すべての季節が過ぎ去っても ─25─

|| 臼井

 その週末にもオレと小日向はミサオちゃんの部屋を訪ねた。晴れてはいたが、秋晴れと言うのをためらうような湿気を含んだ空気の重い風のない日だった。お昼過ぎに行ったのだが、ミサオちゃんは調子が悪そうに見えた。
「あそこはやっぱり和風が一番だよ。クリーム系はダメだ」
 来る前にブランチに寄った国道沿いのパスタ屋を小日向が話題に乗せた。
「キノコクリームってすげーうまそうな写真が載ってんだよ。オレ、騙されたの二回目じゃん。つか臼井は知ってて止めてくんねーんだもんな。意地わりーの」
「同じの頼むから、気に入ってんのかと思ってさ」
 人に責任転嫁してくる小日向にオレは呆れて返した。
「オレ、マズイっつったよ、この前ん時も。今度は止めろよな」
「自分で覚えておけよ」
 そんな会話に、いつもだったらクスクス笑うはずのミサオちゃんが何も言わないので、オレは「ミサオちゃん、お昼は食べた?」と声をかけた。ミサオちゃんはこちらを見ずに曖昧に頷き、手にしていたリモコンをテレビを向けた。スピーカーがいきなり大げさなCMの音を響かせて、小日向が「うわっ」と声を上げた。
「びびったー。チャンネル変えるんなら言ってくれよ」
 文句をつける小日向にミサオちゃんはフンと鼻を鳴らして何度もチャンネルを変えた。
「ミサオってば機嫌悪そう」
 小日向がこっそり耳打ちしてくる。その後もミサオちゃんはどことなく俯き加減で、話す時にも目を合わせなかった。普段が笑い出しそうな目でこちらを見てしゃべる子だけに、一緒にいてまったく視線が合わずにいるのは違和感があった。
「コーヒー飲みたい人?」
 しばらくして言い出した小日向の言葉に何の反応も返さないミサオちゃんが気になって、オレは「大丈夫?」とその顔を覗き込んだ。ミサオちゃんは黙って首を振る。
「臼井、コーヒーいらないの?」
 後ろからわざわざ抱きつくようにして確認してきた小日向に、オレは「飲む」と頷き「ミサオちゃんは?」と訊いた。再び首を振るだけのミサオちゃんに「カフェオレにしたら?」と提案する。ミサオちゃんは少し唇を尖らせるような表情で「いい」と言った。
「何すねてんだよ、ミサオ。じゃあホットミルク?」
 オレの肩に覆いかぶさったまま、小日向も言ったが、ミサオちゃんは「いらない」と答えた。
「あーもう、ワガママだなー。いいよ、じゃあオレと臼井と二人分ね」
 小日向はオレの髪を軽くひっぱってからキッチンに消えた。少しして豆をひく音が聴こえてくる。
「どうしたの?」
「どうもしてないよ」
 ミサオちゃんは初めて真直ぐにオレを見返した。こぼれ落ちそうな大きな目が瞬きもせずにオレを映している。オレはちょっと困って軽く笑ってみせた。ミサオちゃんがオレの名を呼ぶ。
「臼井くん」
「うん?」
 ミサオちゃんは後の言葉を続けずただじっとオレの顔を見つめてきた。その大きな目が悲しげに見えて、見つめ合ったままオレはどうしていいかわからなくなった。ミサオちゃんの唇が微かに動いた時、キッチンから漂っていたコーヒーの匂いが強くなって、小日向がカップを二つ運んで来た。
「はい、臼井」
 目の前に出されたカップをオレは条件反射で受け取った。ミサオちゃんが小さく息を吐く。何か振り切るように首を振って、「お砂糖は、扉のとこにある」とキッチンのほうを指差したミサオちゃんに、小日向が「要らないよ」と答えた。
「でも臼井くんはお砂糖入れるよね」
 まるですがるような口調。
「臼井も入れないよ。砂糖とか入れるのはインスタントの時だけだもん」
 はっきりとした原因がわからないのに、オレは二人の会話にハラハラする気分を味わっていた。三人でいることのバランスの悪さに今さら気づかされた感じだった。ミサオちゃんが唇を歪ませて黙っている。風のない午後、窓の外では季節外れの蝉が鳴き出した。
「コーヒーの匂い、嫌い」
 唐突にミサオちゃんが言った。
「ごめん」
 オレは飲みかけたカップから唇を離し、カップの口を掌でふさいだ。そのまま立ち上がってキッチンに行きコーヒーを捨てて水で流す。後ろから小日向が「あー!」と大げさに叫ぶのが聴こえて、オレは声を出さずに「バカ」と口を動かした。部屋に戻れば、少しも感じてないらしい小日向がしつこく文句をつけてくる。
「なんでオレがせっかく淹れてやったのを捨てちゃうんだよ?」
 面倒臭いと思いつつ小日向に「ごめん」と謝ってから、ミサオちゃんを見た。ソファの上、足を抱え込んで、華奢な身体がいつもよりもっと小さく見える。
「ミサオちゃん、今日体調悪いんだろ。気遣わなくってごめんな。小日向、コーヒー飲むならそっち、キッチンで飲んでこいよ」
 妊娠しているミサオちゃんが匂いを気にするのは当然だ。小日向は逆らうように顎を上げた。
「じゃあ臼井もキッチンで飲めばいいじゃん」
「オレはいいから」
 小日向は今度は顎を引いて、じとっとした上目遣いを作った。
「なんか変なのー。臼井もミサオもなんか変」
「何言ってんだよ」
