すべての季節が過ぎ去っても ─11─

|| 臼井

 携帯が鳴り出し、何気なく手に取り着信表示を見たオレは息が止まるかと思った。
 小日向。
 どうしよう。オレはまるで知能障害を起こしたように軽いパニックに陥った。
 小日向がオレに会ったせいで吐いたのはつい昨日のことだ。次に会う時にはせめてあそこまで混乱させたくないと考えていた。そのためにはどんな態度で接すればいいかと悩んでいたところだった。その小日向がオレに電話をかけてきた。今さら小日向と一対一で話すことにためらいを覚え、鳴り続ける携帯をしばらくオロオロと眺めていた。小日向の隣にオレの新しい居場所を作るためには、ここでどんな対応をすればいいのかと迷った。
 落ち着け、オレ。呼吸が浅くなっていることに気づき、無理やり深呼吸してから通話ボタンを押した。普通に話せばいいんだ、普通に。
「もしもし」
 オレは携帯を耳に押し当てた。微かな息遣い。しばらく無言が続き、ようやくあいつの声が聴こえた。
―…う、すい
「うん」
 音のこもった携帯越しでさえ小日向の声がオレの名を呼ぶことがわずかな幸福感につながった。例えこれが謝罪や言い訳の電話でもなんでもいいという気持ちになった。小日向がオレの名を呼んでくれるだけで嬉しい。
―オレ
「うん」
 グスッと鼻を啜り上げる音がした。オレはびっくりして問いかけた。
「小日向?」
 何を泣いてるんだ。
―オレ、まちがえた
 泣き声混じりに短く訴えられて、胸が痛くなった。何を? 小日向、何をまちがえたって言うんだ? 何があったんだか言ってみろよ。口の中が乾いて舌が貼りついてしまって、言おうと思う言葉がとっさに出てこない。携帯の向こうで小日向の荒い呼吸がくり返され、やがて吐き出すような言葉が聞こえた。
―…会いたい。臼井、会いたいよ。オレ、臼井に会いたい
 心臓が一瞬止まった。まるで耳元で卑猥な科白を囁かれたようにオレは反応していた。なぜだかわからない。なんということのない小日向の言葉がオレの全身を絡め取った。
 オレは動揺のあまり携帯を切ってしまった。締め上げられた心臓が次の瞬間早鐘を打ち始める。息苦しくて喘いだ。
 なんで、こんな。小日向。

