺は温己に会うことはできない。
 中川さんを送り出した俺はうまく眠れずに一晩を過ごした。それはもちろん熱帯夜のせいではなかった。
 温己の顔を見るだけでも中川さんと一緒に行けばよかったなどと思い返したりした。
 夜が明けた後、シャワーを浴びながら、俺は自分で自分を慰めた。この身体に温己が触れることはもうないのだ。冷たい水に打たれながら涙が頬を伝うのを感じた。もう一度温己に触れたかった。倒れた温己を心配するより俺はとにかく温己に会いたかった。俺に関わりのないところで続いている温己の生活。それは俺には何の意味もない。俺はエゴイストだ。俺は俺のためだけに温己が欲しい。もう一度だけでいい。温己に俺を見つめてほしかった。ただ笑い合いたい。
 濡れた髪のまま、ぼんやりとキッチンの椅子に座り込んでいるところに、中川さんから電話が入った。
―温己のところに来てやってくれないか
 思いがけない言葉に受話器を握りしめ俺は目を見張った。
―温己が長瀬を呼んでるんだ
 わけもなく呼吸が浅くなって息苦しい。ありえない期待に心が波立った。
「どうして?」
 温己が俺を呼ぶはずがない。そんなはずはないんだ。
―温己は長瀬が好きなんだよ。長瀬のことしか考えられないんだ
「嘘だ」
 簡単に信じてしまいそうになる自分を内心で叱咤した。後で誤解と知るのはつらすぎる。俺はあの目を失くしたんだ。
 受話器の向こうで中川さんがため息をついた。
―冗談じゃないんだ、長瀬。温己は多分精神的におかしくなってる。昨夜ひどく泣いてた。長瀬が好きだって何度もくり返すんだ
「本当に?」
 本当に温己は俺を呼んでくれるのか。俺が温己を求めるように、あいつも俺を求めてくれる?
―長瀬、これはおまえへの朗報じゃないよ。
 中川さんは沈んだ声で警告を発した。
―温己はヤバイんだ。少なくとも俺はそう思ってる。北海道に帰す必要があるかもしれない
「俺は温己の役に立てると思いますか?」
―わからない。でも温己が呼んでいるんだ



 温己の部屋に着き、チャイムを鳴らすと中川さんが出てきた。
「今、温己は眠ってる。ちょっとだけここで話したい」
 後ろ手で閉めたドアに寄りかかり、中川さんは困ったような顔で俺を見下ろした。
「温己が必死で呼んでいるから来てもらったけど、待っている間に俺は迷い始めてた」
 言葉を探すように空を睨み、また視線を戻す。
「長瀬。おまえ、本気で温己を引き受けるつもりがあるか。俺、真面目に迷ってるよ。おまえらは一緒にいちゃいけないんじゃないか」
 俺は黙って中川さんを見返していた。彼の言いたいことはわかる。温己はコントロールの効かない子どもだ。俺たちが一緒にいた時間を思い返せば、ブレーキのない車に乗っているようだった。歓声を上げて走り続けたら、いつかクラッシュするだろう。
「今、どんなにつらくてもここで別れたほうがいいような気がするんだ。ここを乗り切れたら後で笑えるかもしれないぞ」
「俺もそう思いますよ」
 俺は頷いた。自分では笑顔を作ったつもりだが、中川さんにどう見えたのかはわからない。
「このままキレイに別れたら、いい思い出ができる気がする。大好きだけど、お互いのために別れたんだって、いつまでも大切に思えるような」
 何度もそう考えた。温己に振られた俺は、素晴らしい思い出ができたんだと自分を慰めていた。優しい目で見つめる中川さんに笑いかける。
「でもダメなんですよ。俺、自制心がないのかな。それでも温己がほしい。ボロボロに汚してしまうかもしれないけど、でもまだこの気持ちを思い出にしたくない」
 温己との日々をキレイなままで残すよりも、俺は今、温己に触れたかった。あの目が欲しかった。
 俺が言い切ると「じゃあしょうがないな」と中川さんは笑った。
「OK。付き添いは交替。俺は帰るから」
 俺に上げさせた右手に軽く手を打ち合わせて、中川さんは帰って行った。
 空調の効いた部屋で温己は静かに眠っていた。乾いた浅い寝息が聴こえる。
 ベッドの傍らに置いてあった椅子に坐り、俺は温己の寝顔を眺めた。巴音が言ったように痩せたのだろう。でもわからない。俺は温己がどんな顔をしていたのか忘れてしまったような気がする。こんな顔だったかな。ちょっと笑ったら涙が出そうになった。毛布の上に投げ出された腕を撫でてみた。手を絡ませる。この手。この手に触れてほしかった。ずっと手を繋ぎたかった。
 温己。目を覚まして、俺を見て。
 声に出さずに呟いてみる。
 温己の目が見たい。温己の目に見られたい。
 でも少し怖い。本当に温己は俺を求めているのだろうか。
 温己の手を持ち上げて頬ずりした。最後にこの腕が力を持って俺を抱きしめたのはいつだっただろう。眠る温己の手は重くて、俺が支えていなければすぐに落ちてしまう。
 温己。おまえは俺のものだよ。そう信じたいんだ。




