すべての季節が過ぎ去っても ─18─

|| 小日向

 あゆみのアパートに荷物を取りに行く臼井は、オレの同行を許さなかった。軽トラックくらいオレでも運転できるのに、わざわざ奥田を頼んだ。
 あゆみに会いに行った後で臼井が悩んでいることをオレは知っていた。オレとミサオのように簡単に「バイバイ」とはいかなかったようだ。臼井があゆみに何を言われたのか気になっていたが訊くことはできなかった。おそらく臼井はオレに教えてはくれないだろう。そしてオレは教えてもらえないことに傷つくだろう。だから何も訊かなかった。
 一緒に住むようになってからも臼井が眉間に皺を寄せて考え込んでいる姿を何度も見かけた。心配してオレがその顔を覗き込むたびに臼井は黙って笑みを見せる。その笑顔に少しだけ苛立つ。なんだか息苦しかった。
 荷物を積んだ軽トラで帰ってきたのは奥田だけだった。
「臼井はあゆみちゃんと話があるんだって」
 玄関先で奥田の報告を聞き、オレは黙って部屋の中に戻ろうとした。
「小日向」
 奥田がオレの腕をつかんで引き止めてきた。
「怒るなよ。あゆみちゃんだって可哀そうだろ」
「別にオレは怒ってなんかねーよ」
 顔をそむけて答えると、奥田はため息をついた。
「じゃあいじけるな」
「いじけてない」
「なら臼井が帰ってくる前に二人で荷物を下ろしておこうよ」
 奥田はオレを外の軽トラックまで引っ張って行った。荷物というほどの荷物じゃなくて、数箱のダンボールはすぐに運び終わってしまった。臼井がいないから開けるわけにいかず台所の端に積み上げた。奥田は臼井が帰って来るまで待つつもりらしく、勝手にコーヒーを淹れ始めた。
「軽トラ使うほどじゃなかったね」
 オレの気を引き立てようとしてるみたいにことさら明るい声で言う。オレはまともに返事ができなかった。今、臼井はあゆみと一緒にいるんだ。
 やがて淹れたコーヒーを運んできた奥田は、オレの肩を軽く叩いた。
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。臼井は小日向が好きだって、もう迷ってないんだから」
 奥田は励ましのつもりだったかもしれないが、オレは諭されていると感じた。
「迷ってないならどうしてあゆみと話す必要があるんだよ」
 オレを好きならあゆみなんか関係ないって言ってほしかった。勝手だとわかっていても、オレと離れていた間臼井があゆみといたことが、日が経つにつれて徐々にオレの心に圧し掛かってきていた。例え口に出さなくても臼井があゆみを気にしているのはわかっていた。あいつはずっとそうだ。友だちとか理解者とかどんな言い方をしても臼井はあゆみを気にしている。
「小日向」
 奥田は生真面目な声を出した。
「小日向は臼井のどこが好きなの? もし臼井がこんな時にあゆみちゃんを放っておくような奴だったら、小日向は臼井を好きになった?」
 胃がムカムカしてきた。オレ以外の誰も臼井を見るな。あいつのことわかっているような態度を取るな。オレが一番臼井を理解できないのかもしれないって不安でたまらなくなる。
 ミサオといる時にはこんな気持ちにならなかった。理解するとかしないとかそんな考えが浮かぶことすらなかった。あんなに幸せだったのに、それでもオレは臼井じゃなきゃダメなんだ。どうしてなのか自分でもわからない。
「理屈なんかいいんだよ。とにかくイラつくんだ。自分でもわけわかんねーよ」
 オレはクシャクシャと髪をかき回して叫んだ。オレは何にこんなに苛立っているんだ? 好きな奴と一緒に住み始めてハッピーな気分でいるのが当然なのに。なんでこんなに胸が苦しい。
「オレは本当は奥田が臼井のそばに寄るのさえ気に入らないんだから。ちくしょう、気に入らねえ!」
 やけくそで言い放ったら、奥田が呆れ顔になった。
「バカなこと言うな」
「わかってるよ!」
 どうにもならないことはわかってる。オレが何言ったって臼井は困ったように笑うだけだろう。同性の臼井なんか好きになるんじゃなかった。男にも女にも嫉妬して、あいつが誰といたって何をしていたって不安になる。「ちくしょう」とうなりながら、オレはコーヒーのカップに砂糖をごっそりぶち込んだ。胸焼けするほど甘ったるくなったコーヒーは、それでもしつこい苦味を舌に残した。


