すべての季節が過ぎ去っても ─10─

|| 小日向

 滝口さんの先輩に引き合わされることになっていたその日。オレを信用していないみたいにわざわざ迎えに来た奥田の車に乗せられて、久しぶりの大学に行った。約束の時間よりずいぶん早く着いてしまい、お昼を過ぎて人のまばらになってきた学食の奥のテーブルに陣取って他のやつらが来るのを待った。ひどく喉が乾くので自動販売機のアイスコーヒーを飲んでいたらやたらトイレが近くなって、高見たちが来るまでに二度も席を立つはめになった。
 二度目のトイレから戻った時、テーブルには三人の人間がやってきていた。高見と滝口さんと、初めて顔を見る人は滝口さんの先輩にあたる志賀さんというライターだった。臼井だけがまだ来ていなかった。うっかりその名前を意識に乗せてしまったら自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
「ジラフが再開すると聞いて嬉しいです」
 近づいて行ったオレに手を差し出し「初めまして」と握手をして志賀さんはニコニコとそんなふうに言った。オレは「はあ」と頷き、椅子に身を沈めた。意味もなく足が震えるような気がし始めていて立っているのがつらかった。元々は奥田の奥の席に坐っていたのだが、そこに行くのすら億劫になってテーブルの空いている側に腰を下ろすと、続いて隣に志賀さんと滝口さんが坐った。オレは手に力が入らず椅子を引き出すのに苦労した。オレの向かいに坐った高見が、わずかに残っていたアイスコーヒーの紙コップをオレの前に寄越した。
 オレの隣で志賀さんが高見と知り合った経緯などを語り出したが、いまいち頭に入って来なかった。話の合間に「小日向さんは」と何度かふられたが「え?」と訊き直してばかりいた。なんだか胃の辺りが重く感じられた。乾いてくっついた唇が気になって何度も舐める。

 首を寝違えたみたいに学食の入口には目が向けられずにいた。なのに他の誰より先に気づいた。その気配だけでわかった。
「すみません、遅れました」
 その声はオレの視線を引き寄せる呪文のようだった。覚悟を決める隙もなく反射的にそちらに目を向けていた。ギュッと心臓を鷲掴みにされ、一瞬呼吸を忘れた。
 オレと目を合わせた臼井は、穏やかな笑顔を見せた。それはひどく非現実的な光景だった。そこで微笑んでいるのは、オレの知らない、懐かしい人。臼井のそんな静かな笑顔は今までに見たことがない気がするのに、涙が滲むほど懐かしくて切なくて堪らなくなった。
 急に全てが色褪せて見えた。オレの周りで臼井以外の全てがぼんやりと輪郭をなくしていた。臼井の姿は、まるでブラウン管の向こう側にいるみたいで、近くて遠く見える。
 オレは何をやっていたんだろう。そんな疑問が頭に浮かぶ。オレは何をしているんだろう。
 臼井は少し痩せたようだった。首が細く長く見える。食い入るように見つめるオレの視線の先、目が合うたびに困ったような笑みを浮かべた。
 目がそらせなかった。何も考えられず、ただ臼井から目がそらせない。
 向かいの高見が何度かテーブルの下でオレの足を蹴ってきたが、気に止める余裕などなかった。オレの頭の上を素通りしていく他の誰かの話に臼井が頷いている。髪をかきあげる仕種。伏せられていた瞼がふと上がってオレを見る。優しげな笑み。
 オレは、間違えた。
 ふいに強く感じた。オレは間違えてしまった。何をどう、と考えることもできず、ただ自分の失敗を悟って、どうしたらいいのかわからなくなる。
「…ミサオちゃんだけでもなんとかなんないかなー、なんて。小日向くん、どうだろう?」
 志賀さんの口から発せられたその名前。ミサオ。そうだ、ミサオだ。オレは今ミサオと付き合っていて……だけど、オレは──。
 すうっと手足の先が冷えていく。耳鳴りがして「大好きだよ」と笑うミサオの声が聴こえない。ちがう、オレは。

 子供の頃にしてしまった失敗が唐突に思い出された。いつの年だったかクリスマスに、行彦と朋美と兄妹三人分のプレゼントとして最新のゲーム機を買ってもらった。発売になる前から欲しくてずっとねだっていて、友だちはまだ誰も持っていなかった。遊ぶ約束をした日に自慢しようと持ち出して、途中で自転車から落としてしまった。あの瞬間の気持ち。友だちを驚かせよう、自慢してやろうという昂揚感から一転して、行彦たちへの申し訳なさとか親に叱られるだろうこととか、いろんな想いがごっちゃになって頭が真っ白になった。取り返しがつかなくて泣くことさえできなかった、あの失敗。

