すべての季節が過ぎ去っても ─8─

|| 臼井

 夕方に突然奥田が訪ねて来た時、あゆみは出かけていて部屋にはオレ一人だった。チャイムの音に玄関まで出ていったものの、都内の就職説明会に行ったあゆみが帰ってくるにはまだ早い時間帯で、一応はあゆみ名義の部屋なので不用意にドアを開けるわけにもいかないオレがとりあえず確認したドアスコープに映っていたのは、見慣れた長身だった。事前の断りもなく訪ねてくるなど、奥田にしては珍しかった。
 招き入れて「どうした?」と訊くと、奥田の顔がくしゃりと歪んだ。いきなりしがみつかれて、オレはびっくりした。
「ごめん、臼井。ごめん」
 左耳の後ろ辺りから、奥田のくぐもった声が聴こえた。
「どうして奥田が謝るんだ?」
 オレは驚いて奥田の肩をつかんでその顔を覗き込んだ。
「もう一回ジラフやれないかな」
 目を伏せたまま呟いた奥田は、意を決したように真直ぐにオレを見た。
「小日向のためっていうんじゃなくて、ぼく自身がジラフのファンになったんだ。小日向と……ミサオちゃんの曲は、いいよ。悔しいけどすごくいい。それでもジラフは特別なんだ。はっきりわかった。だからもう一度やりたい」
 やや上擦ったような早口で一気にまくし立てる奥田に戸惑った。
「奥田」
「臼井のこと傷つけるってわかってんだよ。ぼくのワガママだ。どうしてもジラフをやりたい。頼むよ」
 奥田がオレにこんな言い方をするのは初めてだった。奥田はいつになく取り乱していた。
「奥田、小日向に会った?」
 責める気は全然なく、ただ確認のために訊くと奥田は「うん」と力なく頷いた。
「ミサオちゃんのところに、いた。ごめん。ぼくは臼井を傷つけてもバンドをやりたい。どうしてもまた四人でやりたい」
 オレは腕を伸ばして、背の高い奥田の肩に回した。力を入れずに掌でその背をぽんぽんと叩く。
「わかるよ」
 それだけを言った。奥田が小日向を特別だと思っていることは知っていた。奥田が小日向の曲を聴いて、小日向に会って、もう一度あいつとバンドをやりたいと感じるのは当然だった。その気持ちがオレにはよくわかる。オレが自分の小日向への想いに自信を持てない原因もそこにあった。オレは小日向の音が好きで、あいつのことをバンド抜きで好きだと言い切ることがどうしてもできなかった。そして小日向の音が好きなのは、あいつを特別だと認めているのは、オレだけではない。オレの気持ちと奥田や高見の小日向への気持ちに差があるとは思えなかった。
 だからこそ奥田がオレにバンドを再開しようと言いに来てくれたことをありがたいとも感じていた。その気になればオレを抜かして、ジラフをまた3ピースのバンドに戻すことだってできたはずだ。
「奥田、ありがとう」
 オレは言った。
「わざわざ誘いに来てくれてありがとう。オレのことは気にしなくていい。最初に戻っておまえたちがオレ抜きで三人でやっても、オレは大丈夫だから。奥田が今日オレのとこに来てくれただけで十分だから。本当にありがとう」
「何言ってんだよ」と奥田は顔を上げた。
「そんなんじゃない。勘違いすんな。臼井がいなくっちゃダメなんだ。だから」
 奥田はうまく言葉が見つからないようでじれったげにくり返した。子供っぽく地団駄を踏むような素振りさえ見せた。
「ちがうんだよ。小日向は一人でも大丈夫かもしれない。でもジラフの小日向が本当なんだ。ぼく、臼井に一緒にやってくれってお願いしてんだよ。臼井がイヤな思いをするかもしれないってわかってて、それを我慢してくれって言ってんだ。もう一度やりたいって、それが本当だってぼくは感じるんだ」
 奥田の態度にオレは一瞬呆然とし、次いで嬉しさがこみ上げてきた。脈絡の乱れた奥田の主張がオレには嬉しかった。いつも一方的に頼るばかりだった奥田に対等と認められたような気さえしていた。
 オレは今まで奥田がどんなにオレの曲を好きだと言ってくれても、そこになぐさめが混じっているように感じていた。純粋に音楽的な面だけを取り出せば奥田には小日向さえいればいいのだろうとどこかで疑っていた。奥田はオレより一段高いところにいて、だからこそオレは奥田を頼っていたけれど、もしギリギリの状況になったら、奥田はオレではなく小日向を選ぶんじゃないかという気がしていた。
 ふいにオレは大丈夫だという気持ちが湧いた。すうっと霧が晴れていくようだった。オレは大丈夫。小日向がミサオちゃんを好きでも大丈夫。小日向がどんな態度を取っても、オレは平気だ。あいつの隣で演奏したい。それだけでいい。
 奥田の言葉は、オレにはバンドがあると改めて確認させてくれた。小日向がミサオちゃんと付き合っていても、いつか誰かと結婚しても、オレは音楽を通して小日向と繋がっていられる。小日向が音楽をやっていなかったらなどと考えるのは無意味だった。実際にオレはあいつの音が好きなのだから、それでいいんだ。
 小日向がどんなふうに思っていようとオレは勝手にあいつを好きでいようと決めた。
「奥田、ありがとう」とオレはもう一度言った。


