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トライアングル -3-



 数日後の夜、ぼくの部屋を詩香子が訪れた。はっきり言ってかなり遅い時間だ。おまけにワインの瓶を二本抱えている。『差し入れ』と言わないところをみると自分で飲むつもりなのだろう。
「宴会しよ。ビールあるんでしょ?」
 詩香子は以前来た時に「アルコールが飲みたい」と言い出し、冷蔵庫にビールしかないことを散々けなしていったことがある。ビールは嫌いなんだそうだ。だからワインを持ち込んできたというわけか。
「未成年者が何言ってんだよ。第一ぼくは眠いんだ」
「いいじゃないの、付き合ってくれたって。ピザとかいろいろ買って来たんだから」
 詩香子は平気で上がり込んできて、台所に入っていった。さっそく冷蔵庫を開ける音がする。
「やあだ、ビール二缶しかないじゃない。しょうがない、私のワインを分けてあげるわね。マドンナだぞ」
 やれやれ、だ。ぼくが肩を竦めている間に詩香子はさっさと宴会の準備を進めてしまった。勝手にぼくのレンジを使って、持ってきた冷凍食品を温める。あっという間にテーブルの上にはピザやミートボールが並べられ、グラス二つを手にして詩香子は言った。
「坐ってよ。始めましょ」
 ぼくは黙ってテーブルに着いた。詩香子がマドンナを注いでくれる。
「まずは乾杯ね」
「何にだよ?」
「私の幸せによ」
 詩香子はすまして言い、首を傾げるぼくのグラスに、一方的にカチンと自分のグラスを合わせた。
「シアワセー?」
 呟きながらグラスに口をつけたぼくに詩香子はさらりと言ってのけた。
「私、恋人ができるの」
 ゴクン。飲み込んだワインが固体に感じられた。
「こっ、恋人っ?」
 動揺するぼくの目の前で、詩香子は「ふふふ」と笑ってみせた。
「詩香子、そういうの嫌いなんじゃなかったのかよ?」
「誰が嫌いなんて言ったのよ。私ずうっと恋人募集中だったわよ」
「今まで散々文句ばっかり言ってたじゃないか」
「そうじゃないもの。いい人がいたらいいなあってずっと思っていたわ」
「ああそうかよ。今までのはよくない奴ばっかりだったって言うんだな」
 ぼくは何故こんなに動揺しているのだろう、とふと思った。かまわないじゃないか、詩香子に恋人ができたって。
「よくないっていうわけじゃないのよ。好みの問題だもの。今までのは何か違ったのよねえ」
 けろりとした顔で詩香子は言った。
「だけど、好きになっちゃった。向こうはどうかわからないけれど」
「どういう奴なんだ?」
 詩香子が好きになるって一体どんな奴だ。多貴はどうなったのだろう。
「この前のコンパの人、デートに誘ってくれた」
「じゃあ向こうも詩香子を好きなんだろ」
「それがわかんないのよねえ。どういうつもりで誘ってんのかしら。全然そういう感じじゃないんだもの。でも、だから好きになったのかもしれない」
「なんだ、それは」
「私ねえ、正直に言って自分に自信がないの。だから今まで好意を示されると、『この人って見る目ないな』とか思ってしまったのよね。そいで、なんか、ちゃんと私を好きになってくれたんじゃなくて、私のイメージを好きと思い込まれているような気がして」
 詩香子はかなり速いピッチでぐいぐいワインを空けていった。
「だけどなんかあの人はすっごい無邪気なの。私を好きなのかどうかもよくわかんないんだけど、とりあえず、一緒にいて楽しそうなのよ。気を使って盛り上げてくれるとか、そういうんじゃなくて、彼自身が楽しそうなの。だから私も嬉しいんだ」
 ぼくはだんだん苛々してきた。詩香子は勝手すぎる。
