すべての季節が過ぎ去っても ─7─

|| 小日向

「小日向の家に行ったら朋美ちゃんが、もうずっと帰って来ないって言ってたから」
 突然ミサオのアパートにやって来た、招かれざる客である奥田はまず、ドアを開けたミサオではなくその後ろに立つオレに視線を合わせて、そう言い訳した。それからミサオに視線を移す。
「ごめん、ミサオちゃん。ぼく、小日向に話があって──悪いんだけど、二人で話したいから小日向を借りてくよ」
 勝手に押しかけて来て勝手なことを言う奥田に、オレは首を振った。
「オレはどこにも行かない」
「小日向」
 たしなめるようにオレの名を呼ぶ奥田を、唇を尖らせて睨みつけた。奥田の話なんかどうせ──臼井とのことに決まっている。人一倍でかくなったせいか、いつのまにか奥田はオレたちの中で一番大人びた態度をとるようになっていた。面倒事を引き受けてくれる時は便利だが、こんなふうに世話を焼かれるのはごめんだった。不用意に触らないでくれって言いたかった。
 困惑顔でオレと奥田を見比べたミサオが、肩を竦め軽く頭を傾けた。
「いいわよ。じゃあ、私がちょっと出てくるから。奥田くん上がって」
「ミサオが出かける必要なんかない」
「ナーオ」
 引き止めたオレにミサオは軽く「メッ」と言って笑った。


「何だよ、話って」
 コーヒーを淹れてくれたミサオが部屋を出ていくのもそこそこに、オレは自分から奥田を促した。嫌なことはさっさと済ませるつもりだった。
「臼井のことだよ。臼井は今度のことですごく参ってる」
 いざ奥田が切り出すと「オレには関係ない」と耳を塞ぎたくなった。臼井の話はしたくなかった。
「小日向は臼井が好きなんじゃなかったの。なんでいきなりそんな傷つけるようなこと」
「オレは……別に臼井を傷つけてなんか」
 オレは下を向いて口ごもった。嘘じゃない。オレはオレのしたことで臼井が傷つくなんて思ってない。オレはミサオが好きになって、ただそれだけなんだ。
「二人、付き合ってたよね。それで、どうして今、小日向はミサオちゃんの部屋にいるの?」
「オレは、オレはミサオが好きだ」
 オレは自分の気持ちをごまかせない。ミサオが好きだから一緒にいたい。それを奥田に責められたってどうしようもないんだ。
「気持ちが……変わるのは仕方ないのかもしれない。それは、本当にしょうがないんだろうって思うよ」
 奥田は苦いものを飲み込むような表情になった。
「だけど、昔、ナナちゃんが結婚するって知った時、小日向はすごいショック受けてたじゃん。小日向が臼井にしてるのはそれと同じじゃないか」
 ナナは、昔オレが付き合っていた年上のガールフレンドだ。中学時代に少し付き合った後、ナナが東京で一人暮らしを始めたのをきっかけに一度は離れたが、オレが高校二年の頃に戻ってきた彼女と再会した。それからまもなくナナはあっさり別の奴と結婚してしまった。ナナの結婚宣言は、再びよりを戻したばかりの、気持ちが盛り上がっていた時期のことで、オレにとってはまさに晴天の霹靂、いきなり奈落に突き落とされたような気分だった。
 オレはワガママでナナとはケンカばかりしていたし、今になってみれば、ナナが他の奴を好きになったのも無理はなかったと思う。「優しくってかっこよくて大人なの」。ナナはそいつのことをそんなふうに言っていた。今ならナナの気持ちがわかる気がする。浮気なんかじゃない。本当の相手に出会っただけなんだ。
「臼井は、ずっとミサオちゃんのアルバム聴いてるってよ。小日向、おまえ本当にひどいことしてる。臼井がどんな気持ちでその曲を聴いてるか、想像したことある?」
 奥田に言い募られて、オレは段々ムカムカしてきた。奥田の説教なんか聞きたくない。音楽にも恋にも理屈なんか必要じゃない。今のオレにとってはミサオが好きだってことがすべてなんだ。わからない奴にはわからなくっていいんだ。
「仕方ねーよ」
 オレは顔を上げて言い放った。奥田にはオレの気持ちなんかわからない。
「オレは本気でミサオが好きなんだ。あいつといると周り全部どうでもいいって思えるくらい幸せなんだ。好きって気持ちは理屈じゃないんだよ」
 言い切った瞬間、奥田の形相がさっと変わって、手が振り上げられた。気づいたらオレは床に転がっていた。奥田に殴られたという認識が後からやってきた。
「何しやがんだッ」
 オレは起き上がって喚いた。
「そうやって!」
 オレの勢いなどものともせず奥田が怒鳴った。
「そうやって、自分が特別だって思ってるんだろう! 何したっていいと思ってるんだ」
 激昂しているらしい奥田の目に涙が浮いてキラキラ光っていた。
「んなこと言ってねえだろ」
 オレは自分を特別だなんて言ってないと反論しようとしたが、奥田の叫びに遮られた。
「思ってんだよ! 絶対思ってる! 小日向なら何してもしょうがないって周りが見てるから、自分でもそう思ってんだ」
 らしくない金切り声をあげて、奥田が叫ぶ。
「そんなんじゃねえよ。そんなんじゃなくって…」
 言葉が探せなかった。
 そんなんじゃない。オレが特別なら、臼井はオレを好きになってくれたはずだ。オレはあいつの特別になりたくってジタバタし続けた。臼井はオレを特別だなんて言ってくれなかった。特別だと言ってくれたのはミサオだった。
「しょうがねえだろ、ミサオを好きになっちまったんだから。ちがうっつったら、嘘になるんだよ」
「じゃあ、それを臼井に言えよ。ちゃんと言え!」
 オレの鼻先に指をつきつけて叫んだ後で、奥田はふっと息をつき、声を落とした。
「好きって気持ちは理屈じゃないって──それはわかる。本当はわかりたくないけど、わかる。それでも……小日向が、臼井を好きになったんだから、責任あるはずだよ」
「あいつが会わないっつったんだよ!!」
 自分でも予期していなかった声が出た。怒鳴り声と悲鳴の合間のような。喉が切れたのか、口の奥に血の味が滲んだ。オレはゲホッと咳払いして、奥田から視線を外した。
「そうだよ、オレが臼井を好きだったんだよ。臼井は別にオレなんか好きじゃなかったんだ。オレが、オレだけがそうだった。だから責任なんかねえよ。オレが勝手に好きになって、勝手に好きじゃなくなっただけの話だろ。それだけなんだよ」
「本気でそう考えてんの?」
 奥田のほうを見なくても、整った顔がじっとオレを見つめているのが感じられて、オレは頭を抱えた。
「わかんねえ。わかんねえよ、もう。だけど、オレは今ミサオが好きなの。おまえらになんて言われたってどうしようもないんだよ」
 他のことは考えたくなかった。ミサオのことだけ考えていたい。オレが好きで、オレを好きだと言ってくれる唯一の相手。
「ほんっとに最低な奴だな、小日向」
 奥田は苦笑した。オレはうなだれて頷いた。
「うん、最低ってわかってるよ。だけど止まんねーの。ミサオといるともう全部バラ色って思えるんだよ」
 ちがう。どこかで誰かが否定した。ちがう。全部がバラ色なんて嘘だ。オレは何かをごまかしている。
「そういうこと、ぼくに言うなよ」
「うん」
 いつのまにか涙が、頬を伝っていた。