 ジラフの再開を決めたオレたちは、高見からの提案で、滝口さんの雑誌のイベントの打ち合わせで顔を合わせることになった。高見はよそのバンドのサポートをしている縁から、滝口さんの先輩にあたる志賀さんという人と知り合いになったという。その志賀さんがライブイベントを企画したいという話でジラフに声がかかったのだ。まだ全然具体化はしていない企画のようだが、とりあえず滝口さんも交えて一緒に飲もうという話が出たらしい。高見と奥田は、最初はオレたちだけで会うよりも他の人に立ち会ってもらうほうがいいだろうと気を遣ってくれたのだ。
「ごめん。オレその日は夕方から研究所に行かなきゃならないんだ。できれば昼間にしてもらえないかな」
 高見からの電話にそう告げると「なら別の日にするか」とあっさり高見に返されて、オレは言いよどんだ。
「いや……悪いけど、オレ……いきなりあいつと飲むの、今はまだ、ちょっと抵抗ある」
 覚悟を決めたつもりでも、実際に小日向と顔を合わせることを考えれば少なからず動揺せずにはいられなかった。酔ったりしたら自分の感情をうまく隠し通す自信がなかった。見栄っ張りと呆れられるかもしれないが醜態を晒したくはなかった。
──臼井
「だからオレは顔合わせだけっていうんじゃダメかな。その、様子見っていうか。いや、大丈夫だとは思う。オレはちゃんと立ち直ってるつもりだし。でも一応リハビリさしてくんない?」
 冗談めかして笑えば、察してくれたらしい高見が調子を合わせるように笑い混じりの声を出した。
──リハビリ、必要か?
 軽く訊かれて、オレはほっとして高見に甘えた。
「ん、まあな。ただでさえあいつは刺激が強い奴だからさ、徐々に慣らさせてもらわないと」
 結局、軽い顔合わせをした後、オレ以外のメンバーで飲みに行ってもらうことになり、とりあえず大学の学食で待ち合わせることになった。
 オレは院生になってからは学食を利用していなかった。無意識に小日向と顔を合わせたくなくて避けていたのかもしれない。あいつがまともに学校に来ている可能性など低かったのにと自分の臆病さを笑いたくなった。


