すべての季節が過ぎ去っても ─26─

|| 小日向

「臼井くんは行っちゃやだ」
 置いてけぼりにされそうになった子供そのままに泣きながら臼井にしがみつくミサオを見てわかった。ミサオは臼井が好きなんだ。
 まるでデジャヴ。
 臼井の優しさが嬉しくて、その視線の先ではしゃいでた。好きだと想いをこめて見つめればちゃんと笑みが返ってくる。臼井は残酷なんだ。やがて手応えのなさに苛立つようになって。そうして臼井の優しさが自分だけに向けられたものでないことを思い知る。
 ああ、そうだ。オレとまったく同じじゃないか。
 ミサオを抱き止めた臼井が、彼女の頭越しにオレに向けた視線。とまどったような困ったような、そしてオレをうかがうような半端な笑み。
 その瞬間、ふいにオレの中に臼井がオレのものだという強い確信が芽生えていた。ほら、今オレの手の中に臼井の心がある。オレは自分がその場からすっと遠く離れているような感覚を味わっていた。もう一人の自分が、オレ自身を含めて三人を俯瞰しているような。
 ミサオを可哀そうだと思った。臼井はオレのものだ。だからミサオは可哀そう。
 オレは多分自分が思っていた以上にミサオが好きなんだ。大好きなミサオが臼井に報われない気持ちを抱いている。それを可哀そうだと感じていた。それを余裕や優越感と自省するにはあまりに切実すぎた。臼井がオレのものだと実感することがこんなに切ないなんて。
「バイバイ、ミサオ。またな」
 オレは臼井にしがみついているミサオの背に手を振ってその部屋を出た。
 車を停めておいた少し離れたドラッグストアの駐車場まで、うつむきがちに足を運んだ。少しだけ泣きたい気分で、でも涙は出なかった。喉の下のあたりに塊がつかえて苦しい。いつのまにか傾いた太陽が建物に遮られ見えなくなっていて、わずかに風が出ていた。上着は車の中に置いてきてしまったからシャツ一枚の肩が肌寒い。
 ミサオがどんなに臼井を好きでも臼井は今オレのものだ。ミサオの臼井への気持ちがどんなに強くても逆転はありえない。オレが臼井をつかまえてしまったから。この先も絶対にオレは臼井を離さない。可哀そうなミサオ。これは偽善なんだろうか。けれど確かに胸が痛い。大好きなミサオが可哀そうでオレも可哀そうで、そうして臼井が可哀そうだと思った。ミサオのために、オレ自身のために、臼井の残酷さに対する憎しみが確かにオレの中にあることを確認して、それでも臼井を可哀そうだと思った。抱きしめたかった。
 午後の陽射しに晒されていた車の中は、外とは対照的にむっとする暑さを保っていたが、オレはそのまま乗り込みエンジンをかけずにハンドルに顔を伏せた。今すぐ臼井を抱きたい。好きだと何度も言いたい。あいつが可哀そうで愛しくてめちゃくちゃにしてやりたい。


