すべての季節が過ぎ去っても ─24─

|| 臼井

「臼井くん、ポン酢は何味?」
「オレ? オレは何でも。ミサオちゃんが食べたいのはないの?」
 妊娠中で食が偏っているらしいミサオちゃんを気遣ったつもりのオレに、彼女は小首を傾げた。
「んー、なんか私、別にそういうのはないみたい。でも一応ユズにしよう」
 まだ暑い日が続いているというのに、いきなり「湯豆腐が食べたい」と言い出したミサオちゃんは、妊娠中らしい食の偏りを十分に見せていると思ったが、本人に自覚はないらしい。
 ミサオちゃんが選んだポン酢を小日向の押すカートのカゴに入れる。オレと小日向は週末にはなるべくミサオちゃんのところを訪れるようにしていた。買い出しに行くと申し出たオレたちに、ミサオちゃんは一緒に行くと言った。
「適度な運動は必要なんだって。ナオは荷物持ちしてくれればいいよ」
「なんでオレだけ指定するんだよ?」
「ふふふ。臼井くんにはエスコートしてもらうんだー」
「バカじゃないの? そんなワガママ言ったって聞かないよーだ」
 子供っぽい二人のやり取りに、オレは引率の先生の気分を味わって苦笑する。
「あ、ついでにジャガイモと玉葱も買っておこう」
「ミサオー、ここぞとばかりに重くすんのやめようよ」
 小日向が情けない声を出す。オレは脇から口を挟んだ。
「オレも持つよ。だから一人じゃ運べないような物は買い溜めしといたほうがいい」
「臼井くん、優しい。大好き」
 キラキラとした目でミサオちゃんが見上げてくる。
「バカじゃん。臼井はオレのなのに」
「ナオこそバカじゃん。誰のだって関係ないもん。私が好きってだけだもん」
 ミサオちゃんは小日向に向けてイーッとしかめっ面を作った。
「あっそー。あ、そうですか」
 節をつけて返事をする小日向に、おどけて「そうですよ」と返していたミサオちゃんは途中でふいに機嫌を変えたように「むかつく」と言い出した。
「なんかナオ、むかつく。ヤな感じ!」
 唐突に言って、オレたちを置き去りにするように足早になったミサオちゃんに、オレと小日向は顔を見合わせた。
「ミサオちゃん」
「ミサオ」
 追いついたオレたちに、ミサオちゃんは小日向から身を隠すようにオレのシャツの袖をつかんだ。一瞬オレの腕に頬を押しつけてから、小日向のほうに顔を向けて「ベー」と舌を出した。
「意地悪ナオ。キライ」
「なんだよー。オレ、何もしてないじゃん」
 わめく小日向に聞こえないような小声で、ミサオちゃんは「してるよ、意地悪」と呟いた。オレは何と言っていいかわからず、ミサオちゃんの肩を軽く叩いた。ミサオちゃんの手に力が入ってオレの腕にしがみついてくる。まるで幼い女の子みたいだった。
 こんなふうに三人で過ごす時間は、やがてミサオちゃんと小日向の子供が生まれることの実感を奪う気がした。ただ仲のよい友だちのように笑い合って一緒にいることの心地よさ。誰もが幸せの中にいるのだと錯覚してしまいそうだった。オレの存在が父親のない子供をつくるというのに。


 先月開催された、ジラフの再開の場となった志賀さんのイベントは、照れ隠しに高見が「オレたちが単細胞ってことが証明されちまった」と毒づくくらいの盛り上がりを見せた。
 すでに持ち時間をオーバーしきっていた最後の曲の演奏は、ステージの端でもっともっとと腕を振り回している次の出演者にも煽られて、止まるきっかけを失ったように延々続いた。終了までのカウントにランナーズハイに似た感覚で頭が白くなっていく。
 余韻の中、しがみついてきた小日向は、オレのシャツで涙を拭った。すぐにマイクに向かい気の抜けた声で「終わり」と宣言して、観客の歓声を尻目にスタスタとステージを去った。次のユニットが入れ替わりに、その小日向の頭と肩をそれぞれポンポンと叩いて出ていく。
 オレたちだけでなくイベント自体が大成功を収め、志賀さんは年末に第二弾を計画しているらしかった。
 イベントに来るつもりでいたミサオちゃんは、その話が出る度に悔しそうに頬を膨らませた。妊婦のミサオちゃんはバンド仲間の由美子さんに叱られて来るのを諦めたのだが、確かにオレたちの次に出たユニットの演奏ときたら重低音の限界に挑戦というレベルだったから、由美子さんの意見は正しかったと思う。
 ユニットの舟木さんは佐竹のプロデュースを手がけたことがあったので、出演の順番を待つ間に佐竹の話題が出た。佐竹は今、ガールフレンドが撮っているインディーズ映画に出ているということだった。
「あの生意気オンナ」
 ユニットのもう一人、狩野さんは演奏前にもかかわらず「暑い、暑い」とビールばかりあおっていて、すでにヘベレケに近い状態になっていた。
「オレらの曲使わせろっつっといて、声が邪魔だから別の音源よこせって言いやがったぞ」
 小日向の頭を抱え込んで「なあ、こひなっちゃん」と髪をグシャグシャにかき混ぜる。
「オレサマの天使の歌声をなんだと思ってるんでしょーか! こひなっちゃんみたいなアヒルちゃんとはちがうだろーよ、なあ」
「アヒルー!」
 ツボにはまったらしい高見が飲んでいたミネラルウォーターを盛大に撒き散らして周り中の非難を浴びる。
 オレは佐竹とあれ以来会っていなかった。ハニムーンの活動休止の報に密かに連絡があるかと考えたりもしていたが、佐竹は何も言ってこなかった。相変わらず自分から連絡することをためらうオレは、佐竹に気後れを感じているのだろうか。それでも、こんなふうに噂を聞けば懐かしく会いたい気持ちになった。顔を合わせれば案外なにげなく笑えそうな気もしていた。