 約束の時間にオレが学食に行った時にはすでにみんな集まっていた。
「すみません、遅れました」
 謝りながら、空いていた奥田の隣に坐った。チラッと奥に坐っていた小日向のほうに目を向けると、茶色の目が驚いたように見開かれていた。小日向はオレをまるで初めて見るような顔で見つめていた。その無防備なツラに思わず苦笑がこぼれた。
 小日向は今の今までオレのことなど忘れていたのだろう。ミサオちゃんに夢中になって、オレの存在などすっかり頭から消えていたにちがいない。しょうがない奴、と笑うしかなかった。小日向は真直ぐで、余計なことを考えられない子どもだった。
 オレは小日向を見つめた。好きだと思った。小日向はやっぱり特別な奴だった。この気持ちはもう変えようがない。小日向との日々が終わっても、オレの中に根を張ってしまったこの想いは、どうにも消すことができない。無理に引き抜けば、大きな穴が空くだろう。そんな空洞より、オレはこれからも小日向への気持ちを抱えて生きていく。
 今さら言葉にはできないこの想いを目で伝えることができたなら。
 一瞬だけそう考えて、すぐに「無理だな」と内心で苦笑した。一緒にいたあの頃でさえ、オレの気持ちは小日向に伝わらなかった。ちぐはぐだったあの日々が、それでもひどく愛おしい。
 オレは固まっている小日向に笑いかけた。伝わらないであろうことは承知で「オレは大丈夫だよ。おまえが好きだよ」と心の中で呟いた。
 目を戻し「ベースの臼井です、初めまして」と志賀さんらしき人に向かって頭を下げると、彼はガタンと椅子を鳴らして腰を浮かした。
「あ、初めましてッ、志賀です。今日はどーもッ」
 ピョコンと頭を下げられて、クスッと笑ってしまった。志賀さんの肩書きは副編集長と聞いていたのに、ずいぶん腰が低い感じだった。二重の大きな目をしているせいかかなり若く見えた。
「あ、なんで笑うんですか?」
 見咎められて「いえ」と首を振った。
「なんか臼井さんって印象ちがいますね」
「印象?」
「滝口に見せてもらった写真があるんですけど、もっとクールな感じだと思ってて。会うの少し不安でしたよ」
 そんなふうに言われて、オレは少し困って曖昧に笑ってみせた。志賀さんはニコニコと笑って、
「ぼく実は残念ながらまだジラフのライブを見せてもらってないんです」
 と言った。
「そんなんで、新しく立ち上げる企画なのにオレらに声かけちゃっていいんですか?」
 高見のからかいに慌てたのか、志賀さんは大真面目に手を振り回した。
「や、あの、小日向さんの演奏は拝見してます。ハニムーンのライブで。アルバムもちゃんと自腹で買いましたから。あれは本当にすごいと思って。それからジラフにも興味を持ってたんですけど、滝口のやつがもったいぶって紹介してくんなくて」
「ちがいますよ。だから休止中だったからって」
「ハイハイ、わかったよー。でもぼくも高見くんとお知り合いになっちゃったもんね、ザマーミロ」
 脇から滝口さんが言いかけるのを遮った後で得意気に胸を反らした志賀さんに、滝口さんは呆れたように首を振った。
「志賀さん、おいくつですか」
 一見すると滝口さんのほうが年上に見えるくらいの志賀さんが「まもなくミソジ」と答えたので、オレたちは思わず声を上げてしまった。
 そんな話をしている間中ずっと小日向の視線はオレに張り付いていた。何度も「もういいよ」と口にしかけたほど。小日向はオレを傷つけたと考えているのだろうか。謝罪するつもりなのか。バカだな。いいんだよ。
 オレは顔を向けるたびにぶつかる小日向の視線の先で、なだめるように軽く笑ってみせた。
 いいんだ、小日向。気持ちが変わるのは仕方のないことなんだ。お前がオレよりもミサオちゃんを好きになったことは仕方ない。誰かが悪いわけじゃない。オレへの義理とかそんなことを考えるのは小日向らしくないだろう。お前は気持ちのままに行動して、それが許される奴なんだ。他ならぬオレが保証する。心からそう思っていた。



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