すべての季節が過ぎ去っても ─21─

|| 小日向

 息をつめて玄関のチャイムを鳴らす。少ししてドアの内側で誰何の声。インターホン越しでくぐもってはいたが、丸くて柔らかい声が懐かしくて怖かった。
「オレ」
 短く名乗るとドアが開いた。
「どうぞ」
 促されて、キッチンのテーブルで向かい合ったが、なかなか目を合わせることができなかった。点いていたTVをミサオが消してしまったから、部屋の中が静かすぎて緊張する。
 ミサオは伸ばしていたはずの髪を短く切っていた。どこかに出かける前なのか、家にいるにしてはしっかりメイクして服にも気合いが入っているように感じた。こんな時じゃなきゃ「可愛い」と誉めたくなるくらい。
 オレは視線が上げられなくてミサオの唇のあたりでウロウロさせてた。キャンディーみたいな赤い唇。濡れてるみたいに光ってて舐めたらストロベリーの味がしそう。
 おそるおそる顔を上げてようやく目が合うとミサオは片方の眉を上げてニヤッと笑った。
「すごく困った顔してる」
 からかうように指摘してくる。くるんとした睫毛に縁取られた大きな目が下弦の月のように半円になっていた。仕掛けたイタズラの成り行きを見守っているようなミサオの顔を見ているうちにオレの気分は上向きに変化していった。だんだんおかしくなってきて、少しずつ唇の端がつり上がってしまった。ニヤニヤと笑い合い、とうとうこらえ切れないというようにミサオが先に噴き出した。
「びっくりしたでしょう?」
「うん、びっくりした」
 オレは素直に頷いた。オレに「バイバイ」と手を振った時ミサオは妊娠に気づいていたんだろうか。今こうして笑っているミサオを見ていると、あの時はもう知っていたんじゃないかという気がした。知っていて「バイバイ」と手を振ったんだと感じた。
 ミサオの元へ行けとくり返す臼井の頑固さに手を焼いて、オレは他に方法がなくミサオのアパートを訪ねた。ミサオに「責任取って結婚して」などと言われるんじゃないかって少しだけ不安だった。見くびってたなと思う。オレの好きだった女の子を見くびってしまった。
「悲壮な顔して来るんだもん。いかにも責任感じてますって態度じゃ女としては傷つくだけだよ」
「ごめん」
「だいたい似合わないよ、ナオに責任とかって」
「うん。だけど」
 オレは一瞬ためらった。
「オレの子だよね?」
 オレの確認に、ミサオは少し真面目な顔になってコクンと頷いた。
「私、ナオのこと本当に好きだった」
 正面から目を合わせて、真っ直ぐな声で。
「ナオと一緒にいたこと、終わってしまったら、ただの夢だったみたいで淋しい気持ちになるくらい、幸せだったよ。本当に幸せすぎたから夢としか思えなくなりそうだった。でもあれは夢じゃなかったよって神様が赤ちゃんをくれたのかなって思うんだ。だから私は産みたいの」
 明るく言い切られてオレは困ってしまい言葉につまった。本当なら「ありがとう」って言ってやりたいのに言えない。オレのことそこまで好きになってくれてありがとう。オレもミサオが大好きだよ。感じているまま素直にそう伝えたかった。
「臼井くんでしょう?」
 ミサオのほうからその名前を出した。
「ナオは臼井くんが好きだから困ってるんでしょ。私がナオの赤ちゃんを産んだら困るんだ」
「困るっていうか……うん、やっぱり困るかな」
 モゴモゴと口ごもった後で、結局認めてしまった。オレは親になるのが怖かった。オレはミサオにも子供にも最後まで責任を負えないだろうってわかってた。できるだけのことはする。でもオレのできることには制限があるんだ。
 オレは臼井に責任を負いたい。矛盾しているかもしれないが、オレに臼井を傷つける力があるのならオレは全力であいつを守りたかった。そのために他のものを背負うわけにはいかない。大事なものは一つだけ。それを手放さないために慎重になる。付き合っていた女の子を妊娠させたのにその責任を取らない。オレは男として最低だ。だけど誰に罵られても後には引けない。
 ミサオはクスンとため息のような笑いを漏らした。
「そっかー。ナオは本気で臼井くんが好きなんだ。わかってたけど。最終兵器が効くようなナオじゃないもんね」
 ミサオは「だから好き」とさばさばした顔で笑った。オレにはその笑顔が近く感じられて、愛しい気持ちになった。
「オレ、やっぱりミサオのこと好きだよ。ミサオはオレのことわかってるなって思うもん」
「バーカ」
 鼻の頭にしわを寄せたミサオは小さな犬みたいに可愛かった。ふいにオレはここに来たことをミサオと会っていることを幸せだと感じた。
「本当にさ、オレ最近自信喪失しちゃってて、何やってもうまくいかない気分になってイライラしてたんだ。ミサオの顔見たら、なんかほっとした」
 ミサオへの気持ちに迷いはなかった。一点の曇りなく好きだと言える。一緒にいてこんなに安らげる相手はいない。今まで会った中で一番オレに対して健気でひたむきでいてくれた。オレのこと全部丸ごと受け止めてくれた。強くて優しくてすごい女の子。いつでもオレを幸せにしてくれる。
 そうしてオレは臼井にとらわれている自分を再確認する。