「でも今までの奴らだって詩香子といて楽しかったから、好きになったんじゃないの」
 ぼくが言うと、詩香子はぶんぶんと首を振った。
「違うのよ。彼らは私の気持ちを考えちゃうの。だから彼らの場合、私を好きなんじゃなくて、私に好きになってほしがってただけなんじゃないかって……」
「そいつは違うって言い切れるの?」
「だからわかんないんだってば、あの人が何考えているのか。だけど私は好きになっちゃったもの。どこがなんて訊かないでよ、そんなの具体的に答えられるわけないんだから」
 何なのだろう、この苛立ちは。詩香子、詩香子、ぼくを置いていくのか。
「恋愛なんて錯覚だろ。詩香子いつも言ってたじゃないか」
「錯覚でもかまわない。恋愛が全て錯覚だって言うんなら、これは本物の錯覚よ」
 ぼくは唇を噛みしめた。気を抜くと「ばかやろー」と叫び出してしまいそうだ。わけのわからない怒りが募ってくる。ぐいっとグラスを空けると、急にぐらっときた。いつの間にか酔いが回っていたらしい。
「じゃあついにファザコン解消ってわけか。めでたいじゃないか」
 皮肉っぽく言うと、詩香子はきらりとこちらを見た。
「何よ、それ」
「ちゃんと知ってたんだよ。今日子に父親取られた、腹いせでぼくに絡んでたんだろ、今まで。よかったじゃないか、大人になれて」
 詩香子はムッとした顔になったのは一瞬で、すぐに余裕の笑みを浮かべた。
「そうね。だから明日太も早くシスコン直したら?」
「誰がシスコンなんだよ?」
 酔いのなかで、頭を支え切れず、テーブルにうつ伏しながら、ぼくは問い返した。急速に眠気が襲ってくる。
「お互いさまだったじゃないの、私たち。明日太も、もう今日子さんの代わり作るのはやめなさい」
 呪文のような詩香子の声。ぼくはそれから逃れるようにテーブルを離れ、ソファに仰向けになった。抵抗する気もなくゆっくりと眠りに引き込まれていった。
 その日、久し振りに今日子の夢を見た。
―今日子っ、S女子短に行くってどういうことだよ? せっかく一緒の国立受かったんじゃないか
―私、四年大出てまでやりたいこと、ないもの。S女の雰囲気、私に合ってると思うわ。
―すべり止めって嘘だったのか? 最初っから短大に行くつもりで……
―明日太、私たち一緒にいすぎたのよ。双子だからって、いつまでも一緒にいるわけにいかないわ



 鳴り出した電話のベルが、ぼくを夢から引き離した。もう夜は明けて、カーテン越しに感じる日射しは、すでにお昼が近いことを告げていた。
「はい、佐古です」
 半分眠ったまま応えたぼくの耳に飛び込んできたのは、懐かしい声だった。
―ハロー、私よ
「ゆ、柚里っ」
―久しぶりね。元気?
 明るいくらいの口調で問いかける柚里の声はひどく近く聴こえた。
「どこにいるんだよ? これ、国際電話じゃないだろ?」
―一時帰国中よ。実家にいるわ。向こうは休暇に入ったの。ちょっと体調崩しちゃったから日本で休養とってるの
「病気なのか?」
―たいしたことないのよ。どこか悪いってわけじゃなくて、水が合わなかっただけ。休暇中だし、ホームシックにも罹ったし、で帰ってきちゃった
「会えるのか?」
 殆んど切実な響きを持っていたはずのぼくの言葉を柚里はさらりと流した。
―ううん
「どうしてっ? だって、しばらくは日本にいるんだろ。そっちに行くよ。会いたいんだ」
―会わない。ごめん、電話するべきじゃなかった。でも声が聴きたかったの
 胸がしんと冷えてゆくような感じを味わって、ぼくは訊き返した。
「会わないってどういうことさ?」
 柚里はすっと話をそらした。
―妹尾くんは元気?