 あの時と同じ感覚で腹の中が冷たくなっていった。
 臼井が優しい目でオレを見て、立ち上がった。オレの失敗をちゃんとわかっていて諦めてるような、その優しい目が堪らなかった。国語の教科書に載っていた『蜘蛛の糸』のお釈迦さまはきっとこんな目をしているんだろう。臼井は優しくて冷たい。オレは臼井が怖い。
 オレは自分の坐っている椅子の脇を両手でつかんでギュッと目をつぶった。身の置き所がなかった。
 席を立った志賀さんが臼井と挨拶を交わしていた。オレは何も見ない。聴かない。椅子の上、身を縮めて時間の過ぎるのをひたすら待とうとした。取り返しのつかない失敗に気づきかけて、でもはっきり確認するのが怖くて抵抗していた。
 志賀さんとの挨拶が終わって臼井が踵を返す気配がした。
 臼井が行ってしまう。オレを見捨てていく。
 急に息が苦しくなった。呼吸の仕方がわからない。衝動のまま立ち上がると椅子が派手な音を立てて倒れた。オレを阻もうとする椅子の足を蹴り飛ばし、テーブルにぶつかり、臼井を追った。その腕にしがみついていた。
「臼井…ッ」
 行くなよ、オレが悪かった。オレが間違えたんだ。
 言えなかった。臼井の表情を見るのが怖くてしがみついたまま俯いた。見なくてもわかる。臼井は困った顔でオレの情けなさを笑っているだろう。きっと出来の悪い子供にため息をつく神様みたいな目でオレを見てる。
 いきなりグッと胃がせり上がってきて、オレは吐いた。オレの吐瀉したものが臼井のシャツにかかり、慌てて身を離そうとしたら、臼井の腕がためらいもなくオレを抱きしめた。
「吐けばラクになるから」
 臼井の手がオレの背をさする。どうしてそんなふうにするんだ。残酷な優しさに涙が溢れ出す。臼井はオレに「ごめん」と謝らせてもくれない。オレが何をしたって臼井は平気なんだ。オレが好きだって言ったから付き合ってくれて、オレがやめたと言えばそれで終わり。しかたないなって上のほうで笑ってる。間違えたオレに諦めの笑顔を見せるだけ。
 それでもオレは臼井が好きだった。手に入らないってわかっているのにどうしてもジタバタせずにはいられない。ちくしょう、だから会ってはいけなかったんだ。こんなやるせない気持ちはどこかに放り投げてしまいたいのに。


 目が覚めた時、オレは自分の家にいた。見慣れた天井。見慣れた部屋。長い夢を見ていたような気分だった。どこからが夢だったのかもわからないくらい、長い夢。
 臼井の腕の中で吐いてしまったオレは、滝口さんと高見に連れられて病院に行き、そのまま家まで送ってもらった。処方された薬に催眠作用があったのか、朝に目が覚めず今まで眠ってしまった。
 階下に降りて行くと滅多に家にはいないはずの母親がいた。
「アホ息子」
 言いながら手を伸ばしてきてオレの額に触る。
「大丈夫なの?」
「うん? 何が?」
 ぼんやり訊き返すと再び「アホ息子」とくり返された。
 時計の針は夕刻を指していた。キッチンのテーブルについて、母親の作ってくれたお粥を啜っているうちに、全部が夢なんかではないことを思い出した。臼井もミサオも夢じゃない。
 徐々に胸がつまってきて、オレはお粥の匙を口に運んでいた手を止めた。
「オレ、出かけてくる」
「明日にしなさい」と止める母親を振り切って、オレは家を出た。
 ミサオに会わなくては。この色褪せた世界をミサオに塗り直してもらうんだ。ミサオに会えば大丈夫。すがるようにくり返し自分に言い聞かせながら、ミサオのアパートを目指した。


