すべての季節が過ぎ去っても ─1─|| 臼井始まりはいつもの他愛ないケンカのはずだった。けれどそれは思いがけなく長引き、そして思いがけなくたくさんの人を傷つけた。 「いい加減にしろよ、小日向」 夕方から卒業研究のための実験が入っているというのに、お昼過ぎにアパートにやってきた小日向がグズグズとまとわりついて、準備の邪魔をしていた。 「オレは、これから実験なの! 卒業できなくなったらどうすんだよ」 肩に回された腕を振り解いて、オレは小日向の鼻先に人差し指を突きつけた。 「小日向こそヤバイだろ。卒業するには単位、一個も落とせないんだからな。ちゃんと学校行けよ。どうせ出席だってギリギリなんだろう」 二年のころから周り中が世話を焼いていたというのに、結局小日向は四年も後半になってさえ教養課程の単位が足りていなかった。今さらジョークのネタにもならず、いい加減愛想が尽きる。 「だってもう一週間も会ってない」 すねたように唇を尖らせる小日向に呆れてオレはオーバーに両手を広げてみせた。 「会ってんだろうが、今、こうして。昨日も顔を合わせただろ」 昨日は学食でつかまった。夜は研究室に泊まり込みだと告げたら、周りの目も気にせずわめくから、オレは慌てて逃げ出したんだ。 小日向は顎を引いて上目遣いになった。夏のなごりが抜け切らないように、パサパサになっている前髪の隙間から茶色の目が恨めしそうにオレを見てる。 「ちゃんと話、してないだろ。キスしてない。セックスしてない」 露骨な言葉にも赤面している余裕なんか、今のオレにはない。手を休めずにそっけなく返した。 「バカたれ。ほんとに遅れるから、相手してられねーよ」 「臼井」 しつこい小日向の腕をつかんで、一緒にアパートから引きずり出した。 「ダメだっつってんだろ! いいか、絶交だ、絶交! 卒研終わるまで、お前とは会わない」 そう言い捨てて、オレは学校に向かった。背中越し、情けない声がオレを呼ぶ気配にも振り返らなかった。 秋とは名ばかりで、十月の終わりだというのに暑いくらいの気温だった。午後の陽射しが正面から照りつけ、オレはしかめっ面で歩き続けた。 夏前にジラフの活動休止を言い出したのは、奥田だった。来年の司法試験に集中したいというのがその理由だった。受ける前はそれほど真剣には見えなかったのだが、今年、筆記で落ちたのがそれなりにショックだったらしい。 春に出した初めてのCDは、軽音部の滝口先輩が就職した音楽雑誌を筆頭にかなり好意的な評価を受けることができて、声をかけてくれる事務所の数も増えていた。オレたちがこの先プロでやっていくつもりなら、ここで休止という選択はありえなかった。 だが奥田が言い出すまでもなく、大学の最終学年を迎えてオレたちには余裕がなくなっていた。オレは院試も兼ねた卒業研究で手一杯だったし、小日向にいたっては卒業自体が危ぶまれている状態だった。 選択性で卒論の必要がない高見だけは多少の余裕を見せていたけれど、活動休止も仕方ないなと頷いてくれた。今のところはよそのバンドのサポートをしたりして楽しんでいるらしい。 その高見に図書館でつかまった。小日向に絶交を宣言して一週間ほど過ぎた頃だった。空き時間に学習室で英語の勉強をしているところに高見がやってきたのだ。 「ちょっといいか?」 訊かれて、オレは仕方なく立ち上がり、ロビーに出た。本当は時間が惜しい。得意とは言えない英語の勉強はいくらやっても間に合わないという焦りだけを生んだ。英語ができなきゃ研究の出来以前の問題で院試に通らない。 高見の話など聞かなくても見当がついていた。 「臼井、小日向と会ってないんだって?」 ほら、やっぱり。 ロビーのソファに腰を下ろしたとたん口にされた話題に、オレは内心でタメ息をついた。 「卒研の片がつくまでは、ちょっと」 語尾を濁して、窓の外に目を向ける。たいして風があるとも見えない中庭では、並んで植えられたイチョウの木が途切れることなく葉を落としている。こうやって時間はどんどん過ぎていくんだ。 絶交を宣言したのを機に、半端に会えばどうせ振り回されるハメになるからと、オレは小日向を避けていた。いや、例え避ける意志がなくても、大学では工学部のキャンパスにこもっていたし、ゼミ仲間の家に泊まったりしてアパートにいること自体が少なかったから、小日向と顔を合わせるには意識的に時間を作らなければならなかった。そして今のオレにはそんな時間を作る余裕はない。 「あいつ、かなり参ってるみたいだ」 高見はオレを責めないようにと慎重に言葉を選ぼうとしているらしかった。オレはそれを突き崩すように口を開いた。 「オレは今、追い込みなんだよ」 自分でも棘のある口調だという自覚はあった。