──大好き!
 手放しの笑顔をくれるミサオ。オレが何度ねだっても臼井はそんなふうには言ってくれなかった。オレは多分臼井に無理をさせてただけなんだ。いくらでもくり返せると思っていた。好きだって言い続ければ、臼井は応えてくれると信じていた。でもそれは本当に臼井の気持ちだったんだろうか。好きだって百万回唱えてあいつを暗示にかけて、でも本当のところ最後の最後で暗示は効かない。臼井はずっと迷ってて、そしてオレはきっと疲れてしまったんだ。オレが何も言わなくても、ミサオは自分から「好き」と言ってくれる。抱きしめてくれる。オレが手を引くんじゃなくて、一緒に走って行ける。

「小日向」
「うん」
 頭の上で優しい奥田の声がして、オレは俯いて泣き続けた。
 どうしてこんなことになったんだ。オレが悪いのか。手に入らないものを欲しがったオレが全部間違ってたんだろうか。間違っていたと悟ったからこそ、オレはちゃんとオレを見てくれるミサオを好きになったはずなのに。それが正しかったってミサオといることで感じているはずなのに。どうしてこんなに胸が痛むんだ。
「なあ、小日向。やっぱりジラフをやろう」
「奥田」
 顔を上げると涙にかすむ向こうで、奥田はオレを励ますような笑みを浮かべた。
「ぼく、結構迷ってたんだよ。小日向や臼井みたいに曲が作れるわけじゃないし、高見みたいなセンスがあるわけでもない。ドラムだってぼくより上手い奴はいっぱいいるし。別にバンドは趣味でいいんじゃないかって思ってた。だけど、小日向はぼくたちと演るべきだよ」
 奥田はまっすぐにオレを見た。
「ミサオちゃんとの曲はすごくいいけど、それでもジラフの小日向が一番だって、ぼくは信じる」