「今度の水曜、病院に行く日なの」
 夕食後に言ったミサオちゃんにオレは「ごめん」と謝った。先月の検診には三人で行った。次も付き合うと言ってあったのだけれど。
「ごめん、オレ、水曜は購読会があって」
 オレの言葉に重ねるように小日向が「オレもダメだ」と言い出したので、オレは困ってミサオちゃんに「木曜じゃダメかな?」と訊いた。確か先月は水曜ではなかったはずだ。
「うん。来週はいろいろ予定があって水曜しか空いてないの」
 オレも小日向もダメと知ったミサオちゃんはしょげた声を出した。
「小日向、どうしてもダメか?」
「うん、ダメ」
 にべもなく首を振り平気な顔をしている小日向に、オレは少しだけ苛立った。ミサオちゃんはオレを見てニコッと笑い、「平気だよ」と言った。
「平気。甘えてただけだから。最初も一人で行ったし、本当は平気なの」
 自分に言い聞かせているような様子に、言葉と裏腹にミサオちゃんは一人で行きたくないのだとわかってしまった。
「本当は今週行かなきゃいけなかったの。あんまり先に伸ばしたくないから、水曜日に一人で行ってくる」
 水曜日、ギリギリまで迷っていたが結局オレは購読会を休んだ。ミサオちゃんの携帯に電話を入れた時には電源が切ってあったので、もう病院にいるのだろうと見当をつけて、そのまま病院に向かった。
 三人で行った時には意識せずにいたが、一人で産婦人科に向かうのは勇気が要った。ミサオちゃんの心細さが今さらながらわかるような気がした。
 産婦人科の待合室。ミサオちゃんはほかの妊婦や母親たちに囲まれていた。オレを認めた一人の「お迎えよ」の言葉に、振り向いたミサオちゃんの顔がぱっと輝いた。
「臼井くん!」
 その声にミサオちゃんを囲んでいた人たちから笑いが起こった。
「それじゃあ、サヨナラ」
 ミサオちゃんがペコンとお辞儀をして、タッと小さな犬のように駆け寄ってきた。そんな彼女の行動を危なっかしく感じてオレは思わず手を伸ばした。
「いいの?」
「うん。もう終わってたの。お話ししてただけ」
 頷いたミサオちゃんは、オレの腕にしがみつくようにしてクスクスと笑った。
「素敵な旦那さんねって言われた」
「え?」
「あのね、最初やっぱり一人がイヤで、すごいヘンな顔してたみたいなのね。だから待ってる時に話しかけてくれた人がいたの。この前三人で来たの覚えてたって。『どっちがお父さんなの?』って」
 ミサオちゃんは「臼井くんって言っちゃった」と笑った。「ナオは弟」と節をつけるようにして言う。
「みんなが素敵ねって言ったよ。若いけど落ち着いてて優しそうって。ちゃんとお父さんの顔してるって。ナオがお父さんって言ったら心配されちゃいそうだよね」
 ミサオちゃんはひどく楽しげな様子だった。
「産婦人科っていいよね。みんな優しい顔してて。素敵な場所だと思う」
「来る前と全然ちがう」
 オレがからかうとミサオちゃんは「うん」と頷いて笑った。ミサオちゃんに幸せでいてほしい。オレは強く願う。
「診察はどうだった?」
「大丈夫ですよー、順調ですよーって」
 医者の口調を真似たらしくミサオちゃんはのんびりと言って、また笑い声を漏らした。



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