 結局ミサオは地元に戻って子供を産むことにした。ミサオがどんなふうに臼井への気持ちに折り合いをつけたのか、あるいはつけていくつもりなのか、オレには手の出しようがないだけに、地元に帰ると決めたミサオを黙って見送るしかできなかった。ミサオはバンド仲間の由美子さんとその彼氏の車に送られて行った。小雨の降る水曜日、オレも臼井も見送りには行けなかった。水曜には臼井の英語の購読会があることを知っているから、ミサオはわざとその日を予定したのかもしれない。
 そしてミサオは実家ではなく近くにアパートを借りたことを、数日経ってからの電話でさりげなく告白してきた。
「そういえば私、実家じゃなくてアパート借りてるんだ」
「なんで?」
「んー、ウチの父親は昔ながらの頑固オヤジなのです」
 クスクスとなんでもないことのように笑ってみせる。結婚せずに子供を産むというミサオを父親が許さないらしい。家には入れないと拒まれて、ミサオはアパートで一人暮らしをしているという。
「一人じゃ淋しいだろ?」
「そんなことないよ。お姉ちゃんが毎日のように来てくれてるし、お母さんも時々来る。なんか楽しいよ、お姉ちゃんと話してると」
 顔の見えない受話器越しの会話は、以前に戻ったような元気なミサオの声を聴かせてくれる。それはただの強がりで、その電話の間だけの空元気なのかもしれない。それでも笑いを含んだミサオの声にオレは甘えてしまいたかった。ミサオは強い。強いんじゃなくて強くあろうとしている。そんなミサオをオレは尊敬する。
 オレは受話器を臼井に渡した。応答する臼井の様子を少しだけ意地悪な気持ちで眺める。電話じゃ見えるはずないのに、頷きながら相槌を打っている。優しげな声。残酷な奴。オレがここにいるのにって、やっぱり思ってしまう。
 臼井から再びオレに戻された受話器に「バイバイ」と告げて電話を切った。
「ミサオちゃん、結局一人暮らししてるのか」
 少し沈んだ声で呟いた臼井は、声の暗さに自分で困惑したように咳払いして「今度会いに行こうか」と言った。
「家族が一緒だと遠慮しちゃうけど、ミサオちゃんだけなら気楽だからさ」
「そうだな」
 オレは曖昧に頷いた。臼井はミサオの気持ちに気づいてないんだろうか。そんなはずはないと打ち消した後で、臼井の鈍感さを考えればありえなくもないと思う。気づいていないのか、気づかないようにしているのか微妙な感じで、そうしてそれはオレたちの間で話題にすることではないんだろう。
 臼井は、ミサオのところに行く話をそれ以上具体化せず、手近な雑誌を広げて眺め始めた。肩越しに覗き込めばスニーカーの特集記事があった。
「そういえばオレの迷彩の靴、踵んとこが減っちゃってもうダメかもしんねえ。あのメーカー、ゴムが弱い気がすんだよな。今度は何がいいかな」
 その肩に顎をつけて呟いたオレに、臼井は雑誌に視線を落としたまま少し笑って片手を上げてオレの髪に触れた。脇から目元や頬に唇を押しつけると臼井の手が促すように髪をかき混ぜ始めたので、オレはその身体に腕を回した。臼井のもう一方の手が雑誌から外れてオレの背に移る。
 お互いの肩や背を撫でながら唇を合わせた。見た目の印象よりも柔らかい臼井の唇。誘い出した舌の感触。頭と背に回された臼井の手が愛しくてだんだん夢中になってくる。オレたちはゆっくりと床に横倒しになった。
 ひとしきり臼井の唇を味わって、少し息をついた。仰向けに押さえ込んだ臼井を腕立て伏せの要領で上から見下ろす。同じくらいの身長だから足の先までがピッタリと重なって、オレたちは最初から対で作られたような気がする。黒い瞳の中にオレの顔が映っていた。
 ミサオのことをいくら可哀そうと思っても、臼井がオレ以外に目を向けるのは許せない。許せないくせにミサオを可哀そうと感じて苦しくなる気持ちも本当なんだ。だから臼井にはオレの全部を預けたい。バカって呆れてもいいから、ちゃんと受け止めていてほしい。
「オレは、臼井にしてもらいたいことがいっぱいあるんだな」
 しみじみと呟くと、臼井の顔がぱーっと赤くなったので、オレは慌てて言った。
「や、ちがうよ。別にエッチなことだけじゃなくってさ……んー、でもそっちもいろいろしてほしいけどさ」
 オレの身体の下で頬を染めて視線を揺らす臼井の風情にそそられてしまった。
「アホウ!」
 真っ赤になって叫んだ臼井の顎を捉えて、真直ぐにその顔を覗き込んだ。とまどうようにオレを見返す、切れ長の目。時々臼井の顔は全然馴染みのない奴みたいに見える。オレを瞳に映す臼井が知らない奴を見てるみたいな表情に思えるからだ。そんな時、オレはおまえの恋人だよ、ちゃんと覚えろよって言ってみたくなる。
 オレは臼井の全部になりたい。臼井の親だったらよかった。兄弟になりたかった。臼井の目が向く先なら、奥田にも高見にも替わりたくなる。可愛い女の子になって抱きしめられたい。かっこいい男になって泣かしてやりたい。オレの臼井への気持ちは矛盾ばっかりだ。
 オレは再び腕を曲げて臼井の唇に触れるだけのキスを落とした。唇を離して臼井の前髪をかき上げる。
「本当にさ、オレ、臼井に笑いかけてほしいとか怒ってほしいとか、とにかくオレのほうを見ててほしいんだよな。そういうことばっかり考えちゃってんだ。ワガママだろ」
「小日向」
 臼井は微妙な顔つきになって手を伸ばしてきてオレの頬に触れた。
「でもさ、しょうがないんだよ」
 オレはその手をつかんで長い指先に唇をあてた。舌を出して爪の内側やベースの弦で硬くタコになっている箇所を軽くつついてみる。
「どうせ人間なんて百年くらいしか生きられないんだから、我慢なんかしないんだ。それにアレだよ、オレ、臼井が何もしてくんなくたって、オレは臼井を好きだから。その先はないもんなぁ」
 誰にも触れさせないために、自分でも触れないように、心の奥深く隠して大切にしておけば、その恋は傷つかないんだろうか。色褪せることなく永遠なのか。けれどオレは宝箱にしまっておくような恋など知らない。
 ゴムのすり減ったスニーカー。歪んだ踵の星。いつか履き潰してしまうとしても、部屋の中に飾っておくんじゃ意味はないから。オレは臼井を傷つけて、臼井に傷つけられる。オレが他の誰かを傷つける時にも傷つけられる時にも、すべてが臼井に繋がっていくんだ。
「何もかも全部臼井が悪いんだからな」
「何言ってんだよ」
 オレの言葉に困惑したような少しだけ泣きそうな顔で笑ってみせる臼井を、オレは体重を預けるようにして抱きしめた。



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