すべての季節が過ぎ去っても ─17─

|| 臼井

 新しいアパートが決まり、オレと小日向は一緒に住み始めた。あゆみの部屋に置いてきた荷物を引き取るのは奥田に手伝ってもらった。借りた軽トラックに荷物を積み終わった後、奥田を残してあゆみの部屋に戻ったオレに、あゆみは薄い封筒を差し出した。
「婚姻届。私の分は記入してあるから」
「あゆみ、本当にこれ……」
 うまく言葉が探せないオレにあゆみはにっこりと不自然なくらいの笑みを浮かべた。
「私は本気よ。臼井くんも覚悟決めて」
 芝居がかった台詞が強がりに見えて痛々しく感じた。抱きしめて「もうやめよう」と言ってやりたかった。黙って見つめることしかできないオレの前で、笑みを形作っていたあゆみの唇が震え出した。
「嫌なの、私」
 あゆみはいきなり叫び、オレにしがみついてきた。
「これで終わりだなんて嫌だよ、臼井くん。もう私は臼井くんと関係ないの? そんなの嫌ッ!」
 ワアッと声を上げて泣き出されて、オレは反射的にあゆみを抱きしめた。駄々っ子のように泣きじゃくっているあゆみ。オレは何も言えないまま腕の中で震える細い身体をさすった。今までの全部が夢で、パンと手を叩いたら高校時代に戻ってしまえばいいのに。どこからやり直せばオレはあゆみを傷つけずに済むんだろう。
 ややあってあゆみの泣き声が嗚咽に変わってきたところでオレはあゆみを促して部屋に上がった。奥田の携帯に連絡を入れ、あゆみと話があるから先に新しいアパートに行ってほしいと頼んだ。
「ごめ…ん、私、臼井く…んを、困らせるつもりじゃ……」
 嗚咽の中、紡ぎ出されるあゆみの言葉が痛かった。オレはあゆみを坐らせ、その隣に腰を下ろして彼女の頭をなでた。
「…臼井くんが、荷物運んで…くの……見てたら、淋しくなったの。も…これで本当に……ホントに終わりなんだって思った」
 あどけない童女のようにしゃくりあげながらしゃべってあゆみは新しい涙を溢れさせた。
「泣くなよ、あゆみ」
 切なくてたまらない気持ちになる。泣かしているのはオレだ。オレはあゆみの髪に唇を押し当てるようにして囁いた。
「ごめんな。オレ、あゆみのこと守ってやりたかった。けど」
 けれどオレには小日向のほうが大事なんだ。あゆみはイヤイヤをするように小さく頭を振った。
「いいの。も…会えなくてもいいの。ううん、しばらく会いたくない。…でも……だから、臼井くんと結婚したい」
「──本当に、それでいいのか?」
 確認したオレにあゆみは俯いたままコクンと首を折った。