 高見や臼井にも連絡をとるからジラフの再開を本気で考えてくれと言い残して、帰りかけた奥田は、部屋のドアを抜けたところで足を止めた。
「ミサオちゃん」
 外に出かけたとばかり思っていたミサオが、キッチンにいた。表情を失くした白い顔。
「ごめん。私、出かけるつもりだったけど……話、聞こえて」
 か細く言葉を紡ぐ唇が震えていた。ミサオは奥田の前に立った。広く開いたVネックの上、かすかに咽喉が上下するのがわかった。
「臼井くんは、ナオが好きなの?」
 ミサオは奥田を見上げて問いかけた。
「私が、二人の間を──私が、壊したの?」
 オレはミサオに臼井と付き合っていたことをはっきりとは告げていなかった。そう、あれはただのオレの片想いだった。オレはちゃんと本当のことを言った。ミサオをごまかすつもりなんかなかった。でも。
 長身の奥田の前で、ミサオはことさらに小さく見えた。顎を上げて奥田を見上げるさまが痛々しいくらいだった。
「ちがう!」
 オレは二人の間に入ってミサオを抱きしめた。春とはいえ小さな窓しかないキッチンは肌寒く、暖房もつけずにずっとそこにいたらしいミサオの身体は冷え切っていた。
「ちがうだろ。今、オレの前にいるのは誰だ? ミサオだよ。オレが好きなのはミサオだ」
 華奢な肩。オレが本気で力を入れたら壊れてしまうかもしれない。傷ついた小鳥みたいな息。ミサオに余計なものは見せたくないと本気で思った。
「オレが今好きなのはミサオなんだ」
 震える髪に唇を押し当て、呪文のように何度もくり返し囁く。
 奥田は何も言わず、オレたちの横をすり抜けて出て行った。


 何度も好きだとくり返し囁いているうちに、ミサオの震えは少しずつ治まってきた。やがて落ち着いたらしいミサオはそっとオレの胸に手を当てて、身体を離した。
「ナオ、しばらくうちに帰って」
 俯いたままオレと目を合わせずに呟いたミサオに、オレは驚いて聞き返した。
「うちって、ここがオレのうちだろ?」
 ミサオはオレに合鍵をくれたじゃないか。この部屋がオレの居場所だって、オレはそう思っている。
 ミサオは、かすかに唇の端を上げた。それは笑顔というより泣き顔に近かった。馴染みのない表情がオレを不安にする。
「少し一人で考えたいの」
 そう言い残してミサオは寝室に入っていった。振り返りもせずに後ろ手にドアを閉める。「帰れ」と言われてもオレの身体は魔法にかけられたように強張り、動けなくなっていた。ミサオ、ミサオ。余計なことは考えちゃダメだ。
 北に向いたキッチンの窓枠に、夕日が斜めに桃色の縞模様を作っていた。外の通りを子どもたちの歓声が駆け抜けて行く。「バイバーイ」とサヨナラさえ力強く楽しげに告げる声たち。
 余計なことは考えるなよ、ミサオ。壊れてしまう。この世界が壊れてしまう。オレたちは最強だって、二人でいれば何もいらないって、そう思っていたはずだ。他は全部なくっていいんだ。だから余計なものは見るな。お互いだけを見ていればいいんだ。
 ミサオ、頼むから。オレは祈るように胸のうちで呼びかけていた。ぎこちない腕でテーブルの椅子を引き出して崩れるように腰を下ろした。
 今すぐ出てきてオレを抱きしめてくれよ。笑ってくれ。そうしないと壊れてしまうんだ。ミサオが「大好きだよ」って言ってくれたら、他には何もいらないんだ。オレを見て笑ってくれれば、それでいい。それだけでオレはミサオを信じるから。オレとミサオが運命の恋人だって信じられるから。
 くり返し祈ってもミサオは寝室から出て来なかった。しんと静まった一人きりの寒さに、オレは自分の肩に腕を回して震えていた。


