すべての季節が過ぎ去っても ─5─

|| 臼井

 奥田の家に移ったところで何も変わりはしなかった。奥田はオレに何も言わなかった。視線が合うたびに奥田の目には気遣わしげな色が浮かんでいるのが見て取れた。オレのことを心配してくれている奥田に対して申し訳ないと思う気持ちはあったが、オレにもどうしようもなかった。いくら「大丈夫」と口にしたところでそれが口先だけであることは自分でよくわかっていたし、奥田をごまかせるとは思えなかった。
 考えても無駄だってオレは悟った。オレは小日向が好きで、小日向の気持ちがミサオちゃんに移ってもオレの気持ちは変えようがなかった。だから諦めるしかないんだ。どうにもならないことをどうにかしたいと考えるのが間違っている。
 大学院の試験があるうちはよかった。オレはそれに集中することで、小日向への想いを意識から遠ざけていた。院試が終わってしまえばオレには何もなかった。


「出かけるの?」
 図書館に行こうと支度をしていたオレに奥田が声をかけてきた。
「図書館に行ってくる。奥田は今日、学校だろ?」
 奥田は司法試験のための専門学校に通っていた。主のいない部屋にいるのも憚られる気がして、奥田が学校に行く日はオレは図書館で勉強することにしていた。院試の結果はまだ出ていなかったが、おそらく大丈夫に思えた。他にすることがないから、せいぜい英語でもやっておこうという気持ちだった。
 奥田はわずかにためらうような様子を見せ、オレを引き止めた。
「うん、ぼくは出かけるけど、臼井はちょっとここにいてくれないかな。──今日、あゆみちゃんが来ることになってるんだ」
「あゆみ?」
 奥田から出た意外な名前を、オレはオウム返しに口にした。
「うん。臼井と話があるって」
「話って?」
「それはあゆみちゃんに直接聞いて」