どんな言い方をしようと、そんな話を始めた時点で高見はオレを責めているのだ。 高見は困ったように唇を曲げた。 「うーん、それはわかるんだけどさ。完全無視っていうのもちょっと小日向が可哀そうかなーなんて」 「半端に会うとあいつに引き摺られる」 ほとんど吐き捨てだったが、高見は「まあな」と頷いた。 「小日向は卒業、今年は無理らしい」 「あのバカ」 オレは呆れて天井を仰いだ。あれほど言っておいたのに。 「少しくらい会ってやってくれないか」 伺うような高見にオレはきっぱりと首を振った。 「ダメなんだ。今日だって夕方から実験入ってて、下手したら泊まり込みだ」 「そっか。臼井、あんまり無理すんなよ」 労わられたことに反射的な反発が沸いた。 「オレは、小日向みたいに今年卒業できなきゃ来年ってわけにはいかないからな」 高見の余裕が癪に障る。オレが自分で手一杯な時期に、同じ年の高見がどうして周りに気を配れるんだ。八つ当たりしているオレをさえ心配そうに見つめてくる。 「臼井」 「オレはあいつに付き合って留年するのも浪人するのも、どっちもごめんなんだ。だから年明けまで小日向とは会わないって決めてる」 立ち上がり、高見から逃げるように学習室に戻った。卒業研究のデータ収集がうまくいかなくて苛々していた。 過ぎていく時間に追い立てられている気分だった。小日向のように迷いなくバンドだけを続けていく自信はなく、院への進学を決めたことだって、とりあえずの逃げなのかもしれない。何の悩みもなさそうな小日向が妬ましかった。八つ当たりだとわかっていながら、あいつを甘やかしている高見にまで苛立ちを感じた。 オレはそれから一ヶ月以上、小日向に連絡を取らなかった。 どこかで高をくくる気持ちもあった。それまでことあるごとにオレは何度も小日向に対してNOと口にしてきたし、それが小日向にはまるで通じなかったんだから、オレの態度なんか小日向の気持ちに影響するわけないって、開き直るように考えていた。 ワガママな小日向にはオレの気持ちなんか関係ないんだから、オレがどうしようとあいつはあいつで勝手にやっているにちがいないと思った。そう、小日向は確かにオレがいなくても勝手にやっていた。 「嘘だろ」 オレは半端な笑みを浮かべて呟いた。目の前に並んだ高見と奥田の神妙な表情が、ベタな冗談のように見えた。 「本当は、オレたちだってこんな余計なこと言いに来たくなかったんだよ」 高見は俯いてボソボソと言った。 「だけど、あいつら結構派手にやってるから、すぐに臼井の耳にも入ると思ったんだ。その前に…その、覚悟しといた方が…」 歯切れ悪く言いよどんだ高見は、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。 「ああ、くそ、うまく言えねえ。ごめん」 どうにか卒業研究の提出を終え、選考を待っているところだった。冬休み前に小日向に会おうか、いっそ大学院の入学試験が終わるまで無視してしまおうか迷っていた。会いたくないと言えば嘘だったが、すんなり会いたいと言うのも癪に感じる気持ちがまだ残っていた。それは結局オレの勝手な僻みであったけれど。 そんな時に高見と奥田が揃ってオレのアパートにやって来た。「話がある」とやって来た彼らは、部屋に腰を下ろした後も、お互いに顔を見合わせるばかりで、なかなか口を開かなかった。ようやく口火を切ったのは奥田で、小日向がガールズバンド、ハニムーンのボーカル、ミサオちゃんと付き合い始めたらしいとオレに告げた。 「Rのクリスマスイベントで、かなりはしゃいでたって聞いた」 Rはオレたちがよく出演させてもらっているライブハウスで、毎年十二月の初めに開催されるクリスマスイベントにはオレたちジラフも去年まで参加していた。今年は休止中で出演を断っていたし、高見たちもそれぞれ用事があって顔を出さなかったらしいが、小日向がハニムーンの演奏でギターを弾いたという。 すでにプロとして人気を得ているハニムーンが、今年のメインだということは耳にしていた。なぜそこに小日向が出てくるのかがわからない。ミサオちゃんと小日向が付き合っているから? なぜ? 「二人で曲を作ったりしてるらしい。来年CDを出す話なんかが出てきてるようなんだ。雑誌のインタビューまで入ってるって」 高見も奥田も遠回しに話していた。 小日向とミサオちゃんが付き合っている。どうして? いつの間に? オレは混乱したまま、それぞれに視線を逸らしてしゃべり続ける高見と奥田を、ぼんやりと眺めていた。 |
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