 どのくらいの時間が過ぎただろう。やがてゆっくりと温己の瞼が開いた。ぼんやりとした表情で俺を見た温己の目が見開かれた。
「長瀬」
 音にならない声。俺は微笑んで温己を軽く抱きしめようと椅子から立ち上がりかけた。その瞬間、強い力で引き寄せられ、息ができなくなる。
「長瀬、長瀬、長瀬」
 置き去りにされていた子どもの必死さで、温己は俺にしがみついてきた。
 確かに温己は痩せたな。そんな感想が浮かんだ。締めつけられる背中が痛い。腕の骨の形がそのまま伝わるようだった。
「大丈夫だよ、温己、大丈夫」
 俺はなだめるように温己の背を撫でた。ふいに温己の力が緩んだ。
「嫌だ!」
 叫び、温己は俺を突き飛ばした。
「嫌だ、長瀬、嫌だ」
「温己?」
 俺は呆然として呟いた。温己はベッドの上で身を縮め、何も聞くまいとするように手で耳をふさいだ。冷水を浴びせられたような気がした。
 完全な拒絶だった。俺は温己を傷つけたのだと悟った。俺への気持ちが冷めただけじゃない。俺の何かが温己を傷つけているのだ。俺は温己のそばに寄ることさえ許されないのだ。中川さんは間違えたのだ。
 両腕で頭を抱え、丸くなって口の中で「嫌だ」とくり返している温己。俺は悲しい気持ちで眺めた。
 こんなふうに拒絶されるのに、どうして俺はここにいるんだ。
「帰るから」
 震えている温己の肩に手を伸ばしかけてかろうじて自制した。
「俺、帰るから、大丈夫だよ、温己。ごめん」
 精一杯の優しい声で耳元に囁きかけ、俺は立ち上がった。
 これが終わりなのだ。
 わかっていたつもりだった。俺を好きじゃないと言った温己。あれは温己の優しさだったのかもしれない。俺の存在が温己を傷つけていることを隠すための台詞。あのまま終わりにすればよかったのに、どうしてここに来てしまったのだろう。
 温己の手が伸ばされ、ベッドから離れかけた俺の腕をつかんだ。
「ダメだよ。行かないで」
 怯えた目ですがるように温己は引き止めた。
「好きだよ、長瀬。俺、もう本当にダメなんだ」
 力の入らない手が俺の腕にかかっていた。俺は静かにその目を見返した。温己の気持ちを見たかった。温己の中に少しでも俺を求める気持ちがあるのなら、他はどうでもよかった。
 温己は震えていた。
「ごめん。俺は異常なんだ。長瀬といるのがつらくて逃げ出したのに、長瀬がいないともっとつらくなった。俺、本当に自分で自分が怖い。異常なんだよ。長瀬を好きになりすぎておかしくなったんだ」
 泣き出しそうな目で早口に温己は囁いた。
 本当に俺を好きだというのか。俺を求めてくれるのか。
 唇を引き結んだ温己の痩せて尖った肩が大きく上下している。
 俺はゆっくりと温己を抱きしめた。つらそうに浅い呼吸をくり返しているその頭を抱えて、短い髪を何度も撫でた。その頬に頬を寄せた。
「温己。俺は温己が好きだよ。温己が異常でも正常でもいい。俺は温己が好きだ」
 俺が温己を引き受ける。歩き方を忘れたなら手を引いてやる。歩けないならおぶってもいい。
 俺は温己の顔に唇を這わせた。額に。瞼に。頬に。そしてその唇に。何度も何度もキスを落とした。温己の震えが収まるように。
 長い時間、俺は温己を抱いていた。少しずつ温己の呼吸が静かになる。呼吸が落ち着いた後も温己は、俺の肩に身体を預けたまま、しばらくじっとしていた。やがて小さく息をついて温己は語り出した。
「長瀬は俺が日下さんやトモと寝ても平気だって言ったよね」
 そう確認されて、俺はちょっと困った。平気なわけじゃなかった。自分の気持ちがうまく伝えられなかった。温己は俺の胸から身を起こした。ベッドの上で膝を抱える。
「それで俺は長瀬が他の奴と寝ることを考えた。そんなの絶対耐えられない。そう考えたら、俺は長瀬が他の誰かとしゃべっているだけで嫌なんだってわかった。俺以外の誰かを見るだけで胸がムカムカしてきた。宏樹と一緒に住んでることがものすごく気になった。そしてそんなふうに感じてしまう自分自身が一番嫌だった」
「みっともない」と温己は呟く。
「みっともなくて情けなくて最低だった。今までそんな奴を軽蔑してたはずなのに、それが俺なんだ」
 言いながら温己は両腕で顔を覆った。
「俺ね、ちゃんと相手のことを認められて、信じ合っているのが恋人同士の理想だと思ってたんだよ。友だちが彼女にやきもち焼いたなんて話をするたび、バカだなって笑ってた。信用できない相手を好きになるはずないって思った」
 くぐもった声で言い、温己は腕の間から顔をあげた。横顔のまま言葉を続ける。
「でもちがうんだ。長瀬を信用する、しないじゃなくて、長瀬の全部が俺に向いてないと嫌なんだ。こんな気持ち、最低だよ。だから押さえようと努力していたんだ」
 俺は痩せた肩にそっと手をかけた。こちらに向けられた顔が涙で濡れていた。
「長瀬にいいんだよって言われるのがつらかった。俺はこんなに長瀬に囚われてるのに、長瀬はそうじゃない。いつでも俺を切り捨てられるんだ。そう感じた」
「温己」
 安心させるための俺の言葉が温己を追いつめていたのか。そうじゃないのに。俺は結局温己のことを何もわかっていなかった。そして温己も俺をわからなかったんだ。
「俺、自分で自分の気持ちが怖かった。いつもいつも長瀬のことばかり考えてて。俺が俺じゃなくなる感じがした。俺には長瀬より俺自身のほうが大事だった。だから会わないようにしようって決めた。なのに」
 形のよい唇が震える。
「ダメだ、俺、長瀬が好きなんだよ。どうしようもないんだ」
 本気で途方に暮れている様子だった。俺はそっと息を吐き、温己に笑いかけた。
「温己、おまえはガキなんだ。これから成長していくんだよ」
 真っ直ぐにその目を覗き込む。俺の欲しい目。あの目を取り戻すんだ。
「俺が見守っててやるから。ちゃんとした大人になれなくてもいいよ。ずっと子どもでもなんでもいい。俺は温己が好きだ」
 俺はベッドに上がり、仰向けに横たえた温己の上に身体を重ねた。差し伸べられた手に頬を押し付け、指で温己の顔をなぞる。
「好きだよ、温己」
 俺たちは儀式のように交わった。温己を受け入れた俺の中に言葉にできない感覚が生まれた。快楽でもなく苦痛でもないもの。
 温己。俺はおまえの全てを受け入れることができる。