 切れた携帯を護符のように握りしめて、どのくらいの時間が経ったのだろう。
「ただいま」
 玄関のドアの音とあゆみの声にオレは我に返った。卒論ゼミが長引いたらしいあゆみは少し疲れた様子だった。
「遅かったな。夕飯は?」
「ゼミでそのまま食べに行ったの。先にシャワー浴びるね」
 あゆみが浴室に消えるのを待ってオレは携帯の履歴で小日向の番号を呼び出した。
 今ここでオレが小日向に連絡をとるのはあゆみへの裏切りになるのだろうか。それがあゆみを傷つける行為だと知っていてなおオレは「会いたい」と言った小日向の元に駆けつけたかった。オレがどれだけの力になれるか定かでなくても、泣いていた小日向を抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってやりたい。
 通話ボタンを押すと、携帯はあせるほどの素早さで小日向の番号を辿った。コール音が始まり息苦しさを覚えた。
 けれど鳴り続ける携帯をいくら待っていても小日向からの応答はなかった。じれて何度かかけ直しているうちに部屋の電話が鳴り出した。あせって飛びついた後で気づいた。小日向からの電話であるわけがない。冷静に考えれば、ここはあゆみの部屋で、電話番号を知らない小日向からかかってくることなどありえなかった。
「もしもしっ」
―臼井?
 電話は奥田からだった。ふっと力が抜けた。
「あ、何?」
―うん。えっと…あゆみちゃん、いるかなあ?
 奥田は珍しく歯切れの悪い言い方をした。
「何、あゆみに用なの? 今、風呂入ってるから、伝えとこうか?」
 オレは努めてなんでもない声を出していた。小日向からの電話に動揺した自分を、奥田との電話で修整するかのように。
―まだ、出られない?
「いや、もう出てくるとは思うけど、直接じゃなきゃダメなこと?」
―できれば、あゆみちゃんと直接話したい
 そのために奥田はオレの携帯ではなくわざわざ部屋の電話にかけてきたらしかった。そのとき浴室から聴こえ出したドライヤーの音があゆみが風呂から上がったことを知らせてきた。
「あゆみ。奥田から電話」
 浴室の前に行って声をかけ、出てきたあゆみに受話器を渡した。
 あゆみと奥田の電話は長かった。あゆみは途中でキッチンの椅子を引き出して腰を下ろした。奥田が一方的に話し、あゆみはほとんど相槌を打っているだけのようだった。うつむいたまま何度も小さく頷いて、合間に思い出したようにタオルで髪を拭く。
 部屋にいるオレには聴き取れないくらいの低い声で話しているあゆみの背中を見ながら、オレは手にした携帯を開いては着信履歴の小日向の名を何度も確認していた。泣いていた小日向が気にかかり、ジリジリと追い立てられる気分を味わった。小日向からの電話をどうして切ってしまったんだと自分を責めた。小日向はオレに伝えたいことがあって電話をかけてきたのだろうに、どうしてそれを切るような真似ができたんだろう。
 なかなか終わらないあゆみの電話に、しびれを切らしかけ携帯の通話ボタンに指を当てては戻し、イライラと爪を噛んだ。小日向がオレを呼んでいるんだ。他のことはもうどうでもいい気がした。
 苛立ちながら、キッチンに坐るあゆみの華奢な肩のあたりを見つめているうちに、徐々に悲しくてやるせないような気持ちが湧いてきた。
 可哀そうなあゆみ。あゆみを可哀そうだなんてオレが思うべきじゃないとわかっていてもそう感じてしまった。オレはあゆみを愛することができない。たとえ小日向への想いが恋愛感情じゃなくても、あいつがオレの特別であることに変わりはなく、オレには小日向以上に他の誰かを想うことができない。そうはっきり悟ってしまった。
 可哀そうなあゆみ。オレはあゆみを利用するだけ利用した。つらい時に傍に寄り添ってくれたあゆみに感謝する気持ちも、あゆみを愛しいと感じる気持ちも、確かにオレの中にあるのに、それでも小日向への想いを押さえられない。オレはあゆみを傷つけたいわけじゃなかった。けれどどうしようもなかった。わがままで勝手で無神経な小日向。オレの特別な奴。それが正しいとは決して思えないのに、オレはあいつのために何でもしてやりたかった。

 やがて電話を終えたあゆみは、再び浴室に消えた。この期に及んでオレはあゆみに小日向のところに行くと告げる決心がつかなかった。黙って出て行けばそれはさらにあゆみを傷つけるかもしれない。
 逡巡するオレのところにやって来たあゆみはパジャマではなく洋服に着替えていた。
「私、これから出かけてくるね」
「奥田、何かあったのか?」
 奥田とあゆみという取り合わせに違和感を覚えて訊ねるとあゆみは首を振った。
「ううん、そうじゃないの。奥田くんに会うんじゃない」
 あゆみは笑ったけれど、それは力のない悲しげにさえ見える笑みだった。オレの罪悪感がそう感じさせたのだろうか。思わず抱きしめようと伸ばしたオレの腕をあゆみは避けた。
「なんでもない。私は大丈夫」
 そう言って、気を変えたようにオレを抱きしめてきた。シャンプーの清潔な香りに包まれて涙がにじみそうになった。ごめん、あゆみ、オレは。
「仕方ないよね」
 胸元にぽつんと零れたあゆみの吐息。
「あゆみ?」
「行かなきゃいけないの。じゃーね」
 オレが覗き込もうとするより先に顔を上げたあゆみは、不自然なくらい完璧な笑みを浮かべて後退りするようにオレから身を離した。
「すぐ帰ってくるんだろ?」
 問いかけたオレに返事はなく扉は閉まった。