 ミサオと笑い合えたことで、オレは自家中毒を起こしかけていた気分から抜け出せそうだった。オレは臼井の絶対的な存在になりたかった。臼井を傷つけたかった。こんなに想っているのにあいつに傷一つつけられない自分が悔しくて絶望して、だったらせめて臼井にオレを傷つけてほしいと考えたり、なんだか一人で追いつめられていた気がする。臼井の全部を支配したいなんて、そんなの無理だってわかってるのに、勝手に気持ちだけが暴走してしまってあせっていた。
 今日オレはミサオに会いに来てよかった。ミサオの笑顔のおかげで、しょうがないって開き直って笑えそうだった。
 オレにミサオのような強い目を向けてはくれない臼井。あいつはオレの気持ちをその半分さえわかってはくれないんだ。素直じゃなくて優柔不断で迷ってばかり、そのくせ頑固で融通が利かない。周りを気にしてばかりいて、しかもオレと同じ男。だけどオレはそんな臼井に持ってかれてるから、どんなに足掻いても仕方ないんだって、諦めるような清々しい気分になる。こんなに可愛いミサオがいるのに、それでもオレは臼井から逃れられない。
 神様がミサオとオレを出会わせてくれて、オレたちの子供ができたのが運命だとしても、それを蹴飛ばしてオレは臼井を離さない。
 だけど臼井は。
 オレの決意は肝心の臼井の気持ちに考えがおよんでくじけそうになった。臼井はオレがミサオと子供を放り出すことを許さないだろう。
──おまえのしたことだ。自分のしたことには責任を取れよ
 強くなじる声が耳に蘇る。オレのしたこと。そうだ、オレは臼井を傷つけたから責任を取らなくちゃいけない。オレが一番果たさなきゃいけない責任はそれなんだ。持てる力のすべてで誰よりも愛している奴を守るべきだ。だけど臼井はそれをわかってくれるだろうか。
 何も言わなくてもミサオはちゃんとわかってくれるのに、臼井にはいくら言葉をつくしてもわかってもらえない気がする。
「オレ、本当に自信がない」
 弱音をこぼして、頭を抱えた腕の間から目だけを上げてミサオを見る。
「何が言いたいのよ?」
 ミサオはあきれたように腕を組んだ。
「どうせ臼井くんのことでしょ。惚れた弱味とでも言うつもり? 今日だって最初っからナオの顔に書いてあったよ。『臼井に言われてきました』って。いやんなっちゃう」
「悪い」
 謝れば、ミサオは渋い表情のままでそれでも軽く小首を傾げてオレを促した。
「オレ、ミサオがオレの子を産んでくれるのは嬉しいよ。オレにできるだけのことはする。約束する。オレたちが結婚しなくたってその子が幸せになれるようにオレもがんばるよ。そういうの、ミサオはちゃんとわかってくれてるだろ」
 オレたちの恋が終わった後に生まれてくる子供。その子は確かに幸せな恋の結果なんだ。嘘じゃない。その子を大切にしたい気持ちはちゃんとオレの中にもある。けれどそれはオレが臼井と別れる理由にはなりえない。
「だけど臼井にはわかんないんだよ。ミサオがオレの子を産むんならオレはミサオと結婚しなくちゃダメだって考えてるんだ。それがオレの義務だって。困るんだ、あいつ頑固で。オレのことバカだと思ってるから、どうやって説得したらいいかわからない」
「助けてほしい?」
 ミサオは軽く唇をとがらせてオレの顔を覗き込んだ。
「うん、助けて」
 オレはどんな卑怯者になっても臼井を離したくない。臼井にふさわしい人間になりたいなんて考えない。アホの高見が言ってたこと。オレにはミサオで、臼井にはあゆみが似合うとか、そんなのどうだっていい。オレは臼井がいなくちゃ生きていけない。臼井にふさわしい可愛い女の子になんか逆立ちしたってなれるわけない。だからって諦めるのはできっこない。
 オレは愛する人のために向上しようなんて気持ちにはなれなかった。
 エライ人なら考えるんだろう。今はとにかくミサオと子供への責任を果たして、その後で臼井のもとへ行くべきだ。
 今のオレは君にはふさわしくない。義務を果たして、いつか清廉高潔、温厚篤実、とにかく立派な男になって胸を張って君を迎えに行くよ。
 そんなのできない。向上心なんかクソクラエ。みっともなくたってサイテーだってとにかくオレは臼井から離れない。

 ミサオに促されて臼井にかけた携帯をオレは彼女に渡した。そして臼井といくつか言葉を交わしたミサオは、臼井にこの部屋に来るようにと伝えたようだ。
「さあ対決だー。緊張しちゃう」
 オレに携帯を返しながら、ミサオはいたずらっぽく笑った。
「めったにない経験よね、男の子が恋敵って」
「ミサオ?」
 少しテンションのあがったミサオの言葉に心配になって問いかけると、ミサオは手を伸ばしてオレの鼻をつまんだ。
「不安そうな顔しないで。別に私、臼井くんとケンカしようとか思ってないよ。ちゃんとナオを引き取りに来てもらうんだから」
 しっかり請け負ってもらってほっと胸をなでおろしたオレに、ミサオは唇をとがらせた。
「でも私だって緊張するんだからね。そのくらいわかってよ」
「わかるよ。オレ、ミサオのことちゃんとわかってるよ」
「ナオってバカだよねー」
 そう、オレはバカだ。ミサオみたいに強くて優しい女の子はそうはいない。出会えたのは奇跡だとさえ思う。本当にそう思う。



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