「元気ないよ。なんだかイライラしてる。きっと柚里が留学したからだよ。そうだ、多貴も柚里に会いたがるはずだ。だから三人で会おうよ。ぼくらそっちへ行くから」
『会いたい』という気持ちだけが空回りして、うまく言葉を探せなかった。
―嫌よ。三人でなんて冗談じゃないわ
「どうしたんだよ? 柚里、ちょっとおかしいよ。ぼくらいつも三人で楽しくやってたじゃないか」
 三人で会うことができれば、また元のようにうまくいくはずだと思った。多貴とぼくの間も、ぎくしゃくする前に戻れる。
―そんなの嘘よ。楽しかったのは明日太だけじゃない。私、楽しくなかった。三人でいて楽しいことなんてなかった。いつもいつも綱渡りみたいで、辛かった
「柚里……」
 急に激しく言い募る柚里の言葉をぼくは茫然と聴いた。しばらく柚里の荒い息だけが耳を刺した。
―…ごめん、言い過ぎた。楽しいこともあったわ、本当は。だけど疲れちゃったの。だから私、抜けたんだもの。留学、決めたんだもの
「柚里がいなくなってから、多貴がイライラしてるのは本当だよ。マジでヤバイかもしれない。発狂寸前て感じ」
 柚里、ぼくを助けて。必死に差し伸べる手の先で、柚里はくすりとため息のような笑い声を漏らした。
―素敵ね。彼が本当に発狂したら、会ってもいいわ。明日太と二人で看病してあげるの。そうでなきゃもう会わない、会いたくない。明日太とも、妹尾くんとも
 カチンと受話器を置く音がした。
「柚里? 柚里っ」
 いくら呼んでも空しい発信音が帰ってくるだけだった。
 ふと気づくと、いつの間に目を覚ましたのか、詩香子がこちらをじっと見つめていた。見るまに唇が三日月型に吊り上がった。
「振られたんだ?」
「うるさいっ」
 ぼくは叫んで背中を向けた。涙が滲んできたからだ。
「彼女の名前、ユリさんていうんだね。留学してる人でしょ」
「黙れよ」
「どうして振られたの? なんて訊くまでもないわね」
 あくまで悟ったような詩香子の台詞。ぼくは悔し紛れに呟いた。
「柚里はぼくの恋人だったけど、彼女が好きなのは多貴だったんだ」
 いつからだろう、柚里の多貴への想いに気づいたのは。
「よかったじゃないの。バランスが取れてて」
 ちゃかしてくる詩香子の言葉にぼくは唇を噛んだ。
「そうだよ。バランス取れてると思ってたんだ、ぼくは。柚里が誰を好きでも構わなかった。ぼくのそばにいてくれるならそれでよかったんだ」
 独り言めいたぼくの言葉に、詩香子は膝を抱えた腕の陰で小さく笑った。
「それは嘘よ」
「おまえっ!」
 カッとしてぼくは叫んだ。
「おまえになんか何がわかるんだよ! 悟ったような口利きやがって。人の気持ちはそんな簡単なものじゃないんだ!」
 詩香子の襟を掴んで壁に押しつける。されるがままで詩香子は言い募った。
「簡単じゃないことくらい百も承知よ。だから私だって困ってんじゃない。だけどねえ明日太は結局自分が一番大切なのよ。そんなの当たり前なんでしょうけど。誰だって自分が大切。でもね明日太は他人の気持ちかわしているだけじゃない。ユリさんのことだってほんとに好きなの? 嘘よ。彼女を逃げ場にしてたのよ。逃げ場がなくなってパニック起こしてんでしょ」
「黙れっ!」
 ぱしんと右手が鳴った。詩香子が頬を押さえる。ぼくは苛立ち、狂暴な気持ちになっていた。誰も彼も傷つけたいと思った。
「詩香子おまえ、こんな風に平気でぼくの部屋になんか泊まっていいのかよ。親戚って言ったって血のつながりはないんだからな。ぼくが妙な気起こしたらおまえなんか一生傷モノなんだ」
「できるならどうぞ」
 詩香子は挑戦的というのでもない、やけに冷静な目付きでぼくを見上げた。
「できるならやってみなさいよ。だけどおあいにくさま。私は傷モノになんかならないわよ。そんなことで自分を傷モノだなんて感じたりしない。一生傷ついて生きていくのは明日太の方でしょ」
 敵わない。ぼくはどうしたって詩香子には敵わないのだ。そう思ったら力が抜けて、ぼくは詩香子の横に仰向けに寝転んだ。
 もしかしたらぼくは、詩香子を柚里の代わりにしようとしていたのかもしれない。柚里の代わりに詩香子を入れることで、もう一度三角形を作る気になっていたのか。そうしてうまくバランスを取っていけると思っていたのだろう。甘い考えだ。詩香子がぼくの思い通りになんか動いてくれるものか。ふいに笑いがこみ上げてきた。