 オレは困惑した。ミサオちゃんが膝の上でぎゅっと拳を握り締め、微かな声で「もうヤダ」と呟いた。膝立ちになったミサオちゃんは手を伸ばし、小日向の肩を突いた。
「もうやだ! ナオは無神経すぎる。ここにいないでよ。出てって!」
 堤防に小さな突破口を開けた水が徐々に勢いを増しダムが決壊するようにミサオちゃんはヒステリックに叫び始めた。
「ナオ、嫌い! 苛々するんだからっ。なんで私がナオの子を生まなきゃいけないの」
 ミサオちゃんは小日向のシャツをつかんで揺さぶるような仕種をした。
「ミサオちゃん、落ち着いて」
 オレは驚いてミサオちゃんの肘をつかんで小日向から引き離した。オレの手に従ってくたりと頼りないくらい素直に向きを変えたミサオちゃんはそのままオレの腕の中で両手で顔を覆った。
「ナオの顔見てると落ち着けないの。もう帰って」
 オレの目の前、呼吸に合わせて華奢な肩が上下していた。
「ミサオちゃん」
「ワガママ言ってるってわかってる。自分でもどうしようもないの。お願いだから今日は帰ってよ」
 オレはミサオちゃんの肘から手を離し、彼女の二の腕あたりをポンポンと軽く叩いた。
「わかった。今日はオレたち帰るから。ミサオちゃんは少し休んだほうがいい。疲れてんだろ? ごめん」
 オレたちは一歳しかちがわないミサオちゃんに甘えすぎていた気がする。ミサオちゃんがいくら気丈にふるまっていても、背負った荷の重さに平気でいられるはずなどなかったのに。自分のことだけで手一杯なオレは、一人で子供を育てようと決心している彼女の不安をどこまで理解してやれるだろう。オレたちは何をすれば彼女の力になってあげられるのかすらわからないのだ。
「また来るから」
 小日向を促して帰ろうとした時、
「待ってよ!」
 悲鳴に近い声でミサオちゃんがオレの腕にしがみついてきた。
「待って、待って待って待って。やっぱりやだ。臼井くんは行っちゃダメ。臼井くんは行かないで。お願い、一人にはしないで」
 しがみつかれたオレは動けなくなった。困惑したまま小日向の顔に目を向ける。ミサオちゃんに対抗してわめき出すんじゃないかと心配だったが、小日向はミサオちゃんの勢いに毒気を抜かれたようにオレたちを見ていた。オレはなんだか泣きそうな気分で奴に笑いかけた。
 小日向は唇の端を引きおどけたような表情を作って頷いた。その表情にギュッと心臓をつかまれるような感覚を味わう。オレは小日向が好きだ。理屈なんか何もない。ただその表情ひとつで小日向はオレの心をつかんでしまうんだ。
「バイバイ、ミサオ。またな」
 軽く手を振り小日向が出て行った。カチリとドアが閉まる刹那、その隙間を縫って心の半分が奴について行くのを感じた。力強さと情けなさの同居した、オレを引き寄せる魅力を持つ背中。オレは小日向の背中が好きだとあらためて感じた。
「私の勘は正しかったでしょ。私とナオとじゃどうせうまくいかなかった」
 俯いたミサオちゃんは拗ねた子供のように唇をとがらせていた。短い襟足から伸びた細い首筋。
「私、ワガママだから」
「ワガママじゃないよ」
「優しくなんかしないでよ」
 ミサオちゃんは顔を上げて、オレを見つめた。
「私が臼井くんを傷つけたの。あの時、私が臼井くんからナオを奪ったの。だから臼井くんは私のこと嫌いだよね」
 唇を引き結んで、大きな目の中に涙が揺れていた。ミサオちゃんは涙を零すまいとするように大きな目をますます見開いた。
「嫌いじゃないよ。オレはミサオちゃんに傷つけられてなんかいない。オレの方こそミサオちゃんに悪いと思ってる。本当にごめん」
 オレの言葉にミサオちゃんの顔が歪む。かすかな声が震えて届いた。
「ぎゅっと抱きしめてよ」
 オレは黙ってミサオちゃんの華奢な肩に腕を回した。力の加減をまちがえたら壊してしまいそうな気がして怖かった。
「キスして」
 小さな声。
「…ごめん」
 どうしようもなくて謝るとボロボロとミサオちゃんの目から涙が溢れ出した。
「臼井くんは、ナオのものなんだよね」
 ミサオちゃんはオレのシャツに顔を伏せた。小さな猫みたいな仕種。いじらしくてたまらない気分を味わう。
「なんかもー、やんなっちゃうなー」
 鼻声で呟き「えへへ」と笑う。
「ミサオちゃん」
「こんなの、ただのマタニティブルーだよ。ごめんね、臼井くん。ねえ、頭を撫でて」
 オレはそっとミサオちゃんの小さな頭に手を触れた。つむじのあたりから後ろへゆっくりと撫でおろす。柔らかな髪の感触。潤んだ目がオレを見上げる。
「臼井くんはヒドイ。本当は冷たい人のくせして、どうしてそんな優しい顔してるのよ」
 ミサオちゃんは「ヒドイ、ヒドイ」と何度も呟いた。
 ミサオちゃんの涙の理由をオレは考えないフリをした。マタニティブルーという言葉に頷いて、曖昧なままにしておくことしかできなかった。ミサオちゃんのいじらしさに心が動かないわけではなかったが、もっと圧倒的な力がオレを支配している。その呪縛は多分一生解けない。誰に対してもこの想いをごまかすことなどできない気がした。



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