 土曜日に臼井は朝早くから出かけて行った。よく晴れた日、オレは何もする気が起きずアパートに閉じこもり、ギターを持ち出してぼんやりと弾いていた。出かける前の臼井の緊張した面持ちを見て、オレには臼井があゆみに会うんだろうという確信があった。臼井の笑顔が嫌いになりそうだった。あいつは笑ってオレに何も言わせない。
 もう夏と言っても違和感のないくらい暑い日だったが、開け放した窓からはたびたび涼しい風が入ってきた。たまに強い風が吹き込んで揺らされたカーテンがベッドの端に腰掛けてギターを弾くオレの手元にまでかかったりした。その風を臼井みたいだと思った。どんなに待っていてもようやく訪れる風は頼りなく淡く通り過ぎていってしまう。確かな手応えがほしくて苛立つ。
 黒くて厚い布がほしい。それで臼井を包んでしまいたい。臼井が何も見ないように。何も聞かないように。
 センチメンタルな曲が山ほど浮かんで、臼井のいない部屋でひたすらギターを弾いているうちに少し気持ちが落ち着いてきた。
──臼井があゆみちゃんを放っておくような奴だったら
 奥田の声が聞こえてくる。臼井があゆみを放っておくような薄情な奴だったとしてもオレは臼井を好きになったかもしれないと思う。臼井がどんな人間でもオレはあいつを好きになるような気がする。臼井のやること全部が気に入らない。臼井がしてくれないことばかりをオレは望んでしまう。オレは臼井の何が好きなんだろう。ただ好きという気持ちだけが確かで、それ以外何もなかった。臼井のせいで心細くてせつない思いばかりさせられて、それでもオレは臼井が好きなのだ。


 陽射しが傾きかけた頃、臼井は帰ってきた。
「小日向」
 部屋に入るなり改まった口調でオレの名を呼んだ臼井が取り出したのは婚姻届だった。テーブルの上、オレのほうに向けて広げられたその紙には、臼井とあゆみの名前が並んで書き込まれていた。目にした瞬間さーっと血の気が引いた。とっさに声も出せずにその紙と臼井の顔と呆然と見比べた。
「保証人のところに小日向に署名してほしいんだ。オレは小日向に一生を誓う。これはそういう意味だよ」
 臼井がやたら真剣な顔で宣言してきた。
「あゆみに形だけ結婚してほしいって言われた。これは形だけの婚姻届で、だけどオレは小日向と結婚するつもりでいるよ。これはオレのプロポーズだよ、小日向。イエスならそこに名前を書いてほしい」
 オレは唇を曲げて、その婚姻届を眺めた。
 わかった。今わかった。オレが臼井に苛々する理由。臼井は義務だと思ってる。オレのこと義務にしやがったんだ。オレは誓約書なんかいらない。オレが欲しいのは誓いなんかじゃない。今ここで臼井がオレに好きだって言ってくれるのが重要なんだ。それがわからない臼井は大バカ野郎だ。その大バカ野郎を好きなオレってかなり可哀そうだと思う。
「ペン、貸せよ」
 オレはふくれっ面のまま臼井に言った。こんな紙には何の意味もない。だけどこれが臼井を悩ませてたんだ。臼井はあゆみと結婚するつもりなんだ。形だけって何だよ。そんならオレへの誓いだってただの形にすぎない。だけどここでオレが拒否したら臼井はまた悩むんだ。こんなつまらないことで悲壮な顔して。オレには選択の余地なんかなかった。
 本当ならこんな紙、破り捨ててやるのに。臼井がやたら真剣な目つきでオレの手元を凝視しやがるから、書きづらくてしょうがない。いっそわざと書き間違えてやろうか。そんなことを考えながら署名して、三文判を押した。
「小日向」
 臼井がオレの名前を呼んで、誓いのようにキスしてきた。オレはそんなのほしくない。触れただけで離れようとした臼井の頭を押さえつけて強引に舌を入れてやると、臼井は抵抗してきた。
「ち…ちょっと、小日向!」
 合間に抗議の言葉を上げる臼井を無視して、シャツのボタンに手をかけた。半ば引きちぎるようにして全部を外し、左腕を臼井の背中から肩まで回して押さえ込み、右手を胸に這わせた。
「あ」
 呆気なく声をもらした臼井に凶暴な気分をかき立てられた。あゆみにはできないことがオレにはできる。オレはチノパン越しに腰を擦り付けた。
「臼井のバカ」
「なんでだよ?」
 臼井は抵抗をやめてオレの顔を覗き込んできた。
「わかんないからバカなんだよ!」
 罵りながらオレは臼井のチノパンを引き下ろした。
「あゆみのことは……ンッ」
 聞きたくない名前を口にする臼井の後ろに指を差し込む。
「黙ってろよ」
「小日向…あ…おまえが気にするよ…なことじゃ……」
「黙れっつってんだろ。臼井にはオレの気持ちなんかわかんないんだ!」
 空いている手で口をふさぐと臼井はそれを首を振って外した。そして必死に目を合わせてくる。
「だ…たら、ちゃんと話そう」
 微かに眉根を寄せて苦痛に耐えるような表情に見えた。
「話すようなモンじゃないんだ、アホ」
 言葉になんかしなくてもわかってくれなきゃ嫌なんだ。こんなに好きなのに、オレには臼井のことがわからない。臼井はオレのことをわかってくれない。
「小日向」
「好きだっつってんだろ。なんでわかんないんだよ」
 いつまで経ってもおんなじだ。オレばっかり臼井を好きで、その先が見えない。
「わかってる。わかってるよ」
 聞き分けのない子どもをなだめるような臼井の口調が癪に障った。
「わかってないんだよ!」
 オレは強引に臼井の中に身体を入れた。
「んうッ」
 反射的に仰け反った臼井の肩をきつく押さえつける。
「オレのモンだ。おまえはオレのモノなんだから」
 他の誰もいらないだろう。腰を進めたら臼井のものがオレの腹にあたった。
「あ……あ」
 臼井の中心で屹立して存在を主張するもの。オレはそれに手を伸ばした。
「ん…小日向」
 臼井の声がかすれ始める。手の中で脈打つ熱は、臼井がオレを受け入れてくれない象徴に思えた。けれどオレはそれこそが愛おしいのかもしれない。
「臼井、臼井、臼井」
 その名を呼んでいるうちに勝手に涙が溢れ出して、オレは泣きながら臼井にしがみついていた。伸ばされた臼井の腕がオレの頭を抱え込む。
「小日向」
 かすれて声になっていなくとも、オレの耳には臼井の囁きが届いていた。オレの腕の中で色づくこの肉体がオレの焦がれる風を閉じ込めていると信じたかった。この瞬間だけは確かなものがオレの腕の中にある。