「ははははは……」
 声を上げて笑い始めると、それはすぐに涙に変わった。ぼくは腕で顔を覆った。詩香子の手が髪に触れるのを感じた。
「明日太」
 ひどく優しい声で彼女は囁いた。
「私、本当は明日太と付き合いたいと思ってたの。明日太を好きとかそういうことじゃなくて」
 ごめんなさい、と詩香子は言った。
「明日太みたいにキレイな男の子と付き合ってたら自慢できるな、とか。そんなことも考えた。明日太と一緒にいると友だちにもうらやましがられたし」
 苦笑まじりに詩香子は呟く。
「私、明日太には感謝してるんだよ。私、男の子って苦手だった。どう接していいかわからなかったんだもの。でも明日太と知り合って変わったんだ。好きとか嫌いとか考えなくて、明日太といるのが楽だったから」
 ぼくも詩香子といるのが楽だった。
「私、明日太の気持ち、わかっているつもりよ。同じだもの、私も。だけど私は明日太を救えないわ。私は明日太を愛していないもの。それこそが明日太の望んでいることだとしても」
 ぼくは黙ったまま、髪に詩香子の愛撫を受けていた。二歳年下の詩香子がずいぶん年上の女に感じられた。
「帰るわ、私」
 しばらくして詩香子はそう言って立ち上がった。服を直しながら洗面所に向かう。
「あの人に連絡しなきゃ」
 出てきたときには、髪を整えきちんと化粧までしていた。そうして玄関のドアを開けてあでやかに微笑んで見せた。
「それじゃあサヨナラ。明日太もちゃんと好きな人をつくりなさい」
 判決を言い渡された被告よろしくぼくは、ため息とともに閉まるドアの音を聴いた。


 その日一日、詩香子の残した言葉を反芻し、ぼくは夕方になって多貴の部屋を訪ねた。
「柚里が日本に帰ってきてるんだよ。実家にいるんだって」
「だから?」
 冷ややかな声。こちらを向きもせずにタバコを取り出す。しばらく手で弄んでから火をつけた。
「一緒に会いに行かないか?」
「何のために?」
「何のって」
 ぼくは口ごもった。多貴は横顔のまま煙を吐いた。突き放すような態度に急に苛立ちが募ってきた。
「ぼくだけなのか? 元のような関係に戻りたいと思ってるのは」
 多貴も柚里も勝手すぎる。ぼくは声を荒げた。
「このまま三人バラバラになるなんて、そんなのあんまりじゃないか。もう一度やり直したいんだ」
「やり直す?」
 それはひどく苦々しげな声だった。ぼくは思わず身を竦めた。多貴は立ち上がり、近づいて来た。
「佐古。わからないのか、本当に?」
 瞳の奥まで覗き込むような視線だった。ここで目をそらしたらダメだ。そう思ってこらえた。
 言葉を聞く前にわかった。ぼくは反射的に目を閉じた。
「好きだ」
 両腕を強くつかまれた。多貴の瞳を見るのが怖かった。
「ぼく、ぼくは…」
 何も言えなかった。俯いたまま言葉を探すぼくの上に多貴の声が降った。
「行けよ」
 多貴の手が腕から離れる。
「沢井のところに行けよ。俺は行かない」
「多貴」
 多貴は顔を背け、上げた左手で隠した。思わず手を伸ばしかけた。
「行けったら!」
 ぼくはそのまま黙って多貴の部屋を出た。どうしたらいいかわからなかった。多貴の告白を受け入れることも拒絶することもできなかった。バス停までの道を歩きながら、ぼたぼたと涙がこぼれた。



 朝になり、始発のバスで駅に向かった。柚里の実家までは、私鉄で一本のところで、乗り換えは必要なかったが二時間近くかかる距離だった。九時過ぎに着き、公衆電話を見つけ、柚里の家の番号を回した。呼び出し音がしばらく続いた。
―はい、沢井です。
 それは柚里の声の気がしたが、いちおう訊いた。
「佐古といいますが、柚里さんはいらっしゃいますか?」
 ほんの少し息を飲むようにして、相手が応えた。
―…私よ。
「○○駅に来てるんだ。会ってもらえないかな?」
 しばらく沈黙が続いた。テレフォンカードのメモリがゆっくりと一つ落ちる。ぼくは辛抱強く待った。
―いいわ。
 ついに、投げ出すように柚里が言った。
―行くまでに二十分はかかるの。待っていられる?