「おかえり」
 ドアを開けたミサオは、オレの顔を見てにっこりと嬉しそうな笑みを浮かべた。オレは「ただいま」と応じるべきだった。目指した笑顔がここにあって、オレは安心できるはずだった。正しい世界に戻って来たんだ。これでいいんだ。なのにとっさに声が出なかった。
「おかえり。昨日はどうだったの?」
 ミサオは、オレが臼井に会って、そしてちゃんとミサオのとこに帰って来たと思ってるんだ。これで元通り。憂いのない楽園は続く。
 オレはミサオにしがみついた。無言で何度もキスをする。臼井、臼井、臼井。
「いきなり何よお?」
 くすぐったそうにミサオが声をあげる。クスクスと笑う声。どうしよう、オレ。
 オレはミサオの腰に手を持っていった。ミサオは逆らわず、オレの身体に腕を回した。
「もー、どうしたの、ナオ?」
「ちがう」
 ナオじゃない。小日向と呼べよ。もっと低い声で。こんな柔かい身体じゃなくて。
 オレはミサオを押し倒し、片手でジーンズのボタンを外して背中のほうから中に手をさし入れた。ミサオが身をよじる。
「ちょっと。ちょっと、ナオ?」
「こっち、使わせて。ここに入れたい」
 涙が溢れてきた。オレ、間違えた。決定的に間違えた。臼井。
「ナオ」
 ミサオはオレをおしとどめた。起き上がり、オレの顔を覗き込む。じっとじっと見つめてくる。
「ナオ、それはイヤ。今、何を考えてるの?」
 オレはミサオの視線を避け、俯いた。ボロボロと涙が零れてくる。オレは、間違えたんだ。
 よろよろと立ち上がり、部屋を出た。引き止めずに黙って見送っているミサオの視線を背中に感じた。
 臼井に会いたい。
 電車の中でも人通りの多い駅前でも、泣いているオレを奇異の目で振り返るやつらは多かったが、溢れる涙を止めることはできなかった。
 臼井のアパートに向かうバスはなかなか来なかった。
 ようやくやって来たバスが、あの頃のように間違いなくオレを臼井のアパートに運んでくれた。けれどたどり着いた臼井の部屋は真っ暗で電気が点いていなかった。オレはドアの前にずるずると坐り込んだ。いつも、いつも。臼井はいつもオレを待たせる。オレの気持ちばかり空回りしている。
 臼井がオレをどう思っていようとも。
 ふいにそんな言葉が頭に浮かんだ。臼井といたら辛いことばっかりな気がする。オレばっかり臼井を好きで、一人相撲を取り続けて。だから臼井を見たくなかった。見るのをやめようと決めた。それでもオレは臼井から目をそらせない。もう臼井がオレをどう思っていたって関係ないんだ。この気持ちだけがすべてだって、そう言い切ってやる。臼井がオレなんか好きじゃなくたって、残酷な神様みたいな顔してたって、オレはみっともなくすがりついてしまう。

 どのくらいの時間が経ったのか、階段を昇ってきた足音がオレの前でぴたりと止まった。留守の部屋の前に坐り込んでいる不恰好なオレを笑うなら笑え。うつむいたままオレはヤケクソの悪態をついた。
「あの、すみません」
 声をかけられて仕方なく顔を上げると、見知らぬ奴がおどおどと覗き込んでいた。
「あの、ここ僕の部屋なんで…」
 頼りなく語尾をにごらせるその顔に見覚えなどなかった。
 オレはのろのろと立ち上がり、部屋を確認した。ここは臼井の部屋だ。わけがわからず呆然と立ち尽くすオレの横を男が「すみません」とすり抜けて、手にしていた鍵をドアの鍵穴に差し込んだ。カチリと間違いなくロックの外れる音がした。
「待…ッ!」
 オレは慌てて男を引き止めた。
「なんでアンタがこの部屋の鍵持ってんだよ? 臼井を出せよ」
 誰だ、こいつ。臼井の部屋になんでこんな知らない奴が。
「あの、ウスイさんって誰ですか?」
 振り向いた男が困惑した声を出す。オレは自分より背の低い男の両腕にしがみついた。
「とぼけんなよ。オレ、臼井に会えなきゃ死んじゃう。死んじまうから、頼むよ。悪かったって何度でも謝る。だから会わせてくれ」
 足の力が抜けてズルズルと崩れ落ちたオレは、男の足元、コンクリートの床に膝と手をついて、何度も頭を下げた。
 今、ここで臼井に会うためなら何でもする。土下座してもいい。靴だって舐めてやる。
 目の前の足が、じりっと後退した。怯えたような細い声が上から降ってくる。
「あの、もしかして、その人、前にここに住んでいた人じゃないんですか? ぼくはその人のこと知らないんです。ごめんなさい」
 男は何度も「ごめんなさい」とくり返しながらドアを閉めた。
 臼井が引っ越していた。オレに黙って。信じられないほどのショックを受けて、新しい涙が溢れ出してきた。どんな覚悟を決めたって、オレは簡単に臼井に打ちのめされる。それでも諦め切れない。ちくしょう、諦められないんだ。
 オレはしゃくり上げながら携帯を取り出した。
 臼井の番号を呼び出そうとして、名前が検索に引っかからなくてあせる。オレ、まさか臼井の携帯番号すら教えてもらってないのか。慌てたまま最初から全部表示していって、honeyという登録名が目に止まった。
「なんだ、このhoneyって」
 携帯を買い換えたばかりの頃、勝手にオレの携帯をいじっていた高見が呟いた。表示された番号にかけたらしく、臼井の携帯が鳴り出すのを聴いてゲラゲラ笑った。
「だっせー。小日向、お前ほんとよくやるよ」
「絶対変えろ」
 真っ赤な顔で臼井が怒鳴った。
 そのままずっと忘れていた。オレから臼井に電話をすることなどなかったから。
 携帯なんか必要なかった。オレたちはいつも一緒で、以心伝心で。本気でそう信じていたんだ。あいつがオレの隣で笑っているだけで、何も疑う必要なんかなかった。臼井がオレに笑いかけてくれれば、オレたちは運命の二人だって信じていられたんだ。
 どうして忘れてしまったんだろう。



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