 奥田が学校に出かけてしばらくして、あゆみはやってきた。やけに思いつめたような表情をしていた。奥田のいない奥田の部屋で、オレたちはぎこちなく向かい合った。
「奥田くんに聞いたの。臼井くんがここにいるって。──臼井くんが、小日向くんと別れたって」
 奥田があゆみがここに来ると言った時に、奥田があゆみに話したのだろうと見当はついていた。
「別れるって何?」
 オレは笑おうとした。
「オレたち、男同士だよ。別れるとかそういうの、おかしいだろ」
 そうだ。オレは小日向に別れを告げられていない。オレたちの間にあったのは、あいつの気持ちが変われば、それで消滅するような、他愛ない関係だったのだ。そんな関係に、奥田やあゆみまでが深刻になるのはおかしい気がした。いっそ笑い飛ばしてくれたら楽になるのに。
「あゆみ。悪いけど、オレはあゆみとこういう話、したくない。奥田に迷惑かけてるし、あいつがあゆみに話したのもしょうがないかもしれないけど、それでもオレ…」
 オレの言葉はあゆみに遮られた。
「臼井くん、私と付き合って」
「あゆみ」
 真っ直ぐな目で見つめられ、反射的に顔を背けた。
「ダメだよ。ダメだ、あゆみ」
 オレは今一人でいたくない。だからそんな目で見るな。オレのこと全部引き受けてくれそうなあゆみの目が、今のオレにはすごく怖い。自分の弱さをつきつけられて、後戻りできなくなる。このまま逃げてしまいたくなる。
「どうして、ダメ?」
 あゆみの目が揺れた。
「オレのこと、そんなふうに甘やかそうとするなよ。自分が情けなくなる。オレ、あゆみにひどいことしたんだよ。忘れるなよ。なんでそんなこと言えるんだよ」
 あゆみと付き合っていながら曖昧な気持ちのまま小日向と関係を持って、結局小日向を選んであゆみを泣かした。オレは自分のしたことをちゃんと覚えている。小日向がミサオちゃんと付き合ったからといってオレに傷つく資格なんかないことを、あゆみが一番よく知っているはずだ。
 優しくするな。自業自得だって笑えよ。笑ってくれなきゃオレはあゆみに甘えてしまう。
「ちがう!」
 みるみるうちにあゆみの目に涙が盛り上がり、オレは呆然とした。
「ちがう。私が…私が、臼井くんと一緒にいたいの。──臼井くんと私は感じ方が似てるって、臼井くんが言ったんだよ」
 あゆみは両手に顔をうずめ、声をあげて泣き出した。オレは驚き、目の前で震えるその細い肩を見た。あゆみはオレの前でこんなふうに激しく泣いたことがない。悲しい映画を観た後でも、目の端に滲んだ涙に照れたような表情を作っていた。一見おとなしそうな雰囲気のあゆみが、芯の強い女の子だとオレは知っていた。
「臼井…くんは……、小日向くんが、好き…なんでしょう?」
 聴き慣れない涙声にオレは動揺していた。
「小日向くんが…他の人を好きになっても、臼井くんはあの人が好きなんでしょ。同じなのよ。臼井くんが他の人を好きでも私は…ずっと臼井くんが好き。どうしようもないんだから」
 あゆみは嗚咽混じりに「わかるでしょう」とくり返した。
「チャンスを利用するの。物わかりのいい友だちのフリなんかやめる。なんでもいいの。そうよ、私、臼井くんと一緒にいられればそれでいいんだから。平気よ。私、ずっと笑っていたでしょう。小日向くんの隣にいる臼井くんを見ても笑ってられたんだから」
 顔を上げたあゆみは、意地っ張りな子供のように唇を噛んでいた。精一杯見開かれてオレを睨む目から溢れた涙が頬を伝う。
 オレはとっさにあゆみを抱きしめていた。
「ごめん」
 愛しいと思った。あゆみがずっと一人でこんな気持ちに耐えてきたのかと思ったら、いじらしさと切なさで胸が苦しくなった。抱きしめた腕の中の華奢な身体。こんな小さな身体で、一人で、ずっと。オレが小日向といた時もあゆみは黙って笑っていた。今オレが耐えられなくなりかけているこんな思いを、あゆみは一人で抱えていたんだ。
「今さら何よ。臼井くんがどう感じたって、私はチャンスだと思ってるだけなんだから。利用するのは私なんだから」
 オレの背中に腕を回し、しがみつくようにしてあゆみは悪態をついた。
「バカだな、あゆみは。本当にバカ」
 シャツに滲み込んできたあゆみの涙が肌に触れて温かかった。