 ふいに懐かしい優しい調子で訊かれ、ぼくは涙ぐみそうになった。
「もちろんだよ。ありがとう」
 朝食をとっていなかったので、駅前のファーストフード店に入って、待った。
 やがて、見覚えのある柚里の丸い軽自動車を見つけ、ぼくは立ち上がった。駅のロータリーを回ってきたところで、助手席に乗り込む。
「用事は何?」
 車を止めたまま、柚里は横顔で訊いた。
「どこか…どこか行かない? これから何か予定でもあるの?」
 柚里は、小さくため息をつき、黙って車を発進させた。
 柚里が祖母に買ってもらったというこの車に、ぼくらが初めて乗ったのは、二年生になってすぐだった。春休みの帰省から戻って来たとき、柚里は得意げにぼくらに見せびらかした。免許を取り立てで新車を手にいれた柚里を「お嬢さん」だとぼくらはからかった。
 それからたびたび3人でドライブをした。どこに行くという目的もなく、ランチのために一時間以上も車を走らせたりした。
 後部座席で多貴は長い足を持て余し「狭い」と文句をつけ、危なっかしいハンドルさばきに、ぼくたちがおおげさに騒いだので、柚里は「イジワル」と鼻にしわを寄せた。エンジン音がうるさくてよく聴こえないからとボリュームを上げすぎたカセットテープに負けないように、大声を張り上げてしゃべった。
「また同じ曲だ」と多貴が言い、「好きなんだからいいじゃない。文句があるなら乗ってくれなくていいよ」と柚里が返す。
 いつも同じような会話ばかり繰り返していた。
 今、この車に流れているのは、耳慣れないフランス語の歌だ。まるで聞き取れない歌詞に、ぼくは少し苛立った。
「テープを替えてもいいかな?」
「どうぞ」
 カセットテープのケースを漁ったが、ぼくの知っている曲はなかった。
「『LIFE』はないの?」
「ないわ。もう伸びちゃって聴けないの」
 柚里はそっけない口調を崩さない。交差点に入る前に信号が黄色に変わった。車を止めて、柚里は初めてぼくを見た。
「…もう、やめようよ」
「やめる?」
「私たちに行き先なんかないのよ。いつも同じところを回るだけ。私はもう降りるって言ったでしょ」
「行き先ってなんだよ? 三人でいることがそんなに間違ってるのか? 多貴を抜かして、二人きりでデートすれば文句がないのか?」
「そうじゃないでしょう」
「じゃあ、なんなんだよ?」
 信号が青になった。しばらく沈黙が続いた。ぼくは耐えられなくなった。
「ぼくが抜ければいいんだろう! 柚里は多貴が好きなんだから」
 もうすべてどうでもいいような気になった。ぼくが守りたいものを、多貴も柚里も捨てようとしているのだ。だったら、ぼくが自分で斧を振り上げて壊してみせよう。
「知らないと思ってた? ぼくだってそんなに鈍くないさ。ほんとは最初っから、多貴が好きだったんだろう」
「バカッ」
 それは悲鳴のようだった。柚里は、道の端に車を止めた。交通量のほとんどない田舎道で、時折思い出したように現れる車が追い越して行く。
「ずるいよ、明日太」
 唇を噛んで、きらきら光る目で柚里はぼくを睨んだ。
「そうやって、被害者になるつもりなの?」
「被害者って何だよ? 気づきたくなかったさ、柚里が多貴を好きなことなんて。自分が丸っきり間抜けに思えるよ」
「嘘よ、明日太」
 柚里は静かに言った。どこかで聞いた言葉だと思った。
「本当は知ってたんでしょう? 私が妹尾くんを好きだったこと。だから私と付き合う気になったんでしょ」
 頭の中が真っ白になった。柚里は何を言い出したんだ?