 あゆみが出て行ってすぐに小日向に連絡を取るのははばかられた。それは単なるごまかしにすぎない。たとえ実行までにどれだけの時間をおいたとしてもオレがしようとしていることの免罪にはなるはずがなかった。オレは結局自分の気持ちだけを優先させる最低の人間だ。ずっとオレを想っていてくれたあゆみをいじらしいとか守ってやりたいとか思ったところで、それだけの力を持っていない。そしてそれを割り切るだけの強ささえないまま、小日向への想いに引きずられていた。
 単調にくり返されるコール音の向こう、相変わらず小日向は携帯に出なかった。仕方なくオレは小日向の家にかけてみたがあっさり留守だと告げられてしまった。
 小日向、おまえどこにいるんだ。
 ミサオちゃんのところだろうかと思いついて、一瞬ためらった。ためらいを振り切るように強く首を振る。泣いていた小日向。あいつがオレにSOSを寄こしたのだから、オレは何があっても応えてやる。それだけがオレにできる唯一だった。
 ミサオちゃんの連絡先を訊くために奥田の番号を携帯に表示させたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「臼井」
 ドアスコープを確認する必要もなく、その声が聴こえた。
「臼井、臼井、臼井」
 すがるようにくり返されるオレの名。オレは慌ててドアを開けた。どうしてあゆみのアパートを小日向が知っているのかなどという至極当然の疑問さえ浮かぶ余裕はなかった。
 オレがドアを開き切るより早く、押し入るようにして玄関に入ってきた小日向がしがみついてきた。
「オレ、やっぱり臼井が好きだ。オレ、まちがえたんだよ。オレは臼井が好きだ」
 子どものように嗚咽しながらくり返される小日向の湿った声がオレの耳を打つ。小日向の口から漏れた「スキ」は、初めただの音として届き、やがてオレの中でゆっくりと言葉としての意味をなした。
 オレは長くこがれてきたその身体を強く抱きしめた。小日向の脇に腕を差し入れ、衝動のまま肩や頭を撫でさする。小日向の腕もしっかりとオレの身体に絡みついてきた。
 あゆみのこともミサオちゃんのことも頭に浮かばなかった。ただ小日向を好きだという感情に支配されていた。オレはもう他のものはいらない。
 オレは首筋に押し当てられた小日向の顔を引き剥がし、その顎をとらえてキスした。塩辛い味がして、それを舐め取るように唇を重ねる。小日向の口はかすかに震え、開かれていた。そこから漏れる嗚咽混じりの息を吸い取った。こいつはオレのものだ。腕に収まっている小日向を確かめるようにその肩をつかみ、身体を絡ませ合い、何度も唇を押し当てた。
 そうするうちに昂ぶっていた感情が少しずつ落ち着いてきた。こがれてきたものが確かに腕の中にある安堵から余裕が生まれたのかもしれない。
 オレにはバンドがあると確認したばかりだった。小日向の気持ちが冷めたとしてもオレにはバンドがある、と。こんなことをすれば奥田も高見も、そして佐竹もみんなオレを軽蔑するだろう。
 今ここで小日向を取るのは、他の全部を失うことを意味すると考えるだけの冷静さがこの時のオレにはあった。
 脳裏にはミサオちゃんの歌が流れていた。運命の恋人たちと誰もが信じた、小日向とミサオちゃん。オレを打ちのめしたあの歌が嘘やまやかしのはずはなかった。あの歌を聴いたオレには、こんな瞬間でさえ小日向の気持ちが永遠だと信じることなどできなかった。もしもこの先小日向の気持ちが変わったら、その時には本当にオレには何もなくなる。最後の拠り所としてのバンドも何もかも。
 それでもよかった。今ここに──オレの腕の中に小日向がいることがすべてだ。他はどうでもいい。静かにそう決心していた。



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