すべての季節が過ぎ去っても ─29─

|| 臼井

 草と土の匂い。オレは小日向に左手を預けたまま土手の上に仰向けに寝転んで空を眺めていた。風があらわになった額をくすぐっていく。青空には刷毛でサッと刷いたような雲。風に流されていく雲を追って視線を動かせば、空はどこまでも広がっている。
 目を閉じた小日向の隣で、オレはアメリカにいるあゆみを想う。
 地方新聞社から内定を受けていたあゆみは、入社前の研修中に知った写真家の作品に惚れ込んでしまい、大学の卒業さえ待たずにその人を追ってアメリカに行ってしまった。その手続きの途中で、オレが婚姻届を出してないことに気づいたのだと貴子から電話があった。
──最低って百万回伝えてくれって言ってたわよ。私はちょっとだけ臼井を見直したけど。本当言うと婚姻届、しばらく私が預かっておこうと考えてたくらいだから
「あゆみ、怒ってたか?」
 オレの問いに、貴子は「どうかしらね」と答えた。
──どうかしらね。もともとなんとなく気づいていたような感じも受けた
 貴子にそう言われれば、オレ自身もあゆみが最初からオレが婚姻届を出さないと知っていたような気がした。オレもあゆみも相手の気持ちを思いやるフリをして、お互いに甘えていたんだろう。
──それにあのコも今は臼井どころじゃないんじゃない? 押しかけアシスタントだし、相手はものすごく性格悪いらしくって泣かされてばかりいるみたい
「そんなんで大丈夫なのかな」
 心配になって呟けば、貴子が声を上げて笑う。
──優しいフリされるよりマシなんでしょ

 貴子の連絡の後しばらくしてあゆみ本人からも時々電子メールが届くようになった。そのメールには師匠の性格の悪さを罵倒する小気味よい言葉が並んでいたりする。
──先生の優しさはカメラのファインダーを通してしか表れないんだと思う。臼井くんと正反対のタイプで、だから一緒にいて楽な部分もあるの。
 そんなふうに書かれてあると苦笑するしかない。オレの作る曲は「冷たい」と評されることが多く、時折会った人に「曲のイメージとちがう」と言われたりもする。オレの本質がどちらなのかなんて、自分自身にさえわからない。
 あゆみはどちらのオレも受け止めてくれているような気がした。オレはやっぱりあゆみが好きだと思う。小日向へと同じようにあゆみへの気持ちも友情と恋との境が曖昧だった。全部そんなものなのかもしれない。佐竹に対する気持ちも、もっと言えば奥田や高見への気持ちだって同じなのかもしれない。明確な線引きなどできなくてもオレが彼らを好きなことに変わりはないんだ。
 先日届いたあゆみからのメールにはPSとして、貴子からオレたちの新しいCDを送ってもらったことが付け加えられていた。ラストに収録されているオレの曲に「泣いたよ」とだけコメントされていた。
 誰にも告げなかったが、その曲はあゆみを想いながら作ったものだった。あゆみを特定するような具体的なフレーズは何も入れなかったし、誰にも──当のあゆみにも、わからないだろうと考えながら、それでも確かにオレはその曲をあゆみに向けて歌っていた。貴子がそのCDをあゆみに送ってくれたように、あゆみがその曲に気づいたように、オレが考える以上に気持ちは伝わっていくものなのかもしれない。オレがきちんと言葉にできない想い、オレ自身が気づけなかった想いさえも、きっと届いている。今すぐでなくてもいつか届く。

 風に流された雲が二つくっついていつのまにか一つの固まりになっていた。二つ合わさってさえ頼りないような薄い雲。オレは空に向けていた視線を小日向に移した。目を閉じて幸福そうなアホ面で草に伏せた小日向は、口の端に柔らかそうな葉先をくわえ込んでいる。
 オレの想いは、一番伝わるべき肝心のこいつには届いていないかもしれない。オレたちの間にあるのは、離れてしまえばお互いの気持ちをすぐに疑ってしまうような、あまりにも脆い絆。だからオレたちは一緒にいる。オレは小日向を信じられず、小日向はオレを信じないから、オレたちは離れられない。
 見つめているうちに視線を感じたのか、まぶたが上がって、茶色の瞳がのぞいた。間に乱立している草越しにしっかりとオレの顔を映している。オレは小日向の瞳に映る自分に笑いかけた。今この瞬間だけは信じられる。小日向はオレが好きで、オレは小日向が好きだ。オレを映していた茶色の目が満足そうに細められた。繋いだ手に少しだけ力をこめる。


 風が冷たく感じられてきた頃、オレたちはミサオちゃんのアパートに戻った。草の上に寝転んでいたオレたちのシャツやズボンには泥と草の汁が染みこんでしまっていて、出迎えたミサオちゃんが「うわ、汚ーい」と大げさな声を上げた。窓辺に置かれたベビーベッドに寝かされていた希夕は、目を覚ましていて風に揺れるカーテンを不思議そうに見つめていた。部屋に上がったオレたちがそばにたどり着くより早く、ミサオちゃんが笑いながら希夕をかばうように抱き上げる。
「そんなバッチイ人たちには抱かせなーい」
 いきなり抱き上げられた希夕はきょとんとした目でオレたちを見た。瞳や髪の色素が薄いところが小日向によく似ていた。
「あー」
 声をあげた希夕は、ミサオちゃんの腕の中で、開いた両手をオレのほうに目一杯に伸ばして抱いてくれとせがむような素振りを見せた。
「もう。希夕ってば臼井くんがお気に入りなんだから」
 ミサオちゃんが苦笑してオレに希夕を渡してくれる。
 そっと受け取ると小さな手が抱きしめるようにオレの首に回された。柔らかな髪に日の匂いが残っていた。あやすように揺すればオレの頬に小さな手をかけて目を合わせて嬉しそうに笑う。
 この子からオレは父親を奪った。
 それは決して赦されることのない罪だ。
 無垢な子供を傷つけて、それでもオレは小日向を好きなんだ。
 もう迷ったりしないと誓う。
 この子が証だ。
 いつか石をもって打たれるとしても、オレはこの気持ちを翻さない。現実の時間に巻き戻しはないんだ。もうオレは希夕を傷つけてしまった。この先何があっても迷わないことが、この子に対するオレの責任だった。
 腕の中の確かな重み。何も知らない希夕にオレが最初に傷をつけた。その痛みを握りしめて絶対に忘れたりはしない。
 今までに傷つけた人たち、これから傷つけるだろう人たちに対して、オレは迷わずに小日向を愛し続けると誓う。



END



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20030823up


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