 あゆみが帰った後で、冷静になってくればやはりあゆみと付き合うことはできないという考えが出てきた。
 オレをずっと想っていてくれたあゆみをいじらしいと感じるのは確かだった。けれどオレには高見という友だちがいる。高見のあゆみへの気持ちを知っていて、あゆみと付き合うことはできなかった。
 それに結局あゆみと付き合うのは、オレにとっては逃げに他ならない。小日向のことを考えたくないだけなんだ。
 どうしていいかわからなくなったオレは、そのまま高見の家を訪ねた。
 高見は家にいて、突然訪ねて行ったオレに少し驚いた様子だった。部屋に通されたオレは前置きもなく切り出した。
「オレ、あゆみと付き合うことにした」
 止めてくれ、高見。オレは最低の奴になろうとしてる。
 怒鳴りつけられるのを覚悟してるつもりだった。高見が怒ってくれたら目が覚めるんじゃないかと思った。ぐちゃぐちゃになった胸の中を高見に切り崩してほしかった。
「そうか。ハハハ」
 オレから視線をそらし、高見は乾いた声で笑った。
「なんで笑うんだよ?!」
 オレは思わず叫んでいた。
「笑うなよ。怒れよ。オレ、あゆみが好きで付き合うんじゃない。一人でいんのが嫌だからあゆみと付き合うんだ。サイテーだって言えよ」
 高見はあゆみが好きなんだろう。その気持ちを知っていてオレはあゆみを利用しようとしてるんだ。わがままで卑怯な動機で高見のこともあゆみのことも傷つけようとしてる。なんで怒らないんだよ。
「臼井」
 完全な八つ当たりだった。どこにも吐き出しようのない想いを高見にぶつけているだけだ。高見がとまどうのがわかったが、止められなかった。
「殴れよ、高見。オレのこと殴って」
 オレがどうしようもない子供だから、仕方ないって許すつもりなのか。そうやって大人になって自分は我慢するって言うのか。
 自分の言葉に煽られて気持ちが高ぶり、涙が溢れ出した。オレは手の甲で目をこすった。
「オレは、最低なんだよ」
 みんなに甘やかされて、そこに甘える気になっている。高見に叱ってほしいなんて、それも甘えなんだろう。理不尽な言いがかりをつけて、それでも高見なら受け止めてくれるって心のどこかで期待してる。自分の情けなさに涙が止まらない。俯き、涙を拭うオレの肩に、高見の手が置かれた。わざと呆れたような声を作って言う。
「ガキじゃないんだから、おまえまで泣くんじゃねーよ、臼井」
「高見、本当に殴って」
 みっともない泣き顔を向けたオレに、高見は顎を引き、おどけた顔で少し笑った。
「やばいぞ、オレ。ホモの気持ちになりかけてる」
「そんな冗談を言ってる場合じゃないだろ」
 どこまでもふざけてみせようとする高見に少し気分を害された。高見は困ったような表情を作って小指の先で鼻の脇をこすった。
「奥田が、オレんとこに相談に来たんだ。あゆみちゃんに臼井のこと教えるって。あいつもオレに『ごめん』って謝ってた。──だけど、そん時にはもうあゆみちゃんは小日向と臼井のこと知ってたよ」
 高見はオレから目をそらして「オレなんだ」と呟いた。
「最初にあゆみちゃんに、小日向と臼井がダメになったって教えたの、オレなんだよ」
「高見」
 年明けに会った時にあゆみが知っていると感じたことを思い出した。あれは高見から聞いていたのか。
「別に臼井のためになんて、考えたわけじゃないんだ。オレの勝手な賭け。多分負けるなってわかってたけど、きっかけがほしかったんだよ。だからおまえらのこと、利用させてもらった。ごめん」
 真面目な顔つきで頭を下げられ、困惑して高見を見つめた。
「高見」
「…んな顔すんなって、何度言わせる」
 高見は平手でパチンとオレの頭を叩いた。
「あゆみちゃんとオレは合わないんだろうなってのは感じてたんだ。二人で会ってもオレもどうしていいかわかんなかったりしてて。でも諦めるきっかけもなくってさ。誘えば会ってくれるし。いろいろじれったくなっちまってたとこだったから。オレにとってはよかったんだ、これで」
 そんなふうに言う高見にかける言葉が見つからなかった。高見があゆみを気に入っているのを知っていて、オレは何もしなかった。高見だって悩んでいたのに話を聞いてさえやらなかった。いつもいつも自分のことばかり。どうしてオレは大人になれないんだ。
 言葉なく見つめるオレの前で、高見はごまかすようにやれやれと大げさなため息をついた。
「だ、け、ど、なー、あゆみちゃんの次が臼井に片思いじゃシャレにならんから、そういう顔でオレのこと見るのは止せ」
 そんなふうに言われて、オレは仕方なく笑った。高見が冗談に紛らすつもりでいるなら、せめてそれに協力することだけがオレにできる唯一なのかもしれない。笑ったせいで目に残っていた涙が頬を伝う。手首の内側でこすれば、新しい涙が溢れてきて困った。友だちのつもりでいてもオレは情けないくらい無力だ。いつも助けられるばかりで、高見のために何もしてやれない。
 あゆみだってオレなんかより高見と付き合ったほうが幸せになれる。わかっているのに、あゆみの気持ちがオレと同じだと言われれば、小日向を諦めきれないオレにあゆみを説得などできなかった。それ以上に、オレ自身が何も考えずにあゆみに甘えていたいという本音を隠すことが難しい。オレは最低だ。



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