「バカ、何すねてんだ」
 やがて身体を起こした臼井はオレの額を軽く叩いてから浴室に消えた。シャワーを使う音が聴こえてくる。しばらくして濡れた髪のままで戻ってきた臼井は、テーブルに置き放してあった婚姻届を封筒に入れて、TVの下の引き出しにしまった。
「いつ出しに行くつもりだよ?」
 こっちに背を向けた肩のあたりを睨んで、オレは声をかけた。あゆみと二人で婚姻届を出しに行って役所の窓口で「おめでとうございます」かなんか言われてくるんだ。クソッタレ。約束なんかオレはいらない。
「出さないよ」
 臼井は静かに首を振り、寝ているオレの傍に寄ってきた。オレは臼井の言葉の意外さにポカンと奴の顔を見上げた。形だけでもあゆみと結婚するって、そう言ってオレにサインさせたくせに。臼井は揃えた指先でオレの輪郭をなぞり始め、囁くように言った。
「あゆみにいつか好きな奴ができて、そいつと結婚するから離婚しようって言ってくるまで、この紙はちゃんとしまっておく」
 唐突にオレは臼井の声が好きだと感じた。これからもあゆみのことを考えていくだなんて、オレの癪に障る内容を語っているのに、低く柔らかなその声に聞き惚れてしまう。オレを見下ろす臼井の顔は穏やかで清廉な印象を与え、つい先刻オレの下で喘いでいた奴とはまるで別人に見えた。確かだったはずのことがすぐにあやふやにさせられる。だからオレはいつでも不安になる。
 臼井は少し困ったような表情で言葉を続けた。
「オレは小日向が好きで、オレがあゆみにしてやれることなんか何もないから、せめてあゆみに好きな奴ができるように祈りたいんだ」
 オレは顔を撫でている臼井の手をつかんで、その掌に唇を押しつけた。ボディーソープの匂い。出さないんなら破いてしまったって同じだろうに。臼井がそんなふうにオレ以外の奴と繋がっていることが気に入らなかった。今オレに向けられているその優しげなまなざしは、他の奴らにも向けられるんだろう。臼井は決してオレだけを見てはくれない。余計なものばかり抱え込んで肝心のことがわかっていない。本当にバカなんだ。オレの好きになった奴は本当のバカ。オレは本当のバカを好きになってしまったんだ。
 消えはしない悔しさを抱えて、それでも確かに幸福な気持ちでオレは穏やかなリズムで紡がれる臼井の声に浸った。
「オレはあゆみが離婚届を送ってくるのをずっと待ってるよ」



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