「どういうこと?」
「明日太は知ってたのよ。私の気持ちも。妹尾くんの気持ちも」
「残酷だわ」と柚里は呟く。
「私がどうしてつらいか、わかる? 明日太を好きだからよ」
 眉を寄せ口元は歪んで、ほとんど泣き顔のように見えた。けれど柚里の目は乾いていた。
「はっきり決めて。私をとるか、妹尾くんをとるか」
 ぼくは柚里を見つめた。許しを乞うように。
「三人じゃダメか」
「まだそんなこと言うの?」
 いつかはこの場所を追われることをぼくは最初から知ってはいたのだ。ただ認めたくなかったから、バランスの危うさに気づかないふりをしていただけ。それがいつまでも続くはずのないことを知りながら。
「ぼくには、二人とも必要なんだ」
「ダメよ。もう私は限界。明日太と妹尾くんの間で笑ってる余裕ない。妹尾くんも同じはずよ」
 断罪するような柚里の声。それだけ言うと柚里はまた正面を向いてしまった。ぼくは裁かれる罪人の気分だ。柚里はぼくを救ってくれない。
「多貴に好きだって言われた」
「それで?」
「ぼくは、逃げてきたんだ」
 もう柚里の顔を見られなかった。車の通らない道に視線を向ける。
「柚里、ぼくはどうしたらいい?」
 ふいに涙があふれた。ぼくは俯いて嗚咽した。
「バカね」
 優しい声だった。柚里の手がぼくの頬に触れた。目を閉じて柚里の唇を瞼に受けた。優しい手がぼくの前髪をかきあげ、額にキスしてくれる。穏やかな時間。けれどこの居心地の好さの中に薇睡んでいることは許されないのだ。そう思うと再び涙が溢れてきた。だが今だけ、今だけ許してほしい。柚里のキスが頬にきた後、静かな声が耳元で囁く。
「妹尾くんは本気よ。私も本気。決めるのは明日太よ。わかっているんでしょう?」
「ぼくは柚里が好きだ」
 目を開けると柚里は微笑んだ。とても淋しい笑みだった。
「明日太。私は逃げ場じゃないわ。きちんと私と向き合う気が、本当にある? 明日太のその言葉を信じられたらって、本当に思う。だけど私にはわかってるのよ。明日太のこと、本気で好きだって言ったでしょ」
「柚里、ぼくは怖いんだ。多貴の気持ちが怖い」
 まるで子どもの台詞だ。ぼくは自分で自分が恥かしかった。けれど柚里の言葉がなくちゃぼくは前に進めない。そして柚里は最後までぼくを甘やかしてくれた。
「逃げちゃダメ」
「ぼくにはわからないよ。多貴を好きかどうかなんて。そんなこと考えたこともなかった」
「考えないようにしてただけでしょ。ちゃんと考えて。答えを出して」
 そう言った後、柚里は小さく息を吐いて笑った。涙が一粒こぼれる。
「やっぱり私は「友だち」ね、明日太にとって」



 ぼくはその夜再び多貴の部屋に向かった。アパートの前の通りから見上げると部屋の窓は暗かった。でもぼくにはわかっていた。多貴はいるはずだ。ぼくはエレベーターを無視して、階段を上った。
 多貴の部屋がぼくたちの溜まり場だった頃、四階にある部屋まで、エレベーターを待つのと階段を駆け上がるのとどちらが早いか、なんて三人で競争してふざけていた。柚里がサンダルで無理をして階段で足を滑らせ、ぼくたちをあわてさせたこともあった。もう戻らない日々。
 チャイムを鳴らしても多貴はすぐには出てこなかった。それでもぼくは確信した。ドアの向こうに多貴がいる。
「多貴、いるんだろう? ドアを開けてよ」
 待っている間に少し不安になった。もうぼくにはドアは開かれないのだろうか。
「多貴」
 カチリと鍵の開く音だけがした。ぼくは自分でノブを回して部屋に入った。壁にもたれるようにして玄関に横向きに多貴は立っていた。台所の小さな電灯だけが点され、頼りない光を投げかけている。
「何しに来たんだよ」
 苛立たしげに吐き出された多貴の言葉をぼくは受け止めた。
「柚里に会ってきたよ。ぼく、もう逃げるのはやめたんだ」
 多貴はぼくの声など聞こえないように動かなかった。ぼくは靴を脱いで上がり、多貴の正面に立った。俯いたままの顔を覗き込む。
「多貴、ぼくは逃げない。だから、ぼくを見てよ」
 多貴は少しずつ顔を上げた。ぼくはようやく多貴の瞳をつかまえた。
「好きだよ」
 多貴の瞳。そこに映る自分を見て、ぼくはひどく安心した気分で目を閉じ、伸び上がって、多貴の頭を引き寄せ、眉のあいだにキスをした。
 ふいに、まるでしがみつくような強さで、多貴がぼくを抱き締めた。シャツを通して、多貴の熱を感じた。鼓動が重なる。
「明日太」
 ため息のように多貴が囁いた。ほんの少しぼくを抱き締める腕が緩み、余裕ができたので、ぼくは多貴の背に手を回した。
 額がつき、鼻が触れる。そしてゆっくりと唇を合わせた。



END





2000.12.02up




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