 それでもオレは家には帰らず、ミサオのアパートのキッチンで夜を明かした。
 テーブルに顔を伏せていつのまにか眠ったらしかった。柔らかな手がオレの肩をかすかに揺らすのを感じて目を覚ました。
「ナオ」
 降ってきた声に顔を上げると、朝の逆光の中にミサオがいて、オレはしがみつくように抱きしめた。
「ミサオ、オレはミサオが好きだよ」
 ミサオは力のない手でオレの頭を撫でた。オレは顔を上げ、色のないミサオの唇に、唇を押し当てるようにしてキスをした。ミサオは少し困ったような顔をしていて、オレの大好きな笑顔を見せなかった。それがもどかしくて、じれったくて、オレは何度もミサオにキスを送った。ミサオは唇を結んだままでオレに応えてくれない。
「なあ、ミサオ。オレのこと好きって言えよ。笑えよ」
 オレの言葉に、ミサオの唇の端が少し上がったけれど、それはオレの見たい笑顔じゃなかった。
「ナオ、やっぱりジラフを再開して」
 言い出したミサオの真意を量りかねて、オレは黙ってミサオの顔を見つめた。腫れぼったい瞼と赤く充血した目が、ミサオが眠っていないことを示していた。
 オレはミサオを見つめ、かすれた声をどうにか吐き出した。
「ジラフって──そんなの関係ないだろ?」
 オレの言葉を聞いたミサオの顔が一瞬苦しげに歪んだ。どうしてそんな顔をするんだ?
「ずっとここに閉じこもってるつもりなの?」
 責めるような口調で訊ねた後、ミサオはオレから視線をそらした。
「ごめん、私、ナオのこと信じられなくなった」
 早口に囁くように言葉を紡ぐミサオの唇は乾いていて、内側が少し赤いだけで全体的に白っぽく色を失くしていた。
「ナオの気持ちが信じられない。私とナオのことが嘘っぱちだなんて思いたくないよ。でもナオが他に目を塞いで、それで私といるんじゃ、意味ない。全然意味ないじゃない」
 言い切ってオレを見返したミサオの目。笑ってくれって言いたかった。ミサオ、オレの全部を受け止めてくれるんじゃなかったのか。


 それからミサオはオレとまともに口をきかなくなった。何かというとジラフのことばかり気にしていた。
「オレとミサオのことに、ジラフは関係ないだろう?」
 オレはどうにかしてミサオを説得しようとしたが、ミサオは頑なだった。
「関係ないんなら、ナオはちゃんとジラフをやってよ」
 クッションを抱え込んだ姿勢で、オレを見ずに呟くミサオは、一見小さな子どもが拗ねているようでもあった。
「オレはバンドよりミサオと一緒にいたいんだよ」
 素直にオレを見ろよ。「嬉しい」って笑ってくれ。オレの願いも空しく、ミサオは横顔のまま変わらず唇を尖らせて返した。
「なんで? そんなのおかしいよ」
「何がおかしいんだよ」
「だって私は、音楽をやってるナオが好きなのに」
「だから一緒にやればいいじゃん。オレとミサオでやればいいんだ」
 二人で作ったミサオのアルバムは好評だったじゃないか。オレたちが組めば無敵だって、ミサオもちゃんと感じていたはずだ。ミサオにはハニムーンがあるというなら、オレはサポートに回ったっていいんだ。
 ミサオは、キッとオレを睨みつけた。
「そんなの、ちがう!」
「何がちがうんだかわかんねーよ」
 オレはふてくされて呟いた。こんなはずじゃなかった。ミサオといれば何も考えずに済んだはずなのに。オレたちの間にあるのは、笑顔だけだったのに。キラキラと輝いていたあの時間たちは、どこに行ってしまったんだ。
「私だってわかんないよ。わかんないけど、ナオは逃げてるだけじゃない。そんなのひどい。本気で──ナオが本気で私のことを好きだっていうなら、ちゃんとジラフをやって」
 ミサオは臼井の名前を口にはしなかった。けれどバンドを再開したら、オレは臼井と顔を合わせることになる。あいつの隣で、また演奏するんだ。臼井の隣に立つことを想像しただけで息苦しくなって、それ以上何も考えられなくなる。
 ミサオ、どうしてわかってくれないんだ。オレはすがるような気持ちでくり返した。
「だから、ジラフなんか関係ないって…」
「やだ! もうやだ!!」
 オレの言葉の途中でミサオは癇癪を起こして、抱えていたクッションをオレに叩きつけた。そのまま立ち上がり、部屋を出て行く。
「どうしろって言うんだよ!」
 残されたオレは叫んで頭を抱えた。


 ミサオをなだめる術を見つけられないオレは、仕方なく奥田に連絡を取った。ミサオを納得させるにはジラフを再開するしか方法がなかった。オレとミサオの楽園に、奥田が余計なトラブルを持ち込んだんだって恨み言を言ってやりたい気持ちにもなっていた。



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