 あゆみは婚姻届の保証人を貴子に頼むと決めていた。週末に会いに行くと言ったあゆみにオレは一緒について行くと申し出た。貴子は高校時代のバンド仲間の平山と一緒に暮らしていたから、そのまま二人に保証人を頼もうと思った。
 駅前の喫茶店で貴子と待ち合わせた。平山には用事が入っていて来られなかった。まだ梅雨明けには早かったけれどよく晴れて、朝から暑さを感じさせる夏の始まりのような日だった。
「保証人になってほしいの」
 オーダーしたものが揃うのを待ってあゆみが切り出すと貴子はポカンとした顔になった。
「あんたたちが結婚?」
 火をつけかけていたタバコを慌てて口から離す。
「いつのまにそんな話になってんのよ? え、何、二人また付き合ってたの?」
 身を乗り出すようにして訊ねてくる貴子に、あゆみは「ちがうの」と首を振った。
「もう本当にこれでおしまいにする。結婚はカタチだけ。私が臼井くんを諦めるためなの」
「何言ってんの?」
 呆気に取られていた貴子の表情が次第に険しくなっていった。オレをまっすぐに見据える。
「臼井、あんた…」
「臼井くんじゃないよ」
 あゆみが遮る。
「私が決めて、私が臼井くんに頼んだの。臼井くんが私を好きじゃないのはどうしようもないのに、それでも諦めきれないから、結婚だけしてもらうことにした」
 幼馴染みの貴子に対するあゆみの口調は、甘え混じりの意地っ張りなものになっていた。
「いい加減にして」
 貴子は感情を押さえ込むように小さく言った。その声は震えていた。
「ちゃんとわかるように説明してよ。あゆみが何言ってんのか私には全然わかんないわよ」
 あゆみは彼女に似合わない依怙地な態度に出た。
「わからなくてもいいの。貴ちゃんはただ保証人のとこに…」
「ふざけないでよ!」
 貴子はいきなり立ち上がりあゆみを平手打ちにした。
「バカじゃないの。なんでそんなバカなのよ」
「貴子!」
 あゆみへの罵声とともに再び振り上げられた貴子の手をオレは慌ててつかんだ。叩かれたあゆみは頬を押さえて呆然と貴子を見上げていた。貴子はつかまえているオレを無視してあゆみに向かって言い募った。
「やめたって言ったじゃない。振られた時にあれだけ泣いて、吹っ切ったって言ったよね? もう大丈夫だから友だちになるって決めたんでしょ。はっきり私にそう言ったでしょ。それでどうしてまた臼井なんかに関わってんのよ。結婚て何よ?」
 貴子は身体をねじるようにして振り向き、オレに非難の目を向けた。
「ひどいよ、臼井。あんたはどうしてそう…」
「やめて! やめてよ、貴ちゃん。臼井くんのせいじゃない。私がバカなんだから」
 あゆみの目に涙が滲んでいた。昔はめったに涙など見せることのなかったあゆみ。オレのせいであゆみの涙腺は壊れかけているかもしれないと思った。
「バカだって自覚してるなら直しなさいよ」
 我に返った様子で低い声で呟いた貴子は「出よう」と言って伝票をつかんだ。気づけばオレたちは喫茶店中の注目を集めていた。チラチラと投げかけられる視線とヒソヒソと囁かれる声。
 先頭に立って喫茶店を出た貴子は、そのまま大股に歩き続けた。振り返らずに歩いて行く貴子の背に、オレとあゆみは声をかけることもできず黙って従った。
 やがて川を渡る橋にかかったところで、貴子は土手のほうに曲がり踏み固められた小さな道をたどって河原に降りて行った。
「暑い」
 川の近くまで行って唐突に足を止めた貴子は、ふて腐れた口調でハンカチを取り出して額に当てた。
「こんな日に外に出るなんてバカみたい」
 お昼近くの陽が川面に乱反射して、河原には他に人影はなかった。貴子は振り返らないまま言った。
「ちゃんと説明してよ」
 あゆみはかすかに息を吸い込んで答えた。
「私、今度こそ臼井くんを思い切りたいの。だから貴ちゃんに証人になってほしいの」
「前にもそんなこと聞いた気がする」
 そっぽを向いて呟いた貴子の腕をあゆみが甘えるようにつかんだ。
「そんなふうに言わないで。しょうがないの。私はすごく未練がましくて、臼井くんは優柔不断なんだもん。だから私は臼井くんにイジワルしたいの。臼井くんが誰かと結婚したいと思った時に、もう一度ちゃんと謝ってもらうために契約書作っておくんだから」
「臼井はどういうつもりなの?」
 貴子はくるりと振り向いて、オレを見据えた。
「オレはあゆみの気の済むようにしたい」
 勝手だとわかっていながら、あゆみが貴子に甘えているのを見るのがつらかった。できるならオレがあゆみを甘やかしてやりたかった。バカなこと言うなよって叱ってやるべきなんだ。オレにはあゆみを叱れない。オレはあゆみを引き受けられない。
「本当にサイテーだね、臼井」
 貴子が小さく吐き捨てた。オレは黙って頷いた。そうだ、オレは最低だ。本当なら婚姻届なんか書くより正面からあゆみと向き合うべきなんだ。オレにはその義務がある。オレは義務を放棄して逃げる卑怯者だ。
 貴子は川面に目をやった。かすかな風が貴子の前髪を揺らす。
「おじさんやおばさんに話してないんでしょ。私が保証人になったらバレた時に恨まれるだろうな」
「貴ちゃんには迷惑かけないようにする」
「迷惑かかるわよ。当たり前じゃない」
 振り返った貴子は唇を曲げてあゆみを見た。軽く俯いたあゆみに貴子は諦めたように小さくため息をついた。
「それで? 保証人は二人いるんでしょ? 私がこの紙預かっていって平山にでも書かせればいいの?」
「貴ちゃん」
 あゆみがパッと顔を上げた。
「ありがと、貴ちゃん。そうしてくれると嬉しい」
 抱きついたあゆみを貴子は痛々しいものを見る目で眺めた。
「貴子」
 オレは貴子を止めた。
「サインは貴子の分だけでいい。もう一人分は書かせたい奴がいる」
 オレはあゆみを見た。
「保証人、小日向にするよ」
 はっきりと伝える。
「オレにとってこの婚姻届はそういう意味だよ」
 オレが生涯をかけて愛すると誓う相手はあゆみではなく小日向だ。曖昧にしたくなかった。オレがこの手であゆみを傷つける。きちんとその手応えを感じておくべきだ。あゆみを傷つけているのは他ならぬオレだ。
「わかってる」
 あゆみは真っ直ぐにオレを見返した。



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