「俺の姉ちゃんは、すごいワガママなんだ」
 温己は言った。
「横暴で何でも自分の思い通りにしたがって。だから俺は子供の頃から一人が好きだった」
 天井を見上げたまま言葉を紡ぐ温己の横顔を俺は眺めていた。
「姉ちゃんは嫌いじゃない。多分俺たち仲良いんだと思うよ。子供の頃は何でも一緒にやってた。でも俺は姉ちゃんと一緒にいるのと同じくらい一人でいるのが好きだった」
「自由ってやつ」と温己は呟いた。
「だから友だちはすごく少ない。何をするんでも誰かと相談してやるより、一人のほうが早いし楽だから」
 そう言って温己は俺に目を向けた。
「俺はなんで長瀬と出会ってしまったんだろうな」
 ため息のように温己が言う。
「一人がよかったのに」
 俺は温己の手をつかんだ。
「二人だからできることがあるんだ。二人一緒なら行けるところがあるよ。運命だって温己が言ったんだよ」
 真っ直ぐに温己の目を覗き込んで、俺は笑ってみせた。
「諦めろよ、温己。俺とお前は運命の恋人なの。逃げられないんだからさ、二人でどこまでも行くしかないんだよ」
「長瀬」
 俺を見つめた温己は、やがてクスリと笑った。
「かっこいいな、長瀬。もう本当にダメだ、俺。そうだよ、運命だよ。どうしようもないんだな」
「そうだよ」と俺は頷く。いつか遠い先で二人の道が別れているとしても、今この瞬間、二人でいることは運命だ。そしてこの瞬間の俺は、俺たちは、永遠を信じる。俺の感じている温己の気持ちを、俺は本物だと信じる。
 温己、おまえが俺を好きだという気持ちは本物だよ。俺がおまえを好きな気持ちが本物なんだから。